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2004年6月10日発行194号ピースネットニュースより

【あなたの思い・私の思い2】
ピースネットに寄せられた質問・意見への青山からの返信を匿名・一部省略にして掲載させていただきます。
非暴力と武力抵抗について考える

ピースネット・市民平和基金 青山 正

 前回ピースネットに寄せられた質問とそれに対する青山の返信を上記のタイトルで掲載いたところ結構反響がありました。それでぜひ次の質問に答えてほしいという要望があり、ちょっと大変なテーマなのですが、今月からちょうど非暴力についての連続講座を始めることでもあり、またピースネットにとっても一番考えたい問題なので今回は巻頭にこの欄を持ってきて考えてみたいと思います。まずは質問から。

質問(Tさん):私は今すご〜く怒っています。今すぐにでも現地に飛んで兵士になりたい気分です。もちろんイラク人の結婚式にミサイル打ち込んだ米軍と、ガザでデモの隊列にミサイル打ち込んだイスラエル軍にです。
 ここのところ自分の中に暴力の芽が芽生えてきていることを感じます。パレスチナやイラクの民衆のことをネットで知るにつけ、イスラエルやアメリカのことがイヤになってきます。というより、「憎い」と言った方が正しいか。
 それで、いくら非暴力といっても、民族自決のために圧倒的な軍事力に立ち向かう抵抗については、暴力も許されるのじゃないかと思ってしまいます。 たとえば、昔の南米の「解放の神学」で銃を取って闘った神父さんたちのこととか、パレスチナで石を投げるインティファーダとか。
 以前、インドに行ったとき、ドイツから来た若いカップルと仲良くなり、ガンジー博物館に一緒に行きました。彼はアフガニスタン難民の子どもで亡命してドイツに来てました。そこで、チェコスロバキアの亡命移民の子どもである彼女と私が、彼と武器について議論になりました。女二人は武器をこの世からなくせば、争いはなくなるといったのに対し、彼は相手がいつ責めてくるかわからないから、武器は手放しちゃいけないと言いました。自分たちは自分たちの手で守るのだと。最後に彼女は泣いてしまい、「男の人はちっとも平和を作る気がない」と言いました。彼は「祖国がどれぐらいひどい目にあったか、この目で見てきたんだから、甘いことは言っていられない」と言いました。
 その時、私は彼女と一緒に、つたない英語で彼を必死に説得したのに、今はほとんど彼と同じような意見になってきています。どうしてこんなに自分が変わってしまったのか、そのことが驚きです。(あくまでも合法的で非暴力的な手を尽くした最後の手段としての民衆の抵抗であって、軍隊は認められませんが)
 たぶんパレスチナの人たちも、長いこと待ったのだと思います。国際世論が自分たちを助けてくれることを。でも、結局は何もしてくれませんでした。そしてパレスチナ情勢は悪くなる一方です。もうどんなに待っても国際社会は何もしてくれない、ということをわかったから、暴力も含めた抵抗運動に打って出たのではないかと。そして、私だって、パレスチナ人だったら、何もしないで殺されていくよりは同じ死ぬなら銃を取る、といってしまいました。今の私には絶望の縁にある人々の苦しみのほうに心がフォーカスされてしまいます。
 それでも私は頭の中でぐるぐる考えているだけだけど、パレスチナの人たちやイラクの人たちは、実際にその渦中にいるわけで、その人たちから見たら、考えているだけの私なんてへなちょこなのかもしれません。

