イラク戦争被害の記録


被害報道日誌(7月28日〜8月20日)


●8月20日(154日目)−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 イラク全土が「戦場」であることが、誰の目にも明らかになっている。16日、バスラ付近においてデンマーク軍兵士がパトロール中に死亡した。また英軍兵士にも新たな死亡者が出ている。19日、バグダットの国連現地事務所が狙われ、国連のデモロ代表を含む多数が死亡した。一方米軍は相変わらず各地で「掃討作戦」を強化している。多数のイラク人が拘束されている模様であるが、その詳細は伝えられていない。多くの罪なき民間人が拘束され、また殺害されているはずだ。
 この間の米・英占領軍、それを支援する各国軍隊への攻撃は、主として「サダムの残党」、「イスラム原理主義者」が中心であるように報道されている。しかし、写真は多くの事実を伝えている。バスラの抗議行動の様子を伝えたものである。バスラでは慢性的な燃料不足に市民の怒りが爆発、大きな反米・反英抗議行動が行われた。投石を繰り広げるバスラ市民は、イスラエルの軍事占領と闘うパレスチナ民衆を彷彿させる。イラク民衆による反占領軍インティファーダさながらである。また国連事務所の爆破に対しても、それを支持する市民の声もが聞かれるようである。国連は、米・英占領軍と一体と見なされているのである。
 イラク人の怒りの根源を理解しなければ、イラク民衆の広範な反占領軍の闘いを理解することは出来ないであろう。今回は、米占領軍によるイラク民衆への虐待の告発、戦争による民間人犠牲者とりわけ負傷者の問題とその規模、イラク戦争における非人道兵器であるナパーム弾型兵器の使用疑惑、この三つの問題に関連する記事を紹介したい。いずれの問題も、米・英占領軍による戦争犯罪を告発するものであり、今なおイラク民衆をなぶり殺しにし、辱めている実態への告発である。なぜイラク民衆は占領軍に対して根強い抵抗を繰り広げるのか、その深層の一端である。


○占領軍による民間人虐殺・虐待
 戦争が終了してもなお、子供を含む多くの民間人が米軍に拘束されている。彼らは理由もなく拘束され、監獄に送り込まれている。弁護士の面会もない、裁判にもかけられない。ただ彼らは米軍の意のままに、悲惨な状況下に拘束され続けるのである。また肉親に対しても彼らの居場所は知らされない。イラク戦争の名目であった「イラク民衆の解放」とは全く異なった状況がイラクを支配している。米軍の支配の下、多くの民衆が無権利の状態に置かれ、次々と拘束されている実態が取り上げられている。米・英占領軍のこのようなやり方に対して、イラク人の間に怒りが高まっているという。

紹介記事
“それは、裁判なしの処罰だ。”
“It was punishment without trial” August 15th, 2003
 by Johnathan Steele, The Guardian
http://www.occupationwatch.org/article.php?id=483

何百人ものイラク民間人が、米軍が運営する仮設刑務所に収容されている。その多くは起訴されることも、尋問されることもない。そしてそれらの刑務所には、両親が居所を探し出すすべもない子供たちがいる。ジョナサン・スティールが、バグダットにおける同盟軍の正義の恐るべき現実を暴く。

自宅近くで、叔父と隣人とともに11歳のスフィアン・アブド・アル・ジャーニ君が乗っていた車を米兵が止めたのは、バグダット近郊の暖かい春の夕方のことだった。彼らは(車から)出るよう命じられ、道路に腹這いになるよう告げられた。スフィアン君の父親が騒ぎを聞きつけて、飛び出してきた。兵士らが息子と他の人たちにライフル銃を突きつけているのが分かった。父親によると、叔父が米兵を狙撃したと主張して、彼らは3人の捕らわれた者たちを銃床で殴打し始めたという。

隣人は銃撃があったことは認めたが、それはジャーニ君と別の家族の間の場所だったと言う。「イラクでは、これは普通のことです。バグダットのほとんどすべての家庭は武器を所持しています。男が酔っていました。アメリカ人たちは通りがかりに銃声を聞いたに違いありません。それは彼らを狙ったものではなかったのです。」隣人―匿名を希望する−は語った。

米兵らはジャーニ君の家を捜索したが、なにも見つからなかった。3時間、スフィアン君は二人の大人と共に地面に伏せさせられていた。それから、アメリカ人たちは彼らの頭にフードをかぶせ、手をプラスティックの堅固な手錠で縛り、彼らを車に乗せて連れ去った。「どうして、私の息子を連れて行くんだ」。必死のアブドラ・ジャーニさんは嘆願した。「心配するな。彼は子供だから、我々は2、3日で彼を戻すだろう。」スターク軍曹は彼に約束した。

三人はバグダット空港へ護送された。そこには米軍が大きなテントに仮設刑務所を設置していた。元拘束者によると、およそ500人ほどのイラク人たちが、地面で眠り、水の割当は不十分であり、毛布は(全員に)行き渡るほど枚数はなく、惨めな状態で収容されているという。

スフィアン君は20人ほどの大人と共にテントで8日間過ごした。彼らは、米陸軍の標準食であるインスタント食品の黄色い包みを与えられたが、衣服の替えは与えられなかった。それから、またフードを付けられ、スフィアン君は女性と子供のためのサルイージャ収容所へ連れて行かれた。それはサダム・フセインの共和国宮殿のすぐ外側にある警察署の収容施設であり、占領当局の本部になっていた。

女性の囚人がスフィアン君を見つけ、彼が他の囚人よりもずっと若いことに気が付いた。彼女は釈放され、ジャーニさんの家族に会いに行った。彼らは必死になって息子を捜していた。それは6月17日のことであり、5月28日、彼の逮捕からほとんど3週間後のことだった。

家族は少年のために食べ物と清潔な衣服を持って行った。そして四日後、米国認可の調査判事モハメド・ラティフ・アル−デュレミーからサフィアン君を至急解放する命令を得た。サフィアン君の父親は、それをセンターを運営している米軍憲兵(M.P.)へ持って行った。しかし彼らは父親に対して、イラク人判事による命令は法的権限を持たないと告げた。

ジャーニさんは新しく米国が設立した警察学校へ助けを求めた。彼はクルーソ警部に会った。彼(クルーソ)はその件を取り上げ、空港の米陸軍弁護士に電話した。弁護士は6月21日に少年の解放を命令したが、憲兵は行動することを拒否した。

ジャーニさんはクルーソ警部の元へ戻った。クルーソ警部は何度も電話したが、徒労だった。とうとうクルーソ警部はジャーニさんと共に収容所へ行き、彼自らサフィアン君を連れ出した。「あなたの息子を連れて帰りなさい。」と彼は言った。

24日後、少年の試練は終わったが、彼は恒常的に悪夢にうなされている。しかしながら、彼のケースはアメリカ人がイラクを占領してからの4ヶ月間における最悪のケースではない。数人の子供たちが撃たれて死んでいる。或る者は米軍の検問所で違反を犯したと思われた車に乗っていた通りすがりであり、また或る者は夜間、大人と間違われたのだ。しかし、もしこれらの死が事故の結果だというならば、11歳の少年が、3週間以上も当局者の誰にも質問されることなく拘束されることができたというのは、どうしてなのだろうか。

答えはこうだ。サフィアン君の拘束は何百ものイラク人か直面している問題を明らかにしている。すなわち逮捕に続く不適格な尋問、時には全く何もないのである。有効な裁判や釈放のシステムの欠如。驚くべき刑務所の実態。ひっきりなしの責任転嫁。占領当局によるずさんな事務処理等。その結果、ほとんど全てのケースで、家族は彼らの愛する者たちがどこに収容されているかを見つけだすのに、数週間か数ヶ月を費やしている。

アーマド・スハイル君は最終学年の高校生だが、5月15日に検問所で止められた時、有名な獣医である父親と共にいた。父親はピストルを持っていた(占領軍は6月14日から屋外での武器の携帯を禁止したが、その当時は不法行為ではなかった)。二人はフードを被せられ、バグダット空港へ連れていかれた。「私たちは150人用のテントにいました。そこにいる全員のために、一日たった25リットルの水しか得られなかったのです。それは、およそ一人当たりカップ一杯分を意味します。気温は40℃を超えていました」。アーマド君は思い起こした。「屋外にトイレとして小さな溝がありました。それはみんなの前で、剥き出しになるということです。シャワーはありませんでした。私たちは砂の上で寝ました。私の父は英語をいくらか話すことができ、二人の兵士たちがオーバーオールを着替えとしてくれました。」

三週間後、はっきりしない理由でスハイル医師は、アメリカ人たちよって業務が再開されたアブ・グライブ監獄−サダム時代の悪名高いバグダットの刑務所へ連れていかれた。一週間後、彼は解放されたが、アーマド君は依然として空港に残されたままだった。「それから私は、ウム・カスルの囚人キャンプへ移されると言われました。理由はなにも聞かされませんでした」。

ウム・カスルはクウェート国境に近く、バグダットからはおよそ400マイル離れている。アーマド君は21人の他の男性と一緒に、米陸軍の大型トラックの床に11時間伏せたまま、夜間はナシリヤに停泊しつつ移送されたと語った。ウム・カスルのキャンプの状態はバグダット空港よりもずっと良好で、囚人たちは普通にシャワーを浴びていた。

そこで、33日過ごした後、すなわち拘置所の中での合計66日間の後、アーマド君はバグダットに連れ戻され釈放された。「私は全く質問や尋問をうけたり、告発されたりしませんでした。それは裁判なしの処罰でした。アメリカ人たちが最初バグダットへ来た時、私はうれしかったが、今私は、彼らに対する気持ちを言いたくありません」と彼は語った。

バグダット空港のテント張りのキャンプとアブ・グライブ監獄でのイラク人容疑者の長期にわたる拘束の理由の一つは、拘束された者たちが行政官か判事の前に連れ出される以前に、占領軍当局の決定に90日間(猶予)が与えられていることにある。アムネスティー・インターナショナルは、占領軍の法と命令の扱いに関する問題のきめ細かいメモを作成したが、不可思議な二重基準(の問題点)を指摘している。つまりイラク人警察に捕らえられた容疑者たちは、彼らの事件を行政官によって24時間以内に再調査されなければならないのである。

アムネスティーはまた、占領軍規則は、容疑者たちが収容キャンプ「誘致」の72時間以内に弁護士に助言を求めることを許可することになっていると報告している。現実には、誘致に対する期限はなく、「拘束者たちは常に弁護士に近づくことを、時には数週間も拒否されているようだ」と語った。

混乱のもう一つの理由は、占領軍が、捜索する家族たちが照会できるようにアラビア文字の名前を載せた、抑留者の正確な主要リストを保持していないことである。

バグダットの郊外、アル・マンスールのエフテクハール・メダハットさんは自宅で、夫であるザカリヤ・ザクハール・サッダさんが逮捕された時の模様を語った。彼は植木屋であり、ロシア領事の家の夜警でもあった。米軍の空爆の間、領事は(家を)離れており、占領の初期の騒然とした日々のずっと後も、その家は略奪者や泥棒にとって明らかなターゲットになっていた。

或る晩、隣人に警告されて、サッダさんはカラシニコフ銃を持って出ていった。彼はアメリカのパトロールに駆け込んだが、地面に投げつけられて、逮捕された。隣人は、彼は泥棒ではないと兵士らに告げようとしたが無駄だった。「最初、私たちはアブ・グライブ監獄へ行きました」とメダハッタスさんは言った。彼女の19歳の娘、ウーダさんは神経質な様子で彼女のとなりに座っていた。「アメリカ人たちは私たちに空港へ行くようにと言いました。空港で彼らは私たちに国際赤十字委員会へ行くようにと言いました。私たちは国際赤十字委員会へいきましたが、助けは得られませんでした。」

それで彼らは、使われていないスーパーマーケットにある第101空挺師団の民間軍事作戦センターへ向かった。ここで彼らは 二人の非常に同情的な将校を見つけた。へクター・フローレス少佐と軍曹ポール・ホールディングである。彼らの働きは、ほとんどの米軍兵士らのの振る舞いとは著しく対照的だった。弱まる兆候のない車列への攻撃に見られるように高まる緊張の中、パトロールをしている米軍兵士たちとは。

フローレス少佐とホールディング軍曹は別の面を見せた。「私は米陸軍で一番幸せな男です。我々は普通のイラク人と接触して、彼らを本当に助けることが出来ます。我々は彼らを顧客と呼びますよ」とホールディング軍曹は言った。彼らの仕事には、米軍が車や家を撃った時や、不発弾でイラク人が怪我を負った際、損害に対するイラク人による申し立てを処理することが含まれる。

