仰天!武蔵野市『民主主義』周遊記

副題:借金火達磨・巨大政治犯罪都市

1999年2月分(6-9号)合併号

(その6) 8年越しスッタカモンダカ「左ギッチョンチョン」市長選

 前回、簡単に報じたように、桜井国俊の彦こと、すでに2度目の市長選立候補を宣言した「よくする会代表」は、三鷹駅北口に選挙事務所を開いた。

 事務所の位置は最高である。事務所の開設は、どこの場合も何を隠そう、「4年に1度騙される権利」を有する「有権者様」の票集めが唯一最大の目的なのだから、事務所機能と同時に、扉や窓に貼り出す看板、ポスターが、どれだけ目に入るかが、場所選びの決定的なポイントとなる。

 ううむ、と唸った自称名探偵は、すぐに武蔵野市役所に電話した。対応したのは「総務部文書課統計係」である。ことは人口13万を超える巨大都市の「統計」なのである。さぞかし詳しかろうと思いきや、駅を利用する「有権者様」どころか「市民様」の数字もない。あるのは、「鉄道事業者」のJRから「貰った数字」だけだった。つまり、都心(畏れ多くも皇居ではなくて元チビテンが間借りしている江戸城跡でも良いが)に近い方から数えて、吉祥寺、三鷹、武蔵境と、3つもある最寄り駅の「お客様は王様」の数字だけなのである。これには、当然、北の武蔵野市とは反対側の南の三鷹市や、徒歩、自転車、バス、井の頭線、新多摩川線(旧是政線)などで往復する隣接の区や市の住民も含まれる。武蔵野市民の正確な数字は出せない。

 しかし、無いものねだりをしても仕方ない。JRから「貰った数字」によると、年間平均利用客は、吉祥寺駅が約7万5千人、三鷹駅が約8万3千人、武蔵堺駅が約5万6千人だった。吉祥寺駅には井の頭線、武蔵堺駅には新多摩川線が接続している。しかし、三鷹駅からのバスも、かなり遠方まで客を運んでいる。三鷹駅の利用客の数字が一番多いとしても、三鷹駅の利用客の中での武蔵野市の「有権者様」の比率が高いとも言い切れない。

 ああ、ややこしい。分からんことばかりだが、ともかく、三鷹駅の北口で駅の階段を降りると、左手に看板が見える。「安売り王」こと城南電機が、バブル経済の末期に、『消費税反対!』の大きな垂れ幕を掲げたにもかかわらずか、それとも、そんな反体制を気取る商売の甘さゆえか、ともかく、残念ながら進出に失敗して閉店したビルの1階正面である。

 城南電機の失敗は別として、この場所は、当然、駅前 1等地である。三鷹駅北口のバスが発着するロータリーに面しているから、ここで降りる武蔵野市民にとっては、いの1番、目に入りやすい場所である。

 桜井国俊の彦が、前回の3位に終わった市長選挙の時に構えた事務所は、駅前どころか、ズ、ズーと、奥にひっ込んだ成蹊大学の側のマンションの、ほとんど車の通行だけの交差点に面した1階の角部屋だった。今度は駅前一等地に進出したのだから、かなり勢いを増している。出陣宣言も早い。

 だが、だが、私はすでに、桜井国俊の彦や、その事務局長、高木一彦の彦らについて、「アバウト」批判をした。もう一度、その「アバウト」批判の中心点を繰り返す。

 武蔵野市だけのことではないが、武蔵野市を典型とする「塩漬け用地の激増」「地方自治体の財政難」の根本原因は、政財界、特に銀行を中心とする「寄ってたかって」の地方自治体の「財政しゃぶり」にあるのである。そのことについては、すでに、テレビ朝日、日本テレビ、NHK、日経新聞などが、ここでは遠慮して小声で言うが、「商業メディア」がですぞ、批判的な報道をしているのである。もちろん、私の目から見れば、まるで不十分だが、少なくとも「バブルのしわよせ」という認識で報道している。

 もっとはっきり言えば、日本全国の地方自治体は、「あの」バブル経済こと、「あの」国際的バクチで空前絶後の大失敗をした「あの」大手銀行の「あの」「巨大仰天!」損失の穴埋めに、後先考えず「しゃぶり尽くされた」のである。

 ああ、それなのに、それなのに、「あの」黄色い口先を開けば、すぐに、「自民党」の、「土屋市政」の、「ゼネコン行政」の、などと勝手に言い散らしてきた癖に、「この」「アバウト」連ときたら、「木村さんの言うことは正しいが、武蔵野市では、そこまで言わなくても良いのではないでしょうか」などと、なぜ「良い」のか、その根拠をまるで示さないで平気の平座の「言語明瞭、意味不明瞭」という、歴代日本国首相並の、実に程度の低い返事で、この世間をば、ごまかし通せると思っているらしいのである。

 だが、日本国の議会なら、この程度の「言語明瞭、意味不明瞭」に気付かず、見逃すかもしれないが、私は、絶対に許さない。これは決して感情の問題ではない。わがホームページの「シリーズ3」は『21世紀デカメロンの城』となっている。伊達ではない。冒頭を見て頂ければ、お分かり頂けると思うが、これは、風俗文学の問題でもない。『デカメロン』に象徴されている問題は、中世から近世への社会革命における「クソ坊主」の位置付けである。その「クソ坊主」たちが、権力の胡麻すり坊主として働き続け、庶民の意識を混濁させ続けてきたのである。だから、中世から近世への社会革命においては、「クソ坊主」の化けの皮を剥がすことが、決定的に重要な「思想革命」となったのである。

 では、現代の「クソ坊主」とは誰か?

