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大阪市立中学校12校(旧同和教育推進校9校と協力関連校3校)

給食廃止がもたらすもの ―― 「同和行政バッシング」をテコとした弱者切捨て

またしても子どもたちが犠牲に

 2005年の文部科学省統計によれば、中学校における給食実施率は全国で 79.4%、およそ8割。これに比して大阪府はわずか 10.1%、全国最下位である。10%台は大阪府と神奈川県だけであり、次に実施率が低い兵庫県や三重県でさえ4割をこえている。学力テストの結果に大騒ぎするよりも、はるかに問題視しなければならない実態がここにある。
 その大阪府にあって、1971年以降先進的に給食を実施してきた大阪市内の12校(旧同和教育推進校=同推校9校と協力関連校3校)で昨年5月、いきなり何の話し合いもなく、今春4月から廃止するという方向が打ち出された。関前市長が、市財政の危機の中で「同和行政」の見直しを打ち出し、その矛先を中学校の給食に向けたのである。現場では混乱と困惑、危機感が広がっている。中学校給食を公約に掲げ当選した平松新市長も、一度は廃止を見直す発言をしながら、後にこれを撤回した。
 急遽、昨年夏に給食実施の小中PTAを中心に「中学校の食生活と学校給食を考える市民の会」が立ち上げられ、大阪市教組とも連携しながら短期間に10万近い署名を集めるなど、地域・学校ぐるみで必死の抗議・反対運動が繰り広げられてきたものの、大阪市は財政事情を理由に給食廃止の方針を変えていない。この4月から、12校での給食はなくなることが避けられない見通しとなっている。
 弁当を持参したくてもできない生徒たち。給食によってかろうじて食生活の破綻を免れてきた子どもたち。給食に支えられてどうにか登校していた子どもたちはどうなるのか。全校生徒の2割が生活保護家庭、6割が就学援助受給者、すなわち実に8割の生徒が何らかの援助を受けて生活し通学している中学校がある。母子家庭・父子家庭が全体の3分の1、再婚家庭が3分の1を占める同校では、生徒会が実施したアンケート調査で、80%の子どもたちが「給食がなくなったら困る」と回答している。
 国家財政の危機が地方財政を圧迫し、その危機を大阪市は、「飛鳥会」問題に端を発する「同和行政バッシング」を利用して最底辺の弱者に犠牲を強いることによって乗り切ろうとしている。
 大阪での中学校給食は、差別によって最も厳しい困難な生活実態におかれている被差別部落の子どもたちに手をさしのべることから始まった。同推校を皮切りに全ての中学校に広めていこうとする当初の試みはいつしか忘れ去られ、同推校だけが「優遇」されるのは「不公平」、だという本末転倒の論理がまかり通ろうとしている。日本共産党はその急先鋒である。なぜ、かつて最も劣悪で悲惨な境遇から抜け出すために差別と闘いながら勝ち取られてきた制度や成果に、格差社会の矛盾、不満、怒りの矛先を向けようとするのか。財政破綻のツケを、なぜ最底辺の子どもたちが負わされなければならないのか。ましてそれによって新たな差別を煽るなどもってのほかであり、筋違いもはなはだしい。
 生活保護を受けなければ生きていけない人々。失業と高齢化に加え、医療をはじめ生活関連事業が次々と切縮められ、行き場を失い途方にくれる人々。路上生活者数も生活保護率も全国一の大阪で、今度は義務教育である中学校の最下層の子どもたちが、その家庭が、地域が押しつぶされようとしている。

給食実施の原点

 食肉産業に従事する被差別部落出身の方の講演を聞いたことがある。深夜2時に仕事に出かけて夕方帰って眠る生活で、どうやって学校に通う子どもの弁当が作れるのか、と。
 旧同推校の地域では、朝子どもたちが起床・登校する時間にはすでに親は仕事に出かけていたり、深夜や早朝に帰宅して昼近くまで就寝という生活がめずらしくない実情があった。子どもたちは、当然ながら弁当など持参できるはずもなく、一時帰宅して昼食を「食べた」ことにして何も食べずに再登校するか、そのまま戻らないか、あるいは最初から学校に行かないか、である。そんな子どもたちの食事をなんとかしようという切なる願いが、給食の原点だった。
 今なお続く「給食登校」は、数は多くないにせよ、それなしには学校に通いたくても通えない、もしくは学校へ行く気力や目的を見出せない子どもたちの存在を厳然と示している。うまく人間関係を築けず孤立して教室に入れない子どもたち、「いじめ」やトラブルに巻き込まれ、あるいは授業についていけずに取り残され、学校から足が遠のく子どもたち、さらには親の暴力や虐待で自宅にすら安らげる場所もないケースもある。
 「せめて給食だけでも食べに来い」。―――家庭でも満足な食事も与えられない子どもたちにとっては、かすかな望みをつなぐものである。説得に応じて、不安定で不規則ながらも、給食目当てにやっとのことで登校して来る子を別室で手空きの教員が交代で相手をして話を聞き、心を解きほぐし、機をみて学習指導。突然大声をあげ暴れだし、黙り込み、時には逃げ出そうとするのをなだめ辛抱強く寄り添い、失敗を繰り返しうろたえ・・・右往左往して苦しむ教員との葛藤の中でしかし、少しずつ落ち着きと笑顔を取り戻し、新たな力を得て成長していく子どもたち。その姿に勇気づけられ意欲や熱意をかきたてられ、誇りを育んだ教員たちがどれほどいたことか。おざなりの調査・統計には浮かび上がってはこないが、このような現実との格闘こそが、血の通った教育の名にふさわしいものではないのだろうか。給食廃止は子どもたちとの貴重な接点の一つを奪う。
 目立たぬ地味な努力を積み重ねる献身的な教職員の情熱と共に、給食は、自暴自棄寸前の子どもたちを、暴力や犯罪や危険な誘惑からも守り、歯止めとなってきたのだ。教室の中だけでは学べない、目の前で進行するそうしたプロセスは、周囲の子どもたちにも影響を与えずにはおかない。これらすべてが教職員自身の目を開かせ、子どもたちと共に教育者が育てられてゆく。この子たちを、この教育を、切り捨てるというのか。
 安全で、栄養バランスのとれた、安心できる温かい食事を子どもたちに。―――食の保障が教育の保障であり前提なのだという理念は、教科書無償を全国に広め闘いとった部落解放運動の理念につながるものでもある。貧しさと差別ゆえに教育の場から排除されてきた人々の積年の悲願は、決して自分たちだけを優遇してくれと訴えてはいない。それは、同推校だけでなく「すべての子どもたちに学校給食を」という理想を掲げた意欲的な取り組みだった。これを同推校12校だけにとどめ、大阪全体に広げようとしなかったのは行政の怠慢にほかならない。皮肉にも「食育」がもてはやされる今日にあって、大阪市はその「食育」を最も先駆的に追求してきた現場を窮地に追い込んでいるのである。