何千もの音訳をされた出来の悪いアラビアの名前のリストを網にかけて、フローレス軍曹はとうとう「アーマド・マホブ・ザカリヤ、1948生まれ」の照会を見つけた。「私はこれがあなたの夫だと思います」と彼はメダハットさんに告げた。「私はブッカのキャンプに彼の写真をファックスします。それで、彼らが彼を釈放することを期待します」。

拘束者の所在を突き止めようとも、あるいはサフィアン君のケースにおいてイラク人判事による釈放命令執行を強く求めようとも、米軍将校の親切な個人的な行動が必要なシステムは、明らかに不適切である。

占領軍当局は問題に気が付いている。アムネスティに加えて国連と赤十字国際委員会からの圧力を占領軍は受けている。イラクにおける事務総長特別代表セルジオ・ビエイラ・デ・メロ氏は最近、彼が米国の行政長官ポール・ブレマーと英国の長官のジョン・サワーズに、「捜索、逮捕、抑留者の扱い、予防拘留の期間、家族と弁護士による接触、主要刑務所データーベースの構築」にわたる彼の懸念を告げたと報告している。彼はそれらが「受け入れられた」と考えており、占領軍当局が問題を解決するために何をなすべきかを説明すべきだと語った。

赤十字国際委員会も適切なデーターベースの欠如を心配している。「占領軍から供給されたリストは包括的でなく、完璧からはほど遠い状態です。その対応は改善される必要があります。彼らはそれを改善する気があり、実際助けようとしているのです。」赤十字国際委員会のスポークスマン、ナダ・ドマーニ氏は言う。

彼らの(自己)防衛として、サダム政権におけるおぞましい遺物について占領軍当局の報道官は指摘している。「彼の統治時代、人々は記憶に留めるために、壁に名前を書き残した。このようないかなる種類のリストも存在しなかった」と、国務省の支援を受けている報道官であるチャールズ・ハートリー氏は語った。

アブ・グライブ監獄の独房の補修作業はほぼ終了し、中程度の(罪に問われた)拘束者はテントから、「英国の監獄と比べて」より適切な建造物に移されるであろうと、彼は付け加えた。その他の数百もの拘束者のための巨大なプレハブの建造物は、今週中にアブ・クライブ監獄内に準備されるであろう。その際、バグダット空港にあるテントは誰もいなくなるだろう。500人の拘束者は移送されるであろう。

治安判事の移動チームは、訴訟をより迅速に取り扱うように教育を受けてきた。彼は、米軍弁護士が時々、イラク判事が下す命令を覆してきた。「それはおそらく本当だろう。システムを適用することに関する困難を示している」と彼は語った。

そのメッセージは、事態が徐々に改善されてきているということである。しかし占領軍による民間人拘束者の驚くべき取り扱いは、その犠牲者にとってはすぐに忘れ去ることの出来るものではない。これらは、イラク戦争を計画した者たちにとって、どれほどまずいことなのかを示しているさらなる実例である。彼らは平和を設計できないのである。


○民間人犠牲者 明らかにされる戦争における負傷者総数
 “イラク・ボディ・カウント”によると、最新の民間人犠牲者の総数は7800人(Max)を超えた。民間人犠牲者とは、戦争による死亡者のことである。今や“イラク・ボディ・カウント”による民間人犠牲者についての評価は、唯一信頼のおける戦争犠牲者の統計として大きな信頼を勝ち得ている。民間人犠牲者(死亡者)に引き続き“イラク・ボディ・カウント”は、戦争とその後の占領下におけるイラク民衆の負傷者の問題に焦点を当てた。彼らは負傷者の問題を取り扱う際の技術的困難−負傷の分類の難しさ、死亡者以上に数値を確定することの困難等−を踏まえながらも、その大きな取り組みを開始した。多くのマスメディアでは死亡者の問題に関心が集中しており、負傷者に関する全体像にまで踏み込んだ取り組みは皆無である。その意味でも、“イラク・ボディ・カウント”の取り組みは画期的なものである。たとえ彼ら自身が今回の取り組みを、「戦争における民間人負傷者に関する最終的な、あるいは確定したカウントではなく、“はじめて(試みる最初)のカウント”」と謙虚に評価しても。負傷者の規模を明らかにする作業は、実践面においても大きな意義を有している。それは「負傷を負った多くの人々はいまだに苦痛の中にあり、私たちが直ちに行動すれば、彼らの状況は改善される」からである。彼らの評価によると、少なくとも2万人の民間人が戦争によって負傷し、今なお苦しみにあえいでいる。彼らは、苦しみを生み出した米・英に対して補償を求めている。それは、犠牲者にとって生死にかかわる切実な要求である。“イラク・ボディ・カウント”の取り組みは、実証的な証拠に基づく、米・英の戦争犯罪の追及と彼らへの補償の実現に向けての大きな力となるであろう。私たちもこの問題を今後取り上げてきたい。そのはじめての取り組みとして、粗訳ではあるが、負傷者の問題をはじめて取り扱った“イラク・ボディ・カウント”の「分析とコメント」を紹介したい。

記事 イラク・ボディ・カウント 分析とコメント
“強まる負傷者への無関心”
イラク戦争:少なくとも2万人の民間人が負傷した。なぜ占領者たちは、彼らの苦しみと要請を無視するのか?
“Adding indifference to injury”
At least 20,000 civilians were injured in the Iraq war: Why are the occupiers ignoring their suffering and their needs?

 August 7th 2003
http://www.iraqbodycount.net/editorial_aug0703.htm

“イラク・ボディ・カウント”のデータベースに基くメディアが報じた民間人負傷者の抽出作業と戦争に関する様々な報道の記録は、最大で7798人の死者と共に、少なくとも2万人の民間人の負傷者についての証拠を提供している。その中の負傷者8000人はバグダット地区のみのものであり、死亡者の場合と同様に、全国的な絵図、その全容はいまだに把握されていない。

これまで“イラク・ボディ・カウント・プロジェクト”は、戦争によって被った負傷者数を公表してこなかった。その理由は、負傷者は悲痛な耐え難い状態から回復の見込みのある状態までの範囲を含むからである。また情報の正確さが欠如している中で、負傷に関する報告に対して同程度の信頼性を付与することは、筋の通らないことである。しかし、負傷者(の記録が)が(死亡者のものと)比較できるほどではないからといって、彼らを戦争における人的損失のカウントから排除されてもよい、あるいは排除すべきであるということではない。それとは逆に、そのことを調査し評価する必要性は、特に急を要する。なぜならば、負傷を負った多くの人々はいまだに苦痛の中にあり、私たちが直ちに行動すれば、彼らの状況は改善されるからである。

戦争の主役たちは、民間人犠牲者についての正確な評価を付与することが出来ないと繰り返し主張してきた。ある犠牲者たちは、見分けもつかないほどまでに焼かれてしまったかもしれない、塵のように砕かれてしまったかもしれない。また、イスラムの慣習にしたがって直ちに埋葬され、公式には記録されていないだろう。そのような範囲内においては、すべての死者をカウントすることはできないという可能性は残るのである。負傷者はまた別の問題である。負傷者は生存しており、おそらく治療を受けているだろう。また負傷についての原因、性質、広がりの程度は、医療記録、公式、非公式の記録によって明らかにされるだろう。

“イラク・ボディ・カウント(IBC)”の続いての取り組みは、その問題のスケールについての概観を提供することである。それを実行する手段を持つ者たちによって、より直接的に取り組まれる必要のある問題である。最初に私たちは、自らの一般的結論を明らかにするために、IBCのデータベースがイラクにおける民間人負傷者に関して語っている事柄、および戦争の過程において被った負傷者の様々な報告を分析した。私たちはその際、補償について見込まれるコスト、また占領軍当局はそれらコストを満たすための道徳的、人道的義務を負っていることを問題にした。占領軍当局がそのような義務を果たそうとする意志を完全には欠如していないことが、我々の望みである。あるいは彼らがそのような意志を持っているならば、市民たちは、彼らがそれを(負傷者の実態、規模)明らかにすることを助けるための協力を行うだろう。

データは、300以上の報道機関から配信されている。
IBCの記録担当のケイ・ウィリアムズ氏は、2003年7月6日までの民間人死亡者のIBCのデータベースに150の記載を確定するために使われた300以上の公表された内容の分析に着手していた。これらの報告における負傷者についてのどの記述も、引用されたり、集計されてきた。IBCの用語法では、いくつかの登録が一つの現場内における複数の事件を網羅しているにもかかわらず、オンラインのデータベース内のそれぞれの行は一件の事件に対応している。

戦闘の最初の段階でバグダットへの「精密」(爆弾)あるいは誘導爆弾が、殺された人々よりも負傷した人々を多く生み出したことを示す証拠は存在している。また逆に、特に民間人の車が重火器あるいは戦車からの銃弾を浴びた場合、地上戦の死亡者はそれとは逆の比率となるであろう。燃え上がる残骸からの生存者はほとんどいない。しかしながらすべての戦場の状況と地域を考慮すると、負傷者はおそらく死亡者の約3倍以上の規模であったとみられる。

報道機関とメディアは、一人の負傷者も言及していない43件のICB事件を報告している。まったく負傷者はいなかったのか、あるいはただジャーナリストと報道記者たちが負傷者についての情報にアクセス出来なかったのか、または死亡者のみに関心が集中していたのか、これからは推定することはできない。

民間人負傷者は、プレスとメディアプレスの107件の事件の報道において言及されている。117件のすべての事件において報告された最大の負傷者総数は、19,773人である[1]。これは、IBCデータベースにおいて死亡者の報道に適用されたものと同様の手法を用い、異なった事件にわたる既知の二重のカウントを考慮している。この(負傷者の)総数は、包括的なものとして考慮されるべきではない、またおそらく最も控えめな評価だろう。なぜならば、
・私たちのデータベースは、民間人死亡者に関する報道を含む話だけを網羅してきた。死亡者が存在せず、負傷者のみを伝える話は、私たちのデータベースには含まれていない。
・最新評価には、7月6日までに公表されたメディアとNGOによる報道のみが含まれている。特に7月17日のユニセフの報告[2]−不発弾によって戦争終結以後1000以上の子供たちが死亡した−は含んでいない。
・ありえそうなことであるが、戦争期間においては、負傷者は少な目に報道されているだろう。なぜなら、事件の場面から急いで(治療のために)移動させられるからだ。

これらの限界に留意すべきではあるが、今回の直近の研究は、戦争における民間人負傷者に関する最終的な、あるいは確定したカウントではなく、「はじめて(試みる最初)のカウント」である。

報道されている死者の3倍にものぼる負傷者
負傷者(数)を分析、評価するに当たっての有効な統計は、与えられた事件における死亡者と負傷者の比率である。その比率は、最大評価の負傷者数を最大評価の死亡者数で割ることで得られる。負傷者数と死亡者数が同じであるならば、その比率は1.0となる。また死亡者数の2倍の負傷者数の場合、その比率は2.0となる。仮に負傷者数と比率べて死亡者数が2倍であったならば、その比率は0.5となる。

107件の事件の中18件における負傷者数/死亡者数の比率は、1.0以下であった。また7件が正確に1.0であった。その残りの82件が、1以上の負傷者数/死亡者数の比率となった。最大の比率は、207人の負傷者と3人の死亡者が報告された3月21〜22日の夜間におけるバグダットの広範な地域への空爆時である(IBC事件x109)。その時の負傷者に関する報道がイラク政府筋のものであろうと、それとは独立した評価である赤十字のものであろうと、少なくとも100人の負傷者が確認されている。それは33といった大きな負傷者数/死亡者数の比率を示した。(バグダット市内あるいは郊外における)空爆の一定の部分は、精密誘導兵器を用いて行われたとの主張に対する支持にいくばくか手を貸すことなる。そこでは、死者は少ないが、構造物の破片の落下、飛散、金属の破片によって多くの負傷者が出たのである。最も大きな比率は、そのほとんどが空爆によるものであり、軍事作戦における比較的早期の事件である。最小の比率は、主として後半の地上戦と「戦後」の戦闘によるものである。

負傷者数/死亡者数の「典型的な、あるいは平均的な」比率についての質問に回答しようとするならば、これまで用いられてきた二つの統計的平均のための手法がある。一つ目が、平均的比率(この場合の平均とは、求められたすべての比率を事件数で割ったもの)である。その負傷者数/死亡者数の比率は5.0となる(言い換えれば、1人の死亡者当たり5人の負傷者)。

