● 牧師報告 ● 

      コラムfrom週報

 このページでは、私の所属する浪岡伝道所の毎週の週報に
掲載される竹迫之牧師の短いコラムを、載せています。


 12月19日 浪岡伝道所週報より

●牧師報告●


 学期末処理の忙しい時期でありながら『レックス・プレイヤーズ』
という本を一気に読んでしまいました。アニメ番組『カウボーイ・ビバップ』のス タッフやキャストへのインタヴューをまとめたものです。

 クールでお洒落な作風
に触れてビデオを全巻集めるほどにハマっておりましたが、この本を読んで改め て「入魂の作品だったのだ」と感じました。
 「名作を作るぞ!」と力んでいた人
は一人もいません。それぞれがそれまで積み上げてきたものを土台に、作品を作 り上げる楽しさを分かち合いながら、しかし新たな飛躍を試みるための挑戦を持 ち寄ったのです。

 番組制作が全て終了した後で振り返って「この作品が自分の転
機になっていたということに気付いた」と語る人がほとんどでした。インタヴュー をまとめた作者は、それらの回想をひとまとめにして「無鉄砲な遊び人たち」と いう意味を込めて、本のタイトルを決定したのでした。

 読んでいて、集った全て
の人々がノリノリのスタンドプレイを披露しつつ、しかしそれがひとつの作品を 形成するための調和のとれた部品となっていく様子が手にとるようにわかり、大 変うらやましい思いに駆られました。
 「うらやましい」というのは妙な表現です
が、ずっと「このようにして教会を作りたい」という願いを持って来たことに気 付いたのです。わたしが「わたし」として生かされる教会を育てたいものです。

***

『カウボーイ・ビバップ』は、割合どのビデオ屋さんでも置いてあるみたいです。
けど、パッケージが地味であんまり目立たないかも。

内容は、「ルパン3世」風スペースオペラとでも言えば良いでしょうか。
全編ラテンジャズでバリバリ。しびれるぅ〜。

興味のある方、そして1時間半X9本のビデオを見る時間とお金のある方、今すぐ ビデオ屋へGO!であります。

 12月12日 浪岡伝道所週報より

●牧師報告●


 「わたしたちの文化は曲がり角に来ている」という印象を、このと
ころ強く持つようになりました。文化というのは「人との関係における表現のあ り方」を基礎とするものですが、とりわけわが国はこの50年の間に劇的な文化 の変化をいくつも体験してきたように思うのです。

 その変化の大きな牽引力とな
ったのは、電話とテレビの普及でしょう。どちらも、離れた所にいる人が、あた かも自分の目の前にいるかのような錯覚をわたしたちに与えつつ、対話をしたり 情報を集めたりということを可能にしました。
 それでいて、自分のプライバシー
の大部分は保護されている。仮に、こちらが素っ裸でいたとしても、電話の向こ う側にいる人々には伝わらない。相手を馬鹿にしたりしても、テレビの中にいる 人たちは気を悪くしたりはしない。プライベート領域を確保したまま対人関係が 可能になったのです。

 そして、目の前に他人がいれば否応なしに付き合わざるを
得ませんが、電話やテレビには「ある特定の関係を拒否する」という自由さえあ ります(電話を切ったりチャンネルを変えたり)。その自由を拡大するのが留守 番電話や携帯電話、ビデオデッキ、そしてパソコン通信やインターネットです。
 こうして身についた新しい対人関係の習慣は、実際に目の前にいる人に対する態 度にも、大きな変化をもたらしているように感じます。

 さて、「目に見えない相
手があたかも目の前に存在するかのようにして成立する関係」というのは、礼拝 におけるわたしたちと神との関係に似ているように思っています。わたしたちの 信仰のあり方だとか、あるいは伝道のあり方だとかは、この「曲がり角」の時代、 どのように変化していくのでしょうか。

 12月5日 浪岡伝道所週報より

●牧師報告●

 近頃、受け持ちの高校生たちから相談を持ちかけられることが増え てきました。ようやくわたしも信頼に足る人物と見てもらえるようになったので しょうか。
 どうしたら信用される教師になれるのかは未だに分かりませんが、彼
らの仲間として受け入れてもらえることは、とても大きな喜びであると感じてい ます。

 ここで「彼らの仲間として受け入れ」と書くのは、わたしに話をしに来る
高校生たちが、必ずしもわたしの指導や助言を期待しているわけではないと感じ られるからです。
 それは「彼らの悩みは本物ではない」という意味ではありませ
ん。彼らは真剣に悩んでおり、本当に不安を感じています。そして、突破口を求 めています。
 ですが、彼らの多くは「答えは自分で見つけるしかない」と気付い
ているのです。参考になりそうな意見はできる限り集めようとしますが、他者に よって提示される選択肢をそのまま受け入れるわけではありません。

 わたしには、
彼らが求めているのは「一緒に悩んでくれる仲間」であるように思えてならない のです。自分の悩みや不安を分かち合ってくれる存在を求めているように感じら れるのです。
 恐らくは、わたしの「解決能力の低さ」が、彼らにとっては心地よ
く感じられるのではないか、と思います。彼らとの対話を通して、「イエスが共 にいてくださる」という言葉の意味を考えさせられるように感じています。

***

 あれぇっ、今気付きましたけど、この文章ってなんだか「おれはイエスだぜよ」っ
て言ってるのに似てますね?

