南京事件に対する人間的想像力の欠落

−水谷尚子にこたえる−

津田 道夫


[筆者前註] 『世界』8月号の水谷論文は、見過ごすことができぬと考え、 関係者と相談、私は私にかんする批判部分について反論することにした。 私は『世界』岡本編集長との打ち合わせ通り、以下の小論を、 去る8月5日5時PMに持参したのであったが、 岡本氏からは8月17日付で「掲載は難しい」との手紙が来たので、 本誌上に発表させていただく。 私は岡本氏の論点を納得した訳ではない。 特に「裁判でたとえ東氏が勝ったとしても、 それで歴史的真実が証明されたことにはならないし、 逆に負けたとしても日本の中国侵略が否定されたことにはなりません」 というようないい方は、一つ一つのたたかいの評価を一般論に解消してしまうもので、 到底納得の行くものではない。 また、岡本氏は、「中国側の認識」の混乱についても言及しているが、 侵略国民の側の知性のあり方として、いかがかと思われる。以下−、 (99・9・13)

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東史郎の『東史郎日記』が、この度、江蘇教育出版社から上梓され、 その出版記念会があって、東をはじめとする7名の訪中団が組織され、 私もその末席に加えてもらった(99年4月)。 かなりのハードスケジュールのなか、 4月11日には北京・中央テレビの「実話実説」というトーク番組みたいなものの 録画撮りがあり4時間余、私も出演、発言をしたが、 それは半分ぐらいに再編集されて4月18、25日の両日、2回に分けて放映された。 これについて、当日、視聴者代表みたいなかたちで出席、 発言もしていた水谷尚子(抗日戦研究者)が『世界』8月号に一文を寄せ、 東や私などの発言を批判している。 東発言や東史郎=南京事件裁判に関する批判的論点については、 東弁護団関係者のほうで反論を用意しているとのこと (『世界』10月号にあり…後注)、私としては、 私の名前をあげての批判の部分を中心に簡単にこたえておく。 ただ、それに先だち、産経新聞(99・6・2)は、第4面の全部をとって、 水谷や一緒に出席していた堀地明が、東の証言を極力貶しめ、私、 津田道夫の発言などにも言及、中傷的発言を繰り返していたのを、 鬼の首でもとったかに扱い、 南京虐殺=まぼろし化工作に最大限利用していた事実は指摘しておく (この産経記事に対する私の反駁については、 障害者の教育権を実現する会機関誌『人権と教育』308号を参照せられたい)。 併せて水谷は右産経記事が「古森義久電として事実経過を伝えている」として、 これを前提してしまっていることをも付言しておく。

そこで早速、水谷発言を引用する。 「津田さんは先程、日本の若者はどうだというような言い方をされましたが、 ああいう風に十把ひとからげに日本人はどうであるとか、 日本の若者はどうであるという言い方をされては非常に困ります。(中略) 今の日本の教科書では、高校の教科書では100%、 中学の教科書でもほとんど南京大虐殺について記載しております。(中略) ですから、ましてや高校生の6割が大学受験するとして、 その中の半分は歴史を受験科目に選択するとしたら、 南京大虐殺ということを若者が知らないはずがない。 ですから全部の若者十把ひとからげに、どうであるというような表現をされることは、 国外に出しては非常に誤解を招くので、こちらで生活している一研究生として(中略) そのような宣伝めいた誤った印象を海外に与えがちな発言は慎んでいただきたい、 云々」(録音テープから。『世界』での引用とは少し違う。)

「宣伝めいた発言」とは、中国側の意に添うた発言ということであろうが、 私を知る読者なら、私はそんな権威主義とは無縁であるのを存じているはずだ。 それに水谷や堀地の発言は、日本・対・中国、 日本人・対・中国人というシェーマに立っているが、私はそういう立場には立たない。 南京事件についていえば、 「まぼろし」派・対・「大虐殺」派という対立で問題を立てている。 水谷の問題の立てかたと私のそれとのちがいは、 水谷文の副題が「日中間に横たわる歴史認識の溝」となっているのにも明らかだ。 そのうえで、水谷が、高校教科書の記述問題をもちだして、 日本の学生の少なくとも3割は南京大虐殺を知っているといった 珍妙な算数を披露している件については、指摘のみにとどめる。

私は南京虐殺について自分の問題として考え行動している 少数の日本人の存在を否定したことはない。 だから、日本人十把ひとからげ論などは水谷にお返ししておく。 そのうえで私は、大量現象としては戦争の記憶、 とくに後ろめたい記憶は認識内面の無意識部分に心理的に抑圧して、 戦後的な日常を生きてきたものが大部分であり、そうした戦後的の中で、 戦後生まれの人びとも、この問題を己れの問題として対象化しえなかったが故にこそ、 今日、大虐殺=まぼろし化キャペーンが巾をきかせる余地が開けていると、 そう述べた。 文部省が止むを得ず規範化した「近隣国条項」にもとづいて、 教科書に数行の記述があるからといって、 それが実際の教科書実体を反映しているなどとは殆ど考えられない。

水谷は堀地明の発言(放映されなかった)をも引用している。 「(前略)中国側が主張する死亡者30万人という数字については根拠不明だから (生徒に)教えていない」と。 これに対して私が 「日本は加害国だから中国が30万と言ったらその数字を信じるしかない」 と答えたと、津田発言を戯画化してみせるのだ。 日本侵略軍の占領その他による混乱、不法虐殺者数のカテゴリーをどうとるかなどで、 被虐殺者数が特定できないとすれば、被害者側の中国が主張する三十万という数字を、 とりあえず当面は出発点として議論する以外にないのではないかと、 加害国民の一員としての当然の矜持を、私は語ったにすぎない。 それを「死亡者30万という数字については根拠不明だ」などというのは、 一方的に被害を受けた中国人の歴史感情にたいして、 人間的想像力が全く欠落した言い分としかいいようがない。 「根拠不明」ということで、実証的事実にのみ固執するなら、結局、南京虐殺は、 数のうえから“藪の中”というところに堕して行かざるをえない。

つまり、小虐殺派・中虐殺派・大虐殺派と、 数のうえでの“真実”を競うところとなるのだ。 私は、たんに数だけが問題なのではなく、その殺し方、 それに伴う掠奪・強姦・強姦=殺害などを総体として問題にしなければならぬと考える。

それだけではない。 被害者数だけを問題にして行くと、 それに伴なう家族破壊・財貨喪失・国土荒廃などまで想像力が及ばなくなり、 南京事件の総体像が遂につかみきれないと、私は考えている。さらにいえば、 被害にあいながらも生き残りえた人々の間に、 どれだけのトラウマが蓄積されたかなど、視野の外に置き去られることにもなる。 私は、討論の中では似た発言をした筈であるが、 どうやら今回放映はされなかったようである。(99・7・29)

 

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