二つ目の平均化の手法は、中央値によるものである。これは、107件の事件を(比率の)大きい順に並べ、54番目に位置する比率を取り上げる(例えば列の中央)。その中央値における負傷者数/死亡者数の比率は、2.85となる(言い換えれば、1人の死亡者当たり約3人の負傷者)。

たいていは、一連の記録の中の平均値と中央値は、お互いに近いものとなる。平均は、統計分布が非対称の場合には、中央値と異なったものとなる。IBCのデータベース中の負傷者数/死亡者数の比率の分布は、まったく非対称であり、少数の事件には極めて高い負傷者数/死亡者数の比率を持つものがある。それは、大半の事件に典型的なことではないのだが。事件中の23件が、6を大きく越える負傷者数/死亡者数の比率となった。その大半が、10以下の比率であった。しかしながら、事件「トップ10」のその比率は、10.2, 13.1, 13.9, 16.2 16.6, 17.8, 20, 24, 45, 69であった。これらの少数の事件は、平均を押し上げている。

私たちの観点では、「典型的な」評価は中央値によって与えられる。平均を考慮するならば、この戦争における典型的な事件は、1人の死亡者に対して3人の負傷者が出たことを示唆している。報道されている最大7711人の死亡者(7月7日の段階)に対して中央値2.85を取ると、その負傷者は21,976人となる。それは最初に述べたように、負傷者が報告されておらずIBCのデータベースから欠如しているその他のデータとなっている登録されている43のデータベースを考慮したより正確な負傷者数の見積もりとなっているだろう。

負傷者についての多くの報道は、名前も判明しない数字だけだった。しかし西側のジャーナリストは戦場の間近に迫ることができ、負傷者との面会について報告した。

胸が張り裂けるような詳細
ヒッラ市内と周辺における同盟軍の空爆に続く恐ろしい場面の数々、それは4月のはじめであった。赤十字は、クラスター爆弾を含むと疑われる空爆によって多数の民間人が殺され、450人以上が負傷したことを報告した [3]。
ロバート・フィスク記者は、西側の記者たちとともに地方病院を訪れ、現地の惨劇を次のように報告した。「10歳の少年マリアン・ナスール君と5歳の妹のホッダちゃんのことを表現しようとするならば、心が張り裂けるといった言葉しかない。マリアン君は、破片がめり込んだ右目に、眼帯をしていた。妹は、内臓を負傷していた。私はホッダちゃんが、−私は彼女の近くに立ちつくしていた−ちょうど耳の上の頭部右側の深い刺し傷を見せるために少女の小さなスカーフと髪を母親が注意深く持ち上げるまで、彼女が負傷したことを知らなかった。固まった血が髪にくっ付いたいたが、傷口から絶えず血が流れていた。母親は、少女が家の外でどのようにしていたのか、またどのような状況で爆発音を聞いたのか、扉近くで横たわる娘を見つけたのかを説明した。写真を見ている最中、少女は微笑み、また痛みに顔をゆがめた。言い換えるならば、恐ろしい負傷は笑顔を誘い、彼らの勇敢さを示していた。それは屈辱的な体験だった。」[4]

当然のことであるが、さらなる負傷者は空爆の停止の後まで続いた。米軍と英軍による不発弾と銃撃によって。

「カルバラがその典型である。アル・フセイン病院では、35人の遺体が4月6日の陥落以降に運び込まれてきた。アリ・イジズ・アリ外科医によると、多くが不発弾の爆発によってバラバラになっていた。さらに50人が、骨折、深く小さな刺し傷−これはその兵器による典型的な傷跡である−の治療を受けた。カルバラの民間防衛隊の責任者であるアブダル・カリム・ムッサン氏は、彼の部下たちは一日に1,000個ものクラスター爆弾を取り除いている。医師たちによればその地域は、標的になるものはなかった。」

ユニセフは最近、戦争終了以降、クラスター爆弾や、今や保護されていないイラク軍の爆弾を含む不発弾によって1000人以上の子供たちが負傷したことを報告した。その中で、「同盟軍は明らかに、これら危険物を地域から除去する人道法の義務を負っている」ことを強調している。

「主要な戦闘」が終了したと宣言されたにもかかわらず、いまだにイラク民間人は、次々と米軍、英軍に撃たれ、負傷している。マジャール・アル・カビアでの事件は、イラク全土で発生している同様の事件記録の一つである。この場合は英軍がかかわっていることだけが異なる点であるが。

「地方の人々、あるいはかってのバース党関係者かもしれないが、このような人々が拳銃を打ち始めた(攻撃を始めた)、このような意見にたいていの人々は賛同するであろう。その時英軍は、銃口を開いた。『それは10時15分のことであり、市場は混雑していた』とヨーニス氏は語った。『私は身を地上に投げ出し、逃げろ、身をかがめろと呼んだ。銃撃は5分間続けられたが、どこかしこに弾倉が残された。彼れらは、自動小銃を撃った。』・・・少なくとお17人に命中した。その中には、跳ね返った弾丸を肩に受けた13歳の少女と9歳の少年が含まれていた。その他の数人の負傷者は、背骨を損傷したり、破片がめり込んだりした。結局、負傷したことによって5人が死亡した・・・・負傷者がバザーで横たわっているにもかかわらず、英軍兵士は去っていった。」[6]

また時には、既に述べた現場の報告のように、名前が語られていない統計さえも、苦痛、恐怖、長期にわたる苦悩、これら戦争の代償であるショックに満ちた一断面を提供している。

赤十字はバグダットから、次のように報告した。激戦の間における病院は、入院対応に忙殺されていために、もはや誰も正確なカウントを取り続けることが出来なかったと。しかし主要な病院の一つは、一時間に約100人の患者の割合で戦争による負傷者が確認された[7]。また統計の示す最も悲惨なものとして、戦争から一ヶ月後、バグダットでも最も貧困層に位置する病院において、「その一ヶ月の間で子供の脚100以上を切断した」ことが異なるの援助組織から報告されている[8]。

いつになったら負傷者は正義を受け取るのか?
イラク人家族の中のいまだに把握されていない相当な部分が、米軍、英軍によって命を奪われたり拘束されたりしている身内をかかえているだろう。自己の利益の範囲内であっても米・英占領当局は、「信頼を勝ち取る」ための戦術のまさに核心である負傷者の要請に応えるべきである。死亡者に加えて傷を負ったイラク民間人は、絨毯の下に払いのけられている(無視されている)。少数の明らかに人目を引いた救援された人々を除いて(3月30日のバグダットのIBC事件x025の記録−全家族と両腕を失いクウェートに空輸されたアリ・アッバス君のような事例)。

陸軍移動外科部隊もまた、戦闘におけるイラク民間人負傷者に直ちに手を差し伸べた。これは良心と指揮官の資質に依存しており、上部機関ともめた場合、撤退するであろうが[9,10]。イラク人による病院は、−経済制裁下の数年間にわたる荒廃と無策に置かれた−略奪、破壊行為、電力不足、スタッフの死亡、直接的な爆撃の被害(少なくとも3つの病院[11])を受けた。それらすべては、戦争によってもたらされたのである。しかしながらスタッフの英雄的な努力にもかかわらず、国の健康・保健システムは今や荒廃した状態にあることは否定できない。

私たちの情報によると、米・英政府のいかなる計画も、イラクの負傷者した民間人−傷を負い、軍事侵略といった蛮行によるトラウマに苦しむ男性、女性、子供、老人−に手を差し伸べられたものはない。またいかなる政府の報告も、その進展になんら役に立っていない。たとえそれが、戦争による負傷から生じた人道的、健康に関する一連の問題に触れ、強調していても。その課題は、少数の慈善、援助団体に残されるのである。これらの組織は、疾病に苦しみ、負傷を負った者たちとの彼らの取り組みの拠点を得るために、米軍の妨害と格闘している。国連(の援助)は未だに十分に機能せずに、米の絶対命令の影にとらわれている。

損失、危害、負傷の原因を生み出した者たちがこれらを回復させ、償う責任を負っていることは、諸原則の根本である。彼れらはそうする力を有しているのである。「しかし米当局は、戦争の損失への十分な償いを実施する意志を持っていないこと、また占領軍が彼らに負っていると主張する人々への補償しないことを、イラク人に対して明確にしている」と5月の終わりにワシントン・ポストは報告している[12]。

21歳のディナ・シャハンさんは、−米軍による破片で脚を失った−占領軍へ義足を要求しているだけである。それは「上部機関次第である」ために、幾度となくはねつけられている。「戦争の巻き添えとなった被害を体現している多くの人々」の一人である彼女は、家の階段を上ることもできず、居間で寝ることで「なんとか生活できるように」なった。自分を傷つけた名も分からぬ兵士たちを許すと彼女は言っているが、近代戦のレトリックと真実のギャップをあまりにも明確に認識している。「ブッシュ氏はクリーンな戦争だと言っている。これがクリーンな戦争なのか?」

不幸にも、「上部機関」は別の問題に関心を持っている。「戦争の結果として被った各人の苦難へ共感する一方で、米当局者は、彼らに対する数多くの要求を伴う法的な取り組みをはじめることに慎重になっている」(肉体的な負傷と同じく精神的なダメージも含まれる場合)。当局者はまた、「これに紛れ込むかもしれないその国特有の詐欺」に心配しているのである。

しかし疑いなく、それらは米自らが播いたリスクである。

自らの責任と向き合うこともなく、ペンタゴンは一貫してその問題を避けている。作戦に従事する地上軍の指揮官に戦争犠牲者の要求の切実さを理解させるための啓蒙を抑制しているのである。最近のブリーフィングにおいて米陸軍の指揮官は、明確に、負傷者(あるいは死亡者)に対する5月1日に先立つ戦闘期間におけるいかなる補償も除外した。占領下の「戦後」における「兵士のによる過失、法律違反をはっきりと証明できるならば」、家族は補償をうける資格があるだろう。この決定は、本来の補償となる多くの負傷を排除することになるであろう。例えば、戦闘の間に兵士が民間人を傷つけた場合、要求は不適格となる。しかしながらある指揮官たちは、その場その場の自由裁量で犠牲者、その家族への支払いを行ってきた。このことを指摘された場合、米軍当局はその支払いを調査し、必要ならば、指揮官に支払いを止めるように命令するだろうと述べた[13]。

あまりにも「思いやりのある」ペンタゴンの都合である。しかし、「何百万人」の請求に対する米の恐怖をどのようにして正当化できようか?

損害(への補償を)を要求するイラク人の大部分が、「ふたたび生活をはじめるための数千ドルを求めた」とすると、負うべき責任のコスト評価を行うことは可能であり、まら今回の戦争におけるその他を支出と比較できるであろう。損害への補償を受けるペンタゴンの「数百万人」が信頼のおける数字であるならば、おそらく200万人のイラク人(財産の損失のための補償を求める人々を含め)は、おのおの1万ドルを受け取ることになる。その総計は200億ドルにもなるであろう。また五ヶ月間にわたるイラク占領のコストについてラムズフェルド国防長官は、毎月40億ドルであることを認めた。

これはたしかに巨額であるが、しかし終わりなきイラク占領において、まさか米が(その支出を)認めていないものではないだろう。またおそらく間違いなく米の占領は長い月数によって切りつめられるであろうし、兵士たちはバラに囲まれた家に送られるであろう。もしも米国がこのようにお金を分配するならば。

しかしながら私たちがさらに現実的なシナリオと負傷者の各々に1万ドルの補償金へと計算に限定するならば、その補償金の総額は、占領における2日分の米の支出を以下である2億ドル程度であろう(また月々の英国の支出のおおよその総額も含めて[15])。

いかなる弁明が米国をして、どうしてもそれを必要とする人々へ(また責任を負っている傷を負った人々へ)いくらかの善い行いができ、またその取り組みの中でイラク国内、大部分の世界で失われてしまったいくばくかの「好意」を取り戻せるであろうこの好機を辞退させているのであろうか?補償あるいは平均的なその金額が最終的に2倍、あるいは10倍になろうとも、戦争と占領をあわせた全コストと比べてもわずかなものであろう。

