インドネシア:津波が降らせた死の灰

2005年6月10日
World War 4 Report 原文


2004年12月26日、インド洋を襲った巨大津波の直後、ジョージ・W・ブッシュはテキサスの安全な農場から、けちくさい3500万ドルの援助を被災国に提供すると発表した。ブッシュが援助にためらいを示したことは広く批判され、ある国連の職員は米国を「けちんぼ」と呼んだ。これらにより、ブッシュは、援助額を約10億ドルに引き上げた。

米軍は、そのようなためらいを示さなかった。ただちに軍自身の予算で集めた支援を積んだ船を派遣した。けれども、その過程で、ペンタゴンは、一応助けているとしているまさにその相手の人々にとって長期的には害をなすような機会をたくさん手に入れた。数日のうちに、当初ペルシャ湾に向かう命令を受けていた海軍の攻撃部隊がグアムで人道援助品を積み、津波救援任務に差し向けられた。米軍はすぐに行動を起こし、この災害で最大の被害を受けた地域であるアチェ海岸沖に停泊した。

救援ミッションは、陸上基地ではなく「海上基地」を通して作戦を展開する機会を提供した。この戦略は、地上基地と同盟軍の制約なしに米軍が作戦を展開することができるようにデザインされている。アチェでの活動は、主として、災害により分断された村に救援物資をヘリで運ぶことに限られていた。米軍兵士は地上でほとんど過ごさなかった。インドネシアはアチェにあまりに多くの外国の目があることを心配していた。危機にもかかわらず、10年にわたる対ゲリラ戦争を続けていたのである。さらに、民族主義的なインドネシア人は、米軍兵士をインドネシアの領土のどこにであれ展開させることに消極的だった。

それにもかかわらず、ペンタゴンの指導陣は、この機会を捉え、インドネシア軍(Tenara Nasional Indonesia: インドネシア国軍の略でTNIと呼ばれる)の士官との関係再構築に乗り出した。1990年代前半以来、ペンタゴンとTNIの接触は制限されていた。当時、米国議会が、インドネシア軍が占領する東チモールでの重大な人権侵害を理由に、インドネシアへの米軍支援を制限し始めていたからである。ペンタゴンは、今回の救援活動を、残された制約を撤廃して軍事関係を完全に回復する新たな口実になるものと見た。

米軍空軍は、インドネシアの古びたC−130軍事輸送機数台の修復のために修理工を送り込んだ。コリン・パウエル国務長官は1月6日、部品の提供を発表する際、「これをちゃんとすれば、インドネシア政府は航空機を意図した目的で使うだろう・・・・・・GAMを追うという意図しない目的には使わないだろう」と述べた。GAMはGarakan Aceh Merdekaの略で自由アチェ運動を指し、1970年代以来、インドネシアからの独立を求めるゲリラ戦争を行なっている。

インドネシア政府関係者は、米国による部品の供給を米国政策の大きな展開と宣伝したが、インドネシアは少なくとも2002年以来C−130の部品を購入することを認められている。部品を購入せずに、インドネシアは繰り返し、部品が手に入らないと述べて、米国に武器売却に関するすべての制限を撤廃させようとしてきた。同じ目的を共有するブッシュ政権は、インドネシアのこの偽った宣伝をおおやけに修正しようとはほとんどしなかった。共同救援作戦を通して、当時の国防副長官ポール・ウォルフォウィッツ率いる上級米国政府関係者は、インドネシア政府と軍は救援作戦に全面的に協力しているが、軍事関係が正常だったならば、この作戦はもっと円滑に行なえただろうと付け加えてきた。必要なのは、国際軍事教育訓練(IMET)プログラムの再開であると彼らは主張した。

ウォルフォウィッツ・インドネシア・IMET

議会がインドネシアへのIMETを制限する決議を最初に採択したのは、米国が提供したM−16ライフルを振り回すインドネシア軍兵士たちが、1991年11月12日、ディリのサンタクルス墓地で抗議する東ティモール人たちを虐殺したあとだった。インドネシアに対する軍事援助の最初の削減だった。1990年を通して、議会とクリントン政権の決定により、インドネシアへのほかの軍事援助も制限されていった。人権が武器売却に影響した稀な例だった。90年代、インドネシアへの軍事援助制限が強化される中、元駐インドネシア大使ウォルフォウィッツは、この制限を批判する陣頭に立ち、インドネシア政府を擁護し、強い国際的な圧力への対応としてわずかな下級兵士たちを処罰するインドネシアの行動を大げさに賞賛した。