 私は、昨今色々とセクソロジ-上の論議もある売春業とともに、人類史の発端から連綿と続いてきた拝み屋商売の宗教屋もさることながら、現代では、アカデミー業者、マスコミ業者、政治屋などの方が、それに当たると主張している。それも「左」を自称する部分に、徹底批判の重点を置いている。その重点の置き方の基本思想に最も鋭く合致するのは、次の裏表が同じ意味のアングロ・サクソン格言である。

 Worse a false friend than an open enemy.

「公然たる敵よりも偽(false)の友の方が悪い」(意訳すれば「始末が悪い」)

 Better an open enemy than a false friend.

「偽(false)の友よりも公然たる敵の方が良い」(意訳すれば「始末が良い」)

 一応の訳を付けたが、falseには、様々な日本語訳がある。

 手元の辞書には「間違った」「不正の」「誤った」「うそを言う」「偽りの」「虚偽の」「不誠実な」「不実の」「不貞の」「不信の」「誠意のない」「約束を守らない」「言行不一致の」「見せかけの」「偽造の」「人造の」「二重底」「上げ底」などが並んでいる。熟語のplay a person false は、「人をだます」「裏切る」の意味である。

「アバウト」も、falseの基本型の 1つである。甘やかすと、「裏切る」にまで進みかねない。そこで、まずは、歴史的な形成過程から観察するために、「武蔵野市をよくする会」の「アバウト」の淵源に溯る。

 私が武蔵野市に引っ越してきたのは、今から8年前である。8年と言えば、政治屋業界人ならば、すぐに条件反射を示す特徴的な年数である。「4年に1度騙される権利」の4年の倍に当たるのである。当然、その年にも地方選挙があった。しかし、その時には、まだ住民登録したばかりで地元の選挙権もなかったし、誰が出ているものやら興味もなかったので、忙しさにかまけて選挙の看板すら見もしなかった。ただし、その時に3選された現市長の土屋正忠の彦についてだけは、行きつけのスーパー「いなげや」の真ん前で演説していたので、顔と声を覚えたが、その前後の経過についてはは、また後に述べる。

 その直後、それまでにも何冊か出していた評論ものではなくて、なんと、少年時代からの見果てぬ夢の長編サスペンス小説、『最高裁長官殺人事件』を出した。さらには、その本の宣伝ビラを兼ねた趣味の手作り新聞を、まさに手刷りで安く印刷するために、元千代田区労働組合協議会事務局長の私としては、勝手知ったる他人の家こと、武蔵野・三鷹地区労働組合協議会の事務所を探し当てて、最新式のリソグラフ印刷機を利用していた。ところが、機械としては確かに最新式なのだが、手入れが悪いとインクが固まってしまうので、その時も調子が出ずに結構苦労していた。その折に書記局員から紹介されたのが、上記の現「よくする会」事務局長、高木一彦の彦だったのである。

「よくする会」の前身は、「市民の会」だった。「市民の会」は最初、自民党が推薦した現市長の土屋正忠の彦から椅子を奪い返すために、それ以前の市長の与党だった社会党と共産党が中心になって作ったものである。美濃部都知事を実現した「革新勢力」型、いわゆる「社・共」共闘に、諸団体、個人を加えた典型的な組織だった。それが1回目は負けて、まず社会党が抜け、2回目は、候補者の決定がもたつくので共産党が見切り発車で独自候補を立てて、「市民の会」そのものは「見送り3振」。これが、私が引っ越してきたばかりの時の選挙だった。

 そこから始まるスッタカモンダカは、日本全体の「革新勢力」分裂抗争の 1つの典型的な縮図である。

  8年前、すなわち1991年は、湾岸戦争勃発の年でもあるが、武蔵野市の田舎選挙では、戦争どこ吹く風だった。むしろ、この田舎都市の政治屋商売、特に「左」にとっては、1970年の、いわゆる全共闘による学生運動の火の粉がふりかかってきたことの方が、大きかった。具体的には、すでに紹介済みの市議会議員で、現市長の土屋正忠の彦の「天敵」の1人、山本ひとみの媛の夫の「あつし」「君」(通常は「くん」と発音し、時には「きみ!」ともなる。これは媛が彼を呼ぶ時の発音である)こと、山本あつしの彦が「大衆党」の最初の市議会議員になったことである。しかも、「左」の老舗、日本共産党の議席の方が1つ減って、大衆党が 1議席となったのだから、これはもう、餌場が同じ生物同士の生存競争のごとくで、犬も食わない何とかとやら、恨み骨髄、以後、熾烈な争いとなる。

