(司会)高木仁三郎さんは調布の市民であり、元都立大学の助教授であり、理学博士です・・・・・。 準備が整いましたようなので、高木仁三郎さんに持続可能で平和なエネルギーの未来という題で、記念講演をお願いいたします。

こんばんは。高木でございます。どうもありがとうございます。タイトルは『持続可能で平和なエネルギーの未来』という風になっているんですけれど、お前自身の事を話せという藤川くんの要請もありますので、少し賞をもらった経緯になったプルトニウムと私との関わりみたいな事をお話して、最終的にはいま問題になっている温暖化の問題とつながってくるような話になっていく事を期待しております。本来のタイトルを欺かないようにと思っております。まあ、あまりこういう機会がないので、座ってゆっくりとさせていただいて、今日は時間もゆっくりいただいているので、私自身の事を少し話させていただきます。恐縮なんですけれど。

★温暖化問題は最近のことではない 

 いま、地球温暖化という事で、とくに二酸化炭素による温室効果が問題になっています。これはもう疑ってはいけない常識のようなものになっていて、私たちもたいへん深刻な問題だと思っているんですが、私なんかいま考えると、非常に時代が変わったというか、たいへん時が流れたという感じがしないでもないですね。私が原子力問題を始めたのは1960年代ですが、実は1970年代半ばぐらいにはすでに僕らは温室効果の問題について本にも書いていました。その時は誰もほとんど注目しなかったけれど。だから最近の問題じゃ全然ないんです。しかし最近のその問題にされ方がかなり問題があると私は思うんです。その事はちょっと後にとっておきます。

★ライト・ライブリフッド賞

 先にちょっと私自身の話をさせてもらいます。今回ライト・ライブリフッド賞という賞を受賞する事になりました。ライト・ライブリフッド賞を受賞するという知らせが私のところにあったのは、9月29日の月曜日だったと思うんですが、私がちょっと神田の方に寄り道して7時半頃わが家に帰ったら連れ合いが「大変だ大変だ」っていって大騒ぎしてるんですね。なんの事かと思ったら、そういう話があってすぐにストックホルムに電話してくれって。ところがストックホルムに電話したけれど、いくら電話しても”その電話は使われておりません“ていうのです。どうもうちの連れ合いも興奮してしまって、すっかりメモをまちがっちゃたらしいんです。ただ、ライト・ライブリフッド賞だとそれは財団だという事だったので、改めてその番号を調べなおして電話したら、今年の賞をフランスのマイケル・シュナイダーと共同で受賞してほしいという事だったので驚いてしまったわけです。どういう理由で賞をくれるんだといったら、プルトニウムの危険を取り除くために闘って、その為の仕事も、少しずつ成果を上げて、日本政府に対していろいろな提言をしたり、情報公開等々を求める運動においても貢献があった、世界の人々にも貢献したという事らしいんです。

★9月26日の偶然

 変な偶然なんですが、それがちょうど月曜日だったんですが、前の週の金曜日ですかねえ。9月26日。実はこの日にライト・ライブリフッド財団はストックホルムで会議を開いて最終的に私達の受賞を決定したらしいんです。その時の向こうの金曜日の午後というのは、日本の方ではもう夜になっいて、向こうの月曜日に電話したのが29日だったんです。その金曜日に私はちょうど長崎から電話をもらいまして、長崎県被爆者手帳友の会というところが今年の平和賞というのを貴方に授けたい、受け取ってくれるかという話がありました。私はプルトニウムの事をやっていて、長崎から、被爆者の人から評価されるという事はこれはもう涙が出るほどの身に余る光栄だと思いましたので、喜んで受けますという風にいいました。そのすぐ後にストックホルムからの話になったのです。
長崎の方は12月3日に授賞式があるから来てくれという事でした。しかし、この12月3日は非常に都合が悪いと思ったのです。というのは、COP3という国連気候変動枠組み条約締約国会議、第3回の国際会議が一日から京都であるわけですね。僕らはこの問題は別の人たちがやってくれるからいいと思っていたんですが、日本政府が地球温暖化防止のために原発をやるんだなんていう、本当につまらぬ事を言い出したものですから、関わらざるをえなくなったんです。それはないでしょうって話になって。その話は後でちょっとしたいのですが、11月30日から京都に行くという事にしていたものですから、3日に長崎というのは実はかなり厳しいなと思ったのです。そしたら今度はストックホルムから電話がかかってきて4日にストックホルムに来てくれと言う。ストックホルムのほうはごめんなさいって言うしかない。3日の夜に長崎で記念講演をやらなくてはいけないのでそれをOKしたばかりだ。ということで一応、5日にストックホルムに行く事にさせてもらったのです。そうすると30日に朝早く調布を出て京都にずっと行っていて、京都から大阪の空港へ出て長崎に行って帰ってきて、今度は家で一端荷物を入れ替えて成田へ行って今度はストックホルムへ行く。こういう予定になってしまってこれから二週間ばかりは放浪するような感じになるんですが、考えてみると私の人生はずっと放浪だったなという感じもあるわけです。

★核とのかかわり

 プルトニウムの話に進ませてもらいます。私が最初にプルトニウムという物質に出会ったのは会社に入った頃です。私は典型的ないわゆる60年安保世代で、といってもその場にいたという程度であって、全学連の闘志というようなほうではなかったんですが、尻尾にくっついて真面目に国会前には毎日行っていたというような事がありました。まあそういう60年安保世代で、60年が終わって61年に会社に入って、それが原子力の会社だったわけです。その当時は、私は原子力は将来があるものだと思っていましたので、放射能に関する学問をしました。この分野で世の中に役に立つ事ができればいいと単純に考えていました。普通の理科系の学生のレベル程度の思い込みかもしれないけれど。私の選んだ学問は核化学という学問で、古くはマリー・キューリーに端を発する学問で、その後核分裂を発見したオットー・ハーンであるとか、それからプルトニウムを発見したシーボーグであるとか、そのような人がこの分野では巨人といわれる人なんですが、まあそういう流れを汲んだ学問です。それで会社に入ったのも単純といえば単純な理由で、あまり大学が好きではなかったという理由もありますけれど、その会社の研究所は川崎にあるんですが、そこには小さな原子炉があって、当時は原子炉があるところで働けるというのは一つの夢というような気持が当時の理科少年にはあったわけですね。理科少年だか青年だか知りませんけど。
そこは東芝系の原子力会社なんですが、今はもうなくなってしまった日本原子力事業という会社です。今はもう東芝の原子力部門に吸収されてしまった。というぐらい今は原子力は廃れていますから、どんどん再編成と縮小化が進んでいます。そんな会社は独立維持できないわけですね。東芝原子力もなくなったし、三菱原子力もなくなったし、原子力の専業会社っていうのは全部無くなってしまった。その東芝系の原子力会社にいたんですが、実際の仕事はかなり東芝の中央研究所の核燃料部門というところに行ってやっていました。原子炉の中でウランを照射した時に出来る使用済み燃料の中にいろんな放射能が出来てくるわけですね。その放射能が外に漏れないかどうかという実験をして、これから東芝が原子力のメーカーとして日本で原子力を作り出すという頃です。まだ東海村の原子力発電所もなかったし、小さな研究所の原子炉だけでした。それからもちろん福島も。東芝が最初に本格的に入っていくのが福島の原子力発電所ですが、そこもまったく影も形もなかった頃です。計画があって少し住民の反対とかいろんな声が会社にいると遠くから少し聞こえてくるというようなそんな状況でした。