Hamit Dardagan, John Sloboda and Kay Williams - 7th August 2003


1. As at July 7th 2003. The Minimum total count of injuries in the IBC database is 16,439. However, given the more limited reporting of injuries by the media and IBC’s data-gathering methodology which focuses on reports of deaths, we feel that in this instance the Maximum count (of 19,733) is likely to be a closer approximation to the true number of wounded ? and as discussed in the body of this report, may itself be an under-estimate.
2. http://www.un.org/apps/news/story.asp?NewsID=7758&Cr=iraq&Cr1=relief
3. Pepe Escobar, Asia Times Online, April 4 2003
http://atimes.com/atimes/Middle_East/ED04Ak07.html
4. Robert Fisk, Independent, April 3 2003 (IBC incident x030)
http://argument.independent.co.uk/commentators/story.jsp?story=393458
5. Michael Weisskopf, Time Magazine, May 3 2003 (IBC incident x072) http://www.time.com/time/magazine/article/0,9171,1101030512-449440,00.html
6. Jason Burke, Guardian, June 26 2003 (IBC incident x100)
http://www.guardian.co.uk/Iraq/Story/0,2763,985237,00.html
7. http://www.icrc.org/Web/eng/siteeng0.nsf/iwpList545/992529B799BE3AF9C1256D00004273DB
8. “But due to the lack of time and sutures, the limbs after being amputated were sewn up very basically and bandaged. ‘They are re-opening the bandages and trying to stitch the wounds up properly.’” - Dr Jemilah Mahmood of Mercy Malaysia, who brought much-needed supplies to the hospital and suffered a bullet wound in the process. Reported in The Star Online, April 18 2003 http://thestar.com.my/services/printerfriendly.asp?file=/2003/4/18/nation/shaz17b.asp
9. “Medical staff here [at 86th Combat Support Hospital at Tallil Airfield] have admitted more than 500 people since the war began - most of them Iraqi men, women and children. Many more have been treated for ailments that didn't require hospitalization.” - Associated Press, April 26 2003. http://www.etaiwannews.com/World/2003/04/26/1051322026.htm
10. After the ordeal of seeing their three other children killed when a US tank machine-gunned their car in Nasiriyah, Daham and Gufran Ibed Kassim and their wounded five-year-old daughter Mawra were taken for treatment at a US Army field hospital:
“For two nights, the remains of the family slept in a bed. It appears that the story is reaching an end. ‘Wait!’ insists Kassim, his tears preparing themselves for what is to come, as if his trials could get any worse. ‘Don't ask me questions. I will tell you what happened.’
On the third night, that of 27 March, ‘there were some Americans wounded that night, in the fighting. Maybe they needed the beds. So they told us we had to go outside. I heard the order - "put them out" - and they carried us like dogs, out into the cold, without shelter, or a blanket. It was the days of the sandstorms and freezing at night. And I heard Zainab crying: "Papa, Papa, I am cold, I am cold." Then she went silent. Completely silent.’
Kassim breaks off in anguish. His wife continues the story of the night. ‘What could we do? She kept saying she was cold. My arms were broken, I could not lift or hold her. If they had given us even a blanket, we might have put it over her. We had to sit there, and listen to her die.’
Ed Vuillamy, The Observer, July 6, 2003
http://observer.guardian.co.uk/Print/0,3858,4706830,00.html
11. 1. Al-Rutbah children’s hospital (on March 19)
http://www.fortwayne.com/mld/fortwayne/news/local/5525110.htm
2. Al-Yarmouk, Baghdad (on April 7)
http://www.28news.com/stories/2003/04/030411baghdad.shtml
3. General Surgical Hospital, Nasiriyah (on March 24)
http://observer.guardian.co.uk/Print/0,3858,4706829,00.html
12. Scott Wilson, Washington Post, May 31 2003
http://www.washingtonpost.com/ac2/wp-dyn/A59974-2003May30?language=printer
13. “U.S. Limits Payments to Kin of Slain Iraqi Civilians” - Robyn Dixon, LA Times, August 4, 2003 http://www.latimes.com/templates/misc/printstory.jsp?slug=la-fg-pay4aug04&section=/printstory
14. “The Cost Of Occupation” - Dorothy Pomerantz, Forbes.com, July 15 2003
http://forbesbest.com/2003/07/15/cz_dp_0715conflict.html (It has been widely mooted ? including by officials in Dick Cheney’s office - that the occupation’s costs could be borne directly by Iraqis through the sale of their oil.)
15. “Cost of occupation: £5m a day - human cost extra” - Richard Norton-Taylor and Larry Elliott, Guardian July 17 2003 http://politics.guardian.co.uk/Print/0,3858,4714030,00.html


○非人道兵器 イラク戦争におけるナパーム弾使用をめぐる問題
 多くの非人道兵器がイラク戦争で使用された。米・英軍はクラスター爆弾の使用をもはや否定しておらず、イラク各所で用いたことが明らかになっている。多くの不発弾が残され、今なお子供を中心にクラスター爆弾による被害は続いている。もう一つの非人道兵器ナパーム弾については、戦争初期、イラク南部で利用されたとする報道が存在する。しかしその後米軍は、ナパーム弾はもはや廃棄された兵器であり、イラクでは使用していないと述べた。ナパーム弾の使用に関する真相はいまだ不明であるが、ナパーム弾もどきの爆弾がイラク南部だけではなく、バグダット侵攻途上において大量に使用したことが明らかになっている。そいの爆弾の燃料組成こそ微妙に異なるが、しかし破壊力、作用に関しては差異はなく、多くの悲惨な犠牲者を生み出したことが問題になっている。その爆弾はナパーム弾ではないが、しかし多くの文献中においてその一種として取り扱われているという。

紹介記事
“別の名前のナパーム。ペンタゴンの否認は炎となって爆発する。”
“Napalm by another name: Pentagon denial goes up in flames” August9, 2003
 By Ben Cubby
 http://www.smh.com.au/articles/2003/08/08/1060145870882.html

米軍部はこれまで、イラク戦争においてナパーム型兵器を使用したことを認めてきた。

ペンタゴンの報道官はヘラルド紙に対して、もはやナパーム弾は備蓄がないと伝えてきたが、しかしこの否定は疑わしい。

ペンタゴンはもはや、公式的には、ナフタレンとパルミテートを混ぜたナパーム弾といったブランド名を使っていない。しかしMark-77火炎弾(Mark-77 fire bomb)に含まれている燃料ゲルの混合物として知られているものと類似した物質が、最近の戦争開始直後にイラク−クウェート国境付近のイラク軍部隊に投下された。

「Mark-77はそこの一般的な地域で用いられてきた」と米海兵隊のマイク・デイリー大佐は語った。

デイリー大佐 は、ベトナム戦争時の米の備蓄はすでに廃棄されたが、Mark-77は「同様な破壊的性質」を有していると述べている。

3月22日、海兵隊と行動を共にしたヘラルド紙のリンゼイ・マードック特派員は、クウェート国境付近のサフワンの丘陵に展開していたイラク軍に対する攻撃の際、ナパーム弾が使用されたことを報道した。

彼の配信記事は、現場の二人の海兵隊将校による声明を基にしている。しかし、国防次官補局から来たジェフ・デービス少佐は、マードック記者の話を「明らかにうそ」と明言した。「1970年代に米軍は、ナパーム弾を使用しなくなった。2001年4月4日、最後のナパーム弾の破棄を完全に行い、もはやナパーム弾の備蓄を持っていない」と述べた。

彼は明らかに、ベトナム戦争時のナパーム−Bに言及していたのであり、それはポリスチレンとベンゼンを濃縮した可燃性の燃料によって構成されている。Mark-77火炎弾(Mark-77 fire bomb)中の可燃性の燃料は、異なる化学物質を濃縮して作られ、酸化剤が含まれていると見られている。

技術的にはどちらの兵器にも、ナパームは含まれていない。

ペンタゴン官僚は火曜日、AFP通信に対して、バグダットに向かう途上、イラク軍に対して米軍はMark-77を使用し、自らの使用を合法的かつ必要だったと擁護した。

名前を明かすことを望まなかったその当局者は、米海兵隊の戦闘機が、サフワンのイラク陣地を破壊するために少なくとも一回は、その火炎弾を投下したと語った。

その当局者がAFPに対して、「それは、このようなものだ。接近することが出来ない敵に遭遇したとしよう。それを使用することによって自らに命を守ることが出来るのだ」と語った。それに対するいかなる国際法も存在しないと、その当局者は語った。

海兵隊はバグダットに向かう途上、ナパーム弾型の爆弾を少なくとも二回使用したと、サンディエゴ・ユニオン・トリビューン紙は今週報道している。

「司令官たちはナパーム弾を好む」とその新聞は、第11海兵隊航空部隊の司令官であるランドルフ大佐の言葉を紹介している。「それは巨大な心理的影響を有している。」

ナパーム弾は、1980年の国連条約によって禁止されている。しかし米は、その条約に署名しなかった。米軍はMark-77兵器の使用は合法的であると見なしている。

イリノイ州のロック・アイランド武器貯蔵庫の報道官は、海兵隊用に500を越えるMark-77が製造されてきたと語った。彼女は、それをナパーム弾だとは見なしていなかったが、米の文献中にはいまだに、ナパーム弾として言及されている。


○記録 イラク各地における戦闘・民間人殺害
<19日>
・バグダット
 国連事務所が爆破される。国連関係者の死者多数。
<17日>
・バグダット
 ロイター通信カメラマン 米軍に殺害される。
<16日>
・バグダット アブ・グレイブ監獄
 迫撃砲が撃ち込まれ、イラク人拘束者6人が死亡。56人が負傷。
・バスラ近郊
 パトロール中のデンマーク軍部隊兵士1人死亡。イラク人3人死亡。
<14日>
・バスラ
 英軍救急車に爆弾が直撃。英兵1人死亡。2人負傷。
<12日>
・ラマディ
 爆弾による攻撃で米兵1人死亡。2人負傷。
<11日>
・バグダット北130km カラタッパ
 米軍、新たな掃討作戦を実施。
<10日>
・バスラ
 国連宛の郵便物を輸送中、元グルカ兵が襲撃を受け死亡。
 バスラでは10日、ガソリンの値上げに不満を持つ市民と英軍が衝突。英軍の銃撃により、民間人1人死亡。2人負傷。



●8月8日(142日目)−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 米英占領軍は、なりふり構わず一般住民の「掃討作戦」を続けている。「フセイン捕捉」と称して、民間人の無差別虐殺、拘禁、家宅捜索を今なお続けている。欧米のマスメディアが断片的に伝えている事実を総合すると、大規模な「掃討作戦」が行われているようだ。例えば7月28日のワシントン・ポスト紙(ネット版)では、6週間にわたる容疑者捜索活動において数千人を拘束した、「掃討作戦」の中心部隊である第4歩兵師団がゲリラ側と戦闘になりイラク人戦闘員300人以上を殺害した、このような軍当局者の発表が報道されている。また以前に紹介した人権団体アムネスティー・インターナショナルによる現地調査の結果によって、米軍部隊が管理している監獄の中に数千人のイラク人が拘束されていることが明らかになっている。米英占領軍は圧倒的な武力を背景に、イラク人の命などまったく無視した、やりたい放題のことを行っているのである。そして今や、暴虐の限りを尽くす米英占領軍に対してイラク民衆の怒りが高まっている。私たちは出来る限りの現地のリアルな情報を集め、米英軍の蛮行を暴いていきたい。そして民衆の怒りの声を拾い上げていきたい。

○占領軍による住民虐殺
 米軍の住民虐殺の実態を問題にした記事の紹介。はじめの「民間人の殺害をめぐり、イラクでは憎しみが広がっている」(8/4“Boston Globe”)では、子供やまったくまったく関係のない民間人を殺害する米軍の蛮行が暴かれている。また米軍に対してイラク民衆の怒りが高まっているという。「・・・失業、燃料不足、あるいは停電といった問題以上に、戦争終結後の民間人犠牲者(の問題)は米軍兵士に対する憎悪を拡大させており、また武装抵抗を強め、拡大させている」(記事)という。2番目、3番目の記事では、民間人犠牲者とともに「掃討作戦」の実態に触れられている。最後の記事「アメリカは犠牲者への補償金の支払いを厳しく制限している」(8/5“The Age”)は、殺害された大半の民間人は補償の対象とならず放置されている現実、そして補償の対象となったとしてもわずかな金銭でことを解決(殺害に対してである)しようとする米軍のやり方を暴いている。

紹介記事1
“民間人殺害をめぐり、イラクでは憎しみが広がっている。”
“Bitterness Grows in Iraq Over Deaths of Civilians” 4 August 2003 by the Boston Globe
http://www.commondreams.org/headlines03/0804-03.htm