 実は、山本あつしの彦と、ひとみの媛は、京都大学の同窓生だった。「くん」とか「きみ!」とかは、その頃からのしきたりであろう。この夫婦は、当時の学生運動の中でも、いわゆる「パフォーマンス」が得意な、つまりは理論よりも派手な行動で仲間を集めることが得意な、ミーちゃんハーちゃん型のMPDとかの流れを汲む勢力の「革命的」分析に基づいて、いわゆる「パラシュート候補」として、身一つで派遣されてきたという実に「革命的な献身」の見本なのであった。

 その頃、光栄ある大衆党のパラシュート落下地点として特に選ばれたのは、武蔵野市だけではなかった。三鷹市、小金井市、立川市など、昔の三多摩地区に、次々と大衆党の議席が獲得され、前進基地が構築された。こうなれば、老舗の日本共産党としては足元を荒らされることになる。事実、武蔵野市議会における日本共産党の議席は、その頃からジリ貧で減り続けている。これは「地方議会の議席では最大」を誇る日本共産党にとって、大変この上ないことである。「すわ一大事」とばかりにいきり立ち、ますます、餌場争いが激化する。

「市民の会」に話を戻すと、この会でも、その頃に、スッタカモンダカの「左ギッチョンチョン」紛争が勃発したのでありました。発端は、新人の市議会議員、大衆党の山本あつしの彦の「入会申込」であります。これに対して、日本共産党が猛烈に反対し、ここにまた、新たな抗争の火蓋が切られたのでありました。ああ、この典型的な日本の「左ギッチョンチョン」紛争の経過を描くに当たりまして、思わず力が入りすぎまして、ついつい、この経過が長くなりましたので、ここらで今回は、講談の読み切りと、さ、さ、させて頂きまする。平に、ご容赦を!

 以上で[1999.2.5.(その6)終り。次号に続く。

(その7)神々の争点「塩漬け用地」天下分け目の決戦

 今回は、前回に引き続いて、「『左ギッチョンチョン』箱庭紛争の神々お披露目」と題する「左ギッチョンチョン」人物紹介を予定し、準備を始めていたのだが、突如、「同時進行」の「重大非常事態」が発生した。

 この「重大非常事態」に直面するや否や、わが脳ミソは急速に沸き立ち、悪餓鬼時代のパチンコ狂騒曲までが喧騒を極めて脳裏に蘇った。

 ジャン、ジャン、ジャンジャカ、ジャンジャン、

 ジャンジャカ、ジャンジャン、ジャン!

「天気晴朗なれど波高し」

 旗艦三笠丸のマストにZ旗がスルスル揚がる。信号手が手旗を振り回す。

 全艦隊の通信兵は、事前配布のアンチョコを見て、直ちに解読する。

「広告の、じゃない。これはワープロでは一発変換不能なのだ。皇国の、荒廃、じゃない、えい、次候補、興廃、よし。この一戦にあり。全員一層、奮励努力せよ!」

 そして、これがまた、何と申しましょうか、堪えられない「インターネット冥利」とでも申しましょうか、急遽、この一番を差し替えとする決意が固まったのである。

 というのは他でもない。1999年2月1日、つまり今月の初日に、いつもの如く、『市報むさしの』が、わが家で取っている唯一の日刊紙、日経に折り込まれていた。『市報むさしの』は、毎月の1日と15日の月2回の発行である。市内の全戸に新聞と一緒に折り込み配達されるが、タブロイド版で通常は黒1色刷り、12頁ぐらいである。

 ところが、この日には「仰天!」すべきことに、さらにそのド真ん中に、別刷りと題して「公有地活用特集号」が、それも青と黒の2色刷りで、写真がタップリ、「公有地活用マップ」を背景に漫画の「しあわせ一杯の3人親子」まであしらって、実に目に入りやすい、実に読みやすい、贅沢な倍角ゴシック文字の記事リードなど、見るからに特別の工夫を凝らし、費用は当然、全市民の懐から出るに決まっているのに、「現職市長の選挙向けチラシ」丸だしの露骨な嘘八百山盛りで、これ見よがしに折り込まれていたのである。

 これを見るや否や、さらに我慢に我慢して、ちと読み進むや否や、わが脳ミソは、頂点まで沸騰した。そう、私の頭部が、「あの」古典的な2つのこぶ付きのコーヒー沸かしに化けた。沸騰したコーヒーが渦を巻いて、泡だらけになって、下のこぶから上のこぶへと急上昇した。

 ああ、ことのついでながら、「あの」「コーヒーを沸かして、」なんて、悠長に歌っちゃってる「あの」シャンソン『ろくでなし』の日本語の歌詞は、とんでもない「ろくでなし」の間違いなのだ。悪餓鬼は悪餓鬼でも、男の子用のフランス語の歌詞を、今は亡き越路吹雪のために女の子用の歌詞に変えてしまったものだから、本当は「お行儀良くしなさい」派の「お節介婆あ」(実は気分的には保守政治批判が匂う)に対して、「皆で頭にきちゃって、闘っちゃおうぜ!」と呼び掛ける宣戦布告の歌だったのに、それが、まるで意味のない本物の「ろくでなし」の懺悔に腑抜けしてしまったのだ!