返信(ピースネット・市民平和基金 青山正):
 すごく難しい問題ですぐには答えは出せないくらい重いテーマですが、非暴力を考える上でとても大事な点だと思うので、ちょっと考えてみたいと思います。
 まず私たちも長年チェチェン戦争というパレスチナやイラク問題と匹敵する悲惨で困難な問題に対面してきました。人口百万人ほどのチェチェンではその1割近くが戦争で犠牲となり、また国を離れて離散していく人も多く、ロシア軍の圧倒的な軍事支配の中で民族の存立すら危ぶまれるという厳しい状況があります。そういう意味ではパレスチナやイラク以上の悲惨な状態にありながら、国際的には忘れ去られたかのように注目もされず、マスコミ報道も少ないのが現状です。そのチェチェンでは圧倒的なロシア軍の攻撃に対し、チェチェンの独立派の人々はゲリラ的に襲撃を加えながら対抗しています。そして時にはロシア各地でのテロ活動も行っています。ただしこれはロシア政府の謀略もありうるので、伝えられるテロの全てがチェチェン人によるとは限りませんが、いずれにせよ自らの命を投げ打ってでもロシアに対する抵抗の姿勢を示し、知られざるチェチェン戦争への関心を高めるためにテロを行っているのは事実です。そしてチェチェン戦争の平和解決を求め、難民への支援を行っている私たちは、言うまでもなくテロを肯定するわけにはいきませんが、抵抗活動を否定することもできません。非常に複雑な思いはありますが、それはチェチェンの人々にとってはもっと切実で複雑な問題です。
 チェチェンの人々もロシアの軍事支配に対する反発は共通していても、それに対する現実の対応はいろいろであり、テロや武装による抵抗についても考え方はまちまちです。独立派の武装勢力の中でもテロに対する評価は分かれており、分裂状況にすらあるのが現実です。それだけにまず私たちの役割としてはとにかく一刻も早くチェチェン戦争の終結を促すためにロシア政府に国際的な圧力を強めることです。さらにその上で絶望的な現実の中で芽生え始めている、非暴力による新たなチェチェンの未来を模索しようという人々に対し、私たちはできるだけの支援をし共に歩んでいきたいと考えています。
 パレスチナでも同様だと思います。相次ぐパレスチナ人による自爆テロはやむにやまれぬものであったとしても、その結果イスラエルの市民が殺されることはあってはならないことだし、結局は憎悪と殺戮の悪循環から抜け出せず、それは双方の民衆にとって悲劇だと思います。時間がかかろうとも共存のための対話をねばり強く求めていくしかないし、それを求める声はパレスチナ・イスラエル双方にあります。その可能性を私たちは信じたいと思います。困難でもパレスチナで非暴力を選択している人々やイスラエルで兵役を拒否する若者や平和を願う市民は確実に存在します。その人々を孤立させず、国際的な世論を高めて非暴力による平和のための対話の実現が今こそ必要なのではないでしょうか。
 単純なことではありませんが、暴力に対し暴力で対抗し続ける側にやはり暴力に対する自制心が欠けてしまう気がします。かつて植民地支配に武力で民族解放闘争を行った第3世界の国々の多くで、独立達成後も内戦や周辺国との戦争に至るケースが相次ぎました。それらはいろいろな要因があるので一概には言えませんが、武器の蔓延や武力優位の考え方、武装勢力の存在、そしてそれらをベースとした権力争いなどに陥ってきました。そうならないためにも暴力に頼らない非暴力による抵抗がありうるし、インドのガンジー翁が示した非暴力主義も別に無抵抗を唱えたわけでもなく、また直接的な非暴力行動だけを重視したわけでもなく(本誌後掲の「ガンジーの視点から現代文明・平和運動を見直す」の報告を参照して下さい。)、経済の自立や人々の意識変革・生活様式の変革など様々な角度と手段による非暴力のあり方を示していたわけで、それは今なお有効であり、まだ実現されていないと思うのです。
 軍事力・戦争というのはまさに巨大な暴力です。しかしそれを作っているのは結局は人間であり、一人一人の心ではないかと思います。憎しみと暴力の連鎖から対話・共存・共生の道へ、困難でもそこにしか私たちの未来はないのではないでしょうか。他国の民衆を暴力で抑圧する側も、結局はその暴力が自らの社会・人間をも蝕んでいると思います。それは今の米国やロシアを見れば明らかです。巨大な暴力の支配に直面して、当然抵抗は必要だし、ありうると思いますが、それでも非暴力を選択する勇気とその重さと可能性に私たちも賭けたいと思います。あきらめずに、それを求めつづけましょう。

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