1999年9月、東チモールの人々が圧倒的に独立に投票したのち、TNIとその手先の民兵が東チモールを破壊する中、米国はインドネシアとのすべての軍事関係を停止した。そのとき、議会は、それらの制限の一部を法律化した。毎年更新されるものとして、IMETの禁止と致死的な武器売却の禁止があった。これらの禁止を解除する条件は様々だったが、おおむね、インドネシア軍の予算の透明性と人権侵害の責任明確化であった。東チモールにおいて犯された人道に対する罪の責任を負う上級インドネシア軍将校たちは全員、しかるべき告発を逃れたのである。米国議会の制限のもとで、IMETは、インドネシアが条件を満たしていると国務省が「保証」すれば再開できることになっていた。

それから、ジョージ・W・ブッシュが大統領になって、ウォルフォウィッツはペンタゴンに指名された。彼の目的の一つは、インドネシアとの軍事関係「正常化」だった。ペンタゴンは、2001年9月11日の攻撃ののち、その扉が開かれたとみて、最大のイスラム教徒人口を擁するインドネシアは対テロ戦争の重要な前線であり、地域のテロと戦うためにインドネシア軍が必要だと論じた。

けれども、基本的な定義にもとづくならば、テロ行為を行なっているのはTNI自身である。政治的目的で民間人に暴力を振るうのは、数十年にわたりインドネシア軍の行動様式だった。カリフォルニア州モントレーの米国海軍大学院による2002年の研究は、インドネシア軍が「テロリズムの主要な進行役となっている」と指摘する。それは、「軍が戦闘的なムスリム民兵を・・・・・・組織し、訓練し、資金を与えている」ためである。津波が起きたのち、インドネシア軍はそうした民兵の一部をアチェに送り込む手助けをした。見かけ上は、救援活動の手助けとして、けれども、外国人を脅したり、自分たちの作戦に対する非難をかわすために、お互いに殺し合う紛争の印象を与えるために使う手駒として。いずれも、東チモールをはじめとする各地で用いられた実際の戦略である。けれども、米国議会におけるペンタゴンのお仲間たちは、そうした批判を喜んで無視し、2001年9月11日以後のペンタゴンの対テロ訓練プログラムを無制限にインドネシア軍士官に向けて開放することを承認した。IMETと武器売却は禁止されたままだったが。

パプア殺害

2002年8月、西パプアの、米国多国籍企業フリーポート・マクモランが開発権を有している(そしてTNI部隊の統制下にある)土地で、2人の米国人と1人のインドネシア人の計3人の教師が殺されたあと、米国議会は、IMET禁止の完全解除をしぶった。米国議会は、この犯罪を解決するためにインドネシアが協力することが保証されるという条件のもとでIMET禁止を解除する可能性があると述べた。今年2月26日、コンドリーザ・ライス国務長官は、インドネシアがFBIと協力していると保証し、それゆえ全面的にIMETを受ける権利があると述べた。この保証は、国務省の年次人権報告が発表される数日前に行われたが、年次人権報告では、2004年にインドネシアの「治安部隊兵士たちが民間人を殺害し、拷問し、強姦し、殴打し、恣意的に拘留している」と述べていた。

この保証における主たる根拠は、2004年6月、米国大陪審(米国市民が海外で殺害されたときに司法管轄を有するという法的主張のもとでの)によるこの殺害の起訴がインドネシア人アントニウス・ワマンに対してなされたというものだった。FBIは、調査は継続中だと述べたが、殺害にTNIが関与していることを示す証拠を基本的に無視し、かわりに現地の独立派ゲリラである自由パプア運動(OPM:Organisesi Papua Merdeka)のせいにした。けれども、地元の人権調査団によると、ワマンはインドネシア軍の悪名高い特殊部隊コパススのビジネス・パートナーとしてインドネシア軍と太いパイプでつながっている。TNIは資金の多くを営利企業から得ており、ワマンはコパススとの共同経営で、木材と金を取り引きしている。2004年8月、ワマンはオーストラリアのテレビに、攻撃のための弾薬をインドネシア軍の兵士たちから受け取ったと述べている。彼はまた、この軍士官たちは、彼がフリポート社が使用権を持つ土地で攻撃を行おうとしていることを知っていたとも語った。TNIが攻撃を行うために手先を使うのは日常的であり、これは自分たちの役割を隠蔽しようとしてのことである。さらに、起訴状が提出されてからの最初の6カ月間、インドネシア警察は米国の調査官に新たな情報を提供せず、またワマンはインドネシアで起訴も逮捕もされていない。それにもかかわらず、インドネシアはこの事件について米国と協力していると主張しているのである。進捗が見られないため、人権団体は、国務省がインドネシアの協力について保証したことは誤っており欺きであると述べている。

