世界YMCAYWCAインターナショナルオブザーバー報告
NO. 17

●YMCAYWCAからの報告について

2000年
9月にイスラエル高官(現シャロン首相)が、エルサレム旧市街地にあるイスラム教の聖地(ドーム:マホメットが昇天した地)を2000人の兵を伴って訪問しました。その訪問へ抗議する形でこの一年以上インティファーダー(民衆ほう起)が始まり、今日に至っています。パレスチナ東エルサレムYMCAのベッサフールセンターが持つリハビリテーションセンターにも砲撃があり、機能が停止されました。11月には昨年各国YMCAからなる視察団がパレスチナを訪れました。そして、この1月東エルサレムYMCAのパレスチナ支援プログラムが策定され、世界各国の支援が行われました。そのような流れの中で、3月より世界YMCA同盟、世界YWCAが協力して、パレスチナ・イスラエルの状況を報告するインターナショナルオブザーバーの派遣が決まりました。現在2人目のBente Pedersenさん(デンマークYMCAより派遣)が派遣されています。

マスメディアからの衝突のみの情報ではなく、パレスチナ・イスラエルのそこに生活する人々の目線からの報告が寄せられています。特にイスラエルによる占領地の状況(監獄と表される)、銃弾に倒れるパレスチナの少年、青年の有様が伝えられてきます。

貴重な報告です。日本
YMCA同盟としても体制が遅れましたが、その報告を共有する手筈を整えつつあります。訳についても日本YWCAとも協力していく予定です。

この報告については、下記の点をご留意下さい。

この報告は、世界YMCA同盟、世界YWCAを代表しての報告、意見表明ではないこと。

インターナショナルオブザーバーとしての報告です。

この日本語訳の報告の一部を引用することは構いませんが、全体の転載をする場合は、日本YMCA 同盟(本田真也)までご一報下さい。
・英文は、世界YMCA同盟HPHYPERLINK をご覧下さい。     

日本
YMCA同盟 本田真也
TEL 03-5367-6640
Email  honda@ymcajapan.org



主題:ガザ
―――「なぜ、あなたはそこへ行きたいのか」

ガザYMCAについて(注1)

テーマ:ガザにおける生活

 要約

 引用

 おわりに

●はじめに

この報告の冒頭の言葉「なぜ、あなたはそこへ行きたいのか」は、私がガザへの通過地点であるEretzを通る毎に受ける問いかけである。イスラエルの兵士にとっては、ガザ地区へ自発的に行こうとする者がいるとは、全く信じられないことである。私自身、初めてガザへ行ったときには自分自身にこの問いかけをした。まず目を捉えるものはコンクリートと、ワイヤ、そして落書きである。まず始めに鼻を捉えるにおいは、無視と貧困と過密する群集から発する悪臭である。耳に最初に入ってくる音は、車、トラック、クラクションの騒音である。しかしその後、目に入るものは、古い教会でありモスクであり、そこかしこにある樹木であり、また同時に人々が守り続けている小さな庭である。そして潮のにおいに気づき、ガザの人々に会うのである。

ガザを訪れることはすばらしい。そしてそこに暮らすことを強いられているのではないことをあなた自身が知っているなら、それはなおよい。ガザの人々には選択できるという贅沢はない。彼らはこの地球上で最大の野外の監獄とでもいうべき場所に巧妙に閉じ込められているのである。

ガザYMCAについて

 YMCAはガザの市街地の中心部に位置している。1952年に、エジプトYMCAのサポートにより発足、イスラエルが1967年にガザを占領するまではエジプトYのブランチのひとつであった。国際政治上、これ以後ガザは特定の国家に属しておらず、従ってナショナルムーブメント(注2)の一員となっていない。

 YMCAの敷地内に入ると、まず樹木や小鳥のさえずり、そして何よりスペースの広さに気づく。およそ1.5ヘクタール(1万5千平方メートル)の敷地に、フットボールコート、テニスコート、幼児の遊び場、ステージのある気持ちのよい広場がある。多くの草木や花が植わっている。また、建物が幾棟かあり、その一つが幼稚園である。あなたはこれを読んで、おそらく、ごく普通のYMCAの施設を思い浮かべたことであろう。しかし、ガザにおいては、ここはごくわずかの開かれた場所のひとつであり、そのためここはたいへん特別なものとなっている。