 そう、そこで、わが頭部で沸騰したコーヒーの渦の中には、腑抜けの懺悔などではなくて、元の歌詞通りの「重大非常事態」に対する「宣戦布告」が泡立つのだった。

 実は、その割りには直ちにではなかったのだが、市役所の6階の広報課に赴く。

「あの別刷り、あれは、選挙違反じゃないのかね」と、旧知の広報課長に一発かます。

「そんなことありませんよ。木村さんの見解とは違うでしょうが、市は、市としての見解を発表しているだけです」

「市とはいっても、5選立候補予定の現職市長の見解になっちゃってるんだからね。ともかく、最近、資料をくれという人が増えちゃって、その度にスーパーでコピーしなけりゃならないんだ。今度は2色刷りだから困っちゃうよ。10部ぐらい余分に貰えないかな」

「いいですよ」と気の良い課長は、すぐに課員に命令する。10部を貰って鞄にしまう。

「それで、これはインターネット週刊誌編集長としての取材なんだけど、あれだけで、いくら掛かってるの。情報公開、情報公開、と、これは教えて貰えます、よ、ね」

「いいですよ」と気の良い課長は、これまた、すぐに課員に命令する。課員が引っ張り出してきた伝票の束を一緒になってのぞき込み、「130万円ですね」と素直に答える。

 この130万円は、最終的な編集、写真撮影、地図製作、漫画、印刷、紙代、などの外注費だけである。原稿を作成した用地課とか広報課の人件費、事務所費などは含まれていない。それを同額とすると、2倍で260万円、武蔵野市の新聞折り込み全戸配布に掛かる費用、50万円を加えると、310万円。ううむ。

 貰った別刷りをヒラヒラさせながら、7階の議会事務局をのぞく。ずいっと奥へ入って、事務局長の前で、「これ、選挙違反じゃないの」と、ご挨拶。

「市長が、木村さんの新聞に返事をしたんじゃないですか」

 事務局長は結構、下手なジョークが好きな方だが、これは、あながち的外れではない。私は何度も、A3版裏表1000部の紙代込み印刷費が約1万3千円、版下は手作りの実質個人新聞『武蔵野市民オンブズマン』を発行し、その内の700部を、市役所の上から下まで1人で配布して歩いているから、市の職員は、私の顔はもとより、「塩漬け用地」の論点を良く知っている。もちろん、残念ながら、ここでも、面従腹背どころか、面従服従で日々沈黙の月給鳥がほとんどである。

 しかし、私一人では、とうてい『市報むさしの』並の全戸配布はできない。それが問題だ、などとハムレットばりに悩みはしないが、ちと悔しい。

 事務局長とは、すでに報告した議会の特別委員会での禁煙の決定についても、しばし冗談の応酬をした。しかし、この件は目下の重大非常事態に鑑みて、省略し、閑話休題。

 さて、この『市報むさしの』別刷り「公有地活用特集号」は、かなりの工夫を凝らしたものである。欄外に「お問い合わせは……都市開発部用地課……へ」とあるが、顔も声も旧知の仲のフニャフニャの月給鳥然とした彼らの仕事とは、とても思えない。コピーライターのプロ並みの仕事である。乾坤一擲(「ケンコンイッテキ」。手元の安物辞書には「運命をかけて、そるかそるかの勝負をすること」とある)の気合いが籠っている。

 だからこそ、私の脳ミソが沸騰して、ああ、

 ジャン、ジャン、ジャンジャカ、ジャンジャン、

 ジャンジャカ、ジャンジャン、ジャン!

「天気晴朗なれど波高し」

 旗艦三笠丸のマストにZ旗がスルスル揚がる。信号手が手旗を振る。

 全艦隊の通信兵は、事前配布のアンチョコを見て、直ちに解読する。

「広告の、じゃない。ワープロでは一発変換不能なのだ。皇国の荒廃、じゃない、興廃この一戦にあり。全員一層、奮励努力せよ!」

 となったのである。ただし、上の4行分は、ワープロ・コピー見え見え、なのだ。

 さて、まずは、「塩漬け用地」のネーミングに逆らう前出の「公有地活用特集号」である。もう弁解はしないぞ、という気迫が籠っている。「塩漬け」ではなくて「活用」しているのだぞと、真っ向から反撃している。

 さらには、念には念を入れる青色のゴシック大見出しが横幅一杯に広がる。

「公有地を活用して豊かな市民生活を実現」

 そして、ああ、「あの」堂々の、倍角ゴシック・リード。

 このリードは、ちと長いが、私が特に問題としてきた4,5年の高値の時期の土地取得を、まずは足場を前後の15年にザーと広げて、富士山型のコニーデの突出を押し隠し、イケシャーシャーのごまかしを凝らしているので、あえて全文を再録する。このリードを読む前でも後でも、お好みに合わせて次をリンクをクリックして、そこに出てくるグラフと比較して頂きたい。先方にも、このページに戻れるリンクを貼って置く。

