イラク戦争被害の記録


被害報道日誌(2月15日〜3月14日)



●3月14日(362日目)−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 3月11日にスペインの首都マドリードで起きた列車同時爆破事件は200名近くの犠牲者を出し、当初の予想を大きく覆してアスナール首相率いる現与党・国民党のイラク出兵への批判となって総選挙で社会労働党を大勝利させる結果となった。米英のイラク戦争にいち早く支持を表明して戦争協力をしてきたアスナール政権への不信と批判が事件をきっかけに爆発した。勝利を受けて次期首相の社会労働党サパテロ書記長は公約通り、首相就任後にイラク駐留のスペイン軍1300人を撤退させる意向を明らかにした。スペイン国民を事件に巻きこんだ全責任は、国民の反対を押切って強引に戦争協力してきたアスナール政権にある。事件後のアルカイダの犯行声明には、日本など他の戦争協力国もターゲットに挙げられている。スペイン国民の不安は現実となった。自衛隊がイラクに足を踏み入れて侵略国となった以上、米英の起こした戦争の泥沼に引きずりこまれないために、小泉首相は自衛隊をイラクから即刻撤退させるべきである。
 紹介記事1「アメリカは1万人のイラク人を拘留している」は、子供から老人まで1万人以上のイラク人を米軍が証拠もなしに弁護士もつけさせず無権利状態で拘束し、残された家族は行方も知らされずに悲嘆に暮れていることを伝えている。彼らのほとんどは反米抵抗活動と無縁な人たちだが、米軍は手当たり次第に拘束している。これまで何度も記事で紹介してきたように、彼らは拷問を受けて殺されもしている。米軍率いる占領軍に対してイラク人の憎しみが募るのは当然だ。
 紹介記事2「イラクの病院はアメリカからの援助がなく希望がないままだ」は、湾岸戦争と国連による長期の経済制裁、そしてイラク戦争を経て崩壊したイラクの保健医療システムの現状を伝えている。病院には包帯も軟膏も痛み止めもゴム手袋もなく、トイレから汚水が部屋まで溢れ、壁には汚物が付着し、感染症が蔓延し、バグダッドの大病院ですら簡単な治療さえ施せない。戦争後も生まれた赤ん坊の10人に1人が死ぬ。戦後の略奪と戦争の結果広まった利己主義・無政府主義による道徳的退廃も病院スタッフの勤務意欲を削いでいる。復興費用は軍事施設と米企業のための電力復興に優先され、保健予算は着飾った官僚達が勤める保健省本部の建設費用としての米企業へのくれてやりと、仕事をしない役人達の給与に費やされている。
 紹介記事3「アメリカの請負業者はイラクでの警護のため、チリで新兵を集めている」は、イラクでの自国兵士削減のために、米国政府がチリからピノチェト軍事政権下で特殊部隊員だった者や現役兵士を、民間企業を通じて要人警備や前線兵士などの即戦力として雇っていることを報じている。ピノチェト軍事政権下での特殊部隊員といえば、軍政に反対する民衆を大量殺害し、拷問や弾圧するなど残虐の限りを尽くしてきた者達だ。記事に登場するブラックウォーターUSA社はそういった殺人のプロを世界中から雇い入れて政府に供給し、ブッシュ政権下の3年間で年率300%の急成長を遂げたという。イラクに派遣されている傭兵の数は数千人と推測されている。米国政府は彼らを便利な使い捨てとしてこれら企業に外注し、あるいは米国籍を求める不法滞在者を傭兵として雇用し、戦争と占領遂行の道具として利用している。
 これら日本国内で報道されないイラクの状況はどれも非人間的でゾッとするものだ。実態を知れば知るほど、その侵略的な本質が明らかとなってくる。 "イラク復興"を名目とする自衛隊派兵のウソと欺瞞がここからも明らかだ。


記録−米軍によるイラク民衆への攻撃・拡大する米軍兵士の犠牲
14日
被害記録
 バグダッド 爆弾の爆発で、米兵1人死亡。

政治情勢
 スペイン上下両院選挙で、野党社会労働党が保守系の与党国民党に勝利。アスナール政権が進めてきた米国追随の「イラク戦争支持」への反発が要因として挙げられている。

 陸上自衛隊の主力部隊第2波約190人がクウェートに到着。これまでで最大の部隊。

13日
被害記録
 米軍がパキスタン国境近辺の山岳地帯で新たなイスラム武装勢力掃討作戦「マウンテン・ストーム」を3月7日に開始したことを発表。兵士1万3500人、航空機が投入されているという。

 バグダッド 路上爆弾が爆発し、米兵3人死亡、1人負傷。

政治情勢
 サマワで求職デモ、イラク基本法反対デモが相次いで行われる。

12日
政治情勢
 米政府高官、開設予定の在イラク米国大使館について、在外公館としては最大規模となる職員3000人規模で業務を開始し、バグダッドの旧大統領宮殿を施設の候補としていることを公表。

10日
被害記録
 スペイン・マドリード 通勤電車を狙った爆発。死者200名、負傷者1500人近く。
米英の占領統治を支持するアスナール政権を狙ったテロとの見方がだされる。

 バクバ近郊 米軍を狙った武装勢力による爆弾攻撃。米兵1人死亡、2人負傷。

9日
被害記録
 バクバ 路上で爆弾が爆発。米兵1人死亡、1人負傷。
 ヒッラー近郊 CPA勤務の米国人2人とイラク人1人が銃撃され死亡。
イラク警官が関与していたとの指摘あり。

 ニューヨーク・タイムズ紙が米太平洋軍空軍兵士によるレイプ事件に関する報道。2001年から2003年にかけ92件が発生。事件の約3分の1は韓国で発生し、大半は女性兵士が被害者となっているが、民間の女性も被害にあっているという。報告では、加害者とされる兵士多くは処分保留のままとのこと。

政治情勢
 UNMOVICのブリクス前委員長が自著を刊行。米英首脳が政治的支持を得るために、イラクの脅威を誇張していることを分かっていた可能性を指摘した。

8日
被害記録
 バグダッド イラク基本法調印式場近くの2つの警察署に迫撃弾が撃ち込まれ、4人負傷。

 NGOの「ヒューマン・ライツ・ウォッチ」がアフガニスタンでの米軍の行動に関する報告書を発表。米軍が過剰な武力行使により一般住民を死傷させていると指摘。

政治情勢
 イラク基本法署名式典が行われる。シーア派の最高権威、アリ・シスタニ師は「恒久憲法制定への障害になる」と批判。女性約300人が「女性の権利擁護が不十分」としてバグダッド中心部で抗議行動。

 米国防総省、2002年9月〜2003年2月の米兵健康調査結果を発表。過度の飲酒、喫煙、違法薬物使用の比率が増加しており、同省は、2001年以降の「テロとの戦争」などに関連するストレスとの見方。2週間前には、国防総省は、軍で起きた婦女暴行事件の多くが、アルコール摂取と関連している可能性があると発表している。


紹介記事1
アメリカは1万人のイラク人を拘留している。
US detaining 10,000 Iraqis
アルジャジーラ   2004年3月7日
http://www.ccmep.org/2004_articles/iraq/030704_us_detaining_10000_iraqis.htm

少年を含む1万人以上のイラク人男性が米占領軍によって牢獄につながれている。最年少はわずか11歳だ。

日曜日のニューヨークタイムズによると、バグダッド北部のある村は現在完全に男性がいなくなっている。75歳のおじいさんまで収容所に入れられている。

サイファでは、女性だけが田畑を耕したり、子供の世話をしたり、家を守り、グレープフルーツの詰まった重いリュックを背負って市場まで行く。

家族がどこに拘束されているか知っている者はほとんどいない。

米軍はインターネット上で何人かの名前を掲示するが、ほとんど使えないことがはっきりしている。コンピューターを利用する手段をもつ者がほとんどいないためだ。

権利無し

村人の1人、ファディル・アド・アルハミド氏はタイムズ紙に述べた。「アメリカ人が私の息子を連れていくのは5分だったが、私が息子を探し出すのは3週間以上かかった。」

イラク人権機構の弁護士であるアディル・アラミ氏は、安全保障上の拘留者は基本的に人権が無いと述べた。

誰にも弁護士はつかないし、たいがいは訪問すら拒否される。

「イラクは大きなグアンタナモになった」とアラミはキューバにあるアメリカ軍事監獄を引き合いに出して述べた。そこではほとんどの場合、起訴されないまま何百人もの容疑者が拘留されている。

逮捕の必要性

しかし軍当局者は、抑留者の中にはヘリコプターを撃墜したり道脇の爆弾を仕掛けるといったものを含む重い犯罪で告発された者もいると言う。

しかしながら、これと同じ人物が、拘束された人々のほとんどがおそらく危険ではないことを認めている。

軍事裁判官によって再検討されたケースのうち最近のものでは、1166人の拘留者のうち963人を釈放するよう提言があった。

占領軍の副司令官であるマーク・キミット准将は兵士が警察の仕事をするのは困難であることを認めた。

「我々も村ごと逮捕した結果でてきたのがライフル1丁、などという事態は望んでいない」と。しかし、1万人が拘束されている現状では、これはまさにいくつかの地域で起きたことだ。

合法

国際法では、米軍の占領当局は安全保障上の脅威になる者は、起訴するのに十分な証拠がなくても、誰でも拘留してよい権利を持つ。

しかし、主戦闘が終わったと宣言された5月1日時点では、安全保障上の脅威は終結しなかったため、イラク軍が一掃されたずっと後になっても拘留が続いている。

現在、占領は6月30日に終わる予定となっている。その時、統治権はアメリカ公認のイラク政府に移譲される。

当局はそのことが拘束者の立場にどんな影響を与えるかは不明であるという。


紹介記事2
イラクの病院はアメリカからの援助がなく希望がないままだ。
Iraqi Hospitals Remain Bleak Without US Aid
ケン・ディラニアン    ナイト・ライダー紙   2004年3月3日
http://www.ccmep.org/2004_articles/iraq/030304_iraqi_hospitals_remain_bleak_wit.htm

バグダッド、イラク


バグダッドの主な教授施設であるヤムルク病院に横たわる6歳のラヒーム・ハスマン。
(マンディー・ライト/デトロイト・フリープレス)
アマル・ハミードは背中を丸めて椅子に座り、静かにむせび泣いた。彼女の2ヶ月になる赤ちゃんが黒いローブに包まれて病院のベッドに死んで横たわっていた。

ハエがぶんぶん飛び回っている。床は血で汚れたままである。トイレの近くは糞便があふれている。

ここはイラク第1の子供病院の心臓病病棟だ。しかしハミードのまわりには慰める看護婦もなく、彼女の荷造りを手伝ってくれる付き添いもいない。

たまたま非番の若い医者が記者達を案内して回っていた。それから彼は立ち止まり、死んだ赤ちゃんのカルテを見た。その男の子は心臓に欠陥があった。先進国では簡単な手術で治すことができるものであった。その医者によると、イラクでも時には手術は可能だという。なぜ手術が行われないのかわからないと彼は言った。

はっきりしていることは、アメリカの率いる占領軍が事態は好転すると約束してから10ヶ月経っても、イラクの医療施設はバグダッドからバスラ、キルクークからカルバラに至るまで、めちゃめちゃになったまま、ということだ。

痛み止めやゴム手袋のような基本的なものでさえ、手に入らないことがよくある。医者は日常的に脅迫されたり攻撃される。施設は浴室がゴミで詰まっているのに茶を飲みながら雑談をする管理スタッフであふれかえる。その結果、致命的な感染症が蔓延している。

「生まれてきた10人に1人の赤ちゃんが死んでしまう。戦争前とほぼ同じ割合だ」、と専門家は言う。

アメリカの厚生省長官のトミー・トンプソンは先週バグダッドの不潔な病院を訪問し、「手を洗い壁についた糞を洗い流せば」、状況は改善するだろうと述べた。

しかし、これとは別にバグダッドにあるヤルムク病院の理事長マハディ・ジャシム・ムーサ医師は、言うは易く行うは難し、と述べた。一方では清掃器具が不足している。他方では、彼は指示に従わないメンテナンス要員を首にはできない。彼は言う。「なぜなら彼らは私を撃つかもしれないからだ。」

アメリカの起こした戦争直後に多くの病院が略奪されたのではあるが、イラクの保健医療を破壊したのは戦争ではなかった。かつては中東の至宝であったが、そのシステムは12年に及ぶ国際的な制裁下でサダム・フセインによって財源を枯渇させられた。

医師らはただ同然の賃金で、国外の知識からは遮断された。2002年にサダム政権が保健に費やしたのはたった1600万ドルだ、とアメリカ当局は言う。サダムの取り巻きだけがきちんとした医療を受けられた。