 バグダット−それはうだるような暑さの夜、10時30分のことであった。その時、12歳の少年モハメド・アル・クバイシ君は、屋上めがけコンクリートの階段を駆け上がっていた。少年は二枚の毛布を持っており、双子の弟と一緒に屋上で毛布を巻き上げることになっていた。それは夏の期間の決められた習慣であった、
 モハメド君が屋上に着いた。その時、足下の通り道の軍部隊を見ようと振り返った。米軍兵士はライフルを携え、警備にあたっていたのである。一人の兵士が闇空を見上げ、屋上の人影に見入った。彼を見つめた。
 一発の銃撃が空に向けて行われた。
 モハメド君の母親は息子を家の中に引きずり込み、彼を抱きかかえながら悲鳴を上げた。血が床一面に広がった。米軍の一群がフロントドアをぴしゃりと閉め、彼女を脇に押しやりながら家屋の捜索を始めた時、モハメド君は息絶え絶えだったと母親は語った。
 「違う方角から歩いてきた二つのパトロール隊がいた」と、44歳のワファ・アブダル・ラティフさんはモハメド君の額入りの写真を抱きしめながら居間でそう語った。「パトロール隊の一方が、家の中から銃撃があったと思ったようだ。」
 モハメド君を狙った銃撃音を聞いた後、家から発射された武器を推測し、もう一方のパトロール隊が飛び込んだ。
 6月26日の少年の死は、米軍が武装集団による恐ろしい攻撃を受けているために、今ではほとんど忘れ去られた話になっている。しかし、彼らの中での相次ぐ(米軍による)殺害は、米占領に対するイラク人の感情を悪化させている。
 多くのインタビューの中で、失業、燃料不足、あるいは停電といった問題以上に、戦争終結後の民間人犠牲者(の問題)は米軍兵士に対する憎悪を拡大させており、また武装抵抗を強め、拡大させていると、イラク人は言っている。
 「アメリカに対する私たちの憎しみは大きくなっている」とバグダット大学のコンピュータ工学科学生である23歳のアリ・ハテムさんは語った。「奴らに対する武力抵抗も広がっている。イラクでは、私たちは部族の一員だ。もし誰かが子供を失ったら、みんなで復讐するのさ。」
 悲劇的な出来事と米軍が呼んでいる、銃撃によるモハメド君のような民間人犠牲者に関する統計を、イラク、米軍ともに取っていない。7月27日、バグダット西部の富裕層の多く住むマンスール地区において、少なくとも3人のイラク人が殺害された。タスク・フォース20から構成される米軍兵士が軍事警告線を越えた車両に向けて銃撃を行ったのである。障害物が取り除かれた側道からその地区に入り込もうとしたが、運転手たちはその警告線に気が付かなかった。
 4月終わり、バグダット西方50マイルにあるファルージャにおいて、第82空挺師団に所属する兵士たちが抗議デモに向けて発砲を行い、イラク人13人のが殺害された。6月18日、バグダットの共和国宮殿の門において、イラク人2人が殺害された。この両ケースでは、群集の中に隠れた武装した反逆者たちが銃撃を仕掛けてきたと見られると米軍は発表した。
 米軍当局は、相次ぐ戦闘の銃火に巻き込まれた無関係の民間人への遺憾の意を表明してきた。
 「イラクの民衆を離反させないような戦術を確かなものにするように、私は懸命に働いている」と米軍司令官リカルゴ・サンチェス中将は火曜日に語った。7月27日のマンスール地区でのへまな急襲において殺害された5人のイラク人家族に対して謝罪を行ったのかと質問された時、サンチェスは「軍事作戦中の通常の手続きとして、我々が引き起した一切に対する謝罪はなされない」と語った。
 通常米軍は、銃撃や誤射によって殺害されたイラク人遺族への謝罪を拒否している。それが軍事検問所での出来事であっても、パトロール中の出来事であっても。このようなケースは戦闘中に発生したものと見なされ、第二次世界大戦時に定められた米軍法に基づき謝罪の対象外となる。
 「我々の兵士は戦闘作戦を行っていた」とイラクでの米軍弁護士のマーク・ワレン大佐は語った。「我々は未だに戦闘作戦に従事しているのである」。
 しかし軍は、「12歳の少年が対象となっているため」、モハメド君の死についての内部調査を始めたとワレン大佐は語った。
 米軍兵士が補償も謝罪も行なわないことにおおいなる苦痛を感じていると、嘆き悲しむ親族たちは述べている。補償は通常金銭の形となるがイラクの部族の中には、殺害が起こった時のイラク式の伝統である報復としての殺害を望む者もいる。
 「何があったのかを説明するためのアメリカ人の訪問は一切なかった」と、24歳の弟ウダイ・アーマドさんを第28空挺師団に撃たれた28歳のモスタファ・アーマドさんは語った。「奴らに説明に行く気になどならない」。彼の弟は7月9日に死去した。
 ウダイさんは生計を立てるために、付近一帯の車の修理を行っていた。スペア部品を探すために自動車修理工場に向けて、バグダッド南西部のサイディア地区にある家から数ブロック離れた場所に歩いていた。工場を横切ると彼は、手榴弾のような大きさと形たちをした金属物である車のイグニション・ディストリビュータを持ち上げた。
 彼は、修理工場に隣接するドーラ警察署の屋根からはっきりと目撃された。
 屋根の頂上の兵士はウダイ・アーメドさんを見つけ、銃撃した。何が起こったのか、火曜日に取材した数人の目撃者からその詳細が寄せられた。
 「私は、一発のライフルの銃声を聞き振り返りました」と、ウダイさんが立っていた所から20フィート離れた場所で屋外サンドウィッチスタンドを経営する40歳のアリ・ハッサンさんは言った。「この男は車の部品を抱えていたよ。彼は出血しながらも体をよじり、顔を上げた。」
 「その瞬間、二発目の発砲が警察所の屋根からあった」と彼は言った。「それが彼に命中し崩れ落ちた。血が飛び散っていたよ。」
 ドーラ警察署に駐屯していた兵士たちは、ウダイさんの死に関してコメントしないだろう。また2ブロック離れた部隊基地に報告しないだろう。現場の指揮官たちは、その事件を議論したがらない。12歳の少年モハメド君の場合、兵士は謝罪のために家族を訪問した。
 「奴らは私たちに、どのような補償を望むのかをたずねてきたよ」と母親のラティフさんは語った。「夫は怒りだしたよ。引き換えに10人の兵士たちの死を要求したよ。」
 訪問者たちは、(銃撃した)兵士たちは息子を殺害した罪で拘束されたと両親に語ったと述べた。軍スポークスマンであるゲイ・シールド大佐はこのことを否定した。ワレン大佐は、モハメド君を撃ったのは、第82空挺師団の兵士であると述べた。
 家族は、少年の死は一偶発的な出来事ではないことを強調した。彼らは、モハメド君は助かっていただろうと言った、もしも南バグダットのハイ・アル・ジハード地区の検問所で融通の利かない兵士たちがいなければ。「私は車に彼を乗せて運び込もうとしました」と隣人である17歳の青年のヤサ・アラさんは語った。「奴らは私たちを、夜間外出禁止時間であるとの理由で、検問所に停止させたのです」。
 アラさんは家に向けて引き返した。モハメド君は車中で息絶えた。夜間外出禁止が終わるまでモハメド君を車の中にとどめ、病院に向かった。そこで死亡を確認した。
 モハメド君の死についての詳細は、アムネスティー・インターナショナルによって7月23日に発表された報告書に取り上げられた。ロンドンに拠点を置くその組織は、イラクの現地調査員は、米軍はむやみに銃を撃ちたがり、イラクを守るための準備がなされていないと断じている。
 双子の兄の死を受け入れることができず、モハメド・アル・クバイシ君は最近、叔父の家に移った。家に居ることが耐えられなかったのだ。7月の終わり、彼は1万ディナール(約8ドル)を貯め、無くなった兄への贈り物として自転車を買った。

紹介記事2
“多くのイラク人が拘束されている。多くの民間人が殺害されている。米軍によって。”
“Dozen Iraqis Detained, Civilian Killed By U.S. Forces” 3 August 2003 by IslamOnline.net
http://www.islamonline.net/English/News/2003-08/03/article07.shtml

 バグダット、8月3日(IslamOnline.net & News Agencies)― 8月3日の日曜日、75歳の農夫は射殺され、息子は負傷した。ファルージャ西方の同盟軍検問所で追い返された直後の出来事である。またイラクの北東のバクバとバグダット間の路上で、アメリカ軍兵士はロケット弾で攻撃を受け兵士2名が負傷した。
 日曜日、米占領軍が追放されたイラク大統領サダム・フセインを捕らえるためにイラクをくまなく捜索した際、2人のイラク人が、イラクの抵抗部隊と米軍の強烈な十字砲火に巻き込まれた。
 殺された農夫の家族はAFP通信に次のように語った。「彼ら(イラク民間人の2人)は(検問所を受け持っていた米軍の命令に従って)Uターンしようとしていた。彼らは検問所から銃撃を受けた。父親は射殺され、息子は顎と左腕を撃たれた」。
 米陸軍はその事件について直接何ら説明をも行っていない。
 バクバでは、オール・テライン・ビークルHumveeにロケット弾が命中した際、2人の米兵が負傷したと、目撃者はAFPに語った。米軍はバクバの南からバグダットの北60キロ(36マイル)の車道を閉鎖しているという。
 米軍当局者は、バクバにサダム・フセイン支持者が隠れていると見ている。そこは、「スンニ・ムスリム・トライアングル」と呼ばれている首都の北部及び西部に位置している。

拘束された2人のバース党支持者
 ティクリットにおける一連の戦闘において、追放されたバース党の重要メンバー2人を含む26人を拘束したと、日曜日、第4歩兵師団のテッド・マーティン中佐は語った。 
 その内一人はバクバで拘束され、もう一人は首都の北東300キロ(180マイル)で捕捉されたとマーティン中佐は語った。
 夜間に捕らえられた2人の容疑者は反米攻撃のための新兵を駆り集めていたと、彼は付け加えた。
 それとは別にバクバの目撃者たちがAFP通信に語ったことによると、日曜の朝の農家での戦闘で10人が拘束されたいう。
 イラクにおける米を中心とする同盟軍は、サダム・フセインの捕捉を狙い、「スンニ・ムスリム・トライアングル」において次々と拘束を行ってきた。
 戦闘が5月1日で終わったと宣言されて以来53人の兵士の命を奪った破壊的な攻撃を鼓舞している中心人物であると、米は追放したイラク(元)大統領をそのように見ている。
 サダムの息子であるウダイとクサイがモスル北部の町で殺害された以降の混乱した(情勢)の中、先週だけで700人以上の人々を拘束したと、7月22日、米陸軍は発表した。
 土曜日の夜、追放された(元)大統領の出身地であるティクリットの橋の近くで爆弾が爆発し3人の兵士が負傷したと、第4歩兵師団のビル・マクドナルド中佐は語った。
 「4台のパトロール隊の中で、先頭の車両が高速道路で待ち伏せされた。簡易爆発物が使用され、米軍兵士が3人負傷した」とマクドナルドは語った。
 「爆弾の破片で負傷した兵士たちは撤退し、今は安定した状態にある」と彼は語った。
 その攻撃は、サダムの息子であるウダイとクサイがアワジャの近郊の村に埋葬された日と同じ日に起きた。またその日は、イラクのクエート侵攻の13周年の記念日と重なっている。
 その他の攻撃によって、日曜日の朝、バグダット空港へ向かう主要高速道路で1台の車が炎に包まれた。その道路は米軍が頻繁に攻撃にさらされている道路だったが、今回はイラク人1人が銃撃下で拘束された。
 午前8時30分(グリニッジ標準時4時30分)に「小型爆発物またはロケット弾」によって車両が攻撃されたと、広報担当将校であるブレント・ウイリアム軍曹は語った。
 運転者はなんとか車から逃げ出したが、胸に怪我を負った。その事件は、米兵1人とその他3人が地雷攻撃によって3日前に負傷した同じ場所で起こった。
 ここ数週間、イラクにおける米陸軍の主要な拠点の一つである空港周辺での待ち伏せを阻止しようとする(米軍)部隊は、高速道路に一列に並んぶ密集した藪をブルトーザーで整地した。
 サダムの密告の宣伝となった7月22日のモスルでの激しい戦闘でウダイとクサイを死に導いた内密の情報について、土曜日ブレーマは誇張して語った。
 かってイラクの最高位にあった家族に敵対する利益を言いふらしつつも、同盟軍は情報提供者に3千万ドルの報酬を支払い家族を移住させたと彼は言う。
 「我々はサダムも捕らえるつもりだ。唯一の問題は、誰が2千5百万ドルを手に入れて、他の国へ移住しようとするかということだ」ブレーマは言い放った。
 ウダイとクサイを告発した男は、二人が最後の抵抗を行った邸宅を所有していた部族長、ナワフ・アル−ザイダンであると広く信じられている。