武蔵野市の土地乱買いグラフ

 以下、再録。公文書であるから、当然、市当局には著作権の保護はない。

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 武蔵野市は、直接あるいは土地開発公社を活用して、昭和58年度から平成9年度までの15年間に約1150億円を投入し、約11万3000平米の公有地を確保しました。土地開発公社の用地購入金額は、金融機関からの借入金ですが、逐次返済し、現在は全体の投入資金額の約2割を残すのみです。そしてこの借入金残額も毎年利率の低いものに借り替えていますので、公社の経営状態は安定しています。

 これらの土地は、福祉・教育・文化施設の建設、公園の拡充、駅前広場・道路の新設や整備、自転車駐車場の新設や増設など市政全般にわたり有効に活用され、豊かな市民生活実現のために役立っています。

 その結果、最近の民間の調査によれば、「最も住んでみたいまちナバーワン」として、首都圏において「わが街の暮らし心地」第1位の評価を受けています。

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 以上で再録終り。うぬ、うぬ。

 この件については、さらに次回に、公職選挙法違反の容疑と、公費の不正使用の返還を求める住民代表訴訟の可能性についての研究と合わせて、詳しく報ずる予定である。

 以上で[1999.2.12.](その7)終り。次号に続く。

(その8)「左ギッチョンチョン」箱庭紛争の神々お披露目

 さて、前回に「左ギッチョンチョン」箱庭紛争を予定しながら、市長5選を狙う土屋正忠の彦が、現職の強みを生かすにもほどがある「違法」市報特集号で、塩漬け用地問題を、これまたごまかすにもほどがあるスリカエ報道したために、一回分を差し替えた。

 そこで今回から、いよいよチョンチョンと拍子木が鳴り、「紛争」開始となる。

 ただし、箱庭と形容したのは社会的な縮図の意味で、武蔵野は、やはり広い。狭い日本列島のド真ん中ではあるのだが、それでも北海道を別とすれば、一番広いのが関東平野である。チャリンコ族の私が、武蔵野市に来てイの一番に気付き、一番気に入ったのは、およそ坂道とおぼしき場所が見当たらないことだった。

 ただ、ここでも、ただし、になるのだが、そのために意外も意外の危険が増す点もある。武蔵野市には、若者言葉で「雷オバサン」と呼ばれる種族が跋扈(ばっこ)しているのである。雷は雷でも、雲の上から臍ばっかり狙うあれではないし、昔風の雷親父とも違っていて、大声で怒るのでもない。語源的にはオートバイの雷族からきた言葉で、ママチャリ暴走族のことである。「ここは自転車で飛ばす人が多いですね」と、某大手紙の新任記者が、こぼしていた。私も、3度ほど、住宅街の交差点で正面衝突しそうになった。幸いにも、運動神経は人並み以上、えへん、だから、キキキッとブレーキをきかせて、自分が横に倒れて、膝にかすり傷。ああ、この騎士道精神を見よ!

 で、閑話休題。すでに紹介済みの現市議、山本ひとみの媛も、ママチャリに桃太郎旗を立てて走っている。もう一度繰り返すと、その媛のオットットの夫が山本あつしの彦で、この夫婦が、元京都大学の同期生で、学生運動のMPDとやらで、同志の指示により、ああ、健気にも、この関東空っ風のピュ-ッ、ピュ-ッと吹きすさぶ元荒れ野、現住宅地帯にパラシュート候補として降り立ち、最初はオットットが「大衆党」新人市議となったのでありました。

 ああ、今は亡き黒沢明監督作品『用心棒』よ!

 関東空っ風のピュ-ッ、ピュ-ッと吹きすさぶ武蔵野市に、山本夫婦が、パラリと落下して以後、最初に側杖の悲劇を味わったのは、現市議会副議長、畠山よし子の媛、いや、媛その人ではなくて、わが武蔵野市は西久保ご町内の後援会員の皆様なのでした。なぜかというと、日本共産党の当時流行「マドンナ」候補として見事、市議の座を射止めましたる畠山よし子の媛が、これはあくまでも本人の言によればとして置くものの、山本あつしの彦「問題」に端を発しまして、こともあろうに、無所属は無所属でも現市長、土屋正忠の彦の出身の会派、「市民クラブ」に鞍替え(クラブ変えの方が分かりやすいのかな)してしまったからなのであります。

 それというのも、大手紙ではヤクザの仕事なのに、『赤旗』の拡大を議員様に義務として課す日本共産党の方針に、泣く泣く従った畠山よし子の媛が、やっとのことで、議会の新人同僚の山本あつしの彦の勧誘に成功したというのに、日本共産党の武蔵野・三鷹地区委員会の機関紙部が、断固として、配達を拒否したからなのでした。

 この意味、お分かりかな。それとも、とても、お分かりでないかな。畠山よし子の媛に言わせれば、その頃、大手紙では拡張販売、略してカクハン、配る品をカクザイ、角材ではない、拡材というが、ともかくカクカクシカジカだが、『赤旗』読者拡大運動では、東京電力の武蔵野支店の労務部にまで行かされたというのである。東京電力は、その頃、当事者が「共産党員及びその支持者」と呼ぶ社員を差別しているとして、差別反対の裁判闘争までしていた。その「階級敵」の「明白な資本主義の牙城」に『赤旗』を勧めて、取らせて、配達するというのに、なぜ、同じ「左翼」の大衆党だけが駄目なのか。

