『最高裁長官殺人事件』

第三章 極秘計画《すばる》

「影森さんですね」

 北京空港の到着ロビーで、いきなり横合いから声をかけられた。振り向くと、ゴマ塩頭で目つきの鋭い老人が立っている。

「はい。影森智樹です」

「やっぱり。……自分が千歳弥輔です」

「これはどうも。わざわざお迎えを」

「さあ、こちらへどうぞ。お荷物は」

「いえ。これだけです」智樹は手に持ったスポーツバッグを示す。「旅は身軽にするのが主義でして……」

「それは結構です」

 千歳弥輔はすぐに歩き出す。動作がキビキビしている。足早に先に立って人波をぬう。待たせてあった車に乗り込む。要所要所で背後に視線を走らす。車を降りてからも、細い路地を何本か抜けて別の通りに出る。尾行をまく注意だろう。

 着いたところは、厚い石塀に囲まれ、中庭の周囲にギッシリと彫刻の飾りを施した建物が立ち並ぶ形式の古風な豪邸だった。看板も名札もかかっていない。通された真ん中の広間は、事務所として使用されている雰囲気で、大きなテーブルの上に書類が並べてあった。

「用心に越したことはありませんから、ここで我慢してください。昔の金持ちの屋敷のままですから、自分らには広すぎてガランとしていますが……」

 そういいながら千歳がお茶を入れてくれる。今は気楽な態度であった。

 智樹の気もゆるむ。

「なつかしいです。ハルビンや張家口でもこんな家に住んでいました」

「そうでしょ。日本人の有力者は皆、こういう豪邸を接収して住んでいましたからね。自分は当時、上等兵でした。お父上の影森大佐とは身分が大違いで、直接お話したことはありませんが、お顔はいつも拝見していました。今もお元気ですか」

「父は10年ほど前に亡くなりました」

「それはご愁傷さまでした。……さて、まずここは一番安心な場所です。ここは自分たちの研究室なのです」千歳はゆったりと中国の大人風に微笑んだ。「実は自分には残留孤児対策以外に、もう1つの顔があるのです。元日本軍兵士としての償いの活動です」

「償い、ですか」

「はい。各省に日中戦争の歴史の資料徴集編審委員会というのがあって、学者や有志が研究会を組織しています。自分らも研究会に参加して無料奉仕をしているのです。自分には撫順の戦犯収容所で通訳をしていた頃に知り合った元日本兵の同志が何人かいます。皆で手分けをして、日本が中国で犯した戦争犯罪の裏づけ調査を続けているのです。学者じゃありませんから行き当たりばったりですが、少しでも事実を明らかにすることが、被害者の中国人に対する供養になるかと思っています」

「弓畠耕一のことも、それだったのですか」

「はい。蒙疆のアヘン問題は自分にとっては最も重要な課題です。蒙疆は、自分が八路軍に加わるために、命がけで日本軍から脱走した記念すべき戦場です。しかもあとから自分は、生アヘン窃盗の汚名を着せられていますし、北園法務官は無実の罪で死刑になっています。関心が深まる一方です」

「そうでしょうね。私も今度の事件の調査で父が訓戒処分を受けていたことを知って、ますます個人的関心を深めています。ただし、現在の私の任務は、スキャンダルの公表による体制側の危機を未然に防ぐことにありまして……」

「一応のことは、こちらのルートでも調べました」千歳はニコヤカにうなずく。

 智樹は率直に実状を打ち明けた。公式の立場とは別に、自分なりの情報を蓄積して後日を期していることも告白し、そのうえで千歳に協力を願った。

「西谷禄朗こと劉玉貴、弓畠耕一、この2人の変死の真相が分かれば、それに越したことはありません。警察では一応、北園和久を疑っていますが、私たちは真相不明でも構いません。問題は、弓畠耕一の死体が発見された現場に、ヴィデオ・テープの包み紙が落ちていたことにあるのです。これがスキャンダルの種になることを恐れる向きがあるので、任務上、なんとしても押さえなければなりません」

