主の食卓礼拝 

1999 2/14 ご飯を食べる礼拝を試みました!!

 10月の様子(浪岡)
 
 3月の様子(浪岡)

 
お茶を飲む礼拝」(浪岡)



『「主の食卓礼拝」形式 淡路教会版 報告』

 大阪淡路教会牧師 岩橋常久さん

 この礼拝式を実行するにあたり、礼拝式のなかでの食事ですから、食事を礼拝行為としてどう位置づけるか、を考えなければなりませんでした。

 まず説教題は、「イエス様といっしょのお昼ごはん」としました。
 食物と飲み物、調理パンとジュース、コーラー類(飲み物調達は僕の役割でしたが、ミルクを買い忘れました)、それに総菜屋のオードブル。
 礼拝式前の予定では2回目の説教(子たちといっしょに聞く説教が第1回目)の後の讃美歌を歌っているあいだにテーブルに並べる予定でしたが、時間がとれないとのことで、礼拝式前からテーブルに置きました。このことが思いがけない、結果的に祝福になりました。

 会堂は横型で、50席の木製椅子があります。説教壇を要にして椅子は扇形にいつも並べます。今日は、その椅子のあいだに八つの長テーブルをおきました。形はやはり扇形です。そして説教壇とコミュニオンテーブル間に、イエス様のために椅子を一つ、みんなと向かい合うようにおきました。

 礼拝式が始まり、子たちと一緒の説教にはいり、僕は子たちの前に移動して今日の礼拝式はイエス様はみんなから嫌がれている人たちとといっしょにご飯を食べられ、友だちになられた(「教師の友」の今日の箇所)をするつもりで、みんなも今日、イエス様といっしょのご飯を食べるよ、だから、ほら、イエス様の席があるでしょう、とイエス様の席を指さしました。

 そしたら一年生の子が、イエス様のところには何にもおいてへんやんかー、・・・・・・・。そうです、みんなの前にはパンもジュースも置いていたのに、イエス様の席には何もありませんでした。目の前のことなのに、大人はわたしを含め、誰も気がつかなかったのです。

 イエス様にお食事をさしあげていなかったことをお詫びして、その子にお礼を言いながら、イエス様のために誰か食事を用意してください、自分のところのものでいいですから、と話し始めたら今度は、3歳になろうとする子が、大きな声で、あんなー、自分だけごはん食べたらあかんのやでー、ほんならな−、ちゃんと自分のを分けていっしょに食べるんやー、・・・・。僕の説教は、もう必要ありませんでした。
 その後の牧会祈祷は、子たちといっしょの礼拝式をやっていてよかったことの感謝、イエス様のことを忘れ、目に見えるお互い以外の人々のことを忘れていたことの悔い改めになりました。
 大阪は今日、今年最高の暑さで僕の目からも汗が流れました。これが、前述の祝福でした。

 説教は、主の食卓礼拝式という、礼拝式における食事が聖餐式とも違い(イエスをいただくのではないこと)、また礼拝式後の交わりの食事とも違うこと(宗教的・神学的に特別に意味がない)、あるいは神に供えられたものを信仰者たちが分けて食べるいわゆる「神饌(しんせん)」とも違うこと(キリスト教ではユダヤ教と異なり、神に食べ物を供える習慣がない=伝統的にはイエスがご自身を捧げられたことで十分)を話しました。

 この礼拝式では、イエス様といっしょに食事をいただくのであって、それの意味を語りました。そこで、まず、新共同訳では、「食べた、食べる」という言葉が607回でてくるが、それは同じく基本的要求である「眠る、眠った」が34回であるのに対して断然多いこと、そしてアダムとエバが禁断の実を「食べた」ことで神と人間、そして人間同士の関係が破綻したこと、エソウが長子の権利をヤコブの料理を「食べた」と引き替えたこと、そして詩編23編5編の「苦しめる者」を前にして食卓を用意してくださる神の保護(ここからドイツなどでの亡命者・難民保護の思想「アジール」、米国の教会でのサンクチュアリのことに少し触れ)、しかし、コリントでの食事は逆に富める者とそうでない人々の齟齬が生じるのが食卓(アガペー)の場面であったこと、そして、礼拝式における食事の意味は黙示録3章の、イエスとの終末的食事あるいは神の国での食事の先取りであると続けました。

 そして、そのイエスとの食事というのは、実はある面でやっかいで、マタイ25章でのようにイエスがご自身と苦難のなかにある小さい者と同一視されることにより、単に仲間内のイエスとの食事ではなく、アダムとエバが「食べて」以来の神と隣人関係破綻の回復の先取りであり、苦難のなかにある人々(詩編23編の現実化)、孤独のなかにある人々とともにあろうとする行為であること、そして最後に、だから、この食卓礼拝式は、教会が母体となった社会福祉法人の保育事業(特に「障害児」共同保育、「障害児・者」外出支援)や教会の高齢者配食(聖愛サービス)に深く関わる霊的意味を持つと、締めました。

 その後、食事に入り、それぞれのテーブルで交わりがあり、20分後には派遣の言葉、頌栄等々で12時に終わりました。

 今日は、こういう礼拝式をすると、某大学某学部の学生たちや、その大学の公開講座の受講生にも夏休みにはいる前に伝えてありましたので、4名が参加してくれました。全部で30名ほどがイエス様といっしょに昼食をとりました。

 いろいろ反省点をあげながら、今日の役員会では、10月にまたやろう、ということになりました。
 反省点というか、今後のためには、円卓にできないか、食事の時に証言が入らないだろうか、さらに、食事の間も、何か式文の朗読があったほうがいい、などの意見が出ました。
 4名のお客さんも、また呼んでください、といって帰りました。

 まあ、8名いる役員会で誰一人、もうやめた、がなく、積極的に今後のことに関して意見を出してくれたので、おおむね成功した、と思います。
 本当にみなさんのお祈りを感謝して、報告します。

 ちなみに、大阪淡路教会の礼拝式は、「厳かさ」を蹴っ飛ばし、祝い事ということに比重を置こうと願っています。また、主の祈りのスピードは超々亀さんです。これは、以前いた教会で知的しょうがいを持つ人が来るようになり、その人のスピードに合わせるようになったのを大阪淡路教会にも持ち込み、ここでは、子たちの祈りの早さに合わせて、ゆっくり、ゆっくり祈ります。
 て・・・・・ん・・・・・・に・・・・・・・ま・・・・・・・し・・・・・・・ま・・・・・・・・す、という感じです。



 
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