 日本共産党は、この種の新左翼を「トロッキスト」とか「暴力分子」とか呼ぶのである。しかも、これは本当のことなのだから、いよいよ硬直してしまうのだが、山本あつしの彦が、京都大学で、日本共産党の子会社のような位置にある民主青年同盟、略称「民青」系の学生組織と対立関係の組織に所属していて、いわゆるゲバ時代、一度は傷害の罪で3万円ほどの罰金を課せられたというのが、本人が私に対しても認める事実なのである。こうなればもう、罰金を払っても、もう、公民権は制限なしでも、もう、本人も暴力に訴えるのは反対と言っても、もう、金輪際許さないのが、もう、日本共産党の掟なのである。

 この、つむじ風のごとき「トロッキスト」こと、山本あつしの彦と、ひとみの媛が起こした波乱万丈の紛争には、まだまだ続きがあるが、ここでひとまず、市長選の概略の経過を紹介して置く。その背景の中で、再び、つむじ風の経過と及ぼした影響を振り返った方が、分かりやすくなると思うのである。

 さて、きたる市長選に立候補を表明した3彦については、すでに一応の紹介をした。

 その配置を簡単に説明するために、市議会内の会派で分類すれば、自由民主クラブ他の推薦を受け、無所属に分類される市民クラブ出身で5期目の立候補の現職市長、土屋正忠の彦に対して、会派では日本共産党だけの推薦、市長選は初めてだが市議会では最長不当距離(かな?)の同党現市議団長で、最高齢ながらの「新人候補」、栗原信之の彦と、「よくする会」代表、前回は3位で落選、2度目の「新人候補」、桜井国俊の彦という構図である。

 つまり、もっと簡単に言うと、「現職の保守」1人に対して、「革新」(言葉が古臭くなったかな?)2人であり、すでに「革新」の分裂が誰の目にも明らかある。「左ギッチョンチョン」箱庭紛争の典型以外のなにものでもない。

 この構図を前回と比較すると、前回は、同じく現職市長、土屋正忠の彦、土屋支持の保守派から今は消滅した「新進党」がらみで決裂した市議、深沢達哉の彦、よくする会の桜井国俊の彦、日本共産党地区委員長の佐久間某(その後、解任で「去る者はうとし」とか、名前が思い出せない)の彦の4人だった。つまり、「保守」2、「革新」2だった。

 票数の概略は、1位当選の土屋正忠の彦が、その前の3万票から2万票に減少、深沢達哉の彦が1万5千票、桜井国俊の彦が1万票ぐらいだった。途中で桜井国俊の彦の推薦を中止(事情は後述)して急遽出た佐久間某の彦は、無残にも日本共産党市議のすべての票を合わせた数字の半分、3千票ぐらいで、有効投票数の10分の1以下となり、100万円の供託金没収となった。

 今回も一応は、現職市長への反対派の「統一テーブル」が提案された。その経過と問題点は後に詳しく紹介するが、これもとりあえず簡単に言うと、このテーブルが昨年秋にひっくり返って、日本共産党が、またもや独自候補を立てると発表したのである。とりあえず簡単に言うと、前回の大失敗にもかかわらず、今回も独自候補を立てざるを得ない経過と相成ったのである。

 結果として、現在の布陣を鳥瞰すると、「保守」は前回の2が1となり、「革新」は前回と同じ2のままなのだから、よほどの事情がない限り、「保守」有利である。おまけに現在、中央政界で「字」、じゃない、ええと、「俺は今、何党だっけと秘書に問い」なんて川柳まであるぐらいから、政党の名前なんか、どうでもいいのだが、「自」「自」提携とやらが進んでいる。

 さて、さて、ただでさえ勝ち目のない革新が、なぜ統一候補を擁立できないのか。「それが問題だ」などとハムレットなら悩むが、ドンキホーテの私は「しゃあねえな。どうせ、あいつらのすることだから」と達観している。

 こういう宿年の状況を俗に「しがらみ」とか「しがらみが解けない」とか言うが、それこそ万葉の昔からあるはずの言葉なので、私の脳ミソの中では若い頃から、よく渓谷で見掛ける流木が、もつれ合って自然の堰を作る状態の映像が、これに対応していた。ところが今度、念のために手元の安物辞書で確かめると、当用漢字にはない「柵」(さく)が当てられている。「水流をせきとめるため、くいを打ち並べ、それに木の枝や竹を横たえたもの」と説明している。人造の意味であるが、これには納得できない。自然にできた状態を見て、真似したのが「柵」なのではないだろうか。

 少なくとも、武蔵野市を一つの典型として、「左ギッチョンチョン」箱庭紛争の「しがらみ」は、なかなか解けないのが最大の特徴なのだが、それは、誰かが意図的な人造物として計画的に複雑に作ったからではなくて、不用意に、または自然に、こじれ、ねじれ、ひん曲り、複雑に入り組んでしまったので、構造そのものが分からなくなっているからに他ならない。見ればすぐ分かるよううな「くいを打ち並べ」たものではないから、ほぐし方が分からなくなるのである。

