1999年11月祭研究発表「見つめようこどもから―子どもと労働―」

1 フィリピンのストリートチルドレン


ストリートチルドレンって?

ストリートチルドレンって?
路上で働いているか、あるいは路上を住処としていて、家族や社会から適切に保護されていない子ども(18歳未満)

ストリートチルドレンの《三つのカテゴリー》

@ 路上にいる子ども−家族とのつながりがあり、働いている子どもが多く、ある程度家族 に依存している。
A路上で暮らす子ども−家族の支配から脱している。
B捨て子

→実際には、子どもたちはこの三つのグループを行き来する場合もあるので、明確な定義がなされにくいものである。
また、ストリートチルドレンは社会的・経済的・政治的な力や厳しい気象の威力に影響を受けやすく、路上で暮らす子どもたちの多くは毎日、正確には毎晩生存を脅かされている。

《農村から都市へ…》

フィリピン

1970年代後半から80年代半ば
→経済危機の影響によって、打撃を与えられた農村部で暮す人々が地方の貧困から逃れるために、都市に移住する人々が集中する。 <職や子どもの教育の場を求めて>

都市が与えてくれたものは?

急速な都市化によって生まれた不健康で過密な*)スラムの住宅
急速な人口流入により慢性的な職不足
建設工事や行商などのインフォーマル部門での不安定な低賃金・長時間労働

都市移住者とその家族は都市に来ても、なお苦しい生活が続き、子どもたちはそういった悪条件の生活環境の中で高まるストレスや、家計を助けるという必然性からストリートへと押し出されていく。

補足*)スラムの暮らし

海岸、川縁、湿地帯、鉄道線沿いなど、公有地・私有地の区別なく空いている土地に、木片や古トタン、段ボール、ボロ布などで自分たちの住家を構えている。

キャットウォークとよばれる細い板切れが渡された狭い路地をはさんだ、古資材を寄せ集めた掘っ立て小屋がひしめき、もともと湿地帯のうえ、汚水で湿っていて、あらゆるゴミや汚物が落ちている。トイレはなく、不法占拠地だから電気、水道も未整備である。

→家族が暮らす物理的環境は肉体的、心理的、情緒的ストレスの高め、人間関係を悪化させ、家族を崩壊させる一要因である。しかしながら、一方では、フィリピン人は強い仲間意識と相互扶助を重視する特質があり、スラムでの困難な生活の中で親密な感情で結ばれあう社会システムを構築していることは見逃せないことである。

 《ストリートに出る理由》

ストリートチルドレンの8割の子どもは家族と同居し、家族の生活のために家計に貢献すべく働いている。したがって、子どもたちがストリートに出て働く主な理由は、経済的理由である。しかし、余裕のない生活の中で自分の生活に精一杯の親をもち、家庭内での疎外感、両親の別居、離婚、けんか、義父母との関係など家族との関係に悩んでいる子どもや、虐げられている子どもにとって、路上は孤独と危険との闘いである一方で、自由と独立を与えてくれる避難場所となっている。

『路上で目覚める子どもたち』1991 国際子ども権利センター もあの
両親と同居しているか YES72 NO28%

《ストリートでの生活》

" 路上の子どもたちにとっては、生きることは働くこと。"

【仕事の種類】
・乞食
・くず拾い
・車見張り、洗車
・物売り(新聞売り、花売りなど)
・荷物運び
・靴磨きなど

▽ インフォーマルセクター△
国民所得統計などの公式の統計にはあらわれてこない所得よって支えられている経済部門での仕事

【仕事の場所】
ごみ捨て場、観光スポット、市場、盛り場、公園、
波止場、スーパー、バス・ジープニーの停車場、
レストラン街、ショッピング・ゾーン、教会の敷地内など。

※ 比較的軽労働から危険な仕事まであり、労働時間も1日2時間程度から12時間まで、時間帯も新聞売りのような早朝から深夜の車見張りまで様々である。中には、スリや麻薬の売人などの犯罪、売春などの精神的、肉体的に苦痛の大きい仕事に従事する子どももいる。