IMETの再開を発表するにあたって、国務省は、「国際軍事教育訓練プログラムをインドネシアとの間で全面的に再開することで、インドネシアで進められている民主化プロセスが強化されるだろう」と述べている。インドネシアで最も非民主的な組織を支援することでどうしてそうなるのかは不可解である。インドネシアの「改革派」防衛相ジュウォノ・スダルソノさえ、2005年2月7日、ニューヨーク・タイムズ紙に、軍は「実際の権力を保持しており」、「政治的観点からは、軍が今でもインドネシアの支柱である」と述べている。2004年6月23日、インドネシアの駐ロンドン大使だったスダルソノはジャカルタ・ポスト紙に、「文民にもとづく政党政治の6年間は、何ら実質的な「文民優位」を達成しなかった。「文民統制」はなおさらである」と述べていた。

アチェの反抗

スマトラ島北端のアチェは、アジアで最も長く続く戦争の現場である。30年にわたって、GAMがインドネシアからの独立を求めて闘ってきた。2002年12月9日、国際的な仲介のもとでインドネシアとGAMが停戦合意に署名したが、翌年5月19日、インドネシアの大統領メガワティ・スカルノプトリがアチェに戒厳令を宣言して和平合意は崩壊した。その数時間後、インドネシアは、1975年の東チモール侵略以来最大の軍事作戦を開始した。一年後、アチェの位置づけは「文民緊急事態」へと変更されたが、TNIが支配権を握り続け、現地の現実はかわっていない。ハーキュリーズC−130軍事輸送機、OV−10ブロンコ戦闘爆撃機、F−16戦闘機をはじめとする米国製の軍事装備が、すべて、アチェでの軍事作戦に用いられてきた。

アチェでは、インドネシアからの独立は幅広く支持されており、増大している。インドネシア治安部隊が残虐であり、また、アチェが有する膨大な天然資源の正当な分配を人々が望んでいるためである。一般にTNIは平均的なアチェ人は独立派でゲリラを支持していると考えている。恐ろしく腐敗したTNIにとって、津波は、自らの支配を示す機会であり、また金儲けの機会でもある----援助を着服し、検問所で金をせびりとり、などなど。

自然災害にもかかわらず、インドネシアは文民非常事態を継続し、攻撃作戦を続けた。津波の前、インドネシアはアチェへの外国人の立ち入りを厳しく制限していた。津波災害後も、外国の援助団体のアチェ入りを数日にわたって遅らせた。インドネシア政府は援助団体のほとんどに対して、立ち去るべき期限を定める。これまでのところは、インドネシア政府はそうした脅しを撤回してきたが、3月には、人々は「難民」ではなく「罹災民」に過ぎないとして、国連の難民機関を強制的に撤退させている。

北朝鮮で働いてきたドイツ人医師ノルベルト・フォレルツェンは、ウォールストリート・ジャーナル紙の論説でアチェにおける強い弾圧の雰囲気を次のように書いている:「私は北朝鮮に再び戻ったかのように感じた。軍の道路封鎖と検問、あらゆる道角の重武装の警察戦車、至る所にいる何千人もの兵士。これらはすべて、私がスターリン主義国で過ごした18カ月を思い起こさせた」。

TNIによる人道支援の悪用----ちゃんとした身分証明がなかったり、独立を支持しているとされる民間人に食料をはじめとする救援物資を提供しないなど----は日常的に伝えられている。さらに、TNIが人道支援を配布しようとしている地元組織やボランティアに対して障害を作りだしていることも報じられている。インドネシア政府は津波災害以来、ゲリラを数百人殺したと発表している。人権団体は、殺された人のほとんどは、非武装の民間人であると述べている。GAMは、津波後双方とも停戦を宣言したにもかかわらず、軍事活動はほとんどやんでいないと述べている。

インドネシア軍はまた、表向き援助活動を支援するためとして、原理主義者イスラム民兵たちをアチェに送り込んだ。これらのグループ、イスラム防衛戦線やラクサール・ムジャヒディン(インドネシア・ムジャヒディン評議会の軍事部門)は、軍に反対する人々を攻撃し、外国人を脅し、紛争を悪化させてきた歴史を持っている。たとえば、インドネシアのモルッカ諸島でのキリスト教徒とイスラム教との宗教間対立などである。

教訓

アチェ人のほとんどは、外国の援助を文民のものであれ軍によるものであれ歓迎した。多くの人々が、外からの人々のほうが、まったく信用できない抑圧的なインドネシア政府や軍よりもはるかに効率的であり、腐敗していないと考えている。人々はまた、外部の人々がいることで、TNIによる最悪の侵害が抑制され、アチェ地方での残忍な弾圧に光が当てられることを期待している。

