III 運動は何を変えることができたのか


1.表面的な解決と現実

 サテイー、幼児婚などの社会問題は様々な団体により熱心に反対運動が繰り広げられ、イギリスまたは独立後のインド政府により法律の制定、またはヒンドゥー私法の改正という形で表面上は解決されてきた。その主なものとして、1947年の独立の際に制定された憲法が挙げられる。ここには職場、職業における差別を禁ずる明確な規定があり、この憲法によって、女性は法的地位を西洋諸国と同様に先進的レベルに引き上げることに成功した。

 しかし現実を見る限り、それらの優れた法規は「絵に描いた餅」(インドでは「張り子のトラ」と表現するらしい)にとどまっているといわざるをえない。事実、男性たちは「法律を実際に履行する」ことなど夢にも考えていない。彼らにとって、それはあくまでも「国のしくみ」として施行されただけのものなのだ。一方女性はどうかといえば、まず何よりも隔離された生活を送っているためにそのような情報は彼女たちの耳には届きにくい。もし届いたとしても自分自身の法的権利について理解できる可能性は少ない。更に社会進出を果たしている一部の有職女性について考えても、彼女たちが自らの法的権利に目覚めたとして、その権利のために実際に戦えるだけの財源、権威を持つ女はまだ極めて希なのである。
以下、個々の具体的な社会問題についてその進展を順に見ていくことにする。

 

2.個別の課題とその成果

(1)憲法

 既に述べたように、1947年独立とともに制定され、カースト、ジェンダー、宗教、階級といったあらゆる形での差別を禁じている。また女性にも参政権や幸福追求権を認めている。実質はともかくとして、この憲法により女性の法的地位はほぼ完全に段性と同等のものとなった。

(2)サテイー

 「サティー」とは「寡婦焚死」と日本語に訳されており、夫が亡くなった際にその妻が夫の荼毘の火中に身を投じて殉死する習慣をさしている。古来インドでは、寡婦に対し再婚を禁止し、「装いをこらすことを禁じ、窓辺に立つことを許さず、化粧をなさず、美食を食せず、他家を訪問せず、祭礼に赴かず、一日一食にして地上に伏すべし」(「ヴィシュヌ法典」)などと定めており、彼女らは悲惨な状態をおくってきた。そのような状態を知っている新しい寡婦が、特に慰められるべき子女もいない場合には、生きながらえて苦難の余生を送るよりは、むしろ夫とともに死することを願って、自ら進んで殉死を遂げたものと考えられる。しかし、このような行為が昔からヒンドゥー教徒の間で広く行われていたわけではないし、すべての寡婦に対して法的にも慣習的にも強制されていたわけでもない。むしろ寡婦が自ら進んで夫の死に殉するということは、非常に献身的な行為として称賛され、家族の名誉とされていた。

 しかし、サティーは18世紀後半に一部の上位カースト(特にクシャトリヤカースト)の間で広範に行われ、藩王の間では荼毘に付す薪に投じる女性の数が巧妙の証になっていた。そして19世紀の初頭になると一般に大流行し、特にベンガル州において甚だしく、1818年には週内に839人の寡婦の焚死を記録し、カルカッタ地方ではそのうち544人を数えた。

 それに対し、サティー廃止運動が盛り上がったのもこの頃である。ヒンドゥー教改革論者やインド在住の西欧人たちによって廃止が唱えられていたが(U章3項で挙げたラーム・モーハン・ローイの運動に代表される)、インドを統治していた英国政府は現地住民や現地兵の反乱を恐れて廃止に踏み切れなかった。しかしついに1829年、時のインド総督ベンンティング卿によってサティー廃止令が発令された。この法令によってサティーは「罪を構成する自殺」とみなされ、法的に禁止された。だが、多年浸透した慣習は容易には粛清されず現在でもなおごく稀にではあるがサティーは行われ、インド女性の尊敬と同情の的となっている。

(3)寡婦の再婚

 古来インドはの社会では、婦人は結婚して家庭の妻になること、家事を賄い、夫を扶けて家庭の祭事を行ない、祭主たるべき男子を設けることを目的とし、夫に対しては絶対服従と貞節を旨とし、大家族の中にあって多数の長上に仕え、常に忍従の生活を送らなければならなかった。貞節は婦人の最大の美徳として称揚せられたが、この思想はさらに発展して寡婦の再婚を禁ずる習慣を生ませるに至った。それに対して声をあげたのが前に挙げたラーナデーである。そして1856年に当時のインド政府により寡婦再婚許可の法令化がなされた。これにより法律上は、女性は寡婦となっても、異常ともいえた隔離による苦痛な生活のみを強いられることはなくなった。しかし実際にはヒンドゥー社会においては寡婦は大変地位が低く、再婚は依然として禁じられている。

 また寡婦の再婚禁止とは直接関係ないが、近年最高裁判決において「ヒンドゥー婚姻法における婚姻権の回復」に関する箇条が違憲とされた。この箇条は逃げ出した妻を法廷を通じて呼び戻す権利を男性側に認めるもので、箇条が違憲とされただけで罰則は設けられなかったために実質的な変化はあまりなかったが、この判決は結婚に関する司法の見解に著しい変化を印した。