★プルトニウムのこと

そういう中で私が核化学というのをやっていますと、プルトニウムという物質があって、これが私達にとっては大変魅力があったわけですね。夢の物質のようなところがあった。プルトニウムというのは人工の元素で先ほど言いましたシーボークというアメリカの科学者達のグループが発見したわけです。名前のプルトニウムというのは、プルートーという冥王星の名からきてるんですね。冥王星。なぜプルトニウムという名前がついたかというと、ウランという元素があって天然にある一番最後の元素で92番。原子番号でいうと92番の原子です。で、その先は人間が人工的に造ったわけですね。元々の自然には何もなかったわけです。93番がネプツニウム、94番がプルトニウム、こういうのが1940年から41年ぐらいにかけて発見されました。私が生まれてすぐの頃ですが。私は1938年に生まれているんです。
1938年は核分裂が発見された年です。オットー・ハーンという人が発見しました。私は物心ついた頃からその事が非常に引っかかっていて、やっぱりちょっとそういう意識があったんです。1941年にプルトニウムが発見された時に、ウランという元素の名前は先についていて、これはウラヌス、天王星のことをウラヌスというんですが、惑星の天王星ですね。天王星が発見されたのとちょうど同じ頃にウランは発見されたわけです。それで、その天王星にちなんでウランという元素の名前をつけたわけですね。そこから先はまったくの推測というか、ウランのもうひとつ先にある元素が発見された時に、天王星の次に海王星というのがある、この海王星にちなんで、海王星(ネプチューン)の元素というので、ネプツニウムという名が93番元素につけられた。94番元素は、冥王星がプルートーというんですけど、プルートーにちなんでプルトニウムと、こういう名前がついたんです。ところがどう考えてもプルトニウムというのは、名づけた時にすでに将来を予感したんじゃないかという感じがするんです。

★地獄の王、プルトニウム

プルートー、冥王というのは地獄の王ですから、まさに地獄の王の元素という事になるわけで、1941年に発見されて四五年にはもう核実験に使われているわけですね。この地上に地獄をもたらした元素になったわけです。アメリカのニューメキシコ州のアラムゴードというところで世界初の実験が1945年7月16日にありました。それがプルトニウムを使った実験です。それから広島への原爆投下が8月6日です。これはウランを使った原爆ですが、8月9日の長崎の原爆はプルトニウムを使った原爆ですね。今の核兵器もプルトニウムに基礎をおいているわけですが、こういう物質がそういうような名前になったというのも不思議な偶然です。
余談をいうと普通の辞典でプルトニウムと引くとこのプルトニウムしか出てないんですが、オクスフォード英語辞典という小さい本棚だったら全部占めちゃうぐらいの何巻もあるような英語の辞典がありますね。今は便利なものでCD-ROMというものがありますからこんな薄っぺらい所に全部入っちゃってるわけですが、それを私も買ってきて家で時々ながめてるんです。そうするとプルトニウムというのはもう一つ非常に大きな意味が書いてあって、これは毒ガスの漂う世界という、英語辞典ですから英語で書いてあるんですが、そういう風な事をプルトニウムの所に書いてあるんですね。この毒ガスが漂うっていうのも何処から来ているかというと、やっぱりその地獄という所からきてるわけですけどね。プルトニウムというのはものすごく毒性が強く、ガスになって漂うと肺に入って肺ガンをおこす。皆さんが知っているダイオキシンというのが大変問題になってますが、ダイオキシンよりももうちょっと毒性が強いようなものですね。さて、その辞典を引くとそのそばにプルトクラシーという言葉が出てきて、これは金権政治という言葉らしいんですね。これもすごく合うじゃないですか、プルトニウムに。まったく偶然といえば偶然なんだけど。なんでプルトクラシーというのが金権かというと、プルートーというのは本来は冥土の王、地獄の王の意味だけれど、その地獄の王の元を探っていくとハーデスというのが本来のギリシア語の地獄の王の名前なんです。しかし、ハーデスが地獄の王と言ういわれ方を嫌って、みんながおべっかを使うのにお金持ちという言葉で呼んだらしいんです。元々プルートーというのはお金持ちという意味らしいんですね。だからプルトクラシーというのは金でもって人を支配するという、そういうのを言うらしいんです。そういういろいろな偶然の重なった元素なんです。この元素を発見した時にシーボーグは、自分は現代の錬金術師になったと思ったそうです。

★錬金術師、シーボーグ

ここにも金が絡んでくるんですが、発見した時すぐにプルトニウムが核分裂を起こすという事がわかったんです。核分裂を起こすということは、莫大なエネルギーを出すという事ですから、これは爆発につながるかもしれない、これによって人類は無限のエネルギーを手に入れるという風に彼は思ったわけですね。あ、シーボーグっていう人は今でもまだ生きている人です。この間もテレビを見ていたらシーボーグのビデオをやっていました。いまだにプルトニウムを素晴らしい素晴らしいと言っている人なんです。彼はプルトニウムをどんどん作って増やす事によって、人類は無限のエネルギーを手にいれる事ができると思ったわけです。これによって初めて自分達のやっている核化学というのは錬金術、昔ね、元素を変えて金を作るという話があって、あの錬金術師の夢を実現したという風に思ったわけです。そういう風に彼の本に書いてあった。
私はその本をですね、23歳の時ですけど、ちょうど会社に入ってしばらくたった頃、1962年の2月に神田の古本屋で買ったのです。古本屋で買っても3000円したんですね。当時私の月給が手取りで15000円ぐらいで30000円だしたんです。相当がんばって買ったんですね。それほど私はシーボーグって人に憧れてたんです。本当に偉い人だと思っていたのです。2月21日にシーボーグが、1942年の話です、プルトニウムを発見したというので、私も1962年の2月21日からこの本を読み始めたんです。そんなことが、今その本を家で紐をとくとちゃんと当時のことがメモで書いてあって、面白いんです。とにかくそれから元素を増殖するという事が夢物語になって、そのシーボーグの本の第1ページ目なんですけどこういう事が書いてあるんですね。
「プルトニウムの物語は化学の歴史の中でも最もドラマチックなものだ。(もちろん英語で書いてあるので翻訳していっているのですが)多くの理由によってこの希なる元素は化学元素の中でも極めて特別な位置をしめている。これは人工の元素であり元素の大量転換という錬金術師の夢を最初に実現した元素である」(と自分で言っているわけですね)。だから自分は現代の錬金術師になったと。錬金術師になったという事は、金のような価値をもつ物質を自分が創り出したんだと、こういう風に高らかに言っているわけですね。相当これは魅力的な元素で、それが発見されたという過程も化学の世界にとっては魅力的な物語がいろいろあるというような事を書いています。しかしもちろんこの物語には続きがあって新たな章が今後書き加えられなければならないだろうという風に彼は言っていたんです。New Chapters 新たな章と複数になっているんですが、そう書いてあって、私は当時下線をしていて、よし俺がやってやるというような事が書いてあるんですね。口走った記録が残っている。だから相当な軍国少年みたいなもんですね。プルトニウム青年だったわけです。23歳だったんです。