 ガザYMCAにおける「ビッグ」な夜は木曜日である。学校は全て金曜日に休業となるため、子どもたちは遅くまで外出ができる。午後5時から9時まで、200人を越す子どもと若者がYMCAに集まる。彼らは、サッカーやバスケットをしたり、インラインスケートをしたり、ブランコをしたりする。同時におとなたちは話をしたり、チェスやドミノに興じたりアラビアコーヒーをのんだりする。盛大な照明が全体を照らしている。その雰囲気はまるでイタリアの広場のようである。信じがたいほどの快適さである。

 平均して1週間に750名の子どもと青少年がYMCAにやってくる。キリスト者の若者のほとんど全員がYMCAにやってくるが、YMCAにいる若者の多くはムスリム(イスラム教徒)である。これはガザ地区の約110万人のパレスチナ人のうち、2500人しかキリスト者がいないためである。YMCAのスタッフにはムスリムとキリスト者の両方がいるが、選挙で選ばれる委員会メンバーは全員キリスト者である。このようにして、ガザYMCAでは、キリスト者としてのアイデンティティを失うことなしにまとまりのあるバランスを保っている。

 ガザのキリスト者の子どもは皆キリスト教主義の学校に行っているため、また、教会もキリスト教教育をおこなっているため、YMCAでは伝道はおこなっていない。彼らのいうように、「ムスリムになるキリスト者などいるだろうか?あるいは、キリスト者になるムスリムはいるであろうか?」その代わりに彼らが行うことは、若者に宗教的寛容さを教えることである。これは、キリスト者がごく少数派であるこのような環境においては極めて重要なことである。ガザYMCAは確固としたキリスト者としてのアイデンティティを持っており、また同時にムスリム(イスラム)社会に対する深い敬意をも持っている。このようなバランスを維持することはたやすいことではない。そしてそれは、YMCA指導者が、圧倒的優位かつ極めて保守的なムスリム的環境での生活、仕事、奉仕においての経験を終始、絶えず続けることにより初めて可能となるものである。

●プログラムの紹介、およびインティファーダ(民衆ほう起)による影響

YMCAには次のように5つの主な部門がある。

体育部門には年齢の異なるいくつかのチームがある(主として青少年)。これらのチームは、ボランティア指導者のもとで週数回の練習を行う。各チームは競技にも参加するが、インティファーダ以来このような競技は政策により事実上不可能となっている。移動は、ガザ地区の内部間であっても非常に危険を伴うものであり、必要以外には行わない。

芸術部門は最初のインティファーダ以来始められた。YMCAでは、若い人々にとって絵を描く才能を伸ばす可能性があまりに少ないことを懸念して、この部門を始めた。それ以来、ガザではこの部門が非常に有名となり、エルサレムやヨーロッパにおいても展覧会が開催された。もし、インターネット上で検索するならばYMCA以外からも芸術部門にリンクできる。6ヶ月ごとに25人の新しいグループ(注3)が、芸術家としての自己表現を学ぶという旅路に胸を躍らせながらつくのである。彼らは半年間週3回YMCAに通い、専門家が彼らをその期間指導する。ガザの若い芸術家はほとんどこのプログラムを経ており、履修者はまもなく1000人に達しようとしている。

 以前に私が報告した通り、1年前一人の芸術部門の学生が、夜の帰り道でイスラエル居住者により殴り殺された。彼の肖像が仲間の学生によって描かれ、今YMCAに掲げられている。YMCAは彼の名誉を立てて記念の展覧会を主催した。

福祉部門では、例えばガザ住民が楽しめるようなコンサートやパーティなど、いくつかの社会活動を行っている。これは非常に必要とされていることであるが行われている場所はたいへん限られている。一般的に、こういった活動は多くの人々を惹きつけるが、インティファーダが始まった時にYMCAはこの部門を中止することを決めた。これは悲しむべきことであった。今、ガザの人々はこれまでにもまして楽しめる場所を必要としている。この部門が閉鎖された理由は、複数の、攻撃的なイスラム原理主義者グループの存在による。これらのグループのために困難な事態が引き起こされている。彼らはサッカーにおけるフーリガンのような行為をし、建物に放火するというようなことさえある。その数は多くはないが、予測がつかず、そのためにYMCAは彼らとの衝突を避けるのに非常に神経を尖らせている。