だからイラクの医師は毎日働く環境をひどいものにしたとアメリカを非難したりはしない。しかし彼らは納得もしていない。この国で何十億ドルも復興に費やされながら、なぜほとんど彼らの環境が変わらなかったのかを。

「私達は落胆した。何故なら、状況はもっと急速に改善されると思っていたからだ」と、28歳のエサム・カラフ医師は述べた。

イラク担当の米上級保健医療アドバイザーのジェームス・ヘブマンは、そのような非難に対して怒っていると述べた。彼は米軍、連合軍暫定当局、援助機関が何億ドルもイラクの保健医療に費やしてきたことを挙げ、状況は実際よくなってきたと述べた。

連合軍は何千人もの警護要員を雇い、何トンもの薬品を買い、何十もの病院を修理し、全般的にシステムを戦争前の状態に戻したと。

ヘブマンはイラクの2004年の保健医療予算は9億5千万ドルであり、主に石油収入で賄われることに言及した。彼はその額が、壊れたものを修理するには不十分であることを認めた。しかし、別に7億9300万ドルの予算が、イラク再建のために議会が割り当てたアメリカの財政の1860億ドルから計上されている---今のところは一銭も使われていないが---と述べた。

ヘブマンは議会の歳出予算の支出を首を伸ばして待っているが、まだであると言った。即座に方針転換があることは現実的ではないとも。

しかしながら、それでも疑問を呈する人々もいる。例えばバスラ近くのアム・カズルイラク海軍基地の修復に2億6300万ドルが使われ、それはまだ引き続いて行われているが、これは国内最大の子供病院で下水道設備を修理するのに優先して行われている。この病院では便器から溢れ出して白血病棟まで流れこんでいるのに。

ヘブマンは病院の修繕はスペインから900万ドルの助成を受けて月曜日に始まったと述べた。

しかし、アメリカが率いる連合軍は明らかにイラクの保健医療システムへの取り組みをしていない。例えば、彼らが修理に取り組んでいるのは電力網である。何百人もの西側の技術者や請負業者が夏になる前に電力を改善するために猛烈に働いている。当局は先週、年末までに連合軍が70億ドルを電力に使うだろうと述べた。それに比べ、ヘブマンは、37人のスタッフで始まったが次第に縮小されて15人になった、と述べた。

イラク人の保健医療の苦難に関するニュース報道に刺激され、ヘブマンはイラク保健省で記者会見を行った。同省は11階建ての建物で、戦争後に略奪者が奪い尽くして焼き打ちされていた。

1991年から2002年まで、ヘブマンはミシガン州の共和党知事ジョン・エングラーの下で、州の保健長官として勤務した。それ以前、彼は国際援助団体の指導員だった。そこは保健の仕事と改宗させる活動が結びついたキリスト教の救済組織だった。

ヘブマンは昨年6月に赴任してから「驚くべき」改善がされたのを見てきたと述べた。医師らが品不足に不満を述べている、と記者が言うと、彼は動揺しているように見受けられた。彼は一つのことを指摘した。「物資の搬送、流通はたやすいものではないんだ、皆さん。まだ10ヶ月しかたってないんだ。」

大きな業績、とヘブマンが言うのは、保健省本部の1700万ドルをかけた改修だ。その建物の内装は新しく塗り替えられ、新しい事務用の備品が玄関に積み重ねられた。ヘブマンは無線インターネットネットワークが計画されている、と誇った。

建物は身なりの良い官僚であふれかえっていた。医師らによると、官僚の多くはほとんど仕事をしていない。病院が悲惨なまでの看護人不足に苦しんでいるというのに。イラクの予算によると、保健省は2004年に10万5千人の雇用者に1兆5700億ドルを支払う予定になっている。

これが国全体のジレンマだ。不穏になることを恐れて、膨れ上がった政府省庁を削減しないことが決められた。ヘブマンは、保健省での解雇者は一人もいないだろうと述べた。

彼の肩書きに相当するイラク人、保健大臣のクダイル・アッバス医師は、この会見の少し後で部屋の中に入ってきて、「分かっている、明白なことだ、スタッフが増えすぎているのは」と述べた。彼はスタッフの不足している病院へ役人を配置転換させる計画に従事していると述べた。

数日後、6歳のラヒーム・ハタムはバグダッドの中心的な教育施設であるヤルムク病院のやけど病棟に寝かされていた。彼の足と陰部は灯油ヒーターの事故で火傷していた。彼は皮膚の移植を必要としているが、病院には適切な設備がないと医師は言った。痛みを和らげる薬もなかった。

「ここの状況全般がめちゃめちゃだ」と病院の薬剤師のラゲッド・ヨニス氏は言った。「彼らが痛みで苦しんでいるのを目の当たりにすれば、怒らないものはいないでしょう。」

混雑した部屋に設置されたトイレは排泄物で一杯になっていた。「私達は大変な時間をかけて掃除をしています。あなたはなにか手伝えるの?」と病院職員は歩き去りながら話した。

ヤルムク病院の管理者ムーサ氏は保健医療危機の一部は無政府状態と、戦後のイラクで持たれるようになった"自分だけよければいい"という倫理観のためであると認めた。ヤルムクでは患者の肉親らが日常的に医師らを脅かしている。戦後の数ヶ月で少なくとも2人の患者が病院内で口論した結果殺された。

しかし医師らは緊急支出計画でも対処できる初歩的な欠陥がある、と話している。

「私達には軟膏がない」と、ムハマド・ヒハド医師はヤルムク病院の満員の緊急治療室に立って言った。「私達には包帯もない。」

「何故彼らは死ぬのか? それは我々が持っていない物のためだ。」



紹介記事3
アメリカの請負業者はイラクでの警護のため、チリで新兵を集めている。
同種の仕事でより高給を得られる民間企業のために、経験を積んだ兵士達が辞めている、と軍は言う。
US contractor recruits guards for Iraq in Chile
Forces say experienced soldiers are quitting for private companies which pay more for similar work
サンティアゴ:ジョナサン・フランクリン  2004年3月5日(金) ガーディアン紙
http://www.guardian.co.uk/international/story/0,3604,1162392,00.html

イラクで警護任務にあたる自国の兵士を交代させるため、アメリカはチリで傭兵を雇っている。あるペンタゴンからの受注者は、反乱者らによる攻撃から油井を守るため、以前に特殊部隊員、その他の兵士や水兵だった人間を月に最高4,000ドル(2,193ポンド)で募集し始めている。

先月ブラックウォーターUSA社(Blackwater USA)は、約60人の元特殊部隊員らからなる最初の一団を、サンティアゴからノースカロライナの2,400エーカー(970ヘクタール)ある訓練キャンプへと送り出した。グループの者の多くはアウグスト・ピノチェト軍事政権下で訓練されていた。

彼らは訓練キャンプからイラクへ運ばれる手筈で、そこで半年から1年の間駐留することが予定されている、とブラックウォーターUSAのゲーリー・ジャクソン社長はガーディアンに電話で回答した。

「私たちはプロフェッショナルを見つけるために地球上を隈なく探して回っている---チリの特殊部隊員は真のプロフェッショナルで、彼らはブラックウォーターのシステムにぴったりである」と彼は言った。

彼の会社がイラク向けの特殊部隊員を雇ったのは、ラテンアメリカ諸国ではチリが唯一の国であった。彼は、仕事の「95%程度」が政府からの受注によるものであると見積もっており、彼のビジネスは急激に景気づいている、と述べた。

「私たちはこの3年、年率300%で成長している。それでも大手と比べれば小さなものです。」

「私たちは非常に小さなスキ間市場で仕事をしており、最良のもの、最高のものを提供することを目指して頑張っている。」

イラクでの警護任務の民営化は、アメリカが自国兵士の投入を縮小しようとする努力に並行して成長してきている。

昨年末までに、イラクには雇われた警護要員は10,000人いた。

チリでの新兵募集は6か月前に始まり、軍務に就く人員が辞めるのを後押しすることを恐れる憲兵隊(MP)や将校らからすぐに批判を浴びた。

ミシェル・バチェレ国防大臣は、ブラックウォーターによる準軍事的なトレーニングが、民間人による武器の使用に関するチリの法律に違反するものでないかどうかの調査を命じた。

彼女がその新兵募集活動の調査を要求したのは、それが現役の人間まで対象に募集しているとの申し立てがあったからである。

多くの兵士が、民間企業に入社するために軍を離れたと言われている。

ジャクソン氏は、同様の問題が米軍もまごつかせている、と述べた。

民間セクターは、経験を積んだ特殊部隊員に軍よりもはるかな高給を支払う。

「米軍も同じ問題を抱えている」と彼は言った。「もし軍が以前は現役の軍隊が担っていた任務を外部委託し、今では民間の請負業者を使っているとするならば、彼ら(現役の兵士ら)はきょろきょろ見回して尋ねるだろう。『金はどこにいけば手に入れられる?』と。」

イラクにいる傭兵の数は数千人と推測されている。

特殊部隊での経験を持ったボスニア人、フィリピン人およびアメリカ人の部隊が雇われているのは、空港の警備からCPAのポール・ブレマー長官の警護にまで及ぶ。

彼らの給料は1日当たり1,000ドル程度である、とAFP通信が最近報じている。アーウィン(イラクで働く28歳の元米軍軍曹)はAFPに語った:「ここは宝の山だ。必要なことといったら、軍に5年所属してからここに来る、そうすりゃ大もうけだ。」

新兵らが精神的外傷をもたらす戦場のストレスによって苦痛を受けても、そのまま精神療養の施策がないチリ社会へお払い箱にされるのではないか、との懸念に対し、ジャクソン氏は、ブラックウォーターUSAは広範な心理学的カウンセリングプログラムを持っている、と述べた。

「私たちは臨床心理士のスタッフを抱えており、評価過程で一連のテストを行っています。」

「私は個人的に専門分野での経歴を持っていますが、彼らがストレスを扱う事ができる措置を私達が適切に準備している事に満足しています。」

「私たちはいきなりやって来て『そこの君と君と君、私達のところにきて働かないか』というようなやり方はしていません。彼らは全員チリで綿密に審査されており、皆が軍関係の経歴を持っています。これはボーイスカウトではありませんので。」

チリの「La Tercera」紙のインタビューで、イラクに行ったことがある元チリ軍将校のカルロス・ワムグネト(30歳)は語っている:「我々は落ち着いている。この任務は我々にとって何ら目新しいものではない。

「結局、これは我々の軍での経歴の延長に過ぎない。」

元チリ海兵のホン・リバス(27歳)は、イラクでの仕事が「非常によい収入」となり、家族を支える助けになるだろうと言った。

「私は傭兵だとは思っていません」と、彼は付け加えた。



●3月7日(355日目)−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 「主権委譲」のための暫定憲法制定を巡る動きの中で、多数のイラク市民犠牲者が発生している。この間特に、イラク警察官や宗教者など、イラク人犠牲者の増大が目につくようになっている。アメリカのこの間の占領姿勢の変化がこの事態を招いている。

 アメリカは2月1日、イラクに展開する米軍の縮小命令を発表した。昨年のイラク侵略開始以降、米軍は当初の思惑以上にイラク駐留を強いられ兵員の多くを交替できずにいた。今回命令されたローテーションでは、第1機甲師団から第1騎兵師団への入れ替えに伴い、バクダッド市内にある26ヶ所の拠点(ピーク時は60ヶ所あった)を削減し、バクダッド周辺の6つとバグダッド市内の2つの計8つにするという。市内の2つは通称「グリーンゾーン」と呼ばれる、旧大統領宮殿等の旧フセイン政府施設が集中した場所で、いまは代わって米英が占領している。
 並行して「主権委譲」の一環と称して現場での治安活動をイラク警察や新イラク軍に押し付け、米軍自らは基地に隠れていようとしている。
 一方でアメリカが主導権を握れるような「主権委譲」を追及してイラク国内の政治対立を煽りながら、一方では米軍の犠牲を避けてイラク人同士が傷つけあう構図を作る、それでもなおイラクに居座って占領を続けるという姿勢が、イラク人の間で一層米軍への根強い憎しみと不信感を生み出し続けている。アメリカが自らの利権を追及して行っている介入、自らを守るためだけの米英主導の侵略軍駐留こそがイラク混乱の源である。

 紹介記事1「嘆き悲しむイラク人は怒りを米軍に向ける」では、米軍が事件の予想されるモスクから事前に撤退していた事実が証言されている。米軍は自らの身を守る事だけを考え、イラク民衆の治安を維持する気などさらさらないことを如実に示すものである。またこの記事では少し触れられているだけであるが、米軍のローテーションに伴い現地の事情に疎い兵士に入れ替わることで軋轢を生む事態も報道されている(Fresh U.S. troops in Iraq mean adjustments to violence, trust for both sides   HANNAH ALLAM, Knight Ridder Newspapers http://www.sunherald.com/mld/sunherald/news/world/8039693.htm)。
 紹介記事2「第82空挺部隊 対 老夫妻:過剰な武力行使の事例研究」は、米軍による無差別な民間人虐殺の衝撃的なルポである。米軍が「テロ」と考えれば、裏づけもとることなしにいきなり攻撃をして殺してしまう、ということが大手を振ってまかりとおっているのである。米軍の「テロリストを拘束した」との報道の裏に、どれだけ多数のイラク民衆の犠牲が隠されているのだろうか。
 紹介記事3「アパルトヘイトの用心棒が米国にかわってイラクを監視する」は、「中東の民主化」を口にするブッシュ政権がどういう姿勢であるかを示唆するものである。人種差別政策を維持した旧南ア政権で雇われ、民衆の弾圧や暗殺を推し進めてきた人物らがブッシュ政権に傭兵として雇われ、「イラク民主化」のために働いている!