紹介記事3
“サダム捜索で殺された民間人”
“Civilians struck down in hunt for Saddam”5 August 2003
http://sg.news.yahoo.com/030804/1/3d3uz.html

 バグダット北部における爆発で、米兵1人とイラク人2人が負傷した。民間人にとって同盟軍とサダム・フセイン支持者の間の争いは、死に至る危険なものだということは明らかである。
 戦闘が始まるや陸軍第4歩兵師団は、諜報機関が敵に輪縄を締めていると豪語した通りに、ティクリットにおいてもう一人のゲリラ兵を拘束した。ティクリットは、サダムをその地で生まれた人として称賛しているバグダットの北の町である。
 日曜日、バグダットの北部60キロ(37マイル)バクバの近くで、米兵1人とイラク人2人が負傷したと、第四歩兵師団のビル・マクドナルド中佐は月曜日に語った。
 「日曜日の午前11時(グリニッジ時刻午前7時)、アル・フセイン付近の第二高速道路において輸送部隊が簡易爆発物(IED)によって攻撃された」とマクドナルド中佐は語った。
 第4歩兵師団の第二大隊が「攻撃を遂行したと疑われた12名のイラク人を拘束する」直前、襲撃部隊との間で銃撃戦が発生したと、ティクリットの外に基地を置くマクドナルド中佐は語った。
 その攻撃は、1人のイラク市民が爆発によって負傷した同じ日に、米兵がしばしば攻撃に遭遇する場所のバグダット空港へ向かう道路で起こった。
 日曜日、バグダットの西50キロ、ファルージャ西部の同盟軍の検問所で追い返された直後、75歳の農夫もまた射殺され、息子は負傷したと家族がAFP通信に語った。
 米兵とサダムの支持者間の低強度戦争が、横から眺めている市民にとってますます命がけのものになっていることは明らかであり、アメリカ陸軍はこの事件についてのコメントをしていない。
 ティクリットでは、サダムを拘束、殺害するための米軍作戦の中心となるのは、同盟軍が局所的な抵抗の連鎖の鍵になる一人の戦士を拘束することだと、月曜日スティーブ・ラッセル中佐は語った。反体制派たちにとって全国的な組織は存在すると同盟軍が否定しているにもかかわらず。
 「我々が昨晩ターゲットにしていた主な男は、今朝自ら投降した。彼は前政権支持者のまとめ役だった」とラッセルは言った。絶え間ない急襲が、その地方のサダム支持の集団に亀裂を生じさせるのに重要な役割を果たしていると強調しつつも。
 「(サダム)体制を支持する人はだんだん減っている。現在我々は、攻撃を指導していた人々から重要な情報を得ている」と彼は言う。
 タスク・フォース・アイロンフォースのコードネームで呼ばれているサダム拘束の作戦において、過去24時間で300回のパトロール、11回急襲、11人の拘束者があったとマクドナルド中佐は言った。
 先週、精鋭部隊兵士がサダムのボディーガードや側近と説明された数人を連行したが、最新の掘り出し物は「我々になんらかの情報を与える人々」であったとマクドナルドは語っている。
 急襲時に兵士たちは、カラシニコフ・ライフルとロケット弾と共に4発の地対空ミサイルと防空砲レーダーシステムを奪った。
 現在同盟軍当局者は、サダムから独立しているイスラム急進派からの脅威に直面している。彼らは地元民や外国人、おそらくオサマ・ビン・ラディンのアルーカイダネットワークをも含んだ人々である。
 一方イラクの暫定政府協議会は、選挙と戦争で荒廃した国の米国管理終焉への足がかりとなる新しい憲法の作成を担当する15人委員会に、弁護士と裁判官を指名する態勢になってきている。
 その協議会は、9人で議長席のローテーションを毎月行っている。イラク人たちの信頼を得る模索をしており、米の支援を受けている幼い組織のためのもう一つの道程票として、数日中に閣僚を選ぶことになっている。

紹介記事4
“アメリカは犠牲者への補償金の支払いを厳しく制限している。”
“US tightens payouts for casualties” 5 August 2003 by The Age
http://www.theage.com.au/articles/2003/08/04/1059849339638.html

兵士による過失や不正行為を明確に証明しない限り、米軍に殺されたり、傷つけられたりしたイラク民間人の数千の家族は補償を得られないだろうと、アメリカ陸軍当局者は語った。
 (米軍の)考え方によるならば、兵士の発砲が適切であると認められた場合、検問所において民間人が射殺されたような痛ましい過失に対する(補償金の)支払いは免除される。ジョージ・ブッシュ大統領が戦闘の終了を宣言した5月1日以降の出来事は、未だ戦闘に関係したものであり補償の対象ではないと、日曜日に当局者は語った。
 兵士の誤射や補給トラックが関与した交通事故のような場合、過失が証明されれば(補償金の)支払いは当然なされるであろう。当局者は、1168件、総額262,263米ドル (403,000オーストラリアドル)の申し立てを処理したと述べた。その大半は所有物への損害であり、すべて1万5千米ドルを越えなかった。
 しかし、日曜日のブリーフィングにおいてその当局者は、死者に対する補償についてなんら詳細を述べることが出来なかった。「負傷者1人はいくらに値するのか。1人の命はいくらに値するのか。・・・イラクにおいて1人の命の価値は、おそらくアメリカやイギリスでのものよりも大幅に低いのだ」とある人物は言った。
 その時のブリーフィングでは、(補償金の)支払いへの対応に関する不整合性が露呈した。4月、米兵が18人を殺害し78人を負傷させたファルージャにおいて、その地域の指揮官は死亡者に1500米ドルを、負傷者に500米ドルを支払ったと、AP通信は報告している。ある当局者はブリーフィングにおいて、もし必要があれば調査し、指揮官に(補償金の支払いを)止めるように命令すると語った。
 また、現地のワシントン・ポスト記者によると、カルバラ付近の検問所においてバンに乗っていた15人の女性と子供の内10人が射殺された3月下旬の事件に関して、陸軍当局者は、特定されていない償いを申し出た。ロニー・ジョンソン将軍は、銃弾が発射された直後の叫び−「お前たちはただ・・お前たちが十分に早く威嚇射撃をしなかったから、家族を殺したんだ」に値を付けた。発表されたガイドラインに基づくと、その事件は補償の基準を満たしていない。つまり戦闘状態下であり、5月1日以前であると解釈しうる状況下で起きたのである。
 その矛盾した考えは、すでに大勢が米を中心とした占領を不当であると感じ、復讐を阻止する手段として死者に対する「血にまみれたお金=補償金」が支払われることを知っている部族文化の国において、不公平感を作り出している。
 (米軍を中心とする同盟軍による)侵略と占領の期間、少なくとも5000人の民間人が殺されたと、イギリスと米国の研究者、調査員から構成されている独立調査グループ“イラク・ボディ・カウント”は述べている。
 先週、富裕層が多くすむマンスール地区におけるサダム・フセイン捜索の急襲の間に、少なくとも2人の民間人が検問所で射殺された。怒った目撃者は、検問所は不当に組織されていると言い、なぜ兵士は住宅地で射殺するのかとたずねた。「普通に考えれば、人が検問所に近づき撃たれた場合、それは戦闘行為だ」とある当局者は言った。
 5日経過した現在、米軍のヘリコプターでどこか分からない場所へ連れていかれた負傷者についての詳細を、未だに家族は求めている。


○記録 イラク各地における戦闘・民間人殺害
<7日>
・バグダット南部
 銃撃戦。米兵3人死亡。1人負傷。
<5日>
・ティクリート
 ハリバートン社員1人死亡。
<1日>
・バグダット北方 シュマイト南部
 第4歩兵師団の車両がロケット弾の攻撃を受ける。米兵1人死亡。3人負傷。
・イラク中南部
 ポーランド軍、交戦。
<31日>
・バクバ近郊(イラク中部)
 戦闘。米兵1人死亡。2人負傷。イラク人4人負傷。
・バグダット空港へ向かう道
 地雷により、米兵1人死亡。2人負傷。
<28日>
・バグダット中心 ラシド地区
 武装車両に爆発物。米兵1人死亡。3人負傷。
<27日>
・カルバラ
 反米でもに米軍発砲。イラク人1人死亡。3人負傷。
・バグダット マンスール地区
 米軍の急襲作戦によって民間人5人死亡。8人負傷。



●7月30日(133日目)−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−

 米軍兵士の犠牲が日々報道されている。米軍のイラク軍事支配は行き詰まりを見せている。しかし米軍はフセインを捕捉しようと必死になっている。彼を捕まえることによって、戦況を変えようとしているのである。その結果が、住民の無差別殺戮である。
 これまで「掃討作戦」「フセイン捕捉作戦」の内実を知ることができなかった。米軍が作戦行動を一切隠蔽してきたからである。しかし日曜日、米軍はバグダット市内で大規模なフセイン捕捉作戦を実施した。米軍兵士のみならず、多くの工作員も作戦に加わっていたという。多くの住民は、そこで何が行われたのかを目撃した。そして報道機関はその様子を全世界に発信した。無差別銃撃、無関係の民間人の殺害、そして理由無き拘束、破壊である。5人の住民が殺害されたという(11人という数字もある)。また多くの民間人が巻き込まれ負傷した。米軍はこの作戦における犠牲者に一切に謝罪していない。それどころか被害者を拘束しているのである。
 バグダットにおける日曜日の出来事は、イラク全土で米軍が行っている蛮行のほんの氷山の一角であろう。米軍の蛮行をこれ以上、繰り返させてはならない。イラクからの即刻の撤退を実現させなければならない。

※米部隊がバグダッド中心部の住居を急襲、5人死亡
 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20030728-00000857-reu-int

○占領軍による住民虐殺
 バグダットにおける日曜日の「フセイン捕捉作戦」を暴いた二つの記事の紹介。

“バグダットにおける血まみれの米軍の急襲は、イラク人を激怒させる。5人の民間人が殺される。”
“Bloody U.S. Raid in Baghdad Leaves Iraqis Furious; Five Civilians Killed” July 28, 2003
 By Cynthia Johnston
 http://www.ccmep.org/2003_articles/Iraq/072803_bloody_us.htm


「急襲作戦」で犠牲となった2人の民間人。(IslamOnline.netから)
 バグダット(ロイター)−バグダットのアル・サーハ・レストランに残された固まった血の海、窓に残された銃弾の跡は、騒動に巻き込まれた5人のイラク民間人を殺害した米軍襲撃の唯一の痕跡である。
 日曜日、走り去る(米軍の)車両に対して、比較的裕福な人々が多く暮らすマンスール地区の怒った住民たちは、無差別に銃撃した米軍兵士を糾弾した。米軍兵士がある邸宅を急襲したのである。それは空振りになったが。
 「車はその道を下ってきた。彼らは、アメリカ人がそこにいることを知らなかった。彼らは普通の民間人であり、家に帰ろうとしていた」と、月曜日、サーハ・レストランの中庭に立ち止まりながら目撃者はロイターに語った。
 「やつら(米軍兵士)はすぐに銃撃をはじめたよ。」
 ある米軍スポークスマンは、急襲はサダム・フセインと彼を支える者たちを捕まえるために創設された“タスクフォース20”に指揮されていたと語った。
 10代前半の少年一人を含む5人の遺体が急襲の現場から運び込まれてきたと、病院の近くの一人の兵士は語った。
 月曜日の早朝、マンスールには兵士の姿が見あたらなかった。燃え上がり、多数の銃弾を浴びた4台の車は持ち去られていた。
 「これらすべての物は、人々のアメリカ人への憎しみを駆り立てる」と、マンスールの住人であるムハマドさんは語った。
 「はじめのうちは、すべてのイラク人はアメリカ人を歓迎したよ。しかし今では、アメリカ人は、自分たちとイラク人の間に壁を作ってしまった。」