《ストリートチルドレン事情》

ストリートチルドレンの活動の場は大部分が縄張りに支配されているよ。
大人たちや年長のストリートチルドレンから身を守るために、毎日、毎時間が生きるための闘いなんだ。

▽ ストリートチルドレンは、しばしば、蔑まれたり、社会から閉め出されているので、孤独感、挫折感、情緒不安定、愛情への願望と反発の中で心の歪みが生まれ、そういった不安定な暮らしが持続的な人間関係を作ることを困難にしている。
▽ しかし一方では、家族から離れてストリートに出た子どもたちの間に、互いを守るた めの仲間が組織され、その中でルールを示し、生存を確保するためのメカニズムとして機能している人間関係が生まれ強い絆で結ばれている場合もある。
▽ 家族のために働いている子どもたちにとっては、自分の稼ぎが家族の生活に役立つことに誇りをもったり、自分のためにお金を使えることは大きな喜びであり、自信につながったりすることもある。

《危険・搾取》

路上で働く中で、搾取されるストリートチルドレンが稼いだお金

直接的―チンピラ、ガードマン、警察官などから
間接的―登録制の荷物運び、売春の組織に属している仕事の中での組織の大人たちから

ストリートチルドレンを脅かすもの

@ 病気になる危険

〇寒暖の差が激しく、不衛生な路上の生活のなかで、子どもたちの健康状態は様々な問題点がみられる。
〇ストリートチルドレンの多くは栄養失調状態にあり、成長を妨げ、病気に対する抵抗力を弱めている。
〇発熱、悪寒などの症状は慢性病のように定着しつつあり、筋肉や骨の痛み、皮膚病なども蔓延している。

病気の治療は医療施設を利用する子どもは比較的少なく、多くの子どもたちが自己流の治療に任せて、軽い病から死に至ることもあり、ストリートチルドレンにとって病気は深刻な危険のひとつである。

A 暴力、犯罪に巻き込まれる危険

暴漢や警備員、周囲の大人たち、年上のストリートチルドレンから振るわれる暴力の犠牲者となり、一方では加害者になったりすることもある。

子どもたちは暴力などの怖さから避難するためにグループで行動するようになり、そういった過程で、仲間同士でスリや盗み、麻薬、ギャンブルに陥ってしまう子どもたちもいる。
麻薬の誘惑に落ちてしまうと、再びそれを手に入れるために、さらに大胆な盗みや売春、麻薬密売人へと危険な仕事に足を踏み入れていくことになる。

B 逮捕される危険

ストリートチルドレンの多くは逮捕された経験をもっているが、実際に明確な罪がある子どもは少ない。歩道の障害や邪魔になる、許可なく物売りをしたなどの理由で簡単に逮捕されるのである。

<逮捕される理由>

放浪 盗み ギャンブル けんか 強盗
【ごく一部】
麻薬 シンナー すり 野蛮行為 殺人容疑

逮捕されたら、大人の留置所に30分から5週間もしくは、それ以上拘禁され、子どもたちは精神的にも肉体的にも深い傷を負うことになる。
また、拘留される以外に、警察署を掃除させられる、お金を没収される、殴られることもある。

▽ 一斉逮捕の際などには、外交官や観光客に配慮して、町の美観を保つという名目で逮捕されることもあり、一般市民の生活を守るはずの警察官はストリートチルドレンにとっては脅威の存在となっている。
▽ ストリートチルドレンを潜在的な加害者とし、彼らを施設に閉じ込めて置くことによって犯罪率を低めるとして強制収容させられることもある。



ストリートチルドレンが直面する現実

このように病気、犯罪、逮捕、路上での生活はまさに危険との隣り合わせである。

それでも子どもたちにとっては、路上が彼らの前にある現実であり、働くことと生きることが同義である以上は、路上に出ていかざるをえない。

また、働くことによって自分自身、そして現在と将来の家族の生存を支えられるのだという自信と責任感などの積極的な感情を子どもたちにもたらしていることも事実なのである。だからといって、ストリートチルドレンの良い面ばかりを認識するのではなく、ストリートチルドレンは「私たち自身の技術文明の犠牲者なのである。彼らは、現在の都市生活をうつしだす鏡のようなものだ。彼ら自身もまた都市文明の本質を正確に反映しているということができる。」(国際人道問題独立委員会報告書「ストリートチルドレン−都市化が生んだ小さな犠牲者たち」)と言われているように、不自然な環境の中で子どもが必死になって働いていかざるをえない、不自然な生き方を是認することがあってはならないのではないだろうか。そんな問いかけをもとに、フィリピンのストリートチルドレンがなぜ生れているのかを探っていきたいと思う。