 アメリカのイラク侵略・占領に加担してはならない。自衛隊派兵によるアメリカの支援を今すぐやめさせなければならい。

記録−米軍によるイラク民衆への攻撃・拡大する米軍兵士の犠牲
7日
被害
 バグダッド CPA本部にロケット弾が打ち込まれ、5発が同本部近くのアルラシードホテルに着弾、ホテルにいた米国人企業関係者1人が負傷。イラク基本法署名式の妨害を狙ったもの。

6日
被害
 ハバニヤフ  爆発物を積んだトラックによる攻撃に米兵が発砲、運転手が死亡し、米兵3人が負傷。

5日
被害
 イラク南東部アマラ  駐留英軍部隊がパトロール中の部隊に発砲した容疑者を兵士が拘束したところ、住民との間で銃撃戦となり、イラク人3人が死亡、英軍兵士7人が負傷。

政治情勢
 イラク基本法調印式が延期。

4日
被害
 バグダッド 電話交換局近くの路上にロケット弾が着弾、イラク人3人が死亡。
 キルクーク 警察のパトロール隊が攻撃され、警察官1人が死亡、2人が負傷。
 モスル   武装勢力がロケット弾と自動小銃で攻撃を仕掛け、警察官3人と市民2人が死亡。

政治情勢
 サマワの中心部で欧米のポルノビデオCD店を標的にしたとみられる爆破未遂事件があり、店の前にあったTNT火薬約1キロ入りのペットボトルを地元警察が押収した。

3日
被害
 バグダッドで電話交換施設が3発のロケット弾で攻撃され、イラク人1人が死亡、1人が負傷。この影響でイラク国内の多くの地域で国際電話が不通となった。また、バグダッド中心部の連合国暫定当局(CPA)本部や駐留米軍本部がある地区にロケット弾三発が撃ち込まれた。死傷者はなし。

政治情勢
 3日付の英紙フィナンシャル・タイムズに掲載されたインタビューで、石原都知事はイラクの自衛隊員が死傷すれば、国民は政府の下に結集し、憲法改悪につなげられると発言。石原知事は「日本の兵士が死亡するのを見れば国民は怒り、結束し、政府を支持するだろう」とし、憲法改悪については「これを支持する。われわれは米国の言いなりにならなくていいように憲法を変える」と発言。

2日
被害
 カルバラとバグダッドの2ヵ所でイスラム教シーア派の伝統行事アシュラを狙った同時多発攻撃があり、少なくとも181人が死亡、550人以上が負傷した。カルバラでは9件爆発があり、うち3件は自爆攻撃、1件は地雷、5件は手押し荷車に仕掛けた爆弾が爆発した。バグダッドのカジミヤ地区では3件の爆発があり、うち自爆攻撃1件、仕掛け爆弾によるものが2件だった。
 バグダッド市内を走行していた米軍車両が武装勢力による爆弾攻撃にあい、米兵1人が死亡、1人が負傷した。



紹介記事1
嘆き悲しむイラク人は怒りを米軍に向ける。
何故米兵は攻撃を防がなかったのか尋ねる人もいれば、米兵に疑いの目を向ける人もいる。
Mourning Iraqis direct anger toward U.S. troops
Some ask why GIs didn't prevent attacks - other suspect them
ビビアン・ウォルト サンフランシスコ・クロニクル紙   2004年3月3日
http://sfgate.com/cgi-bin/article.cgi?f=/c/a/2004/03/03/MNGSO5CTEO1.DTL

バグダッド
火曜日に起きた破壊的な同時爆発は、シーア派巡礼者の大虐殺となった。そのため、イラク当局と住民は、攻撃が広く予想されていながら彼らを守れなかった米軍に対して、怒りの疑問をぶつけた。

バグダッドとシーア派の聖都カルバラで少なくとも143人の人々が死に、400人以上が負傷した。サダム・フセイン政権が昨年5月倒れて以来、1度に起きたものとしては過去最悪である。

シーア派の聖日アシュラに際して2度の爆発が起きたその恐ろしい午後、イラク人は憤慨と悲嘆を米軍当局にぶつけた。

ある男は自分の弟がバグダッドホテルの中で死んで横たわっているのを見つけ、「こうしたのはアメリカ人、お前達だ!」と外庭で叫んだ。

彼は、悲しみに体を折り曲げ、怒りに拳を握り締めて、そばにいた3人の米軍警備兵のところをよろめきながら歩いていたので、彼の友人が引き止めたほどだ。別のイラク人らはアメリカ人ジャーナリストらを激しく非難し、カメラマンのカメラを殴りつけた。

少なくとも58人が殺されたバグダッドのカジミヤ聖堂近くの道で、頭からつま先まで黒い布を纏った女性が一人のレポーターを追いかけてきて、「あなたたちアメリカ人はどうして私達にこんなことをする?」と、金切り声を上げた。

バグダッド警察によると、3人の自爆攻撃者はシーア派聖堂周辺の二重の警戒線を突破し、モスクの中庭に入り、腰回りに付けた爆弾を爆発させた。4人目は爆発物のベルトを爆発させる前に逮捕された。その直後に攻撃者は聖都カルバラの聖堂に自爆、爆発装置、迫撃砲による激しい攻撃を行い、少なくとも85人を殺した。米軍のマーク・キミット准将は火曜の晩の記者会見で、テロ攻撃の全てを防ぐのは不可能だ、と主張した。

「これは洗練された攻撃で、非常によく組織化されている」と、イラクにおける作戦での副長官であるキミット准将はレポーターに述べた。「これは寄せ集めのチームではない」。

米軍当局は攻撃の黒幕はアブ・ムサブ・アル・ザルカウィ氏だと考えている、と述べた。この人物はイラクにいるアルカイダのメンバーだと広く考えられているヨルダン人である。

キミット准将はザルカウィ氏によって書かれたという手紙を引用した。その中で彼は全面的な内戦の火種を切るためにイラクの宗教グループに対する大規模で組織的な攻撃を行う事を主張していた。手紙はクルド人の治安当局が1月にイラク北部でザルカウィ氏の仲間を拘束した際に発見したものだ。

しかしながら、何人かのバグダッドの住民は、イスラム教徒にはイラクの1500万のシーア派と世界中の同じ宗教者に崇められているアシュラの日に、このような大虐殺の犯罪をあえて犯すイスラム教徒はいないと話す。驚くことに、イラクでの巨大な米軍のプレゼンスは、強力な兵器を持ちながら、彼らを守ることができなかった。イラク人の中にはアメリカ人が武器を宗教に向けたのだと結論付ける者さえいる。

バグダッドではカジミヤ近辺で群集を統制して負傷者を救助しようとしていた米軍と衛生兵を群集が襲撃し、投石して彼らの装甲車を壁で囲まれた前哨基地近くまで撤退させた。2人の兵士が骨を折り、そこで米兵は催涙ガスを発射して群集を分散させた。

イラクのシーア派の最有力の政治的指導者であるアブデル・アジズ・アル・ハキム氏は、寺院周辺での米軍の警備が不十分なために攻撃を防げなかったと非難した。

死者の数はもっと多くなったかもしれない。南部の都市バスラでは英兵によるパトロールが、爆発物を巻いた2人の女性の自殺攻撃者を拘束した。明らかに何万ものシーア派礼拝者の中で自爆しようとしていたところであった。セイエド・アリ・ムサウィ・モスクの外で自動車爆弾が発見され、その後に2人の男性が拘束された。

1月から増大する一連の自爆攻撃は2つの戦略を浮かび上がらせる。爆発は宗教礼拝者とイラク治安部隊を標的としている。

2月初旬に起こったアルビルのクルド人都市での2件の同時自爆攻撃は、アシュラとは別のイスラム教祭の始まりを祝おうと集まった人々100人以上を殺した。先月、バグダッドの南で自爆トラックが警察署の外で列をつくっていた50人以上のイラク人を殺した。彼らは治安の仕事を探していた。翌日、バグダッドでイラク軍の仕事を求めるイラク人に向かって自爆攻撃があり、50人以上が殺された。

攻撃の兆候が予測できたにもかかわらず、火曜日の爆発は米軍当局の油断を突いたようだ。CNNのニュースが、爆発音がバグダッドで聞こえたと報道した時、記者らの小グループが米軍高官と面会していた。壁のテレビモニターを一瞥して、高官は最初、米兵による不発弾の爆発で被害は無い、と片付けてしまった。

彼は米兵への攻撃は11月から2月の間に1/2に減ったと報道記者に話している最中だった。その事態はイラク人らの疑いの目を生んでいる。火曜日の膨大なインタビューの中で、イラク人たちは米軍の熱意に不信感を抱いていると発言した。何故なら、今たくさん殺されているのはアメリカ人ではなく、イラク人だからだ。

「アメリカ人は自分達だけを守り、イラクの人々を守らない」と、返り血を浴びたバグダッドの聖堂近くで47歳のナジム・アベドは言った。

キミット准将は火曜の晩に次の発表を行った。米軍司令官は、アシュラの期間、戦車と装甲車を聖堂から十分遠ざけることを決定した、米兵の存在が聖なる祭りの間イスラム教徒を刺激する恐れがあるからだ、と。

「我々は異文化を尊重してモスクから離れて警戒線を張ったのだ」と、彼は言った。

パトロールに出ていた米兵の中の数人は、軍のローテーションの一環でごく最近イラクに到着しばかりのもので、命に関わる危険に対処する経験が比較的少なかった。

火曜日の攻撃による犠牲は、米軍当局が計画しているイラク警察と民間防衛隊への急速な治安責任の移譲についても、強く疑問を投げかけた。

<後略>


紹介記事2
第82空挺部隊 対 老夫妻:過剰な武力行使の事例研究
82nd Airborne Vs. An Elderly Couple: A Case Study of Excessive Force
ベン・グランビイ、Electronic Iraq、2004年2月16日
http://electroniciraq.net/news/1366.shtml

イラク、ファルージャ ―― それはロケット砲撃から始まった。住民らの話によれば、遠方のジェット機から複数ミサイルが発射され、埃っぽい片田舎にあるアミリヤの村の至る所の家周辺に打ち込まれた。2月16日の午前1時のことである。彼らはほぼ同時に首長であるモハメッド・アス・サイードと、ミシャーン・アビド・サレーの家に着弾した。1マイルほど離れたところまで米地上軍が接近していた。アメリカ人の目的は、住民らによれば、この地区に逃げ込んだとの疑いをかけられた3人のシリア人だったという。

サレーの農場は砂利道の突き当たりにあり、隣の家からは数百メートル離れた場所にある。質素な平屋の泥レンガでできた家には、40人ほどの大家族が住んでいる。ミシャーンの孫が多くを占めている。ミシャーン(70歳)はあまり目が見えず、早朝に起こった事柄の話は妻に任せた。

「ミサイルが私達の家に命中して、私達は飛び起きました」と彼女は説明する。彼女はヒジャブの下でぶるぶると身を震わせていた。「それから兵士らがやってきて、私達のトラックを1台爆破し、羊を攻撃したんです。そして彼らは家に入ってくると、皆を外に連れていきました。」彼女の子供のうち4人が頭から袋を被され、拘束されて連れて行かれた。その後、家族がアメリカ人らに完全に服従していたにもかかわらず、彼女の話では彼らは家を捜索し、家族が所有していた2挺のライフル銃、宝石、それに生活のための蓄えであった2500万イラク・ディナール(米ドル18,000相当)を押収していった。戸外にいた兵士の何人かが3台の車を発見した。それは家族の所有するもので、農産物を輸送するための大型トラック、小型の乗用車と新しいピックアップ・トラックだった。各車ともタイヤに何発も銃が撃たれ、そして弾丸が数発エンジン部にまともに命中していた。明らかにワザとやられたものであった。

