講演・対談
広島の前のヒロシマ 重慶爆撃の問うもの

前田哲男  東京国際大学教授

福田昭典  ノーモア南京の会


ノーモア南京の会公開学習会(2004年3月14日、亀戸文化センター)



福田昭典

 私たちノーモア南京の会は、今年(2004年)の9月、上海・南京へ調査旅行に行き、その時に羅店鎮という村で老人から話を聞きました。私が、「この村で、女性が日本軍に強姦されるということはありませんでしたか」と聞くと、「ありました。お兄さんのお嫁さんが強姦されるのを見ていました」と言うので、私は驚いて「あなたはお兄さんのお嫁さんが強姦されるのを見ていたのですか」と言うと、そんなのは日常茶飯事だったと言われました。本当に日本軍は鬼畜だったのだなあと、つくづく思いました。今日、圧倒的な被害者の証言に、何を聞いてみたらいいのかわからなくなりました。この集会が今日のお二人の証言にどれだけ、応えられるものか分らないけれど、目いっぱいこの対談を盛り上げていきたいと思います。
 どうしても前田さんの話を聞きたいと思ったきっかけは、今年の7月に重慶でアジアサッカーの予選ゲームが中国でありまして、重慶の市民が日本にものすごいブーイングを浴びせ、日本人サポーターの日の丸だとか君が代にものすごい嫌悪感を示したという報道がなされ、日本中に「中国はけしからん」という機運があふれてくるにつけ、つくづく日本人は重慶とのかかわりを知らないのだなあと思いいたしたことに始まります。私もたいして知っているわけではないけれど、前田哲男さんの『戦略爆撃の思想』を読ませてもらって、目からうろこが落ちる思いがしました。「侵略」というのがどういうものなのかがよく分りました。重慶と日本のかかわりを日本人サポーターが知らないというだけならまだしも、サッカーの試合で反日ブーイングが起こった。重慶で試合があって、済南でも北京でも試合があった。その反日ブーイングが、中国の反日教育の証しだというように、自民党の一部の議員の間から展開され始めている。中国で反日教育をやっているからああなるんだと、あの中山文部大臣なんかそういうことを言っています。これはとんでもない話です。こんなことが許されていいわけがない。ですから今回は前田さんに重慶で何があったのか、重慶爆撃とはなんだったのか、そのへんを是非ともお聞きしたいと思います。「戦略爆撃」というのはどういうことで、重慶への爆撃というのは具体的にどのようなものだったのかということをお聞きしたいと思います。