「ハハハハッ……さすがですね。いきなり核心を衝いてこられましたね。包み紙を片づけ損ねたとは、……やはり素人の仕事でした。まあ、別に完全犯罪を狙ったわけではありませんから、お粗末を笑ってください」千歳は深く息を吸う。「先にヴィデオの中身を見ていただいた方が、話が早いと思います。ご心配のような、他人に迷惑がかかる場面はありませんよ」

 千歳はすでにこの日を予期していたようであった。部屋の隅にはテレヴィ受像機もヴィデオ・デッキも用意されていた。カセットは2本あった。

「こちらが先です」1本をセットし、ボタンを押した。

 画面の右に弓畠耕一、左に西谷禄朗が向かい合って座っていた。カメラは手持ちなのだろう。画面が少しずつ揺れていた。

 禄朗が口を開いた。話し馴れない日本語だから、たどたどしい。

「本当のことをお父さん自身の口から聞きたいのです」弓畠耕一の首がガクガク揺れる。「お父さん」もう1度、禄朗が迫ると、弓畠耕一の顔がクシャクシャと今にも泣き出しそうになる。いきなり両手を伸ばして禄朗の首をつかむ。画面が激しく揺れ、乱雑に回転し、暗くなる。画面の外から声がはいる。

「こちらはおれたちにまかせろ。ヴィデオを撮り続けるんだ」

 再び画面は元の位置にもどる。今度は4人の男が映っている。弓畠耕一が両手で力一杯に禄朗の首を締めている。猛獣のようなうなり声を発している。禄朗は激しくもがいている。弓畠耕一の後ろから2人の男がしがみついて、ひき剥がそうとしている。1人は千歳。もう1人は見知らぬ顔だが、北園和久であろう。そうすると、ヴィデオ・カメラを操作しているのは北園亜登美だろう、と智樹は判断した。

 弓畠耕一が発揮した力は年齢や外見をはるかに越えていた。2人の男に後ろから力一杯引っ張られているのに、肩と腰を揺すって振り解き振り飛ばし、禄朗の首を締める両手をいささかもゆるめない。禄朗の抵抗は散発的になっていった。手足が硬直するようにピクピクする。両手が弓畠耕一の頭をつかむ。爪を立てて引っかく。額から血が飛び散る。

「これだ。額に傷跡があったのは……」思わず智樹は口に出した。

 画面が再び激しく揺れ、暗くなり、ガシャンと音がした。床が映っているようだ。カメラが落ちたのだろう。女性の悲鳴が聞こえた。人がもみ合う物音がしばらく続いてから、音だけがプツンと切れた。画面にはそのまま床が映っている。

 千歳はそこでヴィデオを止めた。黙ったまま、次のカセットと入れ換える。

 画面は最初、白く曇っていた。次第に透明度が増すと、風呂場が映っている。浴槽からは湯気が立っている。誰もいない浴槽に、背中を見せながら上半身は裸、白いちぢみのステテコをはいた男がはいってきた。男は浴槽につかり、顔をカメラに向ける。弓畠耕一である。額の爪跡が3筋、赤くて生々しい。全身にいくつか紫色のあざが見える。格闘の際の擦り傷や内出血の跡であろう。首まで湯につかってひと息つくと、右手に持っていた換え刃式のカミソリの刃をカメラに向けて示した後、湯の中でゆっくりと左手の手首に切りつけた。血がサッと吹き出す。使い終わったカミソリの刃を窓枠に置く。画面に良く映るように両手を突き出し、顔を昂然と上げる。

〈良く見てくれ。これは覚悟の自殺なんだ〉とでもいいたげな態度である。そのままの姿勢で弓畠耕一は目をつむり、浴槽に身を沈める。全身の力が抜けていく感じである。

 画面が変わらないまま、徐々に浴槽の湯の色が赤く染まっていく。弓畠耕一の身体は次第にぐったりとなり、頭部まで沈んでいく。

 千歳がストップ・ボタンを押した。

「これで全部です。両方ともテープは最後まで同じ画面を映して、回り切っています。なにもほかの場面ははいっていません。最初の方は、撮影していた北園亜登美さんが失神して倒れたあと、カメラがそのまま放置されていました。倒れたときにマイクの線が抜けてしまったので、後半は音もはいっていません。2本目の方はカメラをセットしたのが死んだ弓畠耕一自身だったので、テープの終わりまで回り続けたのです」