★シーボーグへの違和感

ところがこの本を読み進んでいくとあるところへきて、私は愕然としてしまうんです。原爆の製造の話が書いてあるんですよ。そのところにこういうふうに書いてあるんです。『実際の原爆の製造は非常に独創的で輝かしい数多くの基本に関わるアイディアと設計の詳細にあたる重要なアイディアを必要とした』。原爆を製造したことが輝かしいブリリアントだといっている。だから非常に独創的というような表現をつかって賛美しているわけですね。さすがに私でもね、ここにきた時は、長崎でこの原爆を使ったという事がありましたから、愕然としてしまったわけですね。だから当時の私の書き込みにも、私はよく本を読みながら汚い字で書き込みをする人間なんですけど、この表現はなんたる事かと、そこですでに違和感を覚えていたって事なんです。私もプルトニウムの物語に、自分も頑張って学問をやって、一つの章を加えたいという風に思ったけれど、どうもこの人達が考えている方向と違うんじゃないかという風にも思ったわけですね。
としてみると、今こういう事を言うと生意気のようですけど、まさにそうだったっていうかなあ、自分のその時の気持ちはほんとに間違ってなかったなって気がするんです。偶然じゃなくて。ノーベルという人は火薬を作ったわけですね。いわば昔の爆発物を作った。その後ノーベル賞をもらった人達というのはだいたい、たとえば、シーボーグもそうですしシーボーグの仲間達もいっぱいもらっています。それから核分裂を発見したオットー・ハーンという人ももらっています。私達の分野でいうとみんな現代の灯、核兵器を作る側の輝かしいアイディアを出した人達なんですよ。この人達にノーベル賞がいった。これはちょっと違うんじゃないか、ちがう方向で頑張ってみようといっている私に、ノーベル賞はちょっと違うんじゃないかという風に考えてライト・ライブリフッド賞を創った人達が、もう一つのノーベル賞というのをくださる事になったというのは、私にとって本当に感慨が深い。私はそれほどの仕事をしたわけじゃなくて、国際的な運動の中でたまたま私が代理人のひとりで、もうひとりのマイケル・シュナイダーはフランスの人間なんですが、この二人が共同して世界の人々の代理としてもらったようなもので、私はそんなに大きな業績をしたってわけじゃない。しかし、この23歳の時、もう四半世紀も前の話ですが、その時に自分が抱いた志みたいなものが、ずっと自分としては貫かれていたのかもしれないという点では、非常に感慨深いものがあるんです。つくづく、そのなんていうかな、私はその時にこれだけは思ったんですね、あちらの原爆を作る側は、輝かしいアイディアという風にアメリカの科学者達は考えたかもしれないけれど、私は日本に生まれて長崎の事を知っているんだから、被害を受けた側の人達の立場から何か輝かしい事が出来ないだろうか、それが科学としてなにか出来ないだろうかと、こう思ったわけですね。だけどその時はそれをどうやったらいいかとか、そんなアイディアは何もなかったし、何をやったらいいのかも全然解らなかった。でもそこのところになにかあったということをずっと引きずってきた気がするんです。

★わからないこと

それを遡ると戦争中の体験もいろいろあるんですけれど、今日はちょっとそこまでは触れられません。ただその事を引きずりながら会社の中で仕事をやって、実際にプルトニウムを扱うような仕事をやっていた訳です。その時は私は原子力反対ではなかったんです。会社の中で仕事をしていて。ただこういう事があったんです。私はウランを原子炉で照射して--燃やしたと言ってもいいんです--、燃やした時にできる放射能をいろいろ扱っていると、解らない事がものすごく多いんですね。放射能というのは実験していると、ウランを原子炉の中で照射してウラン燃料の安全性の研究をしてたんですけど、照射してそれを実験室に持って帰って来て、それをいわば加熱して放射能がどれだけ動くだろうかと、要するに原子炉の中で温度が上がっちゃったりしたら放射能はどっちへいくだろうかという事の基礎実験をしたんです。わけが解らない事がものすごく多いんですよ。例えば、実験やってると、普通は気体になりにくい放射能がウランの表面からどんどん揮発していくんですね。私はUO2 二酸化ウランからの非揮発性のガスの揮発についてという論文を最後に書いて会社を辞めたんですけれど。まあそういう風に非常にわけが解らない。ところが、わけが解らないという事を科学者の世界はものすごく嫌うわけです。俺達はこれだけ分かったんだという事を誇示していくわけですね。会社の中にいてもこれだけ解ったから原子力をやれるんだ、原子力発電をやれるんだと、こういう事を言いたがるんです。いや、まだ解ってない、こういう事がよく解らなくて、化学物質にも複雑な振る舞いという言い方をするんですが、化学物質はこういう複雑な振る舞いをするよみたいな事を言うとすごく嫌われるわけです。それだけですよ。原子力反対とかなんとか言っているわけじゃ全然ないんです。もっと調べなくちゃいけない、こういう事を調べようと言うと、それだけで敬遠されてしまう。そういうところでいろいろ困難にぶつかったんです。
それが、1960年代前半、63年とか64年ぐらいです。その頃にうちの会社でもちょうどいくつかの原子力発電所を建てる計画に関係するみたいな事が出てきて、現地では反対運動とかいろいろ少し出て来た。しかし、会社にいるとね、住民運動の声なんていうのはまったく、あるいは非常に遠くの方でしか聞こえないんです。ほとんど聞こえないくらいです。でもやっぱり多少は気になって会社の中ではそれに対していろいろ言うんです。しかし、みんな絶対自分達は安全を保障するみたいな事を言うんです。ああいう住民が騒いでいるのは無知で騒いでいると、そういう風に言うわけですね。私はそこのところはかなり違うんではないかな、住民たちは無知かもしれない、当時の私はそう思いました。けれども自分達もそれほど知っているという事にはならないんじゃないか、私はその時に科学者の責任というのは、半分は知っているけど半分は知らないということを、その事をちゃんという事ではないかと思いました。知っている事を誇示するだけに追われていて、そこから先は解ってないよっていう事をちゃんと言わない。それを言うとこの世界ではのけものにされるんですよ。私は会社の中にいてそういう会議もいっぱい経験してきました。はっきりね、ゼロか1かで、これはゼロですって言えればまだ争えるんですが、ちょっと解らないんだけどそうも言い切れない、みたいな事ってなかなか言いにくいんですね。だけどそれで潰されていってなかなか反対できないでいるといろんな事が決まっていって、後から言うと、いやそれはあんたのいた会議の場で通ったはずじゃないか、とかいわれるわけです。これは後々まで経験したことで、大学の助教授になって都立大学にいた時もそういう経験を繰り返しやって、それでまあ大学にいたくなくなったんです。
どうもちょっとこれは違うんじゃないかという風に思ったんです。中にいると非常に不確かな基盤での仕事しかやられてないんだけど、外にむかって言う時は自分達はなんでも解ったという顔をする。ここのところをちょうどさっき言った長崎の被爆者達のことで自分がどっちの側に立つかっていったら、やっぱりその解ってないという不安をもっている人達、市民の人達がいたとして、その不安を共有するところから始めるような科学ができないだろうかと思ったんですね。これが私の転換点だったというか、本当に苦しい思いする事になったんですけどね、そこから。