プレスクール部門はYMCAの敷地や建物が1日中活用されているということを再認識させてくれる。そして学校の建物はこれまで私が訪れたヨーロッパの幼稚園のほとんどを超えるものである。中庭を挟んで二つの建物があり、設備の整った遊び場があり、自由に運動場へ行き来できるようになっている。どの部屋も蜂の巣を思わせるような六角形をしており、亀やドナルド・ダック、恐竜などの絵が描かれた壁は、まさに「3才児から6才児のルール、ここにあり」と言わんばかりである。YMCAには運転手付きのバスがあるため、安全に子どもたちを海岸や教会、モスク、その他の場所へ遠足に連れて行き、彼らに知識やのびのびとした雰囲気を与えることができる。時にはYMCAでは子どもたちのために俳優を招いて上演してもらうこともある。ここには150人の子どもたちと12人の教師、そして生き生きとした雰囲気がある。しかし何と言ってもガザの子どもたちにとって最も幸いなことはその広さである。過密した住宅に暮らし戸外で遊ぶことも許されないために、YMCAのプレスクールは、彼らにとって養鶏場のチキンよりも広いスペースを得られるただ一つの場所となっている。

 インティファーダは家計の収入にとって深刻な影響を与えており、多くの親は授業料を払うことができない。YMCAにとって貧困のために子どもを追い出すことは問題外の選択肢である。それはYMCAの使命の核心を冒涜するものである。そのため、今年度のプレスクールは事実上赤字運営となり、給与を確保するのに大変な問題を抱えている。

 青年部門では、ガザYMCAには15才から25才までの約80人のユースリーダーがいる。この部門は組織全体の中の最も大切な要とみなされている。この部門ではトレーニングを受けて、自ら社会活動や子どものためのプログラムを運営している。総主事イサ・サバおよび他のスタッフがこのトレーニングを企画するが、それは非常によく考慮されたものである。彼らはYMCAが10年以上もの間若い人々を育て上げてきたと言っている。このトレーニングとは、民主主義や人権について教えたり、教育学的なスキル、組織について、活動計画、またYMCAの使命やその他の種々の事柄に及ぶ。彼らは、また、何とかできるだけ多くのスタッフに他の国のYMCAを訪問する機会を得させようと努めている。彼らは独自の社会活動を組織している。また彼らは独自の集会を毎年開き、その場で活動の責任者となる青年の委員を選出する。また彼らは合間には子どものための運動以外の全ての活動をも運営する。これらの活動には500人の子どもが参加する6週間の夏期キャンプも含まれており、冬には例えばドラマのクラスのようなプログラムを幾つも行っている。



●YMCAについて、またガザの若者についてユースリーダーと語り合う

このインタビューは、17才から23才までの11人のユースリーダーと行った。そのうちの6人が女性であった。我々は彼らの人生について、またガザ地区の若者の生活一般について話し合った。彼らは全員が数年以上YMCAに関わりを持っている。彼らはよく教育を受けており、彼らのほとんどが大学生か、または大学の卒業生である。

問:あなたにとって、YMCAはどのような意味を持っているのでしょう。そしてあなたはどれくらいの頻度でここに来ていますか。

:YMCAは私たちの二つ目の、そして時には一番目の家です。私たちはここに週何回も来ますし、夏には毎日来ています。もし私たちにYMCAがなかったら、私たちにはどこにも行くところがありません。このガザでは、若い人、特に女の子にとっては、やることが何もありません。ここだけが、私たちの出かけられるところなのです。私たちの家族は、ここにいれば安全だとわかっているので喜んで私たちを送り出してくれます。

問:あなたはYMCAでどんな活動をしますか。

答:時には私たちはただぶらぶらするためにだけ、ここに来ますが、できることはたくさんあります。バスケットだとか、テニスだとか、サッカーやバレーボールなどです。他にもいろいろなゲームをしたり、パレスチナのフォークダンスを練習したりもします。他の人は、アートのクラスのために来る人もいますし、コンサートや展覧会などの催しが頻繁に行われます。ユースリーダーとしての私たちの主な目的は子どものための活動を考えて、子どもたちが楽しんで、こういう状況を忘れるようにすることです。私たちは、子どもたちが活動的でいられるようにすることがとても大切だと考えています。なぜなら彼らは砲撃が続いていることにとても怯えているからです。

 ユースリーダーの間では、毎年選挙を行い、ユースコーディネート委員を選びます。委員会のメンバーは私たちの活動やトレーニングの計画をイサ(総主事)と一緒にたてる人たちです。

問:それでは、YMCAに来ない若い人たちはどうなのでしょう。彼らは何をしているのでしょうか。

答:何もできることはありません。テレビを見たり、トランプで遊んだり、インターネットカフェに行くか、寝ているかです。インティファーダが始まった時から、人々はイスラエルに行くことができないために仕事さえもなくしてしまいました。だから、みんな1日中なにもすることがないのです。夏にはまだマシです、1日ビーチにいることができますから。