前田哲男

日本が先鞭をつけた「空からの皆殺し」

 私は軍事問題・安全保障問題をやっていますので、ここ何日かは、イラクに対する自衛隊派遣延長問題・昨日決定した防衛計画大綱の改定作業、中期防衛制定計画、そういった日々動いていく防衛政策、自衛隊の海外での活動についていろいろ考えたり書いたり語ったりしていますので、今日いきなり67年前にさかのぼって語ることになって、いささか感覚のバランスを失っている状態です。そういうなかで今のような痛切な証言を聞いて、言葉としてこれからどのようなことを語れるかを考えています。
 今われわれが聞いた証言にあった虐殺、くくって言ってしまえば、農業期型戦争の虐殺に対して、重慶爆撃に代表され、そして東京空襲、広島、長崎、ファルージャと続くいわば「空からの皆殺し」は工業期戦争の虐殺といえるだろうと思います。日中戦争のなかでふたつの虐殺の形態が日本軍によって行われたということを、少し乾いた目からですが、今の証言から改めて確認しました。われわれ日本人はどちらの虐殺にも手を染めた。農業期戦争型の虐殺、工業期戦争型の虐殺。これからお話する虐殺は工業期戦争型の虐殺になります。
 先鞭をつけたのが、われわれ日本軍です。それは、ブーメランのように東京に舞い戻ってきます、大阪に舞い戻ってきます。横浜にも神戸にも、日本の60以上の都市に舞い戻ってきます。それは広島と長崎で頂点に達しましたが、それでも終わりませんでした。朝鮮戦争、ベトナム戦争、湾岸戦争、アフガニスタン攻撃、イラク戦争、バグダッド、ファルージャ、血の滴る歴史のなかに、今なおずっと続いている。その始まりがゲルニカ−1937年の4月16日、そして同じ年の8月15日、長崎の大村航空隊から発進した海軍の攻撃による南京渡洋爆撃−序幕としての南京爆撃があり、その爆撃に支えられて歩兵が南京を襲撃し、攻撃し、攻略し虐殺が行われた。圧倒的に陸の虐殺が印象強いのですが、とかく見落とされがちですが、南京攻略戦争のなかには、前段としては8月15日に始まる空からの爆撃があります。しかし、それは福田さんが言われた「戦略爆撃」という概念とは少し違います。「戦略爆撃」というのは、後で言いますが、空軍力のみを持って敵の攻撃・戦争意図を破壊するという戦法です。ですから、南京は「戦略爆撃」ではありません。陸軍の作戦に協働した陸軍の侵攻作戦を支援する空からの攻撃です。歩兵を前進させるための空からの支援です。しかし、結果として空から無差別の爆撃が行われるわけですから、それで死んでいく人、破壊されていく町、人々にとっては戦術爆撃か戦略爆撃かその違いの意味はないわけで、ペストかコレラかの違いでしかないでしょう。
 いずれにせよ南京から始まりました。世界史的にみれば、同じく4月にナチ・ドイツがスペインの内戦のなかでフランコ軍を支援して、共和政府の側の都市であったバスク地方のゲルニカを無差別爆撃する。これも厳密に言うと、3日後に占領する歩兵の進撃を支援するためですから、後に出てくる重慶爆撃とは違います。重慶には日本の陸軍は一日たりとも一兵たりとも近づきませんでしたし、近づけませんでした。近づけないからこそ、空から皆殺しするという、そこに「戦略爆撃」という新たな20世紀戦争の思想が生まれてくる。そして、その後多用される思想が生まれてくるわけです。
 こういう風にあとづけてくると、南京のなかから都市に対する破壊という思想が始まったかというと、けっして南京が始まりではない、今日の集会のテーマになる歴史の逆回しといいますか、その前に上海があった、上海の市街地に対する日常の戦闘を支援するために空爆が激しく行われる。じゃあ、上海が始まりかというとそうではない、もっと遡る。1931年9月18日に始まった、いわゆる満州事変の中で錦州爆撃というのが行われている。ゲルニカよりずっと前の話しです。

なぜ重慶を爆撃したのか
 私は、『戦略爆撃の思想』というのがどこから始まったのか、どこから空からの皆殺し思想が生まれてきたのか、だれがどのようにして続けてきたのか、そして今どうなっているのかと考えてきたわけです。そのケーススタディとして、それが大きく飛躍したケースとして、中国・四川省、重慶に対する日本航空隊の爆撃を、戦略爆撃のひとつの典型、初期における典型として書きました。資料は防衛庁戦史室、東京・目黒にありますが、そこで公開されているだれでも閲覧できる資料があります。
 私は、1986年に重慶に行ってひと月以上滞在しましたが、そこで空襲体験者をひとりひとり訪ねていきました。むこうの図書館に行き、学者に会い、研究者に会い、ジャーナリストに会ってきました。そして今度はアメリカの資料を調べた。当時重慶にはアメリカの大使館があった、イギリスもソ連も大使館があった。アメリカでは『ライフ』という雑誌がちょうど発刊されていました。写真で戦争を紹介する、重慶爆撃はまさに写真で世界に紹介するという『ライフ』、『タイム』という雑誌が重慶爆撃をたくさん伝えています。しかし、これが全部ではありません。
 重慶爆撃とは何か、それは「戦略爆撃」という言葉に代表される“空からの皆殺し”の思想です。日中戦争の1937年12月13日南京陥落、中国に対する新たな攻撃の形として空爆がありました。日本軍が南京をなぜ攻略したかというと、それは蒋介石の首都が南京だったからです。敵の首都・南京を占領すれば、戦争は終わると軍主導者・政府は考えていた。しかし、南京は陥落しましたが戦争は終わりませんでした。蒋介石は長江(揚子江)を遡って武漢に首都を移しました。そこで日本軍は、徐州作戦を経て、長江を遡って、武漢三鎮(漢陽・武昌・漢口)を落とします、それでも蒋介石は降伏しませんでした。彼は最初からそういう持久戦略をとっています、日本軍を奥地へ奥地へと誘い込みながら日本軍を疲れさせ、中国の広大な大地の中で消耗させるという作戦です。同じ1938年、毛沢東が有名な『持久戦論』という戦術論を書きますが、蒋介石はすでに実践していました。毛沢東は論文で、もちろん毛沢東も書いただけでなく実践していますが、より大規模に実践したのは蒋介石でした。なぜなら、彼は政権の座についているのですから、それを失えば降伏するしかないわけで、降伏せずに日本