★三里塚のこと

それが30歳の頃なんです。大学を辞めた時というのが35歳ですから、その5年間ぐらいというのは本当に苦しくて、辞める決断がなかなか出来ないわけですよ。本当はあまりこういう話はしないんですが、この際そういう話をするとですね、それはその時に友達に連れられていった場所につながるんです。あそうだ、当時私は、原子力の分野でいろいろやろうとは当時は思っていなかったんです。何かやらなくちゃいけないとは思っていたんですが、原子力の問題というのは、原子力の機関を離れちゃったらまず出来ないだろうと。仲間に聞いても絶対無理だろう、そのへんで自分で事務所を構えるにしても、原子力問題というのはコンピューターがない世界でやるとか、実験室がない世界でやるとか、市民的なレベルでやるなんて話にはならないからまず無理だろうという事もあったし、それからどうも専門の分野で勝負するというのもどうしたものかというところもあったので、本当はやる気がなかったんです。最初は。ただただ悩んでいたというようなところがあったのですが、その当時ですから70年に入ったぐらいの時に、今の言葉でいえば成田っていうんですか、当時三里塚っていっていたんですが、そこにちょっと行って見ようとみんなに連れられて行った。私は闘争しに行ったという程でもなかったんですが、見に行ったんですね。そうするとやっぱり明らかに、あれは本当に非合理な開発計画を国が住民に何の断りもなく押し付けてきたという事に基本的な問題があるんですが、それに対して住民がほんとうに自分の身体を鎖で樹に縛って抵抗しているという事があったわけですね。私はそれを見たときに本当に感動したんです。それで開発する側じゃなくて農民の側に立ちたいと思った。しかし同時に自分を鎖で樹に縛るという形の抵抗だけをやっていくのはちょっと自分にはやりきれない。1日とか10日ぐらいならいいけれども、一生というのはやりきれないだろうと。あの農民たちもその形ではやりきれないんじゃないかと思ったんですね。ある瞬間の表現として非常に正しい表現だと思ったけれど、それを僕ら科学をやった人間としてはね、なんかその科学なり、何かその自分が関わってきた分野の仕事に置き換えて持続する志として何か形に残す、そういう事をやっていく事であの闘争が生きてくるんじゃないかと思ったんですね。表現としてはいろいろそういう直接行動的な抵抗があるでしょうけれども、最終的には自分の頭で勝負するしかないと思ったわけです。

★原子力資料情報室の結成

それでそこからは大変な苦しみようだったんです。結局思い切って1973年に大学を辞めて、74年ぐらいですね。その間一年ぐらいドイツにこれも迷って行った。いろいろ考えに行った、ものを見に行ったという事なんですが。74年ぐらいからプルトニウムの問題をやりだしてた訳ですが、七五年に原子力資料情報室を結成した。その時はできるかできないか分からなかったけれど、要するに市民の中に自分を置くような場で何か科学がやりたいと、そういう風に思ったわけです。当時としてはNGOなんて言葉も知らなかった時代ですね。そう言ってはなんですけどね、今でいえばNGOっていうと全然抵抗ないし、NGOというと、いまは私達の原子力資料情報室の他には大きなNGOがいっぱいありますが、当時としてはそんな言葉もないしそんな概念もない中で、私がそういうのをやるというと、みんなそんなバカなって言いいました。そんなものやれるわけないって。最終的に落ちるところは企業から金もらって下請けやるようなシンクタンクになるぐらいだろうというような事を言われた。だけど、どうにか志をを持っているとなんとかそれが続いていって、形になってくるなって感じもあって、まあ今は原子力資料情報室というのはそれなりに形があるし、そういう場として定着したし、今回の賞によって国際的にも認められたということがあると思うんです。
そういう意味で私が言ってきたような流れからすると、長崎の賞もとても光栄です。ライト・ライブリフッド賞というのはわりとお金がもらえるし、国際的にも今大きな賞なんです。しかし、さっきの流れで言うと、私の原点からして長崎の人から賞を貰った事もすごく嬉しいですね。やっぱりそれがちょっと自分にとっても、シーボーグの本を読んだ時の読み方からしてひとつの自分の原点になったという事はあるので、たいへんうれしく思っています。

★長崎からストックホルムへ 

3日に長崎に行って、まず爆心地公園で集会をやって、その後表彰式があって、それから夜に私が記念講演をやるという事になっているんです。そういう風に考えていった時に、私はたまたまプルトニウムの問題で賞をもらう事になりましたけれど、プルトニウムの問題というのは一つの道具というか、ある特別な問題ですが、私は市民と科学というような事を考えていて、市民の立場でとか、市民とともにというか、市民の眼の高さでと私は言うんですけれど、そのような立場で科学をやるという事が可能なのかを実証することを自分の一生の課題にしていて、それが多少は認められたのかなという気がするわけです。
長崎のほうもそうですけれど、ライト・ライブリフッドにすれば、賞そのものは国際的な賞で毎年世界の四つぐらいの個人ないしはグループが表彰されているんです。各大陸にひとりぐらいという感じで表彰は行われていて、今年はヨーロッパで二人、アメリカ、アフリカ、アジア(日本)と、五人がもらう事になったんですが、だいたいそんな風にアジアでひとりとか、アフリカでひとりという感じで、今度18年目になるんです。個人としては日本人では私が初めてになったという事なんです。国際賞といっても基本的にはヨーロッパの方でいろいろと調査をしたり選考している、そういうところで自分が評価されたというか、はるか彼方の日本の私がやっている営みを評価してくれたというのは大変ありがたい事だと思っています。
私が一番うれしかったのは、私が受賞した時に私のところに随分たくさんの、本当に日本中の人々から、花が部屋に置ききれないほど送られてきたり、電報がきたり、ファックスがきたり、最近ですから電子メールがきたり、手紙とかいろいろ来ましたけれども、かなりの人が一緒に喜んでくれたっていうかな、おめでとうって感じよりもありがとうって感じです。地域でやってる反原発の運動とか草の根の運動でやっている人はずいぶん多いんですね、日本中では。みんな苦労しているわけです。だけどその同じ苦労を共有しあって、国際的に認められるような事っていうのは、自分達が認められたようで大変うれしいと思って、代わりに貰ってくれてありがとうと。そのありがとうというメッセージが大変多かったんですね。私はこの部分に関しては喜んでもいいんじゃないかなって思うんです。私はストックホルムでの受賞スピーチを書いてくれと言われて書いたんですが、こういう風に賞が多くの人に喜んでもらえるなら、ライト・ライブリフッド賞自身にとっても、財団、選考委員会にとっても非常に名誉な事ではないか、この本来の賞の目的にあっているんじゃないかという風に私は思うと、そういうスピーチをこれからやろうと思っているんです。だいたい賞はそんなような賞だと思っています。