警告は無かった。
 銃撃を目撃した住民は、およそ75人の米軍兵士が夕方、このエリアになだれ込み、道路を封鎖したと語った。しかし関係のない運転手が静かな道はずれから交戦地区に迷い込むことを防げなかった。
「人々がそこで戦闘が行われていることを知らせるために、やつらはワイヤーをはる必要がある」と目撃者は語った。「ここは住宅地域だぞ。やつらは民間人に注意を払わなければならないはずだ。子供たちもいるのに。」
 アッバスと名乗った目撃者は、彼の車を近くのレストランの路上近くから遠ざけたと語った。しかし、より小さな道は通行可能だったと語った。その目撃者は、ハムビー武装車両の上から、彼ら(兵士)の最も近くにあった車に向けて銃撃をはじめたと語った。数分後、同じように彼らは二番目の車に銃撃を集中させた。
 「それは無差別銃撃だった」とある目撃者は語った。まわりの人たちもうなずき、レストランの窓に残された銃痕を指差した。
 飛び散った銃弾は、駐車していた車のガスタンクに命中し、他の車に引火した。数分後、銃撃は終わり、兵士たちは去っていた。
 「彼らだけが残された。そしてイラク人の消防士が火を消すためにやって来たよ」と語った。


“アメリカの工作員は大虐殺となった急襲作戦を非難されている。”
“American agents are blamed for raid that became a massacre” July 29th, 2003
 by Robert Fisk,  The Independent
 http://www.occupationwatch.org/print_article.php?id=288&print=1

 日曜日、サダム・フセインを捕まえようとして失敗に終わった攻撃によってアメリカ人がバグダットで行った11人ものイラク民間人の殺戮は、街中に怒りを広めただけではなく、疑問も投げかけている。現在多くの目撃者は、武装した私服のアメリカ人もその攻撃に加わったと語っている。その攻撃の後、負傷者のうちの少なくとも3人が米軍兵士に連れ去られ、それ以降目撃されていない。
 失業中のカーメカニックであるファディ・ブラッシュさんは、親戚のマーゼン・エリアスさんが、母親のタマンティさんや兄弟のシャミールさんと共に教会へ行く途中米兵の方に向かって車を走らせていた時、どのようにして米兵に頭を撃たれたか、昨日インディペンデント紙に語った。「マーゼンは頭を吹き飛ばされて殺され、彼の母親とシャミールは負傷した。」彼は言った、「アメリカ人たちは、彼らをあるトラックに乗せて連れ去り、彼らがどこに行ったのか誰にも言わなかった。」ブラッシュさんは昨日、傷を負い、あるいは死んでいる親戚の所在をアメリカ人たちに公表させるために他の家族と共に国際赤十字に訴えた。昨日明らかになったのだが、シャミール・エリアスさんはバグダッドにおける米陸軍の通訳者になった。彼のオフィシャルカードは 彼が第3軍司令部語学者連合管理チームDNVT550 2321(Coalition Forces Land Component Command Linguist Pool Management team DNVT 550 2321)として働いていることを示している。彼がアメリカ軍に撃れて以降、彼のカードが毎日午前7時から午後6時までの間「軍のチェックポイントを通っての入場」を許可するとは、二重の皮肉である。
 遺体はけしからぬ取り扱いを受けている。マーゼン・エリアスさんの遺体は、ヤモーク病院に運び込まれたが、彼の身元は遺体名簿に登録されなかった。米軍によって彼の近親者の二人も撃たれた。彼らが連れ去られて後、彼の身元を確認する者はおそらく誰もいなかったのだ。
 タマンティさんとシャミールさんがもし生きていれば、彼らの息子や兄弟が死んだことに気づいたかどうかも分からない。私は、ヤモークの死者登録簿の中に、米軍発砲による犠牲者を3人見つけた。一人はムシャラク・アルイブライムという名で、彼の遺体は日曜日の午後7時に病院に運び込まれた。それはあの殺戮からほぼ2時間後のことだ。そして彼は「頭部を傷つけた発砲―警察検証」で死んだのだ。
 「警察検証」は単に、彼が車の衝突や他の種類の事故で死んだのではないことを意味する。しかしながら残りの2名の死者は昨日、身元が確認されないままだった。いつものことだが、病院を訪れて彼らが殺した者たちの詳細を訊ねるアメリカ人などいなかったのだ。
 モハメド・アブダル・ラーマン老人は昨日、外科室で幸運にも生きながらえた。マンスールの虐殺において米軍が彼の車に発砲した時、彼はお腹を撃たれ、金属破片に打ちつけられた。彼は鼻にチューブを差しベッドで痛みに身悶えしながら、発砲された時、車に同乗していた息子のファイラスが(事件の)話をすることを許した。「私たちは外国郵便の手紙をもって地元窓口に向かっていただけなんです。」彼は言った。「叔父のアーマドが運転し父は隣に座り、そして私は車の後部席にいたんです。私たちはアル・サーハ・レストランのそばのマンスールの主要道路まで車を走らせていまいた。そして右に曲がろうとしたんです。私たちは誰も、一人のアメリカ人も見ませんでした。鉄条網も、標示も、何もありませんでした。」集中砲火が車を停車させた。「叔父は頭と首を負傷し、銃弾の一つが父のお腹に当たりました。私たちはみんな隠れようと車の中に伏せました。私も怪我をしました。私たちは2分間そのまま伏せていなければなりませんでした。父はなんとか車から降り、それから人々が助けに来てくれたのです。怪我をしたにもかかわらず、父と叔父は車を発進させ、ヤモークに行って助けを求めようとしました。でもアメリカ人たちがタイヤを打ち抜いていたので、車は高速道路で止まってしまい、他のドライバーたちが私たちを助けてくれたのです。」
 他の目撃者たちも負けず劣らず恐ろしい報告を行っている。ヤモークの医者の一人は、彼の息子を銃撃から逃げるときに失った。女性が一人、少なくとも子供一人と一緒に死んだ。現場からの最初の報告とは反対に、2台の車が炎に突っ込んだが両方とも誰も乗っていなかった。米兵は、戦前サダム・フセインと知り合いだった部族指導者のシャイク・ラビア・モハメド・ハビブ氏の邸宅を攻撃したが、そこももぬけの空だった。
 混雑した街頭で、米軍と彼らと一緒に行動していたアメリカ私服工作員は、明らかに近づいてくる車はすべて脅威か攻撃であると見なしていた。昨夜でさえ、正確な死者の数は分からないままになっている。
 父親のそばに立っていたファイラス・アブデュル・ラーマンさんは、我々のインタビューの間、いっとき怒りに取り乱した。「なぜ彼らは罪もない人たちを撃ったんだ」と彼は訊ねる。「私たちがアメリカ人に何をしたというんだ。私たちは手紙を出そうとしていただけだ。彼らは50メートル向こうから私たちを撃ったんだ。どうしてなんだ。」
 当然のことながら、アメリカ合衆国は国際犯罪法廷に署名することを拒否している。海外で任務に就く自国兵士が国際犯罪法廷に立たされることを恐れて。

参考
U.S. Troops Kill 5 Civilians In Saddam's Hunt
 http://www.islamonline.net/English/News/2003-07/28/article01.shtml



●7月28日(131日目)−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−−
 フセインの息子たちを殺害し米政権は歓喜につつまれたが、米兵の犠牲者は増え続けている。むしろこの一週間、米兵の犠牲者はこれまで以上のペースで増えている。
 国連の援助機関である世界食料計画(WFP)の現地報告などを調べてみると、現地の治安はますます悪化しているようだ。職員の安全が確保できない。ナジャフとカルバラに置かれていたWFPの事務所はヒッラに移転したという。またバグダットと周辺都市の行き来にも危険が伴い、今では通行が制限されているという。国連の援助すらままならない不安定な状況が現地を支配しているのである。そのような情勢の下、一体どのような「人道支援」、「復興支援」を自衛隊が担うというのか。今イラクに最も必要なもの、それは平和である。それこそが「人道支援」、「復興支援」の前提である。「戦争状態」の元凶である米軍は、即刻イラクから撤退しなければならない。自衛隊の派兵を許してはならない。

※WFP Emergency Report No. 30 of 2003 25 Jul 2003
http://www.reliefweb.int/w/rwb.nsf/480fa8736b88bbc3c12564f6004c8ad5/
24930412a6770a8685256d6e005e25a6?OpenDocument



○高まる占領軍に対する批判
 「掃討作戦」、「残党狩り」の名の下に多くのイラク人が虐殺、拘束されている。それは今なおイラク全土で繰り広げられている。今月初旬の「掃討作戦」において1200人を越えるイラク人を拘束したと米軍は発表した。また最新の報道では、この6週間の「掃討作戦」で数千人のイラク人が拘束されたことをワシントンポスト紙は伝えている。しかし、拘束されたイラク人たちがどのような環境下で拘置されているのか、その実態についてのまとまった情報はない。米軍は徹底して情報を統制しているからである。27日バグダット市内の急襲作戦の現場を取材した日本人記者が米軍に拘束され、暴行を受けたことが報じられた。「市内のマンスール地区で、米軍が民家を攻撃し住民5人が死亡、8人がけがをした現場の映像を撮影中、米兵にカメラを取り上げられた」とその時の様子が伝えられている。情報を統制した下で繰り返される虐殺と拘束、これがイラクで展開されている現実である。
 拘束されたイラク人についての最新の情報がアムネスティーからもたらされた。貴重な情報である。拘束されたイラク人についての調査結果を紹介した記事をはじめに掲載した。予想に違わず米軍は、拷問に等しい環境下に拘束したイラク人を押し込め、長期間にわたる拘置を続けている。眠らせない、フードをかぶせ恐怖心を与える、猛暑の下への長時間の放置、水も与えない、衣服も数ヶ月間そのまま、・・・これが米軍の拘束者へのやり方である。このような状況についてアムネスティーは、「ジョネーブ協定と国際人権法によって禁じられている“拷問と非人道的な処遇”に相当するであろう」と述べている。また抗議した拘束者たちを容赦なく射殺しているという。今や米軍は残忍な支配者そのものである。一体どのような権利に基づいてイラク人を拘束し、拷問し、射殺するのか。米軍こそが裁かれるべき侵略者のはずである。
 二つ目の記事は、「残党狩り」の名の下に、片っ端から一般人家屋の破壊を繰り返す米軍のやり方を紹介したものである。関連箇所の訳出のみであるが、嫌疑が向けられた家屋に対しては徹底した破壊を繰り返す米軍の実態が描かれている。
※ <邦人記者>バグダッドで一時身柄拘束 米兵が撮影禁止求め
 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20030728-00001051-mai-int
※旧政権の残存勢力掃討で進展=イラク駐留米軍が自信−Wポスト紙
 http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20030728-00000600-jij-int

<拘束者を虐待する米軍>
“アムネスティー:イラク人たちは米軍による拷問を訴えている。”
“Amnesty: Iraqis Complain of Torture by U.S. Forces” July2003 by Reuters
http://www.commondreams.org/headlines03/0723-01.htm

 バグダット−米軍によって拘束されたイラク人たちは、拷問とあまりにもひどい処遇を訴えている。アムネスティー・インターナショナルは水曜日このように語った。
 兵士が拘束者を撃ち殺したとの報告が存在している、ロンドンに拠点を置く人権監視団体は、かって米に捕らわれたイラク各地の拘束者とのインタービューに基づく報告書の中でそのように述べている。
 アムネスティーのスタッフは、延々と続けられる睡眠の剥奪、拘束者が苦痛を伴う状態に強制的に置かれていること、あるいは、長時間にわたって頭にフードをかぶせられる等を含む訴えを聴取した。
 「このような処遇は、ジョネーブ協定と国際人権法によって禁じられている“拷問と非人道的な処遇”に相当するであろう」と、アムネスティーは述べている。
 この報告に関する米軍当局からのコメントは得られていない。
 イラク各地からアムネスティーのスタッフは、元拘束者、いまだに拘束され続けている親族の証人を集めている。
 この組織は拘留センター(注:拘束者が収容されている監獄等を指す)訪問のための数度の申請を行ったが、4月にサダム・フセインを打倒した侵攻以降、法と秩序を押しつけることに格闘し続けてきた米軍によって(拘束者との)接触が認められていない。
 「拘束者たちはテントの中に閉じこめられている間極度の高温状態におかれ、不十分な水、不適切な洗い場、トイレ用に開け放たれた溝、2ヶ月間の拘留期間の間に衣服の交換もなかった、このような苦しみを受けてると訴え続けている」とアムネスティーは語った。
 アムネスティーは、米軍部隊が管理している監獄に数千人が拘束されていることを訴えてきた。その中には、サダム政権下で最も恐れられた監獄の一つであるアブ・グライブとバグダット空港近辺のキャンプ・クルッパーが含まれている。
 「大部分が同盟軍のメンバーによる銃撃が原因」で拘留中に殺された拘束者のケースについての数編の報告を入手していると、その人権団体は語っている。
 6月13日、アブ・グライブ(元監獄)で発生した暴動において兵士が拘束者に向けて銃撃を行った時、22歳のアラー・ジェイセム氏は殺された。抗議に参加した者たちは、兵士に向けてレンガと支柱を投げつけた。
 「目撃者の証言によると、アラー・ジェイセム氏は銃撃が行われた時、テントの中にいた。その他7人の拘束者が負傷した」とアムネスティーは語った。
 アムネスティーによるその他の訴えとして、5月14日の朝のサーディ・アル・ウバイディ氏のケースがあげられる。2台の米軍の武装車両が彼の家屋を囲っている石壁を突き破り破壊した。
 「数人の兵士が強引に入り込み、銃床で彼を殴った。彼は兵士たちから逃れようと家屋から逃げ出した。兵士たちは数メートル離れた場所から彼を撃ち、彼は即座に殺された」とラマディの証言を引用しながらこの報告の中で述べられている。
 武器捜索において米軍は、家長に恥をかかせるような屈辱を与える作戦を用いていると多くのイラク人たちは告発している。
 「家宅捜索に従事する同盟軍は、不当にも家財を損傷させたり、破壊したりしている」とアムネスティは語っている。
 「拘束時に巨額の金品を含む家財を押収する多くの報告が寄せられている。」
以上