 さて閑話休題。以下、底の底までは分からないとしても、少なくとも表面に出ていた限りでの「しがらみ」の経過を辿ってみる。

 前回までに述べたように、16年前に「社・共」共闘型の社会党系市長が、現職の土屋正忠の彦に敗れ、以後、4期16年、「革新」は屈辱に塗れてきた。12年前には、それ以前の「社・共」共闘型の継続による「市民の会」で「奪還」を図ったが、あえなく敗北。8年前には、その敗北後の「社・共」共闘型から日本社会党が抜けて、なかなか候補者をしぼり切れない内に日本共産党が独自候補を発表し、「市民の会」は置いてきぼりの「見逃し三振」、現職の土屋正忠の彦の圧倒的勝利に終わった。

 その頃、パラシュートもなしに、ふらりと武蔵野市に転居してきたのが、かくいう私である。友人知人に転居通知を出した途端、打って返すようにすぐ届いた知らせには、黒い縁取りこそなかったが、ともかく昔話に連なることで、「武蔵野市には元争議団の市議会議員がいる」とあった。しかも、私のことを知っている人だというのである。いや、これは旧悪暴露か、といささかギョッとしたが、それが、なんと、すでに紹介済みの畠山よし子の媛だった。だが、この奇縁にかかわる秘話は、別途、後に紹介する。

 時は1990年秋。湾岸危機。翌年の1991年1月17日が54歳の誕生日。まだまだ若い。

 まさにその日に勃発したのが、湾岸戦争であったが、武蔵野市は「ぬるま湯」気分。その当時、「市民の会」にとっての最大かつ天地開闢以来の大問題は、新人市議会議員、山本あつしの彦の入会申込みであった。というよりも、むしろ、その入会申込に対する日本共産党の猛然たる反対であった。

 ただし、会の申し合わせには、入会拒否の定めは記されていなかったのである。

 ああ、かくして、「左ギッチョンチョン」箱庭紛争、天気蒸籠、じゃない、これも一発では変換できないのだ。武蔵野の野原、天気晴朗なれど風強し。ピュ-ッ、ピュ-ッ。

 ジャン、ジャン、ジャンジャカ、ジャンジャン、

 ジャンジャカ、ジャンジャン、ジャン!

 以上で[1999.2.19.](その8)終り。次号に続く。

(その9)やはり分裂、青菜に塩の「左ギッチョンチョン」神々

 さて、前回に引き続き、武蔵野市で展開された典型的な「左ギッチョンチョン」箱庭紛争の略年史をひもどく。エピソードが非常に豊富なので、まずは荒筋とする。

 時は1991年春。湾岸戦争勃発の1月17日が私の54歳の誕生日。まだまだ若い。引っ越してきたばかりで地元の選挙権がないままに、傍観を決めこむしかなかった市長選は、現市長の圧倒的勝利に終った。

 その敗北の余燼さめやらぬ頃、たまたま私が、武蔵野・三鷹地区労働組合協議会(以後、「武三地区労」の略称とする)のリソグラフ印刷機を利用していた際、「市民の会」事務局長で弁護士の高木一彦の彦との初顔合わせと相成った。その一見ニコヤカな顔は、その後やはり商売面と判明したが、その直後、別の地元紛争が発生したので、連携を保つこととなった。この「別の地元紛争」も結構複雑な構造なので、ここではふれない。別途、本誌連載「元日本共産党『二重秘密党員』の遺言」に記す予定である。つまり、日本共産党に関係する紛争である。

 さて、そうして「市民の会」に参加した私の目の前で展開された光景は、実に見慣れた「左ギッチョンチョン」紛争の典型であった。前回も記したように、京都大学の学生運動で、日本共産党の子会社に当たる民主青年同盟系の学生組織と対立し、傷害で3万円とかの罰金を払ったことのある新人市議会議員、山本あつしの彦の入会申込みは、「市民の会」にとっての最大かつ天地開闢以来の大問題であった。というよりも、むしろ、その入会申込に対する日本共産党の猛然たる反対こそが、最大の難問であった。

 しかし、会の申し合わせには、入会拒否の定めは記されていなかったのである。

 ジャン、ジャン、ジャンジャカ、ジャンジャン、

 ジャンジャカ、ジャンジャン、ジャン!