 グルTAKEの誕生か。

 11月21日 浪岡伝道所週報より

●牧師報告●

 ミイラ化した死体が発見され、しかし共にいたその故人の家族は
「本人は生きている」と言い張る。何やらおぞましい事件です。その渦中にある と目されるL・Sという団体は、元々は自己啓発セミナーのグループだ ったものがいつの間にか宗教団体化したカルトです。

 一昨年前、S・Yの
夏期ゼミナールというイベント(今年の夏は、わたしが講師を務めました)でA先生の講演が実施されましたが、その内容をインターネット・ホームペー ジに公開したところ、このL・Sの名前が含まれていたため、L・Sにより「カルト呼ばわりされて名誉を傷つけられた」として、A先生 と共にS・Yが訴えられるという出来事がありました。Yさんが窓口として大変なご苦労をされたのですが、その働きが幸いして、S・Yに関する請求は棄却されたとのことでした(A先生他数 人の方々に対する裁判は現在も進行中)。

 今回の事件を通じて、改めてこの団体
のおぞましさを噛み締めたのですが、今後もますます同様の事件が頻発するに違 いないと考えさせられてもいます。このような団体が続々と生まれてくるわたし たちの社会のあり方を、真剣に問い直さなければなりません。

 11月7日 浪岡伝道所週報より

●牧師報告●

 母方の祖母が先週の月曜日に他界しました。わたしたちの結婚式に
は出席してくれた祖母でしたが、その年の内に入院して寝たきりとなり、以後7 年間入院生活が続いていました。葬儀に出席するために、火曜日の義塾高校での 授業を終えてすぐに秋田へ向かいました。数年ぶりの対面でしたが、棺に納めら れた祖母は、本当に小さくて、頭も真っ白になっていました(火葬された祖母の お骨は、骨粗しょう症のため、ほとんど残りませんでした)。

何かと苦労の多かった生涯であり、その中をしぶとく生き抜いてきた祖母は、時 に激しい性格で周囲の人々を困らせることがあったそうで、わたしにとってはほ がらかで優しい祖母でありましたから、伝え聞く姿とのギャップに戸惑ったもの です。そして、苦労の末に狷獪な性格になったのだとすれば痛ましいことであり、 その生涯に込められた「意味」を問わずにはおれませんでした。

今回の葬儀のために、孫一同が久々に全員顔を揃えました。結婚した者、近々子 どもが生まれる者、離婚した者、リストラ解雇された者などがおり、同じひとり の女性を祖母としてルーツに持つわたしたちが、実に多様な人生を歩んでいる様 子に、改めて驚きを感じました。それほど大成している者はおりませんが、それ ぞれの生涯を忠実に生きることが、祖母の生涯をも完成させるのに違いない、と 信じたく思っています。


10月31日 浪岡伝道所週報より


●牧師報告●

 カンボジアでは、寝てもさめても英会話によるコミュニケーションが最大の課題 となりました。簡単な受け答えでさえ、予めどんな対話が交わされるかを予測し、 辞書を片手に何通りかの作文を用意しなければ対応できませんでした。そしてし ばしば、予測を超えた会話が振られるのです! まして様々な「学び」に関して は、大筋を押さえるのもままならず、ほとんどお手上げ状態でした。

日本にいるわたしは、交わされる言葉の細かい部分から、相手の言おうとしてい ることを汲み取るのが得意です。しかし、不慣れな英会話では、聞くことも語る ことも、細かい部分が良くわからないまま進んで行くのです。まるで、猛獣を相 手に武器なしで立ち向かうような気分でした。

しかし、クメール=ルージュによる大虐殺の現場や、今もなお未解決の地雷問題の 現場を見て歩く時、そこから受けた衝撃は、参加者一同の言葉を奪いました。圧 倒的な暴力の歴史と貧困の事実が、わたしたちを打ちのめしたのです。何人もの 赤ん坊が頭を叩きつけられて殺されたという巨木の前で礼拝したわたしたちは、 それぞれの国の言葉で、殺された人々の安息と、今なお苦悩のうちにあるカンボ ジアの人々のために祈りました。

彼らの苦悩の意味を語る言葉は、わたしたちにはありません。ただ、彼らの呻き を聴き、祈りを受け継ぐことが求められているのだ、と思うのです。


TAKEこと竹迫 之です。無事、帰国しました。


帰途の経由地であったバンコクの空港で荷物が行方不明になるというアクシデン トがあり、いくつかのお土産と現地で入手した資料の大部分を紛失しました。今 もなお探してもらっていますが、現在は連絡待ちというところです。(→後日、無事発見されました)