ミシャーンは一番幼い親族を抱えながら、悲しんで泣き始めた。その子はただ義眼をじっと見つめていた。「彼らは私たちに一体何を求めてるというのか。私たちはここにいるただの農民です! 彼らは、私たちが持っているものすべてを奪い、残ったものは打ち壊し、私の子供がどこに連れて行かれたかもわかりません」。死んだ羊が家の側にあちこちと散らばっており、いくつかはロケット弾によりできたクレーターの前に広がっていた。50メートルほど自動車道を下ると、不発弾のロケットが砂地に埋もれたままとなっていた。

サレーの家族はしかしその朝、まだ寛大な扱いを受けたといえる。村の反対側、キュウリやトマトが芽を出した大きな農場を通り過ぎると、サイードの家はめちゃめちゃに破壊されていた。隣人の話では、その家は全く最初から飛行機、ヘリコプター、戦車やその他戦闘車両からの砲撃を受け続けたという。ほぼ2時間、砲撃は止むことなく続けられた。小さな家に住んでいたただの2人のうち、モハメッドは死に、致命傷を負った彼の妻はどうにか裏手から這い出した。彼はその最悪の日に、近くの墓に埋葬された。村の者のほとんどが彼の死を悼んでやって来た。

モハメッドの家の屋根には、ロケット弾が爆発してできた穴が少なくとも13個発見された。コンクリート製の天井は吹き飛ばされて鉄骨が剥き出しになり、瓦礫があちこちに落ちていた。隣人の話によれば70歳のモハメッドは一発も撃たなかったし、そもそも銃自体持ってなかったにもかかわらず、その家の中は第二次世界大戦時代の戦場の様な状態になっていた。無傷な壁、角、隙間や通路は一つも見当たらず、少なくとも何発か銃撃されてできた穴が開いていた。外側の壁のいくつかは完全に吹き飛ばされていた。ある壁の窓には、金属格子のカバーがトーチで切断された跡が残っていた。モハメッドの妻は裏窓から外に逃れ、隣人が彼女を病院に連れて行った。しかしながら、その日の昼頃、彼女は逝ってしまったとの知らせがきた。

目撃者と親類の話では、それまでに扉をノックして呼び出したり降伏するよう言われたりすることは一切なかったという。代わりに黒い血痕と血の手形が、モハメッドが家の前あたりで彼の最後の瞬間を迎えた事を示している。米兵らが家まで行く道で抵抗を受けないよう一掃するための爆破が続けられたが、米兵らがそれを止めるずっと前に彼が死んでしまっていたのは明らかである。コンクリートの破片があらゆるものに覆い被さっている:床、階段、夫妻が持っていたわずかな家具。少数の家具付きの部屋の一つであるサイードの寝室では、キャビネットと箱が引き裂かれていた。ただ一つの機械である小さな古いテレビは、ばらばらに爆破されていた。ほとんどの壁は、小銃から戦車砲弾までありとあらゆるもので穴を開けられ、かろうじて立っているように見えた。

「これは罪だ。これは罪だ」とアリ(仮名)は繰り返した。彼はこの事件をただ呪うばかりである。この家が攻撃を受けている最中、その部隊の他の米兵らは近くの家々から若者を15人ばかり検挙して連行していった。襲撃にさらされたにもかかわらず、他の家はサイード一家が受けたようなほとんど理解不可能な残忍な行為はもちろん、どんな攻撃も受けなかった。

アフメッド(仮名)は、2人いる若い息子のうちの一人をしっかりと抱きしめた。「この子が何を見たか考えてみてください。彼がどう思ったか想像してみてください」アフメッドは怒ってまくし立てた。「いままで、何の問題もなかった。でも今では、息子は永久にアメリカ人らを憎んで育つでしょう。彼らが今日やったことのために。」 彼は、個人的な悪意をもった誰かが、モハメッド・サイードをレジスタンスの支持者だと知らせて、この無法な猛攻撃を許したに違いないと考えている。「例えば今ちょっと私がアメリカ人らの所まで行って、自分が嫌いな奴をテロリストだと言えば、あいつらは私のために彼を殺してくれるだろうさ ―― 何も尋ねずに! こんなことが現実にあるのか? これがアメリカの正義なのか?」

彼は首を振りながら、砕かれたガラスやコンクリートの破片を蹴り、歩き回った。「これは罪だ」彼は繰り返し続ける。

2月17日火曜日、米中央軍(Centcom)は、攻撃に言及するプレス・リリースを出した。米軍の主張では、第82空挺部隊第3旅団はこの地区に「ヤシム・ハムディ・アセフ博士とサドゥ−ン・ミシャの殺害または捕獲」のため派遣されたもので、米中央軍によれば、「両目標はファルージャ地区で活動している反連合国細胞の指導者であると考えられる」。彼らは銃撃戦が発生したと主張している。一切詳細は発表せずに、「ゲリラ」1名が殺され、別にサダム・ミシャを含む9人が捕らえられた、という。70歳のサイードや、彼の妻に対する言及はなかった。


紹介記事3
アパルトヘイトの用心棒が米国にかわってイラクを監視する。
Apartheid Enforcers Guard Iraq For the U.S.
マーク・ペレルマン、「ザ・フォワード(The Forward)」 2004年2月21日
http://www.informationclearinghouse.info/article5723.htm

イラクにおける延び切ってしまった(overstretched)米軍の問題を緩和しようとする取り組みとしてブッシュ政権は、以前に南アフリカのアパルトヘイト政権の忠実な従僕として働いていた民間警備保障会社を雇った。

アパルトヘイトの用心棒らが当てにされている事があらわとなったのは、南アフリカ出のの警備隊員が殺され、別のもう一人が負傷したイラクにおける先月の攻撃によってである。この二人はエリニュス・インターナショナルと呼ばれる企業の子会社に雇われていた。二人とも、以前南アフリカの準軍事部隊に所属していた。この部隊はアパルトヘイトの反対者を暴力的に弾圧するのが専門であった。

フランコイズ・ストゥリドム(1月28日にバクダッドのホテルでの爆発で死んだ)は、Koevoetの前メンバーであった。Koevoetは1980年代、隣国のナミビアでの独立戦争において活動した、南アフリカ軍の悪名高い残忍な対ゲリラ軍事部門軍である。同僚のデオン・ゴウス(その攻撃で負傷した)は、南アフリカの秘密警察部隊Vlakplaasの元将校である。

「このような人物たちがイラクでアメリカ人のために働いているというのは実に恐ろしいことだ」とリチャード・ゴールドストーンは言った。彼は南アフリカ最高裁判所を最近引退し、また以前には旧ユーゴスラビアとルワンダのための国連国際刑事裁判所の主任検察官を務めていた人である。

イラクのCPAとペンタゴンはコメントの要求に応じなかった。
イラクにおいて、米政府は絶えず成長している民間警備保障会社の企業連合に接近し、油井サイトの防衛やイラク警察の訓練と言った様々な防衛サービスを調達した。評者らは、これらの企業をあてにすることを憂慮し、責任能力の欠如が不安定な地域において一層の問題を生じさせる事になるのではないかと懸念する。

エリニュス・イラクは、エリニュス・インターナショナルと呼ばれるその大半はベールに包まれた警備保障会社の子会社であり、昨年の8月に140のイラクの油井設備の防護と約6,500人のイラク人警察を訓練するという8000万ドルの2年契約を受注した。その後、エリニュス・イラクはSASインターナショナルというアメリカの民間警備保障会社に、そのセキュリティ任務のいくつかを下請けに出した。

エリニュスがよりよく知られている競争者を打ち負かしたことで、この契約は業界内の人々を驚かせた。米英当局は入札に関する情報を公表していないが、幹部の何人かは入札が公平に行われたと述べた、と伝えられている。

当局もエリニュス側も、入札や最終契約に関するeメールでの質問に回答しなかった。

イラクでの入札プロセスの不透明さに対する批判をあおることに加え、その契約はバクダッドにおいて重要なアメリカの2つの同盟者間での政治的な内部抗争に火をつけた。イラク国民合意( INA:CIAと密な関係にある亡命者のグループ)の指導者は、主要なライバルの一人を、自分の利益のために取引を調整した、と言って非難している。イヤッド・アラウィは昨年12月のフィナンシャル・タイムズ紙に、アフマッド・チャラビ(ペンタゴンがバックについたイラク国民会議(INC)の指導者)がエリニュスとの契約を巧妙に成立させた、それは重要な石油部門における中央権力の基盤を掘り崩すための私設市民軍を準備するものだ、と語っている。

民間警備保障会社は、エリニュス・インターナショナルも含め、低賃金で高度に熟練した南アフリカの警護将校らを引き寄せていることが、最近の国連報告や南アフリカの新聞記事で報告されている。ロンドンに本社を置き、ヨハネスブルグとドバイに事務所をもつエリニュス・インターナショナルは、2002年の夏、イギリスおよび南アフリカの元治安当局者らによって設立されたと伝えられている。噂では、エリニュス・イラク子会社は昨年の5月、アメリカ主導のイラク侵略の後を追って準備されたという。石油インフラが略奪者らの第1目標になった時期である。

ゴウス(元プレトリア警察官で、後に悪名高いVlakplaas部隊で働いた)は、勤務して10年後の1996年12月、医学な理由で不適格であると宣告され、警察を解雇された。その年、ゴウスは、真実和解委員会(アパルトヘイト後に作られた、過去の残虐行為について調査する組織)に恩赦適用を提出した。委員会の記録によれば、ゴウスとその同僚は、1986年におきた地方の聖職者で反対勢力の指導者であったピエット・ヌトゥリの殺人への関与を認め、1999年5月に恩赦を与えられた。

ストゥリドムは、残酷なやり方でナミビアの反対勢力を弾圧したKovoet部隊に所属していた。ナミビアが1980年代終わりには独立へじりじり近づくとともにKoevoetはVlakpaas部隊に編入されていった。

ゴールドストーン(1990年代初めに南アフリカに置かれた、公的暴力および脅迫に関する調査のため常設委員会の議長を務めた)によれば、政府のバックアップを受けていたこれらの殺し屋集団は、ネルソン・マンデラが刑務所から解放され、南アフリカが完全な民主主義への道に進み始めた後でさえ、問題を挑発し続けた。さらに、いくつかの傭兵会社は、アンゴラやシエラレオネといった戦争で混乱した国々に、元南アフリカの兵士を派遣した。

これは新生南アフリカ政府に、傭兵会社を禁止するキャンペーンを始めるように促した。1998年7月の条例、海外軍事援助法は、南アフリカ人が個人の利得目的で武力紛争に直接戦闘員として参加することを禁止している。この法律は新兵募集、訓練および資金調達にも網をかけており、海外で活動する南アフリカ人らにも同様に適用される。

海外で活動する南アフリカの警備保障会社は、国家通常兵器管理委員会に登録することを法律で義務付けられている。南アフリカのラエネッテ・タルジャード議員の話では、しかしながら、委員会はエリニュス・インターナショナルからの認可申請は受け取っていない。「傭兵稼業をするか、民間軍事会社で働く南アフリカ人の多くは、アパルトヘイト時代に弾圧に関与していた」と彼女は述べた。「これは大変憂慮すべき事柄であり、まさに南アフリカの評判を落とすものです」。

委員会の議長は1月28日の事件後の声明で、法律のいかなる違反であっても、より一層の調査のため、検察官に委託されるであろうと述べた。



●2月29日(348日目)−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 29日にはルメイサ市でイラク市民が米兵に射殺されたことから反米デモへと発展した。ルメイサ市は自衛隊の派遣されているサマワに隣接する市で、射殺事件のあったのは車でわずか40分の地点であった。同日、陸自の番匠一佐もルメイサ市評議会への表敬訪問のため通過予定の場所だった。これまで相対的に治安が良いと言われていたこの地域でも、 このような米軍による事件や不法行為により市民の反米感情は高まっている。
 米軍がイラク市民を殺せば殺すほど、拘束して拷問すればするほど、イラク人の米軍に対する憎しみは募り、占領支配は強い抵抗にあっている。当然、それは自衛隊を含む他の占領軍へも増々向けられていくであろう。

 今週は米軍によるイラク市民の拘束・拷問に関する記事を紹介する。紹介記事「米軍に拘束されて拷問を受ける」は、米兵による捕虜に対する虐待・拷問を受けた農夫の家族の証言である。後ろでに手錠をされて殴る蹴るの暴行を受け、同じ姿勢をずっと続けさせられ、何日も水だけで過ごし、眠ることもできず、家族への脅しを受け、お金や身分証明などの持ち物も全部奪われた上で道端に放り出される。誤認逮捕であっても当然補償などない。イラクでは米軍の掃討作戦としてこのような不当な拘束・拷問が大規模に行われている。
 翻訳紹介はできなかったが、イラクでは拷問が日常的に行われ、捕虜が殺されるケースもあるとの海兵隊員の証言もある。
参照"Abuse of Iraqi prisoners common, Marine says"
  http://www.signonsandiego.com/news/military/20040203-9999_1m3marine.html