 スッタカモンダカの挙げ句の果てに、結局のところ、日本共産党の横紙破り作戦は成功しなかった。当然のことだが、定めがないのに、「前科」を言い立てて「市民権を認めない」などという無理難題のごり押しは、与論の前に孤立する。結果として、「市民の会」から団体は抜けて、個人加盟にするという決着を見た。その際、市長選の確認団体としての性格をどうするのかという点は、棚上げとなった。個人加盟の中には、日本共産党の武蔵野・三鷹地区委員会(以後、「武三地区委員会」)の委員長、佐久間某の彦も入っていた。

 そして3年後、翌年に迫った市長選を控えて、「市長選の確認団体」問題が再燃する。ここで、日本共産党の武三地区委員会が、いきなり、「市民の会」が市長選をやるのは約束違反だと言い出した。それも「市民の会」に参加していた多数の日本共産党員にすら何らの議論の場も与えず、上から、これが地区委員会方針じゃとばかりに、おっかぶせたのである。私は当時、まだ党籍があったから、「市民の会」の会議の席上で、武三地区委員会委員長、佐久間某の彦に向かって、議論を圧殺するような地区委員会見解の発表の仕方を非難した。

 すると、どうだろう。佐久間某の彦の方は、痛いところを突かてモジモジ、赤い顔で困っていたのに、突然、「市民の会」事務局長の高木一彦の彦が、私に向かって偉そうに鳴りつけるように、何かを言ったのである。馬鹿馬鹿しい限りだったので、正確に覚えていないのだが、主旨は、事務局長の自分を差し置いて、これまた組織代表の日本共産党の武三地区委員会の委員長ともあろうお方に、そういう失礼なことを申すでないぞ、ということだった。この時には、先に述べた「商売面」が完全に剥げて、本性の権力志向が、むき出しになった。私には、何も、「市民の会」の一員として発言していたわけではない。ところが、たかが市民運動でも事務局長ともなれば、いつの間にか、権力を握っている気になってしまうものらしいのである。

 ああ、愚かなる神々たちよ!

 閑話休題。ここでは荒筋を先に語って、後にエピソードに立ち戻るのであった。

 さて、そのような日本共産党武三地区委員会の再度の横車をも、ぐずりぐずりと避けながら、「市民の会」は、やはり市長選に候補を立てようということになった。その時、私は、皆の衆の逡巡の有様を眺めながら、かつての東京都知事選の経験を話した。私は、いわゆる革新自治体の典型だった美農部都知事実現の際、末端ではあったが、千代田区労働組合協議会の幹事、事務局長の立場で、「労組選対」の一翼を担っていた。その経験を基にして、つぎのように提案したのである。

 簡単に言えば、このような「左ギッチョンチョン」箱庭紛争状況を打ち破る唯一の手段として、武蔵野市にはゴロゴロいる凶状持ち、でなかった、ええと、「肩書」持ちの「文化人」とやらを活用すべしという提案である。

 これを受けて、自らは弁護士でもあるれっきとした「肩書」持ちの「市民の会」事務局長の高木一彦の彦らが、20人ほどの「肩書」持ち「文化人」を集めてきた。この「20氏」の連名で、100人を超える市民が集合した。そこで私は、ついつい発言してしまったのだが、それは予感があったからだった。私の発言の要旨は、つぎのようだった。

「革新都政が崩壊した現状の中で一緒にやるのだから、その経験を踏まえて、あそことは嫌だという政党政派の線引きは、絶対に止めにしてほしい」

 私の予感は当たった。途中で、100人を超える市民の付託を受けて「20氏」が選んだ候補の桜井国俊の彦の支持を、日本共産党が拒絶すると決定したのであった。最初の引き金を引いたのは、保守派だった。「20氏」の推薦を受けた当時、桜井国俊の彦は、東京大学の客員教授だった。専門は都市工学である。東京大学工学部を出て、国連の職員になり、世界各国の環境問題を専門にしてきたという経歴紹介だったのだが、学生運動の経験とか、それにまつわる著述の存在とかについては、ほとんど誰も知らなかった。ところが、どこで探したものか、議会の保守派が、「革新自治体は幻想だ」という主旨の若い頃の著書を材料にして、「過激派」攻撃を始めたのである。

 私には、あの訳の分からない「三派全学連」とか「全共闘」とかの世代には、当時の労組役員として苦虫噛み潰す想いが残っているだけで、まるで歴史研究的な興味が湧かない。だから、一度も詳しい詮索をしたことがないのだが、ともかく、桜井国俊の彦が、民青系とは違う学生組織に加わっていたことは確かのようである。本人は「毎朝殴られていた」と言うのだが、日本共産党にとっては、公然とは口にしないまでも、民青系以外はすべて、「トロッキスト」とか「暴力分子」となる。分類項目としては、元MPDとかの市議会議員、山本あつしの彦と同じ扱いである。

「市民の会」には日本共産党員が多数加わっていた。地区委員会が別行動を取る方針を出したので、当然、それぞれの党員個人としては、立場の選択を迫られる。この時、「市民の会」緊急総会が開かれたのだが、私は、別の集まりの関係で遅れて参加した。

 ああ、あの時の、ああ、あの、まさに青菜に塩の、ああ、あの顔、この顔、あああ、あ、誰か、故郷を、を、を、想お、わあ、ああ、ざあ、あるう、う!

 そして未だに、この分裂の「しがらみ」の呪い紐を断ち切ることのできない暗黒の狭間に、「元」日本共産党員ほかの「よくする会」会員たちが、いじましき権力闘争の日々を、あえぎ過ごしている。なぜ、または、いかなる経過で彼等が「元」の身分になったのかについては、次回に、ということで、今回はチョンチョン。

 以上で[1999.2.26.](その9)終り。次号に続く。

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