食生活の破綻をきたす子どもたち

 大阪市教委の調査によれば、朝食を「毎日食べた」と答えた生徒は 74.6%、子どもと一緒に毎日朝食を食べた保護者は 33.7%、家庭での「欠食」「孤食」「個食」がすすんでいることがうかがえる。経済的に苦しい地域、家庭ではさらに深刻な状態にあることは想像にかたくない。食べ盛り、育ち盛りの子どもたちが、今でもすでに日常的に、コンビニやレトルト食品、ファーストフードに頼らざるをえない食生活の中に置かれている。大阪市全体で2割の生徒が家庭からの弁当を持参できないでいるという。
 「弁当持参率が8割」だから「弁当基本の昼食は定着」している、だから給食実施の中学校は「不公平」だという大阪市教委の論法は、持参できない2割は親の努力不足と言わんばかりに露骨に切り捨てることの公然たる表明であり、責任転嫁である。これは、「教育の機会均等」にも「義務教育無償の原則」にも反する暴論ではないのか。
 育児放棄や児童虐待、家庭崩壊がすすみ、あるいはその危機に瀕した家庭が急増していることと、不安定で不規則な労働、非正規雇用、低賃金、労働強化は表裏一体である。親たちもまた生活に追われ窮状にさいなまれている。特に一人親家庭では、弁当はおろか朝食や子どもたちが登校する時間に、もしくは帰宅・夕食時に親が仕事で不在の状況が少なくない。現在給食を実施している旧同推校の多くは、そのような格差社会の矛盾を凝縮したような生活苦にあえぐ人々を大量に擁しているのである。これに追い討ちをかけるかのように給食が廃止されたらどうなるか。子どもたちと、その親たちの悲鳴が聞こえてきそうである。

 「弁当作ってくれない人がいたら大変やん」「作ってくれる人がいても、その作る人が大変や」「自分で作れる人はいいけど、できない人は困る」「クラブで朝練にくる人はどうすんの?」「障害者の人とかは自分で作るのは無理や」「金銭的に親に迷惑かける」「いじめの始まりになるかも」―――生徒会アンケートで、子どもたちは真剣に悩み、弁当を持参できないであろう友達を、周囲の人たちを気づかっている。厳しい家計と苦しい親の立場をも思いやりながら、自分たちの置かれている現状をけんめいに理解しようとしている。たとえ弁当を持参できたとしても、その中身から家庭事情が透けて見えることに、敏感に気づき始めてもいる。
 弁当を持参させられない親は、昼食費を渡せない親はどうするのか。渡せたとしても、その金を子どもたちは昼食に使えるのか。不登校や金銭トラブルの急増は目に見えている。

生活保護、就学援助制度の改悪

 2006年度の小中学校の就学援助費(経済的理由で就学が困難な児童生徒の保護者に市町村が行う援助)の受給率は、全国の政令都市の平均 19.2%に対し、大阪市を除く府内平均は 24.1%、大阪市は 34.1%である。その中で大阪市24区のうち、受給率42%以上の区が5つあり、これは現在給食を実施している12校の地域とほぼ重なり合っている。
 生活保護費の改悪、切り縮めはマスコミでも取り上げられて久しいが、就学援助制度においても、それまで長年据え置かれてきた、援助の「目安となる所得額の上限」が2006年から2007年、2008年へと、じわじわと下げられて認定審査は厳しくなる一方である。そのために、家計事情は前年と変わらないか、むしろ厳しくなっているのに認定されないケースが相次いでいる。にもかかわらず就学援助費の受給率は年々上昇している事実が何を物語るかは言うまでもない。
 申請手続きは年を追うごとに複雑になり、必要書類、添付書類が増え、ただでさえ劣悪な教育環境に育ってきた親たちには、それだけで十分に苦痛である。話すことはできても日本語が読めない外国人保護者のとまどいや不安ははかり知れない。そうした不安と不満、いらだちは、ことごとく教職員に、そして子どもたちにはね返っていく。
 生活保護・就学援助費の受給者は給食費を全額支給されてきた。その給食も給食費の支給もなくなるのだ。彼らの生活は一変するだろう。その時、現場で苦悩する教職員は、彼らと共に立ち向かうすべを探り当てられるのだろうか。給食廃止によってもたらされるであろう今後の事態は、予断を許さない深刻な様相を呈している。

2008.2.20 中学校事務職員 N