主の食卓礼拝 

       みんなの感想集


「大阪淡路教会 主の食卓礼拝に出席して」   うすきみどり

 ぺンテコステ礼拝に出席させていただいた大阪淡路教会の聖餐式では牧師が山型食パンを二つに割ってそれぞれを両手に持ち、会衆席を回ります。牧師がパンを持ったまま各自の目の前に出されますので、それを自分でとるのですが、はじめちぎろうとしましたが、空中にあるパンをうまくちぎれませんでした。
 そこでパンの筋?にそって裂くようにとると、すっとうまい具合に「はがれ」ました。数秒間の体験でしたが、与えられたパンを自らとる、しかしあるがままのパンに委ねるように「裂か」なければいただけない体験に、それを口にする時は「キリストの体」を「裂いて」しか生きられないことを、あらためて大きく実感いたしました。

 「主の食卓礼拝に出席して」   佐藤優子
 
 私が、「主の食卓礼拝」に与ったのは、5月の第一礼拝の時でした。
それまで、愛餐会の経験はあっても、「主の食卓礼拝」は初めてでしたから、その日、私は何故か少し緊張していました。
そのドキドキは、集まった皆さんと食事をいただくという喜びとは別に、礼拝の中で食事をいただくということの意味が、よく飲み込めずにいたからです。

 しかし、礼拝が進み、食卓前の祈り「神よ、あなたはすべての人々を食卓に招いてくださいます(以下この部分が重複するので略します)。悩みや苦しみ、病の中にある人々、うちひしがれた心を抱えた人々、孤独の中にある人々を招いてくださいます。(略)
 社会の価値観によって、小さくされている者が、あなたに招かれた食卓を囲み、力を得、共に歩み始めることが出来ますように。(略) 
わたしたちは、あなたの招きに応えて、今、この食卓を囲みます。どうか、共に生きる力をお与え下さい。アーメン」を共に唱えた時、「主の食卓礼拝」の意味がようやく分かったように思います。
共に食事をいただきながら、近くの方々と会話をするうち、私の緊張も少しずつ溶けていったようです。

 このように、「主の食卓礼拝」が行われることになったいきさつについて聞いてはいたのですが、礼拝出席の少ない私は、毎週出席されている方々と比べると、なにかにつけて理解に時間がかかるようです。
 しかしこの日、食卓礼拝に私を招いてくださった神様に感謝し、喜んで家へと急ぎました。

   (浪岡伝道所教会員)
 

 優子さんお手製のピザ♪


 「主の食卓礼拝について」   三浦克子
 
 「主の食卓礼拝」、私にとっては、とても新鮮な響きだ。
 今まで、いくつかの教会の礼拝に出席してきたが、礼拝の中で食事をするというのは、この浪岡伝道所が初めてだ。
 小さな伝道所だからこそ出来ること、と竹佐古真希さんの意見と、今の私は同意見だ。
 だれもが楽しい礼拝、だれもがリラックスできる礼拝というのが理想的なのではないだろうか。もちろんそれは、神様の御心にかなってのうえのことではあるが。
 最後に、真希さんの作った食事が、あまりおいしいからといって、諸君、まちがっても、皿なんぞをなめたらいかんぜよ!!

   (浪岡伝道所教会員)
 

 三浦さんと佐々木くん


 「主の食卓」   長倉 望 

 小さい頃、教会でみんなで食事をするのが大好きだった。年に一度だったか、半年に一度だったか、青年会の人たちが来て教会の礼拝堂で食事をするのに、小さい私と兄は混ぜてもらっていた。それは私の密かな楽しみだった。箸や茶碗を並べるのを手伝ったり、ちょっと重いものでも無理して運んだ。みんなが喜んでくれるのも嬉しかったし、いっぱしに自分もこの食卓の一員になりたかったからだ。普段は怖い薄暗い礼拝堂でも、みんなで食事をするときには、そこだけとても嬉しい空間に早変わりした。終わるのが待ちきれない食前の祈りにじらされて、私の嬉しさはどんどん大きくなる。薄目をあけて、目の前に並べられた食事や、祈ってる他の人たちをちらちら見たりなんかしてた。自分がみんなに受け入れられている安心感の中でする食事は、どんなものでも美味しかったし、礼拝堂で食事をするのは、何か特別な感じがした。普段は嫌いで食べないのもその食卓では食べられた。そうして私はなんでも食べる子になった。

 浪岡伝道所での主の食卓礼拝第一回目に、幸せなことに入れてもらうことができた。初の試みだったので、みんなちょっとぎこちなかった様に思うけど、やっぱりみんなで食事をするのは幸せなことだ。礼拝堂で、礼拝をしながら食事をするのは、嬉しいことだ。小さいときに感じた「特別な感じ」は、きっと「祈りな感じ」だったり、「讃美な感じ」だったり、「神様な感じ」だったのだと思う。