その他は、いたって元気であります。

今回の旅行の詳しい報告は、幸い手荷物に入れていて紛失を免れたデジタルカメ ラの写真データ・ノートのメモ・プノンペンで出会った人々から頂いた名刺など により、かなりの部分を補うことができると思います。それらについては、いず れホームページに掲載させていただきます。

とりあえずひとつだけ、重要な部分を報告しておきます。

今回わたしたち(WSCF〔AP〕に加盟する各SCM代表者)が見たのは、現 在までその影響を強く残す「暴力の歴史」であり、また貧困によってあちこちが 分断されているカンボジアの人々の姿でありました。

わたしはかつて破壊的カルトのメンバーであり、その影響を現在でもひきずりな がら牧師をしていますが、扱う課題や自分自身が抱える問題の大きさに対して自 分の持っている能力の低さ・築こうと躍起になっている諸成果の小ささに投げや りな気分を抱えつつありました。ですから、今回カンボジアにおいて目撃した 諸事実によって、より一層の無力感を強く抱く結果となりました。

しかしそれは、出発前から予測していた結果ではありました。にもかかわらず、 今回のカンボジア行きを決断したのは、そうした巨大な課題に立ち向かおうとす る人々が存在することを知らされていたからです。わたしは、そうした人々の勇 気と希望に学びたい、と願っており、それはかなりの部分達成できたという手ご たえがあります。

それにもまして、わたしにはひとつの有力な確信が与えられました。

わたしが(なりゆきで)取り組むことになったわたし自身の戦いの目指すものは、 突き詰めて言うならば「暴力と貧困への抵抗」に他ならない、ということであり、 またわたしたちに要求されている働きも、同じく「暴力と貧困への抵抗」となる よう招かれ求められている、ということです。

カンボジアにおいて展開されている対人地雷への対策やクメール=ルージュによる 犯罪の後始末は、不断に努力されなければならない「暴力」への抵抗ですし、地 雷被害者やストリート=チルドレンやセックス=ワーカーたちへの支援の取り組み は、最も緊急度の高い「貧困」への抵抗です。それらカンボジアの抱える諸問題 への取り組みに、物理的な支援や事実としての協力が、早急に必要であることは 言うまでもありません。わたしはそれを、日本でも運動化する方法がないか、ま た現に取り組んでおられる人々の働きにどうやって連帯するか、を考え始めてい ます。

ですが、テロや犯罪ばかりが「暴力」ではなく、経済的欠乏だけが「貧困」では ありません。貧富の差は、既に「暴力」であり、暴力を可能とする社会は、やは り「貧困」と言うべきです。積み上げられた夥しい数の人骨やストリート =チル ドレンたちの眼差しが無言のうちに証言する「暴力と貧困」は、わたしたちの日 本における身近な生活においても溢れかえっています。「カンボジアが緊急・重 大」なのではなく、「わたしたちの世界全体が緊急・重大」なことになっている のです。わたしはかえってそのことを、剥き出しにされたカンボジアの「暴力と 貧困」の現実から示されたように感じています。

わたしたちが関わっている諸運動の目標を「暴力と貧困への抵抗」として明確化 する時、仮にそれが直接カンボジアの現実に立ち向かう援助に結びつかないまま だしても、わたしたちはより深い次元でカンボジアの人々と連帯することが可能 になるでしょう。わたしたちがカンボジアの現実に対してどんなに無力であって も、また日本におけるわたしたちの働きがどんなに小さなものであっても、わた したちの働きが「暴力と貧困への抵抗」である限り、それはカンボジアの人々と の連帯であり得るでしょう。そして、その連帯は、わたしたちとカンボジアの人 々との関係だけにとどまることはないでしょう。

注意しなければならないのは、こうした理解が、わたしたちの慰めと勇気の源に なり得るのと同時に、カンボジアの現状を肯定する(もしくは黙認する)勢力に 荷担してしまう危険も孕んでいる点です。それを避けるためにも、わたしはカン ボジアに対する具体的な関わりを急いで組織化するべきであろう、と考えていま す。そしてより一層、これまでわたしたちが取り組んできた・そして今すぐ取り 組むべき諸課題への対処を加速させる必要がある、と考えます。

より簡潔に言えば、わたしたち自身が誰一人の例外なく「暴力と貧困への抵抗」 に立ちあがる必要がある、ということです。働きの場は、わたしたちの身近な所 に、ほぼ無限大に広がっています。


今回の旅行のために、直接・間接の励ましを下さった全ての方々に感謝します。
また、直接にカンパを下さった5人の方々、そしてわたしの不在をカバーするた
めに働いてくださった皆さんに感謝します。追って、それぞれ個別の方々にお礼 申し上げますが、今はこの場をお借りします。

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主よ、わたしたちの働きが、あなたの御心にかなうものとして用いられますよう に、恵みと導きを豊かにお与え下さい。また、示された道に踏み出して行く勇気 が与えられますように。
「最も小さい者のひとりにしたのは、わたしにしてくれたことなのである」と教 えてくださった審き主、イエスの名によって祈ります。
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 (未読メール148通に翻弄される)TAKE


         
          
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