<「残党捜索」の実態=破壊>
“サード師は米軍に対してナジャフから去るように求めた。激しさを増すサダム狩り。”
 “Sadr Tells U.S. To Leave Najaf, Saddam Hunt Heats”
 http://www.islamonline.net/English/News/2003-07/25/article05.shtml

 ナジャフ,7月25日(IslamOnline.net & News Agencies)−米軍はイラクの町を巡回し、家屋を破壊している。そにサダム・フセインが潜んでいると見込んで。何万人ものシーア派の人々が7月25日金曜日、イラクの聖なる都市ナジャフのモスクに集まった。イマムであるマクタダ・サード師が米軍が町から去り、統治評議会と名付けられているものを廃止することを要求するのを耳にしながら。
 カタールに拠点を置くアルジャジーラ衛星チャンネルによると、金曜日の明け方、約50台の米軍の戦車と武装車両が抵抗を続けるファルージャの町のある地区を包囲した。追放されたサダム・フセインがある家屋に潜んでいると確信してのことであるが、その家屋の持ち主はそれが事実ではないと主張していたという。
 「その時彼ら(米軍)は、私の家に近づく前に無茶苦茶なやり方で銃撃を開始し、徹底的に捜索を行った。その時彼らは何も見つけだすことが出来ず、ただ破壊していった」。家の所有者の言葉をこのようにアルジャジーラは伝えた。
 銃撃と砲撃の影響は、隣家や駐車していた車にも及んだ。占領軍がその地区を立ち去るや、多くのがれきが残された。
 以下略


米軍が徹底した捜索を行った後

無関係の家屋も破壊する米軍


○人道的危機の現状
 「The Age」の現地報告である。ウダイ、クサイを殺害して喜ぶ米とは対照的に、バグダットをはじめとする市民生活は未だに悲惨な状況に置かれていることを明らかにしている。また戦略国際問題研究所から最近提出された報告書について触れられている箇所がある。その報告書の中には、連合国暫定当局(CPA)はイラク人と大きく乖離しており、彼らの状況をまったく理解していないでことが指摘されているという。戦略国際問題研究所の報告書はラムズフェルドからの依頼で作成されており、このような報告がなされるほどCPAなる組織は無能力であり、結局米は、イラクを「復興支援」する意志など持っていないことを明らかにしている。

<市民生活に関する記事>
“町の状況:生活は未だに悲惨である”
“On the streets, life is still dire” THE AGE (26 July 2003)
 http://www.theage.com.au/articles/2003/07/25/1059084207696.html

 人々は感謝していない。世界のメディアは、ウダイ、クサイ(フセイン)の身の毛もよだつ画像で溢れている。それはワシントンからの贈り物であった。すべてのイラク人が感じていることは、日々の生活における過酷な転落に関する不満である。
 解雇された政府系工場労働者たちは、バグダットのある一角で抗議行動を起こした。彼らは家族を養うために、公的機関からの給与の回復を要求した。
 2ブロックほど進むと、サダム政権下の残虐な監獄から解放された数百人の囚人たちが、サダムを支えてきた兵士たちがなぜワシントンからの給与支払いを受け取るのか、このことの説明を要求している。明らかに政権の犠牲者である彼らは、受け取っていないのである。
 早晩にサダムが捕まるか殺されるかの先行きでさえ、耐えられない夏の暑さを緩和することはできない。サダムに対する米の戦争が配電網を破壊し、イラク人はエアコンや冷蔵庫がほとんど無い苦しみを受けている。
 戦後、水と電力供給の改善は或る程度みられる。しかし国連による背景説明の中では、反米レジスタンスによる破壊策動によって逆戻りしている。病院は「多少は」機能しているが、絶望的な状況である。通信施設もなく、汚れた排水が町中に溢れるとともに下痢によって死に至る子供たちが二倍にもなっているような健康への新たな危機が発生している。
 現地からの批判は、昨週に出されたドナルド・ラムズフェルド国防長官によって依頼された戦略国際問題研究所(Centre for Strategic and International Studies)の報告書に反映されている。
 来年は重要な一年になるであろう、しかし今後三ヶ月はイラク人の支持を得るための格闘における決定的であると警告している。そのためには、民間人主導の再建に向けた巨大な財源を必要とする。
 この報告書によると、米軍の指導と地方の諸要求に応えるために地方議会が設置されたが、職場を作り出すことは失業を解消するために緊急に必要である状況が述べられている。そしてバグダットにおけるワシントンの行政部門である連合国暫定当局(CPA)は、バグダットの枠を超えるさらに大きく、自立した職員を必要としている、と。
 報告書は、激しい非難を浴びた国連のように、その他の国々や組織の参加を求めるために引き延ばされている戦前の対立の解消をワシントンに促している。
 短期間における私有化の選択肢を採用するよりも、彼らに提供する仕事のために、壊れそうな国営企業を維持し続けることを報告書は提案している。
 「CPAは孤立しており、イラク人から切り離されている」とその報告書は述べている。
 「我々がインタビューを行ったCPAの大半の事務所は、イラクの民衆について知らなけれなならないことさえ十分に理解していないことを確認した。」
 以上

参考
※“米文民行政官、イラク復興で「60日計画」発表” (読売)
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20030724-00000302-yom-int

<ツワイサ核流出問題>
・『週間金曜日』(7月18日)の「イラク核汚染された大地」という記事で、豊田直巳氏がツワイサにおけるウラン流出問題を紹介している。イラク中部のツワイサの核施設が略奪され多くの周辺住民が被曝した問題である。1.8トンの低濃縮ウランと約500トンの天然ならびに劣化ウランが保管されていた核施設である。米軍は、厳重な管理を必要とする核施設を全くの無管理状態で放置し、周辺のイラク住民に深刻な被ばく被害を強制しているのである。この問題については、事務局の「イラク戦争劣化ウラン情報 No.4」でも触れている。
・この問題で独自に現地調査を行っているグリーンピースは、「恐るべきレベルの放射能が検出された」ことを発表している。「イエローケーキ」と呼ばれるウラン精鉱の粉末4、5キロが入ったままの混合容器(小型車大の円筒状容器)が周辺集落の野外に放置されているのを発見。また集落内の住宅からは通常よりも1万倍高いレベルの放射能を検出、小学校(児童900人)では通常の3000倍に達したという。
・この問題の調査に当たっていたIAEAは16日、「拡散の見地からすると危険性はない」との報告書をまとめ、安保理に提出した。きわめてお粗末な調査報告であり、事態の揉み消しをはかったと批判されてもしかたのないものである。
・報告書では次のように述べられている。「少なくとも10キログラムのウラン化合物が消失した。」「(略奪され未回収の)約200個の空の保管容器の中に、各々数グラムの天然ウラン化合物が、略奪者によってひっくり返されたとき容器の壁の塵や容器の窪みの底に付着する形で残っていた可能性がある。」「消失したウラン化合物の量と種類は、核拡散の観点からは重要なものではない。」
・IAEAの調査は、もっぱら核拡散の怖れがないかどうかという観点からのもので、住民の被曝に関するものではない。しかも、核爆弾を作れるかどうかしか調査していない。
 しかし、消失したウランの量という点だけで見ても、グリーンピースの報告にある事態からは大きくかけ離れている。また、大量に蓄えられていたはずのコバルト60やセシウム137などのウラン以外の放射性物質について、報告書は何も語っていないことをグリーンピースは指摘している。
・IAEAの調査報告が不問にしていることのもう一つは、今回のウラン流出事件の実態解明であり、なぜ、どのようにして、このような核物質の流出が起こったか、その責任がどこにあるのかを明らかにすることである。ツワイサ施設を警備していたイラク軍が逃亡したあと米軍がこれに代わって施設を管理しなかったというだけでなく、施錠その他の防護施設を破壊しそのまま放置し、容器の略奪が起こってからも放置しつづけた米軍の責任が厳しく追及されなければならない。
 今回のIAEAの調査は、IAEAが緊急の調査チームの派遣を要求し、米国が嫌々ながら認めたものである。しかし、調査はツワイサだけに限定され、期間は2週間に限られた。周辺住民の被害調査は許可されなかった。
 グリーンピースは、IAEAへの全面的な権限の返上と、より全面的で徹底した調査を要求している。
・報告書は、米暫定統治機構に対し「消失した核物質を回収するためにあらゆる努力を行うこと」「イラクの他の地域にある核物質の在庫すべての物理的な防護と安全確保を保証すること」を改めて要求している。あまりにも当たり前で最低限の要求である。しかし、米占領軍とCPAは、それすらまともにやっていない。米軍、CPAは調査への妨害を止め、住民の健康被害を最小限に食い止める取り組みを開始すべきである。IAEAと国連機関は、この問題の徹底した調査を行い、事件の真相と被害の実態を解明すべきである。

※UN news “IAEA says looted Iraqi uranium poses no proliferation threat”(16 July 2003)
http://www.reliefweb.int/w/rwb.nsf/480fa8736b88bbc3c12564f6004c8ad5/
3588a8361975c76c85256d6500575067?OpenDocument

※Yahoo! News "U.N. in Dark About Looted Iraq Dirty Bomb Material"
http://story.news.yahoo.com/news?tmpl=story&u=/nm/20030716/wl_nm/iraq_nuclear_dc_4
※毎日新聞 “原子力センターの周辺集落で高レベル放射能” (4 July 2003)
http://www12.mainichi.co.jp/news/search-news/882332/83g83D838f83C83T-0-1.html
※グリーンピース・ジャパン プレスリリース「住民の安全無視のイラク占領米軍」
http://www.greenpeace.or.jp/press/2003/20030626_html
※「グリーンピ―ス、放射能汚染容器を安全な容器と交換」
http://www.greenpeace.or.jp/press/2003/20030630_html


○記録 イラク各地における戦闘
<26日>
・バグダット西方
 第3歩兵師団。移動中ロケット弾や小火器の攻撃を受ける。米兵1人死亡。2人が負傷。
・バグダット南方
 海兵隊第1遠征師団。手榴弾による攻撃。米兵1人死亡。1人負傷。
・バグダット
 第4歩兵師団。病院を警備中。米兵3人死亡。4人負傷。
<24日>
・モスル
 第101空挺師団。車列にロケット弾攻撃。米兵3人死亡。
<23日>
・モスル近郊
 地雷により、米兵1人死亡。7人が負傷。
・ラマディ
 車列にロケット弾攻撃。米兵1人死亡。3人負傷。
<21日>
・バグダット北部
 米兵1人死亡。3人負傷。イラク人通訳1人死亡。
<22日>
・モスル
 米軍の「掃討作戦」。ウダイ、クサイを含む4人のイラク人死亡。

※<イラク>米兵襲撃され2人死亡、3人が負傷 バグダッド
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20030728-00002022-mai-int
※イラクで米兵3人死亡 病院警備中に襲撃
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20030726-00000171-kyodo-int
※また襲撃、米兵3人死亡=ウダイ氏ら殺害のイラク北部
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20030724-00000867-jij-int
※イラクで米兵2人死亡、待ち伏せ攻撃が相次ぐ
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20030723-00000541-reu-int
※襲撃で米兵11人死傷=「フセイン氏」、また抵抗呼び掛け−イラク
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20030723-00000677-jij-int
※爆弾で襲撃、米兵ら5人死傷=イラク
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20030722-00000248-jij-int


●5月14日〜7月21日

●4月15日〜5月10日

●3月20日〜4月14日