★転換できない日本

この賞全体がそうなんですが、世界はひとつの大きな転換をしようとしていて、その転換するための苦しみみたいな事がいろんなところに出てきている。ライト・ライブリフッド賞の選考委員会は必ずしもヨーロッパ人だけじゃなくて、アフリカの人なんかも入っているんですが、そういう国際的な眼から見れば、日本は一番転換が出来ないでいる国なんです。日本のプルトニウム政策というのは最も転換が出来ないでいるというか、古いものを引きずっているように思うんです。正当化する理由もなくなっちゃったんだけど、今までやってきたもんだから、やめられない。それを取り巻く大きな世界が出来てしまったのでやめられないという事のために続けている。そういう世界だと思うんですね。だけどこの転換をやらなくてはだめだというのが、そもそも地球環境問題の基本だと思うんですよ。
リオデジャネイロでやった会議(92年のブラジルでの環境サミット)の基本的な線というのもそこにあったと思うんですね。あそこに大きな意味があったとすればですが。この点は、評価がいろいろ分かれるところです。根本にあるのは地球環境問題というにしろ、温暖化問題というにしろ、基本は工業先進国といわれるような工業開発の進んだ国にとっての基本的な問題は、今までの右肩上がりの成長志向ではだめですよという、そういう話なんですね。そういうあり方を基本的に見直していかないと、地球の将来は無いですよ。より多く、より強く、より速くという志向から、むしろ地球の未来を考えるとか、将来の世代を考えるというところから考え直すことが、地球温暖化問題の基本的な問題だと思う。やっぱりそこのところがなかなか、日本ではそういう話になっていないんですね。

★原発で温暖化防止をしようという日本

原発で温暖化を止めようという話が出てきているので、その話をちょっとしなければなりません。そもそもね、日本政府の受けとめ方向というのは、いかに消費を減らして、無駄を減らして、余分な廃棄物を出す事をやめましょうという、そういう話を世界中がしている時にですよ、多くの国がそういう方に問題を考え直そうとこの会議を契機にしているところなのに、日本政府はそうじゃなくて、化石燃料が悪いんだったら化石燃料を原発に置き換えればいい、消費を減らすとか無駄な事をやめるというような事ではなくて、エネルギーの作り方を化石燃料から原発に置き換えるという事だけで数字を合わせようとしている。だから発想はまったく変わらない形でやろうとしているわけですね。ところがその原発計画がそれで維持できるかというと、とても実際には原発でやるなんて事はできないわけですが、だからそこのところがまたおかしいというか、二重におかしいんです。
日本政府の案というのは大変生ぬるくて、世界平均5%、日本は2.5%の二酸化炭素削減でいいとかね、その2.5%も実は数字の勘定のしかたで、実質はほとんど0%、日本にとっては0%の削減で済ましてしまおうというような事を言っています。それは0%か2%か、それが-0%であっても、それがどうかという問題ではない。いかに産業とか文明とか社会のあり方を、ここで転換させなければならないかと、そういう事なんだと思うんです。その事に関して私は、地球温暖化の問題、二酸化炭素の問題というのをここでおおいに問題にして、議論をやる事には賛成なんですが、二酸化炭素だけが問題ではないというのが基本的な問題なのです。二酸化炭素を取りますか、放射能を取りますかというような、どちらのメニューを選びますかというようなことは困るわけです。

具体的にちょっと数字の話もしましょう。基本的な問題は何かという前に、日本政府が言っているのは、実は日本政府自身も本気で信じていないという事があるのです。それは皆さんのお手元に少し時間を省く意味で紙を配ってあります。「脱原発と市民の役割」という表題の紙を見てもらうと解るんです。この一枚目の紙の中に、日本政府の案(図1)というのはですね、細かいことも、多少のエネルギー案も入っているんですが、基本的には二酸化炭素を減らすためには原発が2010年までにあと20基必要だと言うわけですね。その2.5%だけ減らすという日本政府の案であっても、あと2500万KW分ぐらい、7050万KWにするために20基は必要だというのです。しかし、これはとてもできない、実際には実現不可能な案です。それでも今政府が抱えている計画を全部そのまま実現できると考えて、シュミレーションというか、どのくらいになるだろうかと考えてやってみると、だいたい今ある計画が認められてもうまくいっても2010年で5500万ぐらいで、あと1000万増えるぐらいなんです。だから7050万までいかないと政府も知っている。しかし、そのムリをしないと二酸化炭素を国際的な合意が得られるほどの量には減らせないと言っているんです。そんな数字にいくはずがないということは、政府も役人も個人的に議論すれば、みんな承知の話なんです。まあそれを承知の上でそれだけの分20基増やさないと、二酸化炭素落とせませんよと言いたいためにやっている。その二酸化炭素を落とせないなら原発を建てさせてくれない住民の責任なんですよ、みたいなところに責任を転化しようとしているだけの話なんですね。だからこれは無責任、単純に無責任ですよ。ものすごく無責任。