(4)幼児婚

 幼児婚がもたらす問題は深刻であり、早期からあちこちで廃止が叫ばれてきた。その主なものとして前に紹介した「民族社会集会」が挙げられる。彼女らの運動により、イギリスは1891年に「承諾年齢法」を制定し、女性の結婚最低年齢を以前の10才から12才に引き上げた。現在は新憲法の下、結婚最低年齢は男性は21才、女性は18才とされている。また幼児婚そのものは1929年に禁止されている。

*ダウリー

 娘が結婚をする時、花嫁の家族は花婿の家族に対しダウリーといって品物や現金を持参させなければならない。北インドの農村を例にとると、カーストや家の経済的状況によってもことなるが、平均的な持参金の額は、2000ルピーから4000ルピー(1ルピーは約12円)になる。花婿の家には、シャツの生地(花婿と男性親族用)、サリー(花婿の女性親族用)、銅および真鍮・スチール製の食器、寝具、腕時計、ラジオ、扇風機、米、小麦粉、豆類、砂糖、野菜、果物、菓子などが送られる。最近では、テレビやアイロンなどの電化製品やバイクの贈り物がふえる傾向にある。

 婚礼にかかる経費には、新婦が身につける金や銀のかざり物(ガァハナー)、男性側から女性側へ花嫁を迎えに行進(バラート)していく車両代などの費用、結婚式の音楽隊の費用などがあり、さらに儀式の司祭となるブラーマンや準備や片づけをするナーイ(床屋)への謝礼もふくまれる。これらをすべて女性側が支払うわけではないが、相当の額を女性の側が負担しなければならない。婚資をすべてあわせると、最低でも1万ルピーにも達し、年収の4、5倍ともなり、娘が3人いれば家がつぶれるとも言われている。

 そのダウリーだが、政治団体や社会福祉団体、女性団体が何十年もかけて廃止を訴えてきたにもかかわらず、現在では以前には比較的少なかった、あるいはまったく存在していなかった階層まで広がり続けている。花嫁料(ブライド・プライス=花婿またはその家族から花嫁の家族に与える花嫁代償)が最近まで一般的であった社会の人々の間でも、ダウリー制度が普及してきている。例えば、ウタラカンドの丘陵地域や南の方のダウリー制度がなかった社会でも、現在ダウリーを送らない結婚はほとんどなくなっている。低いカーストや階級の間でも、ダウリーの伝統はほとんどなかったのだが、今日、かなりの額のダウリーが結婚の必要条件として重要性を増してきている。

 このような多大な婚資のうまれる背景には、第一に、おなじジャーティ(出自集団)で、自分とはことなるゴートラ(祖先を共通にする外婚集団)に属する配偶者を選ばねばならず、配偶者の選択の幅が限られていること、第二に、娘を上位のクランに属する男性と結婚させ、姻戚関係を築くことにより、自分の家の地位を高めるハイパガミー(上昇婚※3)の傾向があること、第三に、イギリス領時代以降、幼女殺しの傾向が抑制されるようになり、男・女の不均衡が是正され、女性の側からの花婿さがしの競争が活発になったこと、第四に、ヒンドゥー教のイデオロギーとして処女婚が尊ばれるために、娘を思春期のころまでに結婚させることが父親のつとめであるとかんがえられていること、などがあるといわれている。

 社会的に地位が高く、評判のよい花婿を獲得するためには、女性側がたくさんの婚資を用意する必要がある。さらに、結婚とそれにかかわる儀式が、花嫁側、花婿側の双方にとって地域集団のなかで地位や名誉を高める機会であり、結婚式がはでにおこなわれるため、女性側の出費がふえる事情がみられる。ダウリーの金額の増大は、村落部だけでなく都市部においても、大きな社会問題となっている。じゅうぶんな婚資が用意できないために娘を嫁がせるのがおくれたり、また婚資のすくない嫁にたいしては、夫側の家族がつらくあたったり、家から追いだしたり、殺人がおこなわれることさえある。

※3 男性は自分と同等かそれより下位のカーストの女性としか結婚できないのに対し、女性は自分より上位カーストの男性と結婚することができる。それゆえ上位カーストとの男性と結婚することによって自らの、そして家族のカーストを上昇させようとすること。

(5)幼女殺し

 ヒンドゥー教の家庭では男子の出生が望まれるのに対し、女児の出生は苦労の種とみなされ忌避される。その主な理由は結婚の際に伴う親の様々な負担である。まず最初に社会的な負担であるが、親は自分の娘に対し適切な人のところへ嫁がせる義務をもっている。この背景には、結婚適齢期の娘が家に留まっていることは家族の恥とされるということがある。また、嫁ぎ先こそが女性にとって本当の家族であり、生家は仮の家族であるという考えが影響している。しかしカースト制度による様々な規制により同じ階級の間に配偶者を求めることは大変難しい。また、経済的な理由としては、ダウリー(持参金)や結婚式の費用などを花嫁側の家が負担しなければならないということがあげられる。その他、結婚後における大家族の一員としての忍従の生活、ことに女児を産んだ際の家族の不満、さらに不幸にして夫と死別した際の再婚不可能の悲惨な生活、あるいは夫の後を追うサティーなどに考え及べば、女児の出生は一家の不幸の源とさえいうことができた。このような原因から幼女殺しなどの風習が起こったと考えられる。