記録−米軍によるイラク民衆への攻撃・拡大する米軍兵士の犠牲

29日
イラク人の犠牲
 ルメイサ市
  イラク人の乗った乗用車が米軍の8台の輸送隊列を追い抜こうとして停車を求められ、運転手が撃たれて即死。1人が背中などに4発の銃弾を浴びて重傷を負った。発砲でイラク人2人が死亡、1人が重体。住民ら数百人が「アメリカ帰れ」と叫んで投石を繰り返すなど、一時、現場は騒然とした。同県で米軍の発砲で死者が出たのは初めて。これをきっかけに反米デモが発生し、道路が封鎖された。現場は同じ日に陸自の車両が通過する予定だったが、米軍の発砲で中止となった。

 カルバラ
  ポーランド軍兵士が、イランなどからの巡礼者が乗ったバスに発砲、10人が負傷した。負傷者の中には、ポーランド兵1人とイラク保安隊隊員1人も含まれている。バスが検問所での停止命令に従わず、テロ攻撃を仕掛けてきたとみたため起きた。バスはブレーキが故障していたらしく、別の車両や兵士らが詰める検問所のコンクリート壁に激突した。

28日
イラク人の犠牲
 モスル
    イラク警官1人が銃撃されて死亡。米軍はイラク人2人を反占領ゲリラとして殺害(モスルのイラク当局は2人がゲリラであることを否定)。

米・同盟軍の犠牲
 バグダッド
    エストニア軍兵士がパトロール中に銃撃を受けて死亡。同国兵が攻撃を受けて死亡したのは初めて。

27日
政治情勢
 陸上自衛隊の主力部隊第1波(本隊第2陣)約130人が、クウェート北西部の米軍キャンプ・バージニアから出発。国境を越え、同日夜(同28日未明)にサマワに到着。

26日
政治情勢
 英国のショート前国際開発相がBBCラジオへのインタビューで、イラク戦争前に英情報機関がアナン国連事務総長の会話を盗聴していたと述べた。これに対して国連のエカード事務総長報道官は、「事実なら失望する。中止してほしい」との声明を発表。国連を舞台にした外交官を装ったスパイ横行のうわさは以前からあったが、英国の閣僚経験者の暴露だけに衝撃は大きく、同報道官はスパイ行為を禁じた国際条約を挙げ、「盗聴は違法となる」と異例とも言える強いいらだちをあらわにした。

25日
イラク人の犠牲
 モスル       イラク警察副署長が出勤中、武装グループの銃撃で死亡。

米・同盟軍の犠牲
 イラク西部ハディサ 米軍の偵察ヘリ1機が墜落、米兵2人死亡。

25日
政治情勢
 サマワ       TNT火薬数キロを持っていた男二人が拘束される。

23日
イラク人の犠牲
 キルクーク    クルド人地区で爆弾を積んだ車が警察署の前で爆発し、イラク警官13人と犯人1人が死亡、51人が負傷。



紹介記事
米軍に拘束されて拷問を受ける。
Detained and tortured by the US military
ジム・ロニー  Electronic Iraq              2004年2月19日
http://electroniciraq.net/news/1367.shtml

アハメッドはバグダッド郊外に住む52歳の農夫である。1月の終わりに彼は米軍に拘束され拷問を受けた。彼には8人の子供がいる。一番年下の息子は11歳だ。彼は野菜、小麦、米、豆を育て、灌漑大臣(Ministry of Irrigation)の運転手を勤めている。彼は米軍から処罰されることを怖れて実名を伏せるよう我々に頼んだ。

これから話す話は彼の発言を翻訳して編集したものである。アハメッドは2004年2月13日、クリスチャン・ピースメーカー・チームズ(Christian Peacemaker Teams)とオキュペーション・ウォッチ(Occupation Watch)との会合を持った。これが彼の話である。

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1月の終わりのある日、2km離れた場所で爆発があった。私は爆発音を聴いたとき、家の中にいた。金曜日だったので私達はいつものようにモスクにお祈りに出かけた(金曜はイスラム教で安息日にあたる日)。お祈りを終えたとき、私達はヘリコプターをあちこちで見かけ、それからアメリカ人達が私の家に来て、別の市から訪ねてきていた私の甥を逮捕したとの知らせを聞いた。私は家族の皆に、何もやっていないのだからすぐに解放されるだろうと言った。

私の息子は隣の家に住んでいる。アメリカ人達はその家も捜索し、息子のお金を奪っていった。彼らは捜索を終えて私達を待っていた。彼らは私と息子を逮捕し、私達が爆発させたのかと尋問した。私達はノ−と答えた。誰がやったか知っているかときかれ、ノーと答えた。兵士達は、お前がやったと言うか、それとも誰それがやったと言うかのどちらかだ、と言った。

彼らは私に手錠をかけ、シャツを掴んで車に乗せた。彼らは爆発現場で車を停めた。シャツを引っ張って私を連れていき、私達に爆発の跡を見せ、それから殴り始めた。袋を頭からかぶせられていたので、誰が私達を殴っているのか見ることができなかった。彼らは私を靴で蹴ったりもした。

キャンプへの道の途中、私が水を飲みたいと言うと水筒で頭を殴られた。私は車から降りて座りこむと、誰かが私の腕を掴み、地面へ投げ飛ばした。彼らは私達を壁に向かって並べさせた。誰かが私を蹴り、私の頭は壁に強くぶつかり、倒れた。

彼らは午後1時に私達を連れていき、キャンプに着いたのは午後5時半だった。私達は食べ物が与えられず4日間水だけで過ごした。その間私達は屋根の無い外へほっぽり出され、袋をかぶされている為に何も見えなかった。

壁に頭をぶつけて倒れた後、私は後ろ手に手錠をかけられ、うつぶせにさせられた。(アハメッドは我々に彼の手首を見せてくれた。ピンクの傷跡が環になっていた。)彼らは私にこの姿勢を夜通しで次の日まで、約24時間続けさせた。その間私達は足を動かすことも許されなかった。彼らが蹴ってくるために寝ることもできなかった。確かかわからないが、私は彼らが意図してそうしたのだと思う。私達を拷問して、眠らせないために。

これを見て下さい。(彼の妻は白い上着を持ってきた。前には黒いマーカーで番号が書かれていた。)これは彼らが識別のために私の体に書いたものだ。

この24時間中に彼らは犬を何頭か連れてきた。私は彼らが犬を使って捜査したり何かしているのが聞こえた。私は噛まれなかったが、他の人が噛まれて金切り声を上げるのを聞いた。

通訳がいたので私は手の感覚がないことを伝えようとした。まるで手が切り落とされてしまったようだった。しかし彼はそういうものだと答えた。

次の日彼らは私達を、足を組んだ状態で座らせた。後ろ手に手錠をかけられ、フードを被されたままで。兵士らがやってきては膝あてで蹴り、笑っているのが聞こえた。

私は疲労困憊してしまったが、うとうとすれば彼らは私を蹴ってきた。トイレへ行きたいと通訳に頼むと、兵士らはどなりつけて蹴った。彼らが連れて行ってくれるまで、10回から15回も頼み込まなければならなかった。

トイレにたどり着いても、彼らが腕を放してくれたところで使う事ができない −− 曲げる事ができないので −− 。それで時々自制できなくなった。この間中、食事は一切ない −− 水だけだった。雨こそ降らなかったが、寒かった。私たちは翌日まで、一晩中こんな状態で座らせられた。これはその際にできた跡です。[アハメッドは私達に、足首の外側の骨の上に4分の1サイズの赤いかさぶたができているのを示した。] その後で彼らは私たちを24時間立たせた。これを4日間も続けた。

時々彼らは私達を別の場所に、毎回首根っこを掴んで連れて行き、時には壁にぶつけた。彼らは私と3回接見した。毎回、彼らは私を通訳と一緒にいる誰かの部屋に連れて行った。私の頭からフードが取られた。それはアメリカ人らがサンドバッグを作る布地でできていた。彼らはそれをやった奴を誰か知らないか?と3〜5分間ほど尋問した後、連れ戻した。彼らはただ情報を求めていた。

4日後、彼らは私が食事をとらないといけない、と言った。彼らは壁の前に私を連れて行った。犬の傍らにだ。兵士の一人が犬にビスケットをやり、そして私には肉を一かけ寄越した。でもそれはひどい匂いがし、食べられるようなものではなかった。それで私はビスケットをくれ、この肉は犬にでもやってくれ、と言った。するとその兵士はビスケットも肉も犬にやってしまった。[イスラム圏の風習では、犬は下品なものと見なされている。] 彼らは私の頭にまたバッグを被せ、元の場所に連れて行った。

5日目、彼らは再び私の首を掴み、壁へ打ち付け、車に放り込んでスカニア工場へ連れて行った。ここは彼らがアル・ドーラ[バクダッド郊外]につくった大きな軍事基地だ。そこには私だけではなかったと思う。他の者の声も聞こえたからだ。彼らは身体検査をして、私からタバコ、ライターとお金を取り上げてバッグに放り込んだ。それは返すから、と彼らは言った。

兵士の一人がアラビア語で私に話しかけた。彼は、私を助けてやろう、と言った。彼は、既に拷問された人々のグループに私を一緒にするつもりだと言った。彼らはそれから頭のバッグを取り、手を自由にした。

部屋の中に私達のグループを入れると、彼らは扉を閉めた。この部屋にはベッドと毛布があって、眠る事ができた。私はこの部屋で眠ったが、晩の9時まで食事は抜きだった。彼らは兵士らと同じ食べ物を持ってきたが、それは私達には食べ難いものだった。それから私たちは翌朝までの一晩を過ごした。朝には、トイレへ行くこともできた。私たちはこの部屋で3日過ごした。この部屋に20人がいた。

3日後、彼らは私たちの中から10人を連れて行き、外の壁際に立たせた。彼らは、私たちを解放するつもりだと言った。幹線道路まで行ったら、車を呼び止めて、お金がないから家についたら払うと頼め、と彼らは言った。彼らは私に身分証明書も、タバコも、お金も返さなかった。

私は幹線道路まで行き、タクシーを見つけると家まで戻った。

神はあなたに真実を語るようにと言っている。だから私はあなたに真実を語るのです。

アリ(アハメッドの26歳の息子)が、続いて彼の話をした。彼には3人の子供(1歳、3歳と4歳)を持ち、文部大臣の運転手をしている。彼も父親同様、フードをされ、手錠をかけられて、4日間食事を与えられなかった。

彼らは私達を薄暗い部屋に入れ、床に脚を組んで座らせた。彼らは私の頭から袋を取り、捜索をしていた将校が私に通訳を通して爆発に関する尋問をした。誰がそれをやったか、私はどこにいたか、と。それから彼らはまたバッグを頭からかぶせ、私を連れて行った[私の父親が連れて行かれた場所だ]。

二回目には、彼らはまず私の父を連行し、それから私を連行していった。彼らは私に、父親が全部吐いたから、今度はおまえが本当のことをしゃべる番だ、と言った。私は同じ答を繰り返した −−私は爆発について何も知らない、と。

三回目、彼らは同じ部屋に私を連れて行った。そこには将校と通訳がいた。私の頭から袋が取られ、壁際に立たされた。彼は私のほんの間近にまで来て、目をそらさずこちらを真っ直ぐ見ろ、と言った。君は質問に答えてくれるだろう、と彼は言った。しかし最初に、彼は思い出すべき4つの事柄を言った。私は神経質になっており、4つめの事柄が何だったか忘れてしまった。すると彼は私を殴り倒した。彼は再度4つの事柄を尋ねた。しかし私はまた4点目を忘れてしまい、彼が私の股を蹴りあげたので私は倒れた。

彼は爆発について私への尋問を続けた。私のあごの下に手をやり、床から持ち上げた。彼はこうしながら、私がもし嘔吐するようなことになったら全部飲みこんで ―― もどしたらいけないぞ、と言った。そして彼は私を手で殴り、私が倒れると靴で蹴った。次に彼は、もしおまえが質問に答えないつもりなら、お前の母親と妻と姉妹を裸にして写真を撮り、ポルノ映像として衛星放送にながしてやるぞ、と言った。最後に彼が私を殴った際、私は崩れるように倒れ、その後のことは何も思い出せない。

翌日、彼らは私の首と背中に針のようなものを使った。私はフードを被せられたままだったのでそれが何だったか分からないが、彼らが爪で私を突いていたように感じた。

4日後に私達が解放された際、彼らは外のゲートに私達を連れて行った。私たちは11人だった。彼らは私たち全員後ろ手に手錠をかけたままだった。私たちは近くの店に行って、手錠を切断するためのナイフを手に入れなければならなかった。

