1999年11月祭研究発表「見つめようこどもから―子どもと教育―」

コラム〜豊かさの中の貧しさ

担当:松岡尚美


 子供を教育する場として、学校と並んで重要な意味を持つのが家庭である。しかし最近では、子供をめぐる問題が取り上げられる毎に、必ずと言ってよいほどこの家庭の教育する力が衰えたと指摘され、改善が求められている。果たして家庭での教育、つまりしつけ……ここでは、礼儀作法や生活習慣にとどまらず、子供を望ましい人間にしようとする外部からの作用全体を指す……は本当に衰退したのか、そういった通念の背景には何があるのか、しつけの変遷を辿りながら考えてみたい。

 家庭の教育力が弱まっている、というイメージは、今や一般論として世間に広く流布しているといってよいだろう。これには、88年の政府世論調査でも63%の人が肯定的な回答をしていることからも明らかである。しかし、である。昔のしつけというのは、それほどまでに立派なものだったのだろうか。ここで、「昔」と聞くとなんとなくイメージされそうな戦前と、大きく社会全体が変革した経済成長の前後に絞って、しつけの変遷をみて検討してみる。

戦前/農村部;

 しつけの基準となるのは、村という共同体の中でのルールであり、またその担い手も子供組や若者組といったような同年齢集団や、村中の大きなネットワークが全体としてしつけの役割を果たしていた。家庭の役割はこういった共同体の中ではほぼ皆無で、親が思うように子供を育てるといったことはまず許されない状況であった。

戦前/都市部;

 庶民層から下層までの広い範囲で、大人は生活するのに手いっぱいで子供に配慮する余裕を持っていなかった家庭内でも子供の問題は優先順位が低く、放任型の子育てが中心であった。たとえば、商売の邪魔にならないように、と小遣いを与えて子供を外へ追い出すことも普通に行われていた。

高度経済成長期/農村部;

 上からの押し付けにとどまっていた「家庭教育の民主化」が、地域共同体が大きく変動したのにつれてようやく浸透した。若者が都市に流出するようになって、家族にとって子供の学歴が重要になってきたのだ。また経済成長によって子供の教育に割くことのできる経済的余裕もでき、都市と農村の格差はほぼなくなった

高度経済成長期/都市部;

 一部に、過剰に教育熱心な母親達が登場し、我が子の教育に惜しみなく時間とお金を使うようになった。通塾やお稽古事の過剰さが目に付き、批判され出したのもこのころである。ただし庶民層の大部分では、いまだに世話が行き届かないのが一般的であった。

高度成長後…現在;

 「家庭こそが子供のしつけの担い手である」という意識が広まり、それまでの学校依存から一変して学校に対する見方が厳しくなった。また、「教育する家庭」の中で過剰に親子が密着し、機能不全を起こすケースが見られるようになった。

 以上の歴史的変化を踏まえると、現代は、世間のイメージである「しつけは衰えた」状態とは逆で、親は以前よりもはるかに熱心に子供の教育に取り組んでいるといえる。というよりは、学校や地域の影響力が薄れてしまった現代では、家庭が子供の教育に関する責任を一身に負わざるを得なくなっているのだ。そして、ここで問題にしたいのは、現代の親達がしつけに自信が持てず、不安に悩まされる主な原因が、家庭の外に氾濫する情報なのではないかということだ。たとえば何か子供に関わる事件が起きたときに、マスコミで専門家が「家庭のしつけに問題があった」として、もっとしつけに熱心になるようにと訴えるとする。そうすると、それを聞いた親達は、我が子も自分のちょっとしたミスで事件を引き起こすかもしれない、という不安にかられることだろう。しかし只でさえ、先ほどみたように、家庭の子供に対して負う責任は重くなっているのだ。ここで更に、「今のしつけは駄目になった」という間違ったイメージに基づい他「しつけを改善すべき」という情報を流すことは、親の不安を煽り追いつめるだけで、逆効果にしかなっていない。

 確かに今の子供は、多くの大人から見れば「常識」では理解できない行動をとるようになっているかもしれない。それを少しでも解釈可能にするために、「家庭のしつけ」や「学校の体制」などに原因を求めて単純理論化すれば、少なくとも子供を取り囲む環境にない大人は、子供を見て得る不安に説明をつけることができる。しかし、そうして原因を一個所に求めその改善を求めるだけでは、根本的な解決に至らないことは、もう既に皆うすうす分かっていることだと思う。

 大半の大人は、子供たちの親も含めて、自分達が憧れ、獲得してきた豊かさと平和を十分に享受しているはずの子供が、これ以上何に不満や不安を抱えているのか理解できないでいるのだろう。なぜなら、大人達が経験した欠乏感と、今の子供たちの苦しむそれとは本質的にまったく違うからである。戦後、今の年長者達は、カネやモノに対する飢えを味わってきた。しかし今の子供が飢えているのは、もちろんそういうものではない。それは、「生きる意味」への飢えなのではないだろうか。学校へいく意味、進学する意味、就職してお金を稼ぐことの意味……これらを子供が求めながら、見出せずにいても、大人はそれに気付かないか、気付いても応えてやることはできないのだ。そしてそのわけは、実は大人も、憧れ求めた末にたどり着いた、「豊かな」経済大国日本にいながら、どこか満たされていない思いを抱えているからではないだろうか。 今の子供たちの「常識ではかれない」数々の事件や問題は、大人達が日々なんとなく感じている今の「豊かさ」への不満足感と、根は同じであるような気がしてならない。

 「まったく、今の子供はしつけがなっていない」「最近の親は、子供の世話もろくにできないのか」……古くからこの手のせりふはよく聞かれるが、しかしこの現状は、「困ったものだ」と傍観していられる事態ではないだろう。今子供をめぐる問題が噴出しているのは、戦後日本が追い求めてきた「豊かさ」が、本当に皆の求めたものだったのか、一度皆で立止まって見直す最終段階にきていることのサインかもしれないのだ。 今回は、家庭での教育が子供の問題を考える発端になったが、今改善を迫られている、たとえば学校や地域のあり方を問い直すことから始めたとしても、結局同じところに辿りつくのではないだろうか。つまり、今直接的に子供に関わっている人はもちろん、そうでない人も、皆で、責任をどこかに押し付け合うのではなく、子供の不安と不満のもとは何なのかを考えてみる時期にきているということである。どうか一度、今の子供たちの不安を、自分と遠いところのこと、と切り離さないで考えてみてほしい。

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