★原発は二酸化炭素を減らさない

こういう図をお見せするのが一番分かりやすいかなと思います。ちょっとこれを見て下さい。これは実際に原発を導入した事によって二酸化炭素を減らしたかどうかという判断する材料となるものです。これは皆さんの資料にも2枚目の2ページ目に入っているんですが(図2)、これがですね、このカーブが右側がスケールになりますけど、エネルギーの最終供給量ですね、これは。エネルギーをどれくらい供給してきたかという数字です。エネルギーの日本での消費といってもいいんですが、そのエネルギー需給というのがどんどん延びていって、1973年の石油ショックの時にちょっと止まった。止まったんですけれどまた延びていってずっと延びてきているというのが最近の消費ですね。これに対して原発は1970年ぐらいからある程度エネルギーを供給し始めて、どんどん増えてきた。原発はこういう風に増えてきたけれど、原発が導入された事によって、二酸化炭素が減ったわけでじゃなくて、二酸化炭素の表示を見てもらえれば分かりますが、二酸化炭素の消費はエネルギー消費の線とほとんど並んでいるでしょう。これをみれば、原発が入ったことによって目立って二酸化炭素が減ったという効果は無いわけです。
歴史的に見てもね。同じ事がこれからも起こる。これは何を意味しているかというと、原発みたいな巨大システムを導入するわけですから、それに伴う消費が増えるだけなんですね。建設作業も増えるし、それから原発というのは昼間の電力のピークに合わせると夜間電力が余る、そうするとその分あれだけ巨大なものを建てちゃうから、その分電力を使わせないと採算が合わない訳ですよ。割が合わないから、むしろ消費を煽っていく形になるわけですね、原発のような巨大システムになると。だからこういう形になって、この昇り方に合わせてこっち(エネルギー消費)も上っていくということになってしまう。これだけ見てもね、原発を動かして炭酸ガスが減るということにはならないことが良く解る訳です。だから、たぶん海外ではこんな話は通らない話だと思います。

★エネルギーを有効に使っていない!

こういう図をもう一つお見せします(図3)。今のエネルギー全体の需要と供給の関係というのを見てみると、図の左側がエネルギーの供給側なんです。いま政府は、原子力は万能みたいな事を言ってずいぶん利用しているように言いますが、全体のエネルギーに対しては13%位です。実はさっきの様に原子力を使ってもあまり効果がない(NO2削減に)というのは、原子力を使っても石油の消費量は減らない。自動車とか、他の部分が非常に多いわけですよね。全体としてエネルギーを分野別に分けると、相変わらず石油が多い。これは1995年のデータです。
それで図の右側が需要側なんです。発電が40%位、非発電が60%弱なんです。このうち実際に有効に使われたという有用エネルギーは、実際に作ったエネルギーのうちの34%、66%は実は損失、単なる廃熱になっているんですね。非常に効率が悪い。約2:1ですね。エネルギーを「3」作って「2」捨てて「1」使っているぐらい。もちろんその使った後はまた廃熱になるんですが、最終的には。有効に使われないで廃熱になっているのがものすごく多いわけです。これが現代の基本的な問題だと思うんですね。実はここが一番大きなエネルギー源になるので、この捨ててる分を半分にする事が出来たら、その分を有効利用してこっちにまわせたらですね、作る量をうんと減らしても済むわけです。そこがエネルギー問題のポイントなんです。

★コージェネレーション

それをやるためには例えば、発電部分でいえばコージェネレーションというのをやれば、技術的には非常にいい。コージェネレーションというのは一回出てきた廃熱、発電をやった後に出てきた廃熱をもう一回利用する。例えば火力発電所で出てきた温熱の廃水をうまく暖房に使うというような事をやればいい。熱ですからうまくやれば冷房にも使えるんですが、冷暖房に使う。あるいはいろんな給湯に使うというような事をすればいいし、それから今だと天然ガス火力では、コンバイトサイクルという一回発電した後、余熱がかなり温度が高いものをもう一回発電に利用して、電力にする。二回発電に利用して、最後にその余熱を給湯とかほかの熱に使うということをやるといいんです。
ところがね、原子力の熱というのは、それが出来ないわけですね。基本的に原子力発電所の前に住宅を置いて、原子力発電所の廃水をそこに供給しますという話にはならないですね、誰が考えても。ロシアではそれを考えていたわけですが、最近ではロシアでもそれを止める傾向にあるわけです。チェルノブイリ以降はね。しかし、今でもまだ残っているんですよ、部分的には。私は昨年クラスノヤルスクという所に行って来た。先日、橋本とエリツィンが会談した所、あそこは秘密都市じゃないほうですが、その奥に秘密都市があるんです。そこの核施設に特別な許可のあるグループに協力してもらって入ったんです。そこで見たら、そこはまだ核兵器を作るためのプルトニウムを作る原子炉を運転していて、そこからスチームの管が出ていて、そこに住んでいる人の住宅に暖房用のスチームを供給していました。原子炉から直結して。秘密都市の中に住んでいる人ですから、運命を共にしているという感じです。そういう事でもなけりゃ原発の熱は使えないんです。
それからね、温度が低いんですよ原発の熱というのは。300度ぐらいの熱で発電をする。そうするとね、200度程度というような廃熱は捨てるしかないんです。高い温度でやればやるほど効率がいいんですね、発電というのは。したがって原発はまさにエネルギーを「3」使って「2」捨てるという事の典型なんです。そういう意味でも、廃熱が多いという点でも原発は決して効果的なエネルギーシステムではない。この廃熱が多いという事も大変な環境問題なんですね。これからもっと問題になる。廃熱そのものが気象や地球の環境にどういう影響を及ぼすのかという話は昔からあるわけですね。これはまだなかなか明確な結論が出ないのですが、大量の廃熱が環境にいいはずがないと思うんです。そんなものが多くなってしまうので、そういう意味でも原発はだめで、世界的な傾向のほうはコージェネレーションをやる事によって、全体を減らして、圧縮して、二酸化炭素を減らすという方向になっているわけです。

★原子力の基本問題

だからエネルギー利用のほうも、例えば今はハイブリット車を使うとか、要するに燃費を上げるようないろいろな事をやったりとか、住宅用の断熱材を工夫するとか、効率を上げることによって省エネルギーを達成するという方向にきているわけです。そういう方向にいかなくてはいけない。ところがこういう議論をするとですね、必ず原発推進派との議論になります。私は昨日も山口県で推進派と議論したんです。推進派との議論が多くてちょっと飽きちゃっているんです。まったく新鮮味がないから。いつも同じ議論で、原子力をやらないと電力は足らない、それと、「もんじゅ」の様な事故はあったけれど人は死んでいないから、日本の原発は安全、基本的にこの繰り返しです。ああまたか、もういいよって感じになっちゃって。それで、時々叱られるんです。お前はやる気がなさそうだって。
嫌気がさしたといえは、ずっとまえから嫌気がさしてるところがあるんです。原子力の問題というのは、ほとんど基本的な問題が出尽くしちゃってるんですよ。あとは世の中が変われるかどうかという事だけなんですよ、はっきり言って。原発にしがみついている人達にとっても。私は1970年代にもう転換するしかなくて、自分達の生活のあり方を変えるしかないという話をして、そういう本も書きましたけれど。