―――Zaher、23才、政治学を勉強中。「私の1日はこんな感じです。朝、大学へ行き授業に出ます。午後2時に家に帰り、昼寝をします。午後4時にYMCAへコーヒーを飲みに出かけます。午後6時、通りへ出てトランプをし、その後は、たいていメールをチェックしに出かけます。夜9時に家に帰ると両親と弟はテレビを見ています。彼らは失業していて、とても落ち込んでいます。彼らは夜遅くまでそうしています。私は、勉強しようとしても、頭の中がかきまわされてしまいます。いつもひとりで腰をおろすと、現状について、また殺された知人について、私の家族について、収容所にいる私の兄について、考え始めます。そして私は集中することができないのです。

問:あなたが行く何かカフェやクラブのようなところはありますか。

答:レストランは何軒かありますが、値段が高いし、他にやることがなければ退屈です。ガザには一人ではいるようなバーもナイトクラブもありませんが、そういうところの経営が成り立つとも思えません。どのみちアルコールを買うことはできませんし(ガザにはアルコールを出すレストランもバーもない)、女性は入ることが許されないのですから、何のおもしろいこともありません。

問:私は多くのパレスチナの若い人たちが、ここで起こっているすべてのことのために、自分は楽しむ権利を持っていないと思っているように感じました。なぜなのでしょう。

答:私たちと同じ年頃の人が殺され、国が取り上げられているというのに、一体どうやって楽しむことなどできるでしょう。仲間が苦しんでいるのに、楽しめるわけがありません。

問:それはそうですが、占領はあなたが時に人生を楽しむことを避けているがために終わらないのです。占領は67年から続いていますが、これはあなたの全人生ですね。あなたはうんざりしたことはないのですか。

答:占領は1948年から続いているのです。これはパレスチナが私たちから取り上げられ、私たちが難民となった年なのです。そして、私たちは絶えず占領のことを忘れずにいるのに、どうやって楽しむことができるでしょう。毎朝、誰かに会ったら、こう言うのです、「おはよう、夕べは何人殺されたか知ってる?」これがアラブの挨拶になってしまいました。ほとんど毎朝、誰かが殺されています。そして必ず誰かが傷ついています。毎晩、銃声が聞こえます。一体どうやって楽しむというのですか。

―――フィフィ、22才、アメリカンスクール勤務。「時折私はうんざりした気持ちになります。そして外国人の私の友人は私たちのことについて時々文句を言います。前に一度西欧から来た友人が、私に、私たちパレスチナ人はちっとも面白みがない、といったことがあります。私はとても頭にきました。私たちはみんな楽しいことが大好きです。でも、私たちの伝統的なやり方は私たちから取り上げられ、その代わりに悲しみの中にあるのです。

問:今回のインティファーダは、1987年から1993年にかけてのインティファーダよりずっとひどい、と多くの人が私に話してくれました。違いは何なのでしょうか。

答:違いは、最初のインティファーダは彼ら(イスラエル軍)は、ただ銃撃するだけでしたが、今回彼らはヘリコプターを使い、過激な砲撃や車の爆破を行っている。どこにいようと安全ではありません。ここガザ地区では私たちは閉じ込められています。私たちは海外へ行こうとでもしなければここから出ることはできません。私たちはイスラエルへ行けないし、ヨルダン川西岸へも行けない。閉所恐怖症です。私たちのほとんどが、もう1年以上もガザシティから出たことさえないのです。この地域を移動することは危険過ぎて必要がない限りはそうしないのです。

―――ハニ、23才、大学生。「夜、砲撃の音を聞くたびに私はどうしていいかわからなくなる。だから私は台所に行って、忙しくするために食べ始めます。これはほとんど強迫的な習慣です。」

問:あなたは移住することを考えたことがありますか。

答:いいえ、私たちは外国に住みたくないのです。私たちの故郷ではありませんし、もし私たちがいなくなったら誰がイスラエルの占領に抵抗するのでしょう。私たちは降伏しません。しばらくの間離れていたとしても、私たちは帰ってくることを望みます。私たちは友人や家族を恋しく思うでしょうし、ガザを恋しく思うでしょう。

問:あなたたちは、10年以内に自分たちの国家を持てると思いますか。

答:いいえ。でもそうできることを望んでいます。

このやり取りの途中、私は、なぜ西欧世界はパレスチナを助けるために実質的なことを何も行わないのか、またなぜ西欧はアラブを嫌うのか、という質問を受けた。後に、この問題はアフガニスタンの戦争に関する質問と合致したのだが、私はこれまでのところ、戦争が好きだという人には一人も会ったことがない。



                  


このページの情報はで提供されています。