彼らは私を解放する際、400,000ディナール(約280ドル)と身分証明書を取り上げた。



●2月22日(341日目)−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 サマワでの自衛隊の本格活動が始動した。石破防衛庁長官は、自衛隊がイラクで市民も巻き込んで殺傷した場合も殺人罪、傷害罪とはならない、と言明している。
 米英占領軍もまた、その支配下のイラクにおいて、イラクの法律では裁かれず、自国の法律にのみ縛られるとの立場をとっている。その下で何が行われているのか。多くのイラク民衆がフセイン政権崩壊後も引き続き、米英軍に傷つけられ、拘束され、殺され、住む場所を破壊され、財産を奪われている。これらの米英による意図的・偶発的な犯罪に対して、イラク民衆の人権を守るものは一切なく、せいぜい占領当局の「憐れみ」によるわずかな補償が受けられればまし、といった状態におかれている。そして米英の軍事法廷内で、イラク民衆を殺した罪は問われる事もなく処理されてしまうのである。
 口先では「大量破壊兵器のため」「アラブの民主化のため」「イラク復興のため」と言いながら他国を軍事占領支配し、ブッシュ政権に近い企業が「復興ビジネス」で儲け、そこで自国の軍隊が日々行っているイラク民衆の深刻な人権侵害、無差別な殺傷には目もくれず、被害者達からの責任や補償を求める声に一切答えない。マスコミも"独裁から解放され感謝し""復興支援に期待する"市民の姿ばかりを連日報道し、これら占領支配下での被害者らの姿には目をそむけ、口をつぐむ・・・侵略する側の、麻痺しきった「人権感覚」というほかない。イラク民衆の人権侵害、殺傷に手を染めさせる前に、今すぐ自衛隊を撤収させなければならない。
 紹介記事「偽りの死傷者集計、ラマディの首長たちを殴る米兵」はイラク在住の独立系ジャーナリストによる現地ルポである。罪のない市民が米軍によって無差別に殺されたり、一方的にあらぬ疑いをかけられ暴行を受けていること、これらの責任をとるものが誰もおらず、やり場のない怒りを沸き立たせていることが鋭く紹介されている。


記録−米軍によるイラク民衆への攻撃・拡大する米軍兵士の犠牲
22日
政治動向
 CPAが、イラクで人道・復興支援活動に携わるすべてのNGOに対し、登録の義務化、活動資金の提供先、資金源の全開示を要求していることが判明。登録拒否の場合は活動を事実上認めない方針という。

21日
政治動向
 イラクに派兵される陸上自衛隊の主力部隊約140人が出発。

 ニューヨーク・タイムズ紙が、CIAはイラク戦争前に国連査察団に大量破壊兵器調査のための情報の一部を提供していなかったと報道。

20日
政治動向
 CPAのブレマー行政官が、各国の部隊が少なくとも2005年12月までイラクに駐留する必要がある、と述べる。

19日
米・同盟軍の犠牲
 ハルディア近郊 爆弾が爆発、米兵2人死亡、1人負傷。イラク人1人死亡。

政治動向
 米軍、バグダッド国際空港の利用を中止する方針本政府に非公式で伝えていることが判明。

18日
米・同盟軍の犠牲
 ヒッラ近郊 ポーランド軍基地前で、車2台が相次いで爆発。民間人らイラク人11人、犯人2人死亡。ポーランド兵ら100人以上が負傷。

イラク人の犠牲
 ティクリート 米軍の迫撃弾が民家の裏庭に着弾、イラク人市民3人死亡。
 バグダッド郊外 米軍が身柄拘束しているイラク人が収監されているアブグレイブ刑務所を武装勢力が攻撃。武装勢力1人死亡、55人が拘束。

政治動向
 オーストラリア紙、豪州の諜報機関が開戦前に首相へ「大量破壊兵器の数は少なく生物化学兵器が作られた証拠もない」と報告していた、と報道。

17日
政治動向
 サマワ 2件の爆発。死傷者なし。
 オランダ国防相、イラク戦争中にサマワ付近で米軍が劣化ウラン弾を使用したことを正式に認める。

16日
米・同盟軍の犠牲
 バクバ 路上で爆弾が爆発。米兵2人が死亡、数人が負傷。
 バグダッド 輸送車両の近くで爆発、米兵1人が死亡、1人が負傷。
 タルアファル近郊 爆弾が爆発し、米兵1人が死亡、1人が負傷。

イラク人の犠牲
 バグダッド 小学校で爆発、子供2人が死亡、3人が負傷。子供たちが手投げ弾で遊んでいるうちに誤って爆発させたとみられる。

政治動向
 ムサンナ州(州都サマワ)で、連合国軍が直接管轄し、反乱・暴動鎮圧などの治安維持活動を担当するイラク保安隊の配備、増強を進めていることを保安隊幹部が発表。
 オランダ政府は、サマワへの部隊108人増派決定。サマワの治安責任を今年3月からイラク当局に移していくため、イラク警察の強化を急ぐとされる。

 米石油関連大手ハリバートン、イラク駐留米軍への子会社による過剰請求疑惑に関連し、米軍への請求を「状況がはっきりするまで」保留すると発表。


紹介記事
"偽りの死傷者数、ラマディの首長たちを殴る米兵"
"False Casualty Counts, Beating Sheikhs in Ramadi"
 ダール・ジャメイル、Electronic Iraq、2004年1月29日
 http://electroniciraq.net/news/1355.shtml

 バグダッドの60マイル西にあるカルディヤでは昨日、路上で強力な爆弾が爆発し、米兵を殺した。その余波でイラク市民が米兵の銃撃を受けて殺された。だが、死亡した米兵とイラク市民の人数について相矛盾するという疑問が残されている。
 事件に関する中央軍(CENTCOM)の記者発表では、米軍は3つの機動部隊「オール・アメリカン」の兵士が即席の爆弾(IED)の爆発によって殺され、イラク人一人が死んだと主張している。記者発表では、さらに兵士1人とイラク人数人が負傷したと述べている。
 イラク人市民の犠牲者が運ばれていったラマディ病院にいた人々から聞いた現場の目撃談は、これとは全然違うものである。
 モハメド(姓は匿名)は現場の近くに住む25歳のイラク人男性で、12人の米兵が殺されたのを見た、と証言した。ばらばらになった身体があちこちに飛び散っていた。そして少なくとも5人は負傷者がいた、と。彼や別の数人の証言者の話によれば、彼らはアメリカの車両がIEDによって爆発し、続いて他の兵士らが銃撃を始め、目に付くものを手当たり次第に撃ったのを目撃している。
 ハマド・ナイフ・エルミルは大型トラックを運転していたところを撃たれて殺された。彼の後ろを走っていたバスに乗っていたイラク人らによれば、彼はアメリカ人の弾丸によって穴だらけにされたという。
 アリ(姓は匿名)は事件を目撃したイラク人警官で、こう語った。「12人の米兵の死体を見た。彼らは死体を黒の遺体袋に入れ、ヘリコプターで運び出した」と。
 アリは言った。「私たちはバスから人々を助け出そうとしたが、米兵がそれをさせまいとした。彼が死んだのは、米兵が彼を助け出させまいとしたからだ。」
 事件の現場近くに住む別の男性、アブドゥル・アクマンも言った、「12人の米兵が殺されヘリコプターで運ばれていったのを見た。米兵は立ち去ってほしい。彼らは、私達に自由をもたらすと言ったけれど、ただ死と苦痛をもたらしただけだ。もし彼らがここに留まるならば、私達は彼らを殺すだろう。」と。

 一方、マーク・キミット准将は先週、APニュースに次のように語った。「私達は、自分達が全土で適切なセキュリティ・レベルを維持するのに十分な能力を持ち合わせていると信じている。」
 私達が現場を去ったのは、若いイラク人少年が、負傷した同僚への緊急トリアージ(負傷者の優先順位付け)を終えた米衛生兵から受け取った血の滲む包帯と点滴容器を持っているのを見た後だ。ある若者は、米兵の死体から取った米軍の腕時計を誇らしげに示した。
 IEDの爆風によりできた数フィートの深さに達する穴が、ハイウェーの車線の真ん中にできていた。

 私達は殺されたトラック運転手の葬列に出くわした。彼の棺はイラクの旗に覆われて、打ち沈んだ多くの人々によって運ばれていた。彼らは泣き叫びながら棺をモスクへ運び、そして村の墓地へと続く小さな丘を上っていった。
 一人の男性が行列から私を引き離して話し出した。「米兵は自分らを動物扱いしている。奴らは私達の家々を毎日襲撃する。奴らは私達のお金を盗っていく。ここら辺では、どの家でも最低一人は拘留されている。サダムは私達を目茶苦茶にした。でも米兵は私達が持っているもの全てを目茶苦茶にしている。」

米兵に足・胸・顔を撃たれたカルディヤ市民
 別の者が私に言った。「私達は自由が欲しい。私らには仕事が必要だ。私は教師です。でも私は侵略が始まって以来、仕事をしていない。彼らは私達に自由を約束したが、実際には監獄と殺人とひどい扱いを押し付けているだけだ。」
 また別の人が怒りながら話す。「米国は大量破壊兵器とサダムのために来たと言った。あいつらは大量破壊兵器を見つけられなかった。サダムは捕まえた。そして私らはまだ苦しめられている。私たちは今や、とことんあいつらと戦うつもりだ。あいつらは利益を求めてやってきた。あいつらは私らみんなを侮辱しているんだ。イラクの人民はアメリカ人に抵抗する権利を持っている、なぜならあいつらは侵略者なんだから。あいつらは攻撃されると、何故いつも無関係な人間も巻き込んで殺すんだ?」
 数人が、カルディヤでは今1日に1時間しか電気が使えず、また午後7時以降は夜間外出禁止令が出されていると私に教えてくれた。
 ハジは憤りながら私に言った。「私はアメリカ人はもっと良い人間だと期待していた。もし彼らに誠意があるなら、彼らは今すぐ立ち去るべきだ。彼らは、この事件の後で私達に屋内に留まるよう拡声器で通告し、さらに7時以降は外出しないよう警告した。誰がこんなふうに生活していけますか?」
 遺体の埋葬が終わった後、私達は厳かにラマディ病院に着いた。
 ライド・アル-アニ医師(イラク人死傷者が搬送されたラマディ病院で副理事を務める)は、イラク市民3人の死体が病院の死体公示所に運びこまれており、そして負傷したイラク市民が5人だった、と述べた。
 アル-アニ医師は語った。「ここに連れてこられたイラク人負傷者5人のうち、3人は死んでしまった。1人は現在、手術室におり、5人目はこの上の階で、アメリカ人に3箇所を撃たれて苦しんでいる。」
 モハメド・ハマド(36歳)は、顔、胸、右脚を撃たれ、病院で療養中である。彼は証言した。「私はラマディからカルディヤに向かうタクシーに乗っていたが、その時に米軍のパトロールが路上爆弾の攻撃にあった。それからすぐ兵士らは四方八方へ乱射しはじめた。」

 私が彼に、アメリカ人に補償を要求するつもりかどうか尋ねると、彼は、「わからないが、彼らが一銭たりとも補償をくれるだろうとは思ってない。彼らはこの近辺の誰一人に対して補償を与えていない」と言った。
 モハメド・ハマドによれば、彼が乗っていたタクシーの運転手はアメリカ人らの銃撃で殺された。
 私はモハメドと話した後でホールを歩いていた。そして14歳のヤス・ハマド少年に会った。彼は腕、胸そして脚に手榴弾による傷を受け療養中であった。米兵が彼の両親の家を襲撃し、その内の1人が手榴弾を残していった。次の日、ヤス・ハマドがそれを拾いあげると爆発した。
 アル-アニ医師はアメリカ人たちに殴られた首長が上にいると教えてくれた。医師は彼と話をするために私達を階上に案内した。その途中で医師は、彼の病院がラマディで一番高い場所に建っているため、米兵らが屋上を占拠していると話してくれた。彼はこのことは気にしていなかったが、彼らが射撃訓練の標的として瓶を撃っており、治療中の心臓疾患患者や年配の患者らをびっくりさせてしまうことを気にしていた。
 タールキ・ムスル・レイス首長がベッドに横たわっていた。彼は頭、胸、肩そして脚を殴られて負った傷を治療中であった。この上に、さらに糖尿病でも苦しんでいた。彼は起き上がり、苦痛でうめき声をあげながら私達と次の話をした。「2週間前、アメリカ人らがやってきて、私にレジスタンス戦士の名前を教えるよう要求した。私はレジスタンス戦士のことは全く知りません。私達はいつもここでサダムに反対していた。彼らは私にいくらか手荒な仕打ちを加え、そして1週間したら戻ってくるから、何人かの名前を教えられるようにしておいたほうがよいぞ、と言った。彼らは1週間前に戻ってきて、家族を外に追い出して扉に鍵をかけた。私は彼らに、自分は一人も名前を知らないと言った。すると彼らは私の手を締め上げ、頭に袋を被せ、装甲車に連れて行った。彼らは私の頭や首や肩や胸を殴りつけた。彼らは脚を蹴りあげた。それから彼らは私を家に連れ戻し、殺す事もできたんだぞ、と言い放った。私は、彼らが探している人物を誰一人知らない、私はレジスタンスと一切かかわりがないのだから、と言った。彼らは、また来るからな、と言った。」