     (学生YMCAスタッフ 同志社大学大学院在中)


 nonとまぶねちゃん



「主の食卓礼拝」に参加して   深佐和美紀

 いさぎよさと重たさを感じさせる雪に、まさに埋もれるような小さな伝道所で本当にぬくもりのある礼拝を守りました。
 参加者一人一人が生かされる・・そんな礼拝だったと思います。

 2人の牧師の説教はそれぞれに「小さいゆえのメッセージ」と「派遣」という思いと祈りが込められていたように受け取りました。
 そして暖かい豚汁とおにぎりをいただいて、さらに血と肉を与えられる・・そんな風でした。

 雪に埋もれたちいさな教会から、ここから私たちは多くの友の中に派遣され主のご用を努めて行くんだと活力をあたえられ、またココに居場所があるんだと新しく生かされる気がしました。

 小さいゆえの柔な想いと言葉の実った礼拝だったなぁと、そして一緒に分かち合った一人一人と出会いを感謝しています。
 ぜひ、またしたいなぁ。
浪岡が待っててくれる・・と安心して押し出されていきます。


 あかりちゃんとミニイ。



主と集まった人の交わり  安保 尊

 私が高校生のときは、半ば強制的にキリスト教の中に入れられ、強制的に聖書の勉強と、もっとも大変なのが近くの教会の礼拝に出ることでした。私はオルガンの勉強もあって浪岡伝道所に通っていました。しかしはじめは教会の礼拝に出ることは、とても抵抗のあることでした。高校での礼拝はほとんどお遊び程度にしか行われていないので、毎朝の朝礼なんて苦痛でしょうがなかったこともあるだろうけど、教会の礼拝に出て一番はじめに目にとまったのは、聖餐式です。 
 
 これは私でなくとも初めて教会に行った人は「あれはいったいなんだろう?」と、思うでしょう。なんだか傍から見たら「危ない集まりだー!」なんて思うでしょう。だって、パンを分けて食べて、ぶどう酒を飲む、それをするのも洗礼を受けた人のみだとくれば、新聞に出てくるような○○○真理教みたいな宗教だと思ってしまうのも当たり前なのではないでしょうか。それだからなおさら私たちの周りで信者が誰一人いなかったのも、うなずけてしまいます。これは私の考えとして書かせてもらっているので、すべての人がそうであるとは思いませんが、少なからず私たち高校生の頭の中には、いい意味でのキリスト教というのは存在しなかったと思います(私の高校で宗教を教えている先生には悪いけど…)。できればうまい具合に、教会の中身を少し変えられないかと、またそれによって私の友達とかが高校の授業以外に教会にこないかなと考えていました。

 私から見ると浪岡伝道所は、牧師をはじめとしてそういうことに理解があって、少し外の社会にキリスト教のドアが開放されているというか、小さい教会ならではのコミュニケーションがよくとれていたので、今回の主の食卓礼拝という試みができたのではと思います。

 今年の3月にちょうど北海道から帰ったときに浪岡で礼拝に出たときに初めて、これに参加しました。ここでは普段思っていることをみんなで話し合うことができ、礼拝の中で行われているので、これも神聖なものとしてもいいなあと思いました。何よりも堅苦しさがまったくないというか、本当に神様がそばにいてくれているような、ある意味で聖餐式と同じことが教会に集った人と共に行われていると思います。これは、聖書でイエス・キリストが娼婦などの社会から疎外された人々に対しても平等に癒しを与えたように、洗礼を受ける受けないにこだわらず礼拝に参加できていいのではないでしょうか。別に聖餐式に洗礼を受けずにやりたいというわけではありません。

 私もまだ洗礼を受けていませんが、洗礼は信仰心の表れであって、私の信仰心に比べたら太刀打ちできないと思います。しかし浪岡に来て以来、私の信仰心は少しずつ大きくなっていますし、高校のときに朝礼の奏楽の前に自分で心を落ち着けるためにお祈りをしたり(一人で)、気づいたときにご飯の前にお祈りをしたり、小さいながらも信仰心は持っています。そういう人たち(洗礼を受けていない人)にとっても信仰心を分かち合うというか、信仰をしている人同士のコミュニケーションをとれたら、自分の中での信仰心も大きくなると思うし、そこでは先に述べた癒しが与えられると思います。そういう意味でも、このような試みはいいことだと思います。

 洗礼を受けた人たちだけの教会にするべきではなく私も含めて信じている人みんな、また教会に集った人すべてが入ってこれるような教会をそこに集う人たちで創っていけたらいいなあと思います。その試みは、試みであって完璧な形にはなっていないわけで、徐々に細かなことを調整していかなければならないと思います。今後の変化に期待したいと思います。


 3月(第2回目)の「主の食卓礼拝」

 
   
    
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