★環境家計簿

先ほど藤川君が環境家計簿という話をしました。実は私は70年代にそういう事をやってたんですよ。その頃は私はわりと優秀だったんです。今は全然ダメですけど。まったくダメで、仕事が忙しいといって、ほとんど連れ合いが家事をやっていて、私は仕事ばかりやっていてダメになっちゃったんですが、その当時はそうでもなかったんですね。電力とかガスとか、自分の毎月の消費量を全部出してグラフに書いて、どれだけ削れるかって計画をたてて、削れていくとちょっとマニアックになって、おもしろくなって、最終的には冷蔵庫も捨てちゃったんですよ。捨てちゃったっていうか、なくしちゃったんですよ。ほとんど使わなくなりました、電力は。まあ家で勉強したりしますから、それに使うぐらいの電力になってしまう。だからひと月に千円も電気料金を払わないぐらいになるような生活をずっとやっていたんです、ある時期ね。だんだんダメになったのはチェルノブイリから。チェルノブイリの前ぐらいまでは、私はもう田舎へ行って農業をやろうと思っていたんです。都会でこういう生活やっててもだめだと思って。田舎に行ってちょうど田植えやってたら、チェルノブイリの放射能が降ってきて、呼び戻されちゃって、これはお前の出番だって話になって。それからはもうまったく放射能漬けなんですよね。どんどん生活は悪くなる一方で、賞はもらったけど実は自分では随分だめになっていると思っているんです。

★エネルギーの損失

1970年代頃から見ると、70年という時代はエネルギーが不足していたかというと、全然不足してなかったです。私個人はエネルギーを使っていなかったけど、それはともかくとしてね。余談ですけど冷蔵庫のない生活というのは案外面白いですよ。まあそれはちょっと長くなるから言いませんけれど、ものを蓄えておく事はない。毎日新しい物を買って、料理を作るか、工夫するかして、食べるしかないわけで、古い物は食べなくなるから、いつも新鮮な物を食べられるんです。その頃から見ると今は全体のエネルギー消費が二倍ぐらいに増えているんですよ。。例えば70年に比べるとだいたい二倍に増えている。ところがね、実際にさっきの有効消費で見るとね、1.5倍ぐらいしか増えてないんですよ。何が増えているのかというと、この損失のほうが増えているんですね。ところが、私達が電力会社と議論すると、いやそう言うけど日本ほど省エネルギーで優秀な国はない、と言うんですよ。でもこのデータを見てもらえれば解るんですが、そんな事はないんですね。日本ほど贅沢にエネルギーを使っている国はないぐらいなんです。
ではなぜこの損失が増えるかというと、電力による消費が増えるからです。電気というのは便利なエネルギーだけど損失が非常に大きいのです。電気はモーターを回している分にはいいんですよ。これはたいした事ないんです。モーターを回す時には都合がいいんですが、電気を熱に変えようとするとこれはものすごく損失が多いんですね。だから冷暖房なんていうのは一番電気を浪費する典型なんです。そうですよ、洗濯機なんていうのはそれほど電力を食わないんですが、コタツとか、エアコンとかはすごく電気を食うんです。1960年代当時は電気がエネルギー全体の30%ぐらいだったんですよ。今は41.5%とかそのくらいになっているでしょ。40%越えてるんですよ。10%増えた分だけ損失が大きくなっていると思ってもらっていいですね。だからこの当時は60%ぐらいの損失率だったんだけど、今は67%の損失率だとさっき話しました。

★エネルギー消費は下げられる

それで、なにが言いたかったかというと、この損失を減らすだけでね、今の努力をもってコージェネレーションなどをやれば、一年に1%ずづつ損失を減らす事はけして無理な注文ではないと思う。本当はババっと減らして70年代に戻ってもいいと私は思っていますけどね。70年に比べると今はそんなに幸せになったと思っていないから。昨日ももっと消費を下げろと言ったら、江戸時代に戻るような事はみんな耐えられないと、そういう風に推進側の京都大学の先生が言うわけですよ。そういう乱暴な議論をやっているあの人達は本当にしょうがないんですね。まあ最後に彼はその論点については訂正しますと言って認めたから素直なところもある人でしたけど。仮に1%ずつ損失を減らしていくとして考えてみましょう。ついでにもうちょっと頑張って余分な消費も年1%ずつぐらい減らす。余分な消費というのは待機電力とか、それから僕が嫌いなのはライトアップってやつです。真夜中でも煌々とついていたり、自販機なんかもそうですね。ああいう物は、まったくいらない部分があるんですよ。自動販売機を全て無くせとは言わない、でもね、誰も人が居ない所で一晩中冷やし続けたり温め続けたりしている自動販売機というのはものすごく多いんです。それも省いていくとすると使う方も1%ぐらい減らせるんじゃないかと。1年に1%ずつ損失と利用を変えていく前提で計算していくと、1995年を起点にとってみると、2005年で、90%ぐらいまでは、あ、これは1990年レベルに対してです。国際合意の出発点になった1990年というのが今問題になったいるわけです。日本の温暖化はそれに比べてもうすでに11%増えてますから、1995年に比べると2005年には20%ぐらい減るんです。それから2015年では72%ぐらいになる(図4)。いま政府は5%ぐらい減らすのも出来ないと言っていますが、このやり方をすればこのくらいに減らす事ができる。実はこの時に減るのはかなりの部分が損失の部分であって、実質的には有効利用される分というのは88%だから12%ぐらい減ればいいんですけれど、私は1年に1%の努力っていうのはできるのではないか、特に今の技術の向上とかコージェネレーションとかをやればね。これは政策的なものだと思う。

仮にそうやった場合にその中身をどういう風に構成していくかというと、私は原発はやらなくてもいいと思う。そういう風にカットが出来るのならば、カットした分、2005年からカットした分で原発をやめちゃえば済む。この(図5)ではここが原発なんですが、原発は2005年からやらんという風に描く事が出来る。2015年ではこのくらいになるんですけれど、その時には15%ぐらいの再生可能のエネルギー、太陽エネルギーとか風力とかをいれなくてはならない。太陽とか風力は無理だとか、高いとか言いますが、あと20年後までに15%ぐらいいれる事は、それはもうちょっとの努力でできる事だと私は思ってますので、こんな事を描く事が出来るわけです。こういう風に目標を立ててみんなが努力するかどうかという事にかかってくるだけの話。

★本当の情報を知らされていない!

