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伊藤孝司 監督作品

   銀のスッカラ




新聞社を退職してからは、
子や孫たちに囲まれて穏やかに暮す尹昌宇(ユン・チャンウ)さん。
その尹さんは、まだ14歳だった1942年に
興南(フンナム)の巨大な肥料工場へ連行された。
亜硫酸ガスに満ちた工場で過酷な労働を強いられ、全身に大火傷を負う。
その恨みに満ちた工場を訪ねるため、尹さんは平壌市内のアパートを出発した。
63年前と同じように、母の愛がこもった「銀のスッカラ」を持って――。


*スッカラとは、朝鮮民族が使ってきた伝統的デザインの匙のこと 


興南肥料工場の尹昌宇さん 撮影・伊藤孝司 2005


予告編 2分15秒 

You Tube


ビデオアクト上映会報告 「銀のスッカラ」上映会



伊藤孝司監督からのメッセージ

 

ドキュメンタリー映画「銀のスッカラ」が完成しました。「スッカラ」とは朝鮮民族が使う伝統的デザインの匙のことです。この作品は、朝鮮民主主義人民共和国(朝鮮)で暮らす植民地支配被害者を紹介するシリーズの第2作目です。

  近年、大韓民国の植民地被害者を取り上げたドキュメンタリー映画が次々と発表されています。ですが朝鮮で暮らす被害者たちの体験はごくわずかしか明らかになっておらず、映画もありません。そのため、日本軍性奴隷被害者を取り上げた前作の「アリラン峠を越えて」に続き、朝鮮内の軍需工場へ少年として強制連行された被害者を主人公に「銀のスッカラ」を制作しました。撮影は平壌(ピョンヤン)の被害者宅、軍需工場のあった興南(フンナム)とその隣の咸興(ハムフン)で敢行。撮影した約40時間のテープから45分の作品をつくりました。

 朝鮮による核実験の実施以降、朝鮮と米国・日本などとの関係は過去最悪になり、一触即発の危険な状態にあります。ですが国家関係はそうであっても、朝鮮で暮らす2400万のことを私たちは考えるべきです。植民地支配で被害を受けた人たちは、高齢化し次々と亡くなっています。日本政府は、朝鮮への過去の清算が済んでいないことを認めているものの、被害者たちへの謝罪と補償は行っていません。

 日朝国交正常化がいつになるのかまったく見当もつきませんが、過去の清算を求め続けている朝鮮の被害者たちの存在を忘れてはいけないでしょう。また、日本政府が過去の清算に積極的な取り組みをするよう政策転換すれば、日朝関係は大きく改善されるはずです。そのためにも、こうした状況だからこそ、より多くの方に「銀のスッカラ」をご覧いただきたいと希望しています。

DVD販売価格 [個人] 5000円+税  [団体・ライブラリー] 15000円+税

発売:風媒社





         伊藤孝司 監督作品



アリラン峠を越えて


Crossing the Arirang Ridge


予告編 (3分)

You Tube (日本語)
You Tube (ENGLISH)


病院で体験を語る郭金女さん撮影・伊藤孝司 2003

<作品「アリラン峠を越えて」の解説>

日本の侵略で被害を受けた人々を、伊藤孝司は長年にわたってアジア諸国で取材してきた。日本軍性奴隷被害者(いわゆる「従軍慰安婦」)の郭金女(クァク・クムニョ)さんとは平壌(ピョンヤン)で何度も会っている。郭さんの日常生活のようすを見たいと思った伊藤は、端川(タンチョン)市へ列車で向かった。郭さんは急病によって自宅にはいなかった。だが、家族や近所の人たちなどの話から、被害者としての苦悩を抱えながらも明るく懸命に生きてきた朝鮮女性の姿を知った。郭さんとどうしても会いたい伊藤は、車でいくつもの峠を越えて咸興(ハムフン)の病院へと向かった。



伊藤孝司監督からのメッセージ
 
 

朝鮮民主主義人民共和国(DPRK)で暮らす元「従軍慰安婦」のお婆さんについてのドキュメンタリー作品の制作を計画したのは2002年5月でした。

私が今までにDPRKで取材した被害女性13人の中で誰を取り上げるか検討したところ、その内の5人はすでに亡くなっており、他の人たちもほとんどが動けない状態でした。そうした中で、唯一といっても良いほど元気だったのが郭金女(クァク・クムニョ)さんでした。