災害直後にアチェ入りを許された米国やオーストラリアをはじめとする諸国の軍のほとんどは、3月の大規模な余震のときに短期間戻った以外は、立ち去った。残されているのは、TNIが元のビジネスに全面復帰するときを待つ中で進められている、誰が再建に関わるか、外部の援助団体はいつまで留まることを認められるかについての議論である。

アチェが災害支援段階から再建段階に移行する中、国際社会が約束した大規模な支援金と復興計画を誰が支配するかに関する争いが始まっている。これをモニターしているアチェ人とインドネシア人は、直接インドネシア政府に提供される金はすべて盗まれることを全面的に予期している。TNIが儲かる再建計画から除外されるとも考えにくい。歴史が告げるところによると、政府はそうしないと約束しているが、援助の多くが吸い取られることになるだろう。「インドネシアでは、すべての災害は汚職で彩られ、大量の援助が消え去った」と、汚職を監視してきたあるアチェ人は豪のクーリエ・メール紙に語っている。

米国海軍は、今回の介入を、アチェで災害に苦しむ人々を助けるための作戦の成功をはるかに越えるものとして見ている。アチェ沿岸にすぐさまやってきた派遣攻撃隊の司令官クリストファー・エイムス海軍小将は、2月7日、ニューヨーカー誌に、「我々は数年前からこの海上基地の考えを話し合ってきた。許可を得ずに世界中どこででも実力を行使できるものだ」と述べている。彼はまた、「ここで我々がやっていることが、そのすばらしさを示している」と付け加えている。

ブッシュ政権にとって、インドネシアへの軍事援助再開キャンペーンは、この援助活動により大きな追い風を得ることになった。再関与を主張するめまぐるしい議論に、人道作戦においてTNIを支援する必要が付け加えられた。この主張は、インドネシアの中で、頻繁に起こる自然災害----洪水、森林火災、地震、火山の噴火----に対してどれだけTNIに頼っているのか疑問視する声がある中でなされているのである。インドネシアの人民福祉調整相は最近、「軍の邪魔をしないために、米国の州兵のように、軍隊式訓練を受けた、即時展開可能なチーム」の創設により代替の対応力を創生する計画を発表した。

新たな和平交渉が行われているとはいえ、アチェ人やインドネシアのほかの人々は、米国の軍事援助がもたらす長期的影響を後悔することになるかも知れない。軍事訓練再開とほかの接触の拡大は、インドネシア軍をさらに傲慢にし、人々の苦しみを増大させるだけとなりうる。

情報:

アチェとインドネシアについてのさらなる情報は、米国東チモール行動ネットワーク(ETAN):+1-718-596-7668、etan@etan.org、www.etan.orgを参照。インドネシア軍への米国の援助に反対している。アチェの状況をめぐるニュースと分析は、Aceh Eye (www.acheh-eye.orgとAcehKita (www.acehkita.com/en/を参照。インドネシアの人権全般については、TAPOL (tapol.gn.apc.orgとIndonesia Alert!(href="http://www.indonesiaalert.org">www.indonesiaalert.orgを参照。

日本では、信頼できる情報が、インドネシア民主化支援ネットワークおよび日本インドネシアNGOネットワークにあります。


東チモール人が独立に投票したというのは、インドネシアからの独立ではありません。インドネシアの不法占領からの解放と、500年に及ぶポルトガルの植民地支配からの主権の回復です。

「地域のテロと戦うためにインドネシア軍が必要だ」(ウォルフォウィッツ)。

1975年に侵略し25年にわたる不法占領を続けていた東チモールで、虐殺・処刑・殺害・拷問・強姦など多大なテロ行為を続けてきたインドネシア軍。アチェで、西パプアで、インドネシアの各地で殺害と拷問・強姦・強請や強制失踪などを大規模に重ねてきたインドネシア軍。このインドネシア軍が「地域のテロと戦うために必要だ」というおぞましいまでに厚顔な発言。

「インドネシア政府は津波災害以来、ゲリラを数百人殺したと発表している。人権団体は、殺された人のほとんどは、非武装の民間人であると述べている」。ファルージャで米軍が行なってきた民間人の大量殺害と同じような事態が起きています。両者の関係が全面的に再開されたというのは示唆的です。

「インドネシア民主化支援ネットワーク」の佐伯奈津子氏が、アチェについての優れた本を出版しましたので、ご案内致します。
 佐伯奈津子著
 『アチェの声――戦争・日常・津波』
 コモンズ、本体1800円+税
 詳しくはこちらをご覧下さい。

  益岡賢 2005年7月8日

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