米兵に殴られ、ラマディ病院で療養中のタルキ・ムスル首長
 首長はそれ以来病院におり、アメリカ人が再度やってこないように願っている。彼らは、私達が彼と他の数人の首長らや友人らとのランチに加わるよう強く勧めた。私達は病室で鶏や米、サラダをむしゃむしゃ食べる輪に加わった。彼らは皆、フラストレーションと憂慮を表明した。この首長は3万人の面倒を見ている。彼の友人の一人が言った。「米兵は何を考えているのか? 彼らは、今では私達が戦わないとでも思っているのだろうか? こんなことがまた繰り返されるのであれば、首長は自分が任されている者らが戦おうとするのをどうやって押しとどめることができるというのか? 首長が殴られたことを知ったら、その下にある3万人の民衆は一体何をするだろうか?」
 この首長は彼が話をした記者たちに腹を立てていると述べた。彼らは、彼の民衆が米兵から苦しみを受け、殴られ、屈辱を受け、そして殺されているという真実をこれまで全然伝えていない、というのである。
 病院の副理事も同様に、このフラストレーションを表明した。
 私達はこの首長の階下にある部屋に連れて行かれた。そこは彼のいとこのムハンマド・ナッシール・アリの部屋で、彼もまた3万人の人々を統括する首長である。彼の物語もほとんど全く同じものであり、拘留され、殴られ、脅迫され、現在は米兵からの避難場所を病院に求めているのである。彼は苦痛のままベッドに横たわっている。彼の片足は折られ、体中に殴打された傷がある。
 ナッシール・アリ首長は言った。「アメリカ人は私達に暴力をふるうべきでない。もし彼らが私達に敬意と尊厳をもって接してくるのであれば、私達も彼らを歓迎するだろう。そうする代わりに、彼らは私達に恥をかかせ、激怒させているのだ。なぜ彼らは私達の自由を奪うのか? 私のところの民衆達は、彼らがここでなすべき必要のあることを行う準備ができている。」
 彼には1日100人の訪問者がある。彼らは厳粛な表情をたたえている。私達がそこにいた時、20人以上の人々が首長に会えるように、私達の面会の終了を待っていた。
 私達がホールを歩いているとラーミ・バルキ医師に会った。この人も病院の医師の一人で、私達に言った。「アメリカ人が昨日カルディヤを封鎖した。彼らは誰も家から出させないつもりです。緊急の場合はどうするのか? 心臓発作が起こったら? アメリカ人が人々を医療の用意がない自分達の家に閉じ込めているのを受け入れられますか? 都市全域が昨晩の5時から今朝まで封鎖されたんです! これは非常に重大な問題です。私達の人権はどこにあるのですか?」
 この間にも、バグダッド中で暴力が続いている。西洋人、それもほとんどは請負業者らしい人間がよく利用するホテルの近くで救急車を爆発させる自爆テロがあった。ちょうど私が滞在する場所の道路を下っていったところである。いつもガタガタ音を立てている窓が朝6時ごろに私を目覚めさせた。大きな爆風がバクダッド中央で振動を起こしたのだ。
 しかし、米軍のプロパガンダの饗宴はまだ続けられている・・・。
 「過去60日の我々の行動は、彼らを実際にやり込めている」と、ある軍高官は、反米暴動について1月23日付ワシントンポスト紙に寄稿した。「我々はバグダッド地区を武装解除した。我々はモスル地区も武装解除した。私は、ファルージャ-ラマディ地区を倒したとは言わないが、そこを激しく叩いている。」
 AP通信の報道では、チクリットのある大隊司令官が「敵はそれほど多くは残っていない」と今週、現在の状況を評価して述べている。「彼らは絶望的で、弱々しい。」



●2月15日(334日目)−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 イラクでは6月末予定の主権移譲を前に、米英占領当局に協力する者としてイラク警察や新イラク軍を標的とする攻撃が激しさを増している。彼らは米軍より軽装備である分、狙われやすくなっている。特に今月10日、11日の攻撃はイラク警察官志願者とイラク新兵志願者の殺傷を目的とするもので、2日間で100名が死亡し、約100名が負傷する惨事となった。その後も14日には警察署やイラク民間防衛隊が襲われ、警察官と武装グループ、イラク市民合わせて27人が死んでいる。彼らの多くは戦争により失職し、貧しさ故に志願した者だ(イラク戦とイラク占領によって民間企業・公務員合わせて1千万人のイラク人が失職したとの報告がある。さらには経済制裁及び侵略戦争・占領の結果、現在のイラク国民の7割が貧困層で、1ヶ月35ドル以下の生活で必要最低限の食料・医薬品が手に入らない人々が800万人に達するとのイラク暫定内閣の推計がある。子供達は家計を支えるための労働によって教育を受ける権利を奪われ、一部はストリートチルドレンと化している)。さらに言えば、これは米国の唱える「イラク復興」が全くのデタラメであり、米独占企業が利権獲得に奔走する陰でイラク人が真に生産的な仕事に就いて復興する機会を奪われているためである。真のイラク復興の手始めは、米英軍を即刻イラクから撤退させことからはじまる。そして米英政府は、無条件で、イラク人による破壊したイラクの復興・再建への支援、戦争犠牲者へ補償を実施しなければならない。
 紹介記事1「2003年にイラク国内で殺された市民は最大1万人にのぼる」では、英の市民団体イラク・ボディ・カウントが戦争開始以来殺されたイラク市民の数が最大10,079名に達した(2月7日の時点)ことを告発し、彼らこそが戦争の最大の犠牲者であることを強調、その事実を隠蔽しようとする米英政府の態度を批判した上で、実態調査と公正な補償を実現するための独立した国際法廷の開設を要求している。
 紹介記事2「イラク国内のパレスチナ人についての最新報告:避難所と死」では、公式の難民としても認められていない独特の立場に置かれたイラク国内のパレスチナ難民の現状に焦点をあて、フセイン政権崩壊によって政府からの補助も住む家も失い、仕事を奪われ、また戦闘の犠牲となって殺される事件も起きていることを伝えている。戦争の影響によるイラクのパレスチナ難民の悲惨な境遇については、国内でほとんど報じられていない問題である。しかし彼らも米英軍による戦争犠牲者である。
 9日には参院で自衛隊派遣が自民、公明両党などの賛成多数で可決された。自衛隊を侵略軍として米英の侵略戦争・占領に参加させる、許すことのできない違憲行為である。本格的で大規模な本隊派遣が始まっている。日本政府は、自衛隊の派遣を即刻中止し撤退させよ!


記録−米軍によるイラク民衆への攻撃・拡大する米軍兵士の犠牲

15日
イラク人の犠牲
 バグダッド  米軍車両が移動中の路上で爆弾が爆発後、米兵が付近を走行中の市民の車3台に無差別銃撃。イラク人1人が死亡、6人が負傷。

政治情勢
 スペインの首都マドリードで米英などによるイラク占領統治の終結と、イラク駐留スペイン軍の撤退を求める大規模なデモが行われた。主催者発表で約10万人が参加。デモはバルセロナやバレンシアなどスペインの他都市でも行われた。
 デモ隊は「我々はイラク市民とともにある。侵略者はイラクから手を引け」「石油のための流血はもうたくさんだ」などの横断幕を掲げ、イラク戦争を支持したアスナール政権を批判。スペインはイラクに1250人の兵士を派遣しており、3月14日の総選挙の争点の一つとなっている。

14日
イラク人の犠牲
 ファルージャ 警察署とイラク民間防衛隊が入る建物が襲撃を受け、警官隊と武装グループが銃撃戦。イラク警察官22人、武装グループ4人、市民1人の計27人が死亡。負傷者35人以上。

政治情勢
 イラクに派遣された陸上自衛隊本隊に装備品などを運ぶため、海上自衛隊の輸送艦「おおすみ」(8,900トン)が十四日午後、広島県呉市の海自呉基地を出港。北海道・室蘭で軽装甲機動車、水タンク車などの車両や装備品などを積み込み、護衛艦「むらさめ」とともに二十日にクウェートへ向かう。既に現地入りした陸自本隊や航空自衛隊に続く派遣で、陸・海・空そろっての海外派兵は初めて。同日、政府は十四日付の全国紙やブロック紙計八紙の朝刊に、自衛隊のイラク派遣の全面広告を掲載した。

米・同盟軍の犠牲
 バビロン〜バグダッド間 イラク国内を旅行中の米国市民4人の乗ったタクシーが攻撃され、1人が死亡、3人が負傷していたことが発覚。

13日
政治情勢
 韓国国会がイラクへの追加派兵同意案を賛成多数で可決。四月末をめどに、約三千六百人の部隊をイラク北部のキルクークに派遣する。昨年四月末に派遣した約七百人と合わせてイラク駐留の韓国軍部隊は約四千三百人に上り、米英に次ぐ規模となる。韓国としてもベトナム戦争以後の最大規模の海外派兵。

12日
米・同盟軍の犠牲
 バグダッド  爆発物が爆発し、パトロール中の米兵1人が死亡、2人が負傷。
 ファルージャ 米中央軍のアビザイド司令官らの車列にロケット弾攻撃。負傷者はなし。司令官のイラク訪問は極秘事項であり、情報が反米武装勢力に漏れていた可能性もある。過去にもCPAのブレマー文民行政官、ウォルフォウィッツ米国防副長官が標的にされた。

11日
イラク人の犠牲
 バグダッド  イラク軍の新兵募集施設へ自動車爆弾による自爆攻撃。47人が死亡、52人が負傷。犠牲者の大半は、正門前に並んでいたイラク人の求職者。

10日
イラク人の犠牲
 イスカンダリヤ 警察署前に並んでいたイラク人警官志願者らへの爆弾攻撃で、53人が死亡、50人以上が負傷。

9日
米・同盟軍の犠牲
 モスル     爆発物の処理作業中に爆発、米兵2人死亡、6人が負傷。

政治情勢
 イラク復興支援特別措置法に基づく自衛隊派遣が9日夜の参院本会議で自民、公明両党などの賛成多数で可決された。


紹介記事1
"2003年にイラク国内で殺された市民は最大1万人にのぼる。"
  ハットンなどの枝葉末節の問題に注意を逸らされるな:これこそ公式調査を必要とする中心問題だ。
"As many as 10,000 civilians were killed in iraq during 2003"
  Forget Hutton and other sideshows: this is the central issue demanding an official inquiry.
 イラク・ボディ・カウント      2004年2月8日
 http://www.occupationwatch.org/article.php?id=3015

米英研究者らの独立系グループであるイラク・ボディ・カウント(IBC)によると、米英のイラク侵略と占領支配の結果、信頼のおける報道がなされた非戦闘員の市民の死者数は、2003年中で1万人にのぼる。これらの報道によると、死者の数は2004年2月7日(土)の時点で、最小でも8,235人、最大では10,079人にのぼる。IBCが昨年1年間データ集めをした際の経験として、事件発生から何ヶ月もたってからさらに死者が追加されて報道されることが頻繁にある。多くの市民が死んだことはほぼ間違いないことである。まだ報道されていないものがあるし、現時点でIBCの集計した最大死者数でさえ、罪のない人々の死の完全な、最終的な総死者数に近いものとは考えられないのではあるが。

公式な集計を要求する声が高まっている。本日付の「インディペンデント オン サンデイ(Independent on Sunday)」紙で労働党国会議員のボブ・マーシャル・アンドリュー氏はイラクにおける人的損害の公的な調査についてのIBCの要求を支持した。

裏付けのあるメディアの報告に基づいて、IBCは市民の死に関しておよそ300に分類された記録からなるデータベースにまとめた。最新の記載(事件コード:x298)は2003年4月以降の攻撃により殺された数百人のイラク人警官に焦点を当てている。イラク警察は占領当局からも、占領に反対する準軍事組織からも、占領の最前線を防衛するための部隊とみなされており、重装備の米当局や米兵にくらべて狙いやすいことからも標的となってきた。彼らの死はイラクの人々が占領に対してどれほど高い対価を払っているか、つまり、イラク人が戦争の主要な人的犠牲を払っていることを示す最新の例である。