 幼女殺しとは上に挙げたような家族の負担と、女子の出生は前世の悪業の報いだという思想から行われてきた。その方法は産婆や占師の予言によって人工的に流産する場合もあったが、多くは出産直後に行われ、水に溺れさせたり、首を絞めたり、煙で窒息させたりし、男の子なら医者を呼ぶような病気の場合にもそのまま放置した。また、故意に食べ物を与えなかったり、母親の乳房に毒を塗ったりすることさえ行われた。女児殺し以外にも女子の出生を一般に知らせず、出生そのものを隠す風習もあった。

 このような幼女殺しは現代のインドではなくなったのだろうか?インドの人口統計を見てみるとおもしろいことに気づく。それはヨーロッパ諸国などとは反対にインドでは男子人口が女子に比べて著しく多く、1981年には男100に対し女は93.5という比率であった。この背景にはインド社会では婦人を外部から隔絶する習慣があり、国勢調査の際にも正確な報告を行なわなかったことが考えられる。しかしそれを考慮に入れても、乳児の死亡率において、男女の割合はほぼ同じであるのだが、このことがすでに女児の死亡率の高いことを示しているのであって、一般に女子の死亡率は男子に比して低いのが通例である。

 この幼女殺しは早い時期から禁止されており、すでに英国統治時代の1802年に禁令が発せらており、さらに1870年に罰則が強化されたのであるが、積年の悪習は今もなお跡を断たず、ひそかにこれを行なうものがいると思われる。

(6)雇用

 1948年から1952年の間に、女性労働者の利益を保護するための労働法が制定された。この規定は50人以上の女性が雇用されていなければ適用されない、という条件付きのものではあるが、工場法、プランテーション労働法、炭坑法など規定が比較的細部に行き届いている。主なものは、同一賃金、母性の保護、託児所の設置、育児時間の確保、女性への労働付加・労働時間の上限の設定、女性の夜間労働・地下での仕事・危険を伴う仕事への雇用の禁止、女性の募集の制限、妊娠を理由とする解雇の禁止、などなどである。
 しかし現実的には職場において女性が受ける差別的待遇に大した変化はなかったといえる。実際1971年の国勢調査では女性の方が賃金は安い事実がはっきりと現れたし、実質失業率も同調査において男性3%であるのに対し女性は14%だった。また明らかに職業隔離が行われており、女性被雇用者の約80%(約2500万人)がたった12種の職業についている。これらのうち、工場、炭坑、農園の三つは女性にも組織的に開かれた部門であるが、その外に関しては医師、教師など何等かの女性的要素を持つ専門職が多い。男性の必要性から女性の社会進出が実現した一痕跡といえよう。

 また忘れてはならないのが、有職女性のほとんどが上位カースト出身者であるということである。雇用の際に根強いカースト差別が行われていることの現れである。しかし全ての上位カースト女性に雇用機会が開かれているわけでもなく、過去において社会進出に成功している女性のほとんどは父親が職業階級の上位に位置し、家庭の教育水準が高い。これは社会経済的階級がある面ではカーストを超える高いハードルとなっていることを示す。

 職場において、女性はやはり男性より不利である。女性であるがゆえの丁重な扱いは女性が始めから何の期待もされていないことの現れでもあり、それでいて能力が正当に評価されるのは希である。しかし女性たちは負けてはいない。社会進出を果たした先駆者達は男性よりも多くの努力、労力を払い、凛とした態度で男性と張り合ってきた。その結果職場における女性の待遇は急速に変化しつつあり、男性側の態度もかなり改善されたといえる。

 女性がここまで来る間には数限りない妥協と抵抗があったが、それを大きく左右したのが結婚であった。女性に対して理解のある夫を持つことが出来た女性はやはり有利であったが、それにもまして重要なのは、成功している女性はたとえ最終的に結婚していても始めから結婚と家庭生活を人生の最終目標とは考えておらず、更に結婚前に経済的に独立できるだけの社会的な力を身に付けるよう努めていた、ということである。これは結婚後家庭において発言力を持ちつづけるために不可欠なことだ、と彼女らは主張する。また結婚前から自分の社会進出の欲求を夫が解っているために結婚後のトラブルも比較的少なくて済むという。

 階級差別は当の女性の中にも起きている。専門職につく女性の多くは、そうでない女性にたいして何等かの優越感を抱く。社会進出により経済的利得、社会的利得、他者からの尊敬と勝ち取った女性たちは仲間に対してかつて自分が受けた辛い扱いを繰り返してしまうことがあるのだ。

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