今どうしてそういう風に進めないのか、これもまた電力会社の連中と議論するといつも出てくる事ですが、消費者の理解が得られないっていうんですよ。その時に必ず若い人のことが、ここにも若い人がいらっしゃるけど、出される。今の若い人はエネルギー消費を減らせといっても絶対うんとは言わないというんですよ。私はそうは思わない。電力の連中は真面目に言うんですよ。自分達はいいですよ、とかって。自分達ははいいけれど、これをお客様に押しつけるわけにはいかないと、こういう風にいうんです。その割には原発を押しつけてるんですけどね。それはともかくとして。昨日もそういう話になって、じゃああんたは電気料金いくらぐらい払っているんですか、あなたの家庭ではって聞いたら、彼の家庭では5万円ぐらい払ってる、そう言うんですね。だからそういう家庭の感覚でエネルギー消費を減らせないって言われても困るという気がするんですね。その十分の一には簡単になるんじゃないかと。私の感覚ではですよ。一年に1%なんて話じゃとてもないんじゃないかと思うんだけど。まあ、そういう業界の人達が言うのは必ずお客さんに無理を押しつけるわけにはいかない、皆さんは快適で豊かな生活を望んでいるからと言うんです。
だけどね、それはウソだと思うんです。若い人のことだってウソだと思うんです。若い人こそ自分達の未来が気になるわけで、二酸化炭素まみれになってしまったり、放射能まみれになってしまったり、その全部を押しつけられる。我々は死んでいってしまうけど、若い人達に押しつけられる。それでいいという話では絶対ないはずなんです。ただちゃんとした事を知らされていないだけだと思うんです。ちゃんとした事を知らされていなくて、ちゃんとした情報も伝わっていなくて、しかも自分達にもなにかやれるとか、例えば二酸化炭素を減らす事が出来るとか、世の中全体の政策決定に自分達も参加出来るという参加感が全然ないわけですね、今は。
いまエネルギー政策を決めているのは、だいたいエネルギーを供給する大きな企業の連中なんですよ。政府の、例えば総合エネルギー調査会というような所に入っている人達を見れば、半分は生産者なんです、エネルギーの。電力屋さんです。それから原子力屋さん、石油屋さん。後は学識経験者と称してこの周りにくっついているような学者連中、それから政府官僚、それでひとりふたり、ちょっと消費者の代表とか労働界の代表といって連合からひとり入っているとか、主婦連からひとり入ってるとか。だけど後の30人ぐらいいる内の28人ぐらいまでは、完全に業界かその周りの学者。エネルギーを作る側が決めてますからね、これは売る側です。作る側というのは、減らそうという案がでてくる筈がないんですよ。その中で原子力をどれだけ割り振るとか、石油どれだけ割り振るとか、そういう話しか出てこないんですね。だからこの構造をあらためて、使う側が入っていって、需要側を減らすことをきちんと考える。こういうのをデマンドサイドマネージメント(DSM)というんですが、それを、もっと工夫しなくてはと、海外では盛んにいわれるようになったのに、日本では全然そういう政策を作っていない。
若者の代表が入っていって、政策決定をして、二酸化炭素を減らすために自分達はこういう風に生活を変えるとか、自販機はなくてもいいから原発はやめてくれというような意見が通るようになれば、若い人は納得すると思うんですよ。そんなにジャブジャブ石油を使わなくてもいいという話が出でくると思うんですね。そういう作りになっていなくて、勝手に決めているから、それでエネルギー消費を押さえろっていうから、みんな戦争中の統制みたいなのを思い出さざるをえない、国家に握られているという感じしかしないわけです。そこのところが問題なので、そういう風な民主主義をきちっと作っていくというような事が、実は私はエネルギー問題の一番根本じゃないかと思うんです。

★マイナスがプラスの価値を生む

どういう技術をどう開発するかという事は次の問題です。これは本当に市民が主人公になるような社会ができれば自ずからそれはできてくるはずだし、さっきあげた数字もあるんですが、とてつもない事をやろうと、江戸時代に戻ろうって話じゃないわけですね。基本的なものの見方、考え方を転換させようという事ですから、そういう事をやれば原発の危険も、それから二酸化炭素の危険も、二酸化炭素だけじゃない温室効果ガス、あるいはもっといろんなものも含めて、そういう危険のない社会を作っていく事が出来ると思うんです。だからそれにはある種の価値の転換が必要で、やっぱり右肩上がりの指向というのは終わりにしなくてはと思うんです。
いま、国際的にもそういう考え方が出てきて、ドイツなんかでは非常に盛んなんです。今度京都会議でもドイツの人が来てくれるので、そういう話ができると思うんですが、むしろマイナス成長というんですかね、省エネルギーというのかな、エネルギー消費を減らすという事がむしろプラスの価値を産むという考え方が今の基本的な考え方です。成長の限界という事がいわれて久しいですが、今はむしろマイナス成長をしようというのです。マイナスがプラスの価値を産むという話です。要するに削減をするとそれだけ二酸化炭素を出さないわけです。あるいは放射能も出さないわけです。余分な廃棄物を作るようなことはないわけですから、それだけ環境にとってプラスになるわけで、豊かな将来を残せるわけです。これがプラスなんだというふうに考えて技術をそこにもっていく。今までのようにより多く作る事がプラスの価値という風にして技術を設計するのではなく、その逆の考えで技術の設計をすれば、技術的にもそういう方向に行けるんです。

★市民の科学 

そこに行かない限りは地球の未来はどう転んでもないですよ。原発を止めたところで、今度は太陽エネルギーなら万々歳という話は絶対にないですから。このプラスマイナスの転換ということこそが、今の地球環境の問題なのです。そもそもここが京都の会議で議論されなくてはいけない、根本の問題だと思うんです。それをやるには市民が主人公にならないと絶対にできない。企業にやらせていたら、これは絶対にできないです。そういう事を私は訴えたいと思いますし、その事とちょっとこじつけのようですけれど、私が市民の科学というのをやりたかった、市民の視点で科学をするという事とは基本的に関係していて、科学のあり方も、そういう風に市民が主体になるという事がない限り、私が個人で頑張るとか、そういう問題ではやっぱりないんですね。これは市民が主体になるような社会があって、そこでその市民から付託されて、私達が何かができるかという事があるわけで、そもそもNGOなんてそんなものだと思うんですね。
そういう事をお話して、だいたい時間になりました。今日は随分長い時間をいただきまして、自分の勝手な思い入れのような事もお話しましたけれど、結局これは日々生きていく生活の問題、エネルギーの問題にもなりますし、私自身の生きる営みという、私自身の営みとして科学という事にどう向かい合うかという問題でもあります。基本的にはそういうかなり自分の生き方の問題という事に、やっぱり関係せざるをえないし、それが次の世代に対してどういう風なメッセージを残せるかという問題だろうと思います。そういう話をさせていただいて、終わりたいと思います。どうも長い間、本当に長い間、ありがとうございました。

2000年10月8日に永眠された高木仁三郎さんの「友へ」と題した最後のメッセージ

 原子力時代の末期症状による大事故の危険と、結局は放射性廃棄物がたれ流しになっていくのではないかということに対する危惧の念は、今、先に逝ってしまう人間の心を最も悩ますものです。後に残る人々が、歴史を見通す透徹した知力と、大胆に現実に立ち向かう活発な行動力をもって、一刻も早く原子力の時代にピリオドをつけ、その賢明な終局に英知を結集されることを願ってやみません。

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