詳細な論説の中で、IBCの共同創立者は、大西洋の両側での政府当局の反応について、その責任逃れの仕方でどのように特徴付けられるかを示した。いわく、

・ 無知の告白を繰り返し、どんな有益な知識が得られる可能性も否定する。
・ 責任を否定し、その時々によって都合よく「別の者」に責任を押しつける。例えば戦争中にはサダムに、最近の爆弾攻撃についてはアルカイダに、と。
・ 狭く限定された範囲での軍の「自己調査」の設置。そのほとんどは、決して完遂されることがないか、結果が公表されないかである。
・ 政府当局は米軍と英軍兵士の死にのみ焦点をあて、イラク人の犠牲を故意に無視する。
・ イラク人が自ら戦争による自分達の死者をカウントしようとする努力を意図的に妨害する。
・ 少数の恣意的に数を制限したイラク人の補償請求者に、侮辱的な低額の名ばかりの「補償金」を払う。

これらのやり方の全てに共通する核心は、暗黙の二重基準である。それは、西洋人の命の価値をアラブ人やアジア人よりもはるかに高いものとみなし、私達自身の行動によって打ちのめされた命について、重大な関心を寄せて調査したり、ましてや純粋に気遣ったりする価値のないものと考える見方である。

イラク・ボディ・カウントの広報担当のジョン・スロボダは次のように述べた。「この政府当局の無関心に終止符を打たなければならない。私達は今、死者の数、彼らが殺された状況、そして犠牲者の家族への適切で公正な水準の補償金を確証するため、独立した国際法廷を開設することを要求している。」



紹介記事2
 "イラク国内のパレスチナ人についての最新報告:避難と死"
 "Iraqi Palestinian update : Refuge and Death"
 ベン・グランディ   エレクトロニック イラク      2004年2月5日
 http://electroniciraq.net/news/1359.shtml


現在も難民キャンプとして使われているハイファ・スポーツセンターのフェンス越しに友達を呼ぶ少年(electroniciraq.net)

バグダッド・イラク発---ハイファ・スポーツクラブの入り口の中を覗いて見ると、灰色の色あせてくたびれたUNHCR(国連難民高等弁務官事務所)のテントが所狭しと並んでいることに誰もが衝撃を受ける。泥が乾いて固まった地面の上にはロープが張られ、洗濯物を乾かしたりテレビのアンテナを吊るのに使われている。状況はいくらか改善されて数はずいぶん減ったが、まだたくさんのパレスチナ人がバグダッド内で、この小さなテント街で2年目を迎えようとしている。

私は約1,500人ものイラク国内のパレスチナ人の窮状についていくつか耳にしていた。彼らはサダム政権が崩壊して以来、政府の補助金を受けて住んでいた家を失った。彼らに残されたものはほとんど何もなかった。しかし昨夏の終わり以降、バグダッドのひどい暑さのために、新しく生みだされた難民らに多くの死者が出たことについて、西側の報道はほとんどなかった。じめじめして冷たいイラクの冬も影響した。それで私はその状況を注意深く調べることに決めた。

イラク国内のパレスチナ難民の大部分は、1947年から48年の戦争の間にパレスチナ人委託統治のハイファ地区からやって来た。ハイファが原イスラエル・ゲリラ(proto-Israeli guerilla)グループによって砲撃されて攻撃を受けたとき、たくさんのパレスチナ難民が西方のパレスチナ人口の最も多い地区へ移った。そこで彼らはジェニン周辺に展開していたイラク軍に出会った。最後の停戦のとき、彼らは君主制の下のイラク国内に一時的な避難場所を与えられた。イラク側は滞在が一時的なものだと主張したため、イラク内のパレスチナ人を、これ以外の中東各地の全パレスチナ難民がおかれているUNWRA(国連パレスチナ難民救済事業機関)の委託統治下におくことを拒否した。

イラクのパレスチナ人の人口は1948年当初から少なく、UNHCRのポール・ケスラーによると現在わずか22,000人程度と見積もられている。彼らは今なお、公式に難民として認定されることもなく、歴代のイラク政府も彼らを一切繁栄させようとしなかったという事実による、独特な忘却の淵に置かれている。サダム・フセインは、エルサレムを奪回するという大言壮語をもって、その統治下のパレスチナ人の最大のパトロンであったと広く考えられている。しかしながら、フセイン政権下では、彼らは高い地位につくこと、資産の保有、銀行口座の開設や、あるいは車の所有さえも禁じられていた。多くはサダム以前に建てられた共同住宅で、内務省の補助金を受けて暮らしていた。そのためバグダッドが陥落して家主が安い賃料で貸す必要がなくなると、その多くはパレスチナ人の借家人を、時には力ずくで、放り出した。キャンプのアンワル・サレー副代表は、「テントからテントへの生活、これが私達の運命だ」と顔をしかめて述べた。

キャンプの副代表と話し合ったあと、私は通訳の若者アムジャドと出発した。アムジャドは高校の最終学年であったが、この辺りでは誰よりも英語ができた。パレスチナ人の中でより高等教育を受けた階層のなかから通訳を見つける事を予想していたために、このことには驚かされた。しかしながら、キャンプの人々と話しをする中で、わずかな者しか第9学年以上は学校教育を受ける機会がないことが分かった。

「私は会計と経営を学んだ。しかし結果をもたらさなかった」とキャンプに住む48歳の失業者のズハイル・スレーマンは説明した。「仕事を持てないので、教育の意味がなくなった」。ズハイルは約12×6フィート[3.6m×1.8m]の1つのテントに弟と4人の息子で住んでいた。テントには2つの小さなフォーム入りのパッドがマットレス代わりに使われていた。わずかな財産として、小さなテレビが角にある箱の上に置かれていた。

ズハイルの息子アイマンは、家族の中で唯一仕事らしいものに就いていた。「戦争前はキャンディーをつくって1日20,000ディナールを稼いでいた。今じゃ、たった1,000〜2,000ディナール(0.75ドル〜1.25ドル)だ」。家族の収入は、ほとんどがサウジアラビアとUAEの援助団体から提供される、ほんのわずかな食料品で補完されていた。UNHCRは、他の援助は旧「石油・食料交換プログラム」の下で作られたシステムを通じて配布されたと、報告している。いまだに天候が最も大きな問題であることも判明した。その前の週、一晩中雨が降り続き、家族はテントの小さな穴や隙間から浸水し、テントが数インチ水浸しになっていることに気付いて目が覚めた。「私達は服を乾かすために、雨空の下に駆け込んでいかなきゃならなかったよ。」とアイマンは冗談を言った。

ラスマナ・マハムードと彼女の兄弟のサミは別の不満を抱えていた。戦争前には、彼女らは近くに別々に店を持っていた。今では彼女らは危険を冒して市場に出かけていくことに実際ためらっている。将来の仕事の機会を尋ねられると、ラスマナは現状にむきになった。「一体どこに仕事が得られるような状況があるの?今は殺されるのが怖くてドアの外にも出られないのに。」仕事を得てキャンプから脱出するという過大な望み抱くよりも、とにかく状況が安定化するのを待つつもりだと彼女は言った。

バグダッドのパレスチナ人の多くは生活支援や滞在場所を友人に頼っている。過去十ヶ月の間に、1000人以上の避難民が安い家に移った。しかしこれらの建物の多くは、ホーリアの施設のように、電気も水も暖房もなく、わずかにましな程度だった。他の大部分の人々はバラディヤット近郊の粗末な集合住宅に住んでいた。それでもまだ、天候に左右され淀んだ下水の水溜りの中で暮らすことに比べれば、どんなものでもましになったということになるだろう。

私は2月1日の午後、バラディヤットに案内してもらい、そこで悲惨で歪められた運命を経験した。パレスチナ避難民問題にとりかかろうと決めたその同じ日、マックスと私が出発してたった数時間後、パレスチナ人の占有する住宅2棟のちょうど間に、迫撃弾が大きな音を立てて落ちてきた。その爆発によってガラスが粉々になって道に崩れ落ち、ブリキ製の掘建て小屋の店はバラバラに壊され、後には4人のパレスチナ人とイラク人1人の死体が残った。

地区の入り口にあるパレスチナとイラクの旗を描いたモニュメントから離れると、バラディヤットはバグダッドの地区の最も底辺のように見えた。ごみが道々に並び、緑はほとんどない。潤沢なのは空き地のみで、これはバグダッドの北に行くほど段階的によく計画されて建築がされたからである。不幸なことに、家屋や店舗は貧相な状況ということになり、わずかな供給をうまくやりくりすることで成り立っていた。

私達は少しのふぞろいの石とコンクリートの板で区分けされているだけの道に出た。顔をしかめた10代のムスタファ・ムハンマドがAKMライフルをしっかり握り締めて前方に立っていた。「僕はアメリカ人がまたやってくるのに備えてここにいる。ここでは自分達の身は自分達で守るんだ」と彼は説明した。その道をちょうど下ったところに、以前のイラクの防衛施設の高い壁があった。そこはアメリカ人らが小さな基地とヘリコプター発着場に変えてしまった。前日、ハイファ・キャンプの副代表は、パレスチナ人が食料や電力や安全保証の手段を自分達の手にし始めたと説明した。しかしこの訓練もされずに銃を持った子供が米軍の戦車に対抗するというのは途方もないことに思える。


前の晩パレスチナ人とイラク人が殺された場所の隣に立つ少年
さらに狭い路地の1つを進んでいくと、私達は2棟の同様な住居用ビルを見つけた。4階建てで、その区域の建物の中で最も高かった。私達が小さなクレーターの周り集まった群衆を発見したのはこの道を下る途中だった。爆発の跡はその地点から放射状に広がり、その隣の住宅と小さな店舗はみな薄い壁に穴があいていた。子供が私に、ブリキの波板でできた1件の店の近くのいくつかの地面の血溜まりを見るよう指差した。店のドアについた血の垂れた手形が、前の晩に起きた恐ろしい出来事をそのまま残していた。

私達は爆風の直撃を受けた家に足を踏み入れた。その家はサナ・アサドの3部屋のアパートだった。彼女の兄は足を負傷していたが、その他の彼女の身内はみな無事だった。彼女は全くでたらめに起こった事件にひどく震えているように見えた。「知ってのとおり、戦争前には私達は保護されていた。今は何の安全もなく、自分達以外誰も私達の面倒をくれない」と彼女は嘆いた。

説明のつかない死がパレスチナ人を襲っている時、誰も飛び交う噂に慣れっこになる。ガザでは、爆弾や事故は、説明がつかないようなものであっても無関係に、全てイスラエル人に責任があるものとされた。バラディヤットでも今は全く同じだ。私達についてきたアフメドという子供は、米軍部隊がこの地区に入って砲弾の破片を回収していく前に(ここではどの攻撃に対しても行う通常の手続きだ)、その破片にUSAのマークがついているのを見た、と力説した。住人の1人で、不恰好なメガネ以外は地味な格好をした30代前半のアデム・アフメドは、爆発の前に、建物の近くに米軍の車がいるのを目撃した、と主張した。爆発に続いて、米兵とイラク人警察官がこの地区に入り、無差別に発砲した。これについては少なくとも、この地区の地面に見つけた、たくさんの薬莢という証拠があった。

真実はどうであれ、これが人々にとって問題の実際の認識であった。「やつらは私達を分断しようとしているのだ」と67歳のスベー・ミルヒムが言った。「しかし、私達はイラク人と55年間平和に暮らしてきた。私たちも今ではイラク人だ。私の考えでは、これはアメリカ人かモサドがやったんだ」。スベーには疑い深くなるわけがあった。彼はユダヤ人ゲリラ「シュターン・ギャング」によって家族と共に1948年に故郷の町ジェバを追われた。唯一現実的な結論は、迫撃砲は事故か、あるいはアメリカ軍基地を非常にでたらめに狙った砲撃(ゆうに半マイルは離れている)というところである。

しかし彼は、避難民が家を失うことに伴う最近の問題は重大なものではないとも強調したがった。「それは些細なことですぐに過ぎ去るものだ」と安タバコを吸いながらスベンは頭を振った。「私達とイラク人とは兄弟だ。多くの貧しいイラク人も家を失った。私達にとって大事なのは人間としての権利だ」。

私達が出会ったパレスチナ難民は全て、全く公的な難民としての地位を欠いたままであったが、皆が一様に持つ最大の望みはまだ残っていた。若い通訳のアムジャドは難民集落のみんなの考えを表して私達にこう言った。「私達はもうパレスチナに住めないかもしれない。しかし、パレスチナは私達の心の中にある。」



●2004年1月12日〜2月8日

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