参考文献



「擬似都市化」はなぜ起こるのか

《増える都市の人口》

 1970年代頃から、フィリピンではマニラ首都圏への人口集中化が進んだ。


マニラ首都圏への移住者は

1970〜75年  26万3058人


1975〜80年  37万8878人
                                        と明らかな急増が見られる。

しかし、一方の都市のでは人口の増加にも関わらず雇用条件や住宅環境など都市の環境が整わないままである。

この現象を「擬似都市化」という。

この「擬似都市化」が都市の周辺に拡がるスラムを生み出し、そしてストリートでインフォーマルな仕事につく子どもを生みだした。
マニラのスラムには全人口の約40%が住むといわれているが、これらの人々のうちのほとんどは農村、漁村から移り住んできた人々である。

それでは、この「擬似都市化」はなぜ起こってきたのだろうか。
「押し出し側の要因」「受け入れ側の要因」に分けてみてみよう。

押し出し側の要因 〜農村を追われる農民たち〜

その背景を探るにはまずフィリピンの歴史を植民地時代までさかのぼってみる必要がある。

スペイン時代
たばこ、サトウキビ、マニラ麻などの輸出作物の世界的需要が拡大したためそれまで荘園を所有していた教会や地方総督に加え、スペイン人入植者や現地人支配層が競って土地の囲い込みをはじめた。

アメリカ時代
更にアメリカ軍人や多国籍アグリビジネスによる土地囲い込みが進行する。

こうして大規模な農園が各地に生まれ、土地を共有しながらそれぞれが自営の農民であった古来の社会は崩れて、人々は地主の土地を耕作する小作農または農業労働者になっていった。

ここに現代の「貧困」の原点がある。ひとにぎりのエリートと大多数の貧困層からなる現在のフィリピン社会はこの植民地時代からの土地所有関係が基盤になっているのである。

ここのところを押さえた上で、フィリピンの現代を見てみることにする。

《農業軽視の政策》

T すすまない農地改革

このような土地所有の実体の中、フィリピンの歴代大統領の中で農地改革を口にしないものはなかったが満足のいくような改革をしたものもまたなかった。

@マルコス大統領による大統領令27号(1972年)=全国的な規模の農地改革
・ 実際の農耕者に土地所有権を約束するものであり、それまでの改革に比べて実質的な変革をもたらすものであった。

だが、
・ 対象となったのは米、トウモロコシ地帯だけ。
(砂糖、マニラ麻、たばこなどは小作率が比較的に高いのにも関わらず対象外。砂糖きびの伝統的大農園、外資系プランテーションは影響を受けず。)

・ 中小地主に対しては抜け道があった。
(これは軍部に中小地主層が多いためである。土地の保有限度が曖昧かつ高かったため実際は半数以上の小作農家が農地改革の対象外となった。)

・ 対象地となることを回避できる
― 分割相続による土地の細分化、他作物への転換などによる

Aアキノ政権下の包括的農地改革(1988)
・ 全ての農地について、
・ 小作人のみならず農園労働者、土地なし農業労働者までをも対象とするもの
・ 農地改革の集大成?