「弓畠耕一は戦前からのカメラ・ファン」智樹が乾いた声でいった。「ヴィデオ・カメラで孫を映したことがある。だから、操作方法は知っていた」

 千歳は淡々と経過を説明した。

「弓畠耕一に北園法務官が死刑に処せられた事件の真相を告白させようというのが、自分たちの共通した目的でした。劉玉貴にとっては、実の親の罪状を追及することですから、とても辛いようでした。しかし劉玉貴は〈あの男は母親をだまして犯したうえで捨てたんだ。卑劣な男だ〉などと叫んだこともあります。複雑な心理でしょうが、いわゆるエディプス・コンプレックスの典型なんでしょうかね。最初はかなりためらっていましたが、いったん決意すると一番熱心になりました。その彼が逆に殺されてしまって……」

 千歳の頬に涙が流れ落ちる。

「自分の責任です。自分の判断が間違っていました。自分は、撫順の日本人戦犯収容所での経験から、今度の問題を、一般の戦争犯罪の告白と同じレベルで考えてしまいました。かつての日本人捕虜は、中国人に対して犯した残虐行為をほとんど素直に告白しました。しかし、あとから考えると、弓畠耕一の罪は同じ日本人に対する犯罪でしたし、もっともっと複雑で根が深いものだったのでしょうね。親友を裏切って死に至らしめ、その妻を奪った。犯罪的な判決で自らの職責を汚しながら、司法界の最高位に昇った……」

「ともかく、最高の知的エリートの立場にあった人物です。相当に複雑なコンプレックスを抱えていたんでしょうね」智樹は喉の乾きを咳払いで押さえた。「よほどの悪人でも自分の死を見つめることができるぐらいの知性の持ち主の場合、真相告白の、いわゆる白鳥の歌を残すものだそうですが……」

「残念でした。自分たちも、劉玉貴の死で混乱していました。あわてふためき、疲れ果てていました。弓畠耕一は劉玉貴が死んだのが分かると急に力が抜けたようになり、〈すべてを告白するから、ひと晩寝かせてくれ〉といいました。劉玉貴の死体をそのままにしておくのは気になるので、北園和久が、とりあえず隠すといって運び出しました」

「とりあえず隠す、といったんですか」

「そうです。あとできちんと葬るつもりでしたから」

「それで合点がいきました。お通夜の死体のように合掌して、丁寧に寝かされていたというんです」

「ところが、翌日になっても弓畠耕一は虚脱状態で告白しようとしない。もうひと晩待ってみたら、風呂場で死んでいる。その日の朝刊には、劉玉貴の死体発見が報道されている。警察の動きは予想以上に早い。ヴィデオ・テープで我々の無実は証明できますが、わざわざ名乗り出て大騒ぎに巻き込まれるのはごめんです。困り切ってしまって、ああだこうだと議論しましたが、ついに、36計逃げるに如かず……」千歳はさびしく微笑んだ。

「まあ、私たちの仕事からいうと、名乗り出られては困ったでしょうね。弓畠耕一は病死という発表でおさめましたから」

「ええ。それは日本から届く新聞で知りました」

「私のここでの仕事はヴィデオ・テープをいただければ、一応終わりになりますが、北園夫妻はどうしているのでしょうか」

「あの2人は旅に出ました」千歳の目は涙をたたえ、はるか遠くを眺めていた。「ハルビンで北園和久の実の母親である劉淑琴、西谷奈美に会う。父親が処刑された張家口に寄る。蒙疆一帯から新疆の奥地を旅するといって出かけました。今頃はタクラマカン砂漠あたりをランドクルーザーで、ひた走っているんではないでしょうか」