私は撮影のため、訪朝の準備を進めていました。ところが出発直前になって、DPRK政府が外国からの入国者に対してSARS予防隔離を実施する、という連絡が来たのです。空港へ向かう直前まで迷いました。ですが、郭さんの健康状態がかなり悪いと聞いたため行く決心をしました。

2003年4月24日、平壌(ピョンヤン)空港へ到着するとそのまま地方都市のホテルへ送られ、10日間にわたって隔離を受けたのです。ですがその期間中に、関係機関に対し次々と協力要請を行ったため、作品のための撮影は後に順調に進む結果となりました。隔離が終わった日の列車で、郭さんに会いに行きました。

当初の計画では、郭さんの自宅がある端川(タンチョン)市ですべての撮影をするつもりでした。ところが行って見ると、郭さんは咸興(ハムフン)市の病院へ移っていたのです。病名は膀胱ガンで、出血がひどくなったというのです。郭さんはいないものの、家族たちからは食事をもてなされたり歌を聞かせてもらったりと大歓迎を受けました。また地元の行政機関は、戦後は日本人が入ったことのないという地方都市での自由な撮影を許可してくれました。

入院中の郭さんは思ったよりも元気で、声が出ないと言いながらもいくつもの歌を聞かせてくれました。結局、この「アリラン峠を越えて」撮影のためのDPRK滞在は22日間となりました。

現在、日朝関係は厳しい状況に置かれ、しかも日本人にとって非常に重たいテーマを取り上げた作品です。ですが、郭金女さんの明るい性格や家族たちの遠来の客への心遣いが強く伝わり、DPRKで暮らす庶民たちの生き生きとした姿を描くことが出来たと思っています。そして、かつての戦争の記憶が風化する中で、決して忘れてはならない歴史の一コマを描くことが出来ました。終戦60年の年にふさわしい作品だと自負しています。



紹介記事

『自然と人間』2005年11月号
   
「がんばれ! 草の根で広がる映画たち」

旧日本軍性奴隷(慰安婦)の女性たちの取材を続けてきた伊藤孝司さんが、03年朝鮮民主主義人民共和国に郭金女さんを訪ねた記録。いくつもの峠(苦難)を越えてきた元慰安婦の姿はもとより、遠方からの客を精一杯もてなす親族の姿も印象的。マスメディアが決して報道しない北朝鮮の静かな風景なども垣間見ることができる。


『週刊金曜日』2004年4月16日号
 
  「ビデオと過ごす」

撮影・監督  伊藤孝司    編集 小林アツシ・土屋トカチ    制作 「アリラン峠を越えて」制作上映委員会
カラー/45分    2003年9月    英語版・朝鮮語版あり(PAL・SECAM方式での注文にも対応)

 日本軍によって性奴隷(「慰安婦」)にされた女性たちの訃報が次々と届く。そうしたなかで、日本による植民地支配や侵略戦争で被害を受けた人々の体験を記録してきた伊藤孝司は、朝鮮民主主義人民共和国で暮す被害女性のドキュメント映画の制作を計画。もっとも健康そうな郭金女さんを撮影することにした。
 2003年4月に訪朝。すると、あれほど元気だった郭さんは、癌の悪化で入院していた。計画では、郭さんが暮らす端川市だけでの撮影だったが、入院している病院がある咸興市にも行くことにした。その結果、滞在は22日間にもなった。
 郭さんが連行されたのは中国東北地方。「軍慰安所」で過酷な日々を送る。決死の脱出をして、朝鮮人医師に運良くかくまわれた。だが、結婚した朝鮮人技術者を日本軍は連行して殺害。解放後、夫を捜しているうちに軍事境界線より南の故郷へ戻れなくなった。そして、再婚した相手は朝鮮戦争で米軍の爆撃によって死亡。このように郭さんは、いくつもの険しい「アリラン峠」を越えてきた。
 明るい性格で歌が上手な郭さんは、家族や地域の人たちから慕われている。この作品は、郭さんが日本から受けた怒りと悲しみを、今の穏やかな暮しを通して描こうとしている。




海外映画祭での上映

     ●2004年9月12〜20日 朝鮮民主主義人民共和国 「平壌映画祭典」
    ●2004年6月26日〜7月2日 クロアチア 「第9回スプリット映画祭」
    ●2004年5月11〜15日 スロヴェニア 「Politically Incorrect Film Festival」

DVD販売価格 [個人] 5000円+税  [団体・ライブラリー] 15000円+税

英語版・朝鮮語版も収録しています


発売:風媒社