だが、
・政府の財源不足 地主から土地を買い上げる資金がない
・相変わらずの抜け道だらけ 地主と政治家との結託

このように、苦しい暮らしを強いられている小作人、土地なし農業労働者の生活向上を目指した農地改革は根本的には行われないままであった。
そして更に悪いことには、中途半端な農地改革はもっとも貧しい人々を残して地域間格差、村落内格差を拡大させることになったのである。これが農村から都市への人口流出につながっていった。

U 農地転用の問題

工業発展を第一にするフィリピンの政策の中では、肥沃な農地でさえ曖昧な基準で商工業用地に転用されてきた。しかも小作人、労働者には後の補償がほとんどない場合が多い。

実際に農地を耕作していた小作人、農業労働者が職を失い都市に流入

《技術革新と生産性向上、しかし・・》

マルコスが農地改革を実行したのは農民の不満を抑えるという目的以外にも生産性を向上させるためという大きな目的があったからだ。

1960年代後半、IR8号という高収量品種が発明された。 いわゆる「緑の革命」の一環である。

「緑の革命」
1970年代はじめ、小麦・稲において従来のものに比べ飛躍的に収量の高い品種が発明された。これを「緑の革命」とよぶ。「緑の革命」は食糧不足に悩む発展途上国の農業に明るい希望を与え、発明者のノーアン・ボーログ博士は1970年ノーベル平和賞を受賞した。

IR8号=「チビデブ型の稲」
「チビ」の理由
葉の占める割合が少なくなるので穂の部分に効率的に栄養がまわる

「デブ」の理由
肥料を多くして多少背丈が伸びても倒れにくい。(肥料をやればやるほど大きくなる)
しかし・・

・たくさんの肥料をくう
(=肥料をきちんと効かせるために灌漑設備が整っていなければならない)
・ きちんと手入れしないと病気や雑草に負けやすい
・ 雨が降りすぎて水かさが増すと水に浸かってしまう

  この品種の導入は地主と小作農が一定比率で収穫と費用を折半する分益小作制度のもとでは難しかった。
 (圃場整備、灌漑排水設備の完備、肥料・農薬などの多量の投資を必要とするため)

  農地改革が緊急課題に
   (対象地が米・トウモロコシに限定された理由もこのあたりにある)        政府新品種の作付けを条件に農民に対する生産融資を供与する予定であった。

この品種の導入は地主と小作農が一定比率で収穫と費用を折半する分益小作制度のもとでは難しかった。
(圃場整備、灌漑排水設備の完備、肥料・農薬などの多量の投資を必要とするため)

農地改革が緊急課題に
(対象地が米・トウモロコシに限定された理由もこのあたりにある) 政府新品種の作付けを条件に農民に対する生産融資を供与する予定であった。

うまく機能せず、農民は結局華人系金融業者などに資金を頼ることに

重なる負債

農業生産が増加したのにも関わらず農業所得は低下するという現象

また・・
・新システムによる小作権強化で小作農と土地なし農業労働者間の格差が拡大。土地なし農業労働者の労働条件は悪化。
・一方、この「緑の革命」で農薬、トラクター、耕作機械や灌漑ポンプを供給す企業が潤った。しかもこれらの企業のほとんどが外国企業である。

「農業技術の革新で生産性が向上すると、農村に住む人々の生活もそれに伴って向上する。」という図式は必ずしも正しくない。「緑の革命」はその代表的な例である。
が、何も技術革新による弊害は「緑の革命」に限ったことではない。
一般に農業分野における技術革新・機械化は、それについていけるだけの資金力のないものを切り捨て、余剰労働力を生みだし、ますます多くの人々を都市に送り出すのである。

 また、多くの人々が都市に流入することになったもうひとつの要因に1970年代から1990年代初頭にかけての内戦状態がある。
  

  60年代末にフィリピン共産党とその軍事部門・新人民軍(NPA)は民族経済の確立と下からの土地改革を求めて武装闘争に立ち上がった。新人民軍は最盛時で約3万人といわれる兵力を誇り、主として山間部に拠点を置いて政府軍と対立した。

なぜ人里離れた山間部を拠点とした活動ができたのか、それはこうしたNPAの活動を支援するコミュニティー(=見えざる解放区)が全国各地にできたからである。彼らは密かにNPAに食糧、隠れ家などを提供した。 これに対抗するため、政府軍がとった行動は「見えざる解放区」をつぶすことである。NPAに好意的とみなされた村や、地主と農民が対立している多くの村が爆撃や砲撃を受けたりした後村ごと焼き払われたりした。地主が組織した自警団におそわれた村もある。
こうして村を追われた国内難民の数は20年あまりにわたる軍事弾圧の期間を通じて数十万はくだらないと思われる。こうして村を追われた人々が住む場所を失って都市へと流入することになるのである。

こうして農村では食べていけなくなった人々が都会に流入するが・

受け入れ側の要因 〜雇用を欠いた都市化〜

「近代化は農業から工業などの第二次産業への移行を伴うものである。農業生産の効率化により人々が農村から都市に流れ、工業化を支える労働力となる」

というのは多く信じられている図式であると思われる。

しかし、実際はそうはなっていない
農村からやって来た大量の人口を吸収できるだけの雇用が都市にはないのだ

なぜだろうか?

《工業化を大きく欠いた産業構造》

フィリピンの矛盾を深めているもの、それは外国資本による経済支配である。

1947年。フィリピン、アメリカより独立 しかし…

それは植民地時代の様相を色濃く残した初期条件のもとでのスタートであった。
すなわち、独立に際して制定された「ベル通商法」では

1 為替相場の(ペソ)過大評価のもとでのアメリカからの資本財輸入の増大
2 パリティ条項(アメリカ国民・法人に対する内国民待遇)によるフィリピンの基幹産業、資源開発へのアメリカ資本の進出
3 砂糖、ココナッツ等の一次産品の数量割り当てなどによる一方的な制約
が定められていた。
また、61年には米系企業の利潤本国送金の自由化が実施された。
このような条件の中で深く根を下ろした企業たちは…

デルモンテ ユナイテッド・フルーツ キャッスル&クック (巨大アグリビジネス)
ユニリーバ コルゲート・パルモリブ (化粧品・雑貨)
ネッスル ペプシ ケンタッキー マクドナルド コカコーラ (食品産業 )

これらの企業名を並べていて気がつくのは、企業の顔ぶれが製造業を欠いたものになっていることである。外国資本に支配されてきたフィリピンの産業構造の特徴として、「工業を大きく欠いた構造」ということがいえる。

《雇用を生み出さない工業化》

しかし、戦後のフィリピン社会が工業化していないのかというともちろんそうではない。

戦後すぐ 輸入代替工業化政策の失敗

マルコス政権下1970年代 製造業主導の本格的な輸出志向工業化政策

・製造品輸出額は急激に増大し、マルコス政権戒厳令下の平均実質経済成長率は6%を越え安定していた。

しかし、ここで注意しなければならないことがある。それは、成長したのは主に資本集約財産業(化学製品・石油製品)であった、ということである。

これらの分野の製造業に占める付加価値は20%を越えていたのにも関わらず対製造業雇用労働者数比率は常にそれぞれ1%未満と5%に過ぎなかった(1967以降)。

他方、比較的労働集約的な履き物、織物、木材などの分野は履き物をのぞけば大きな伸びが見られなかった。

フィリピンにおける工業化はあまり雇用吸収効果を生み出さない方向で進んでいった。

産業別就業者数比率(1956-92年)

このように、フィリピンの経済発展は、農村に堆積した余剰労働力の本来の受け皿を欠いた形で行われてきたのである。

《「貧しさ」の背景」》

マニラのスラムに生きる人々。低賃金の肉体労働、不安定なインフォーマル・セクターでの仕事につかざるを得ず、最低限の生活をするにも事欠く収入しか得られない。当然子どもたちも食べていくために働きにゆく。
「スラムの貧しい人々、そのために働きに出る子どもたち」現象だけを見ればそれだけのことだ。
しかし なぜ人々がスラムに住んでいるのか、住まざるを得ないのか
なぜ子どもたちが働いているのか、働かざるを得ないのか
それを探ってゆくとその背景に複雑に絡み合う様々な問題が見えてきた。

植民地時代からの不平等な土地所有関係
工業化と経済発展の流れの中で取り残される農村
大衆の利益に直接つながりにくい工業化と経済発展

その背後には 利益を争う政治家、地主
フィリピンを経済支配の中にとどめておきたいアメリカ
フィリピンの「経済発展」を支援しようとする日本
いろいろな存在が見え隠れする。
ストリートで働く子どもの背後に横たわる複雑に絡み合う問題。
「貧しいから子どもが働くのも仕方がない」と、本当に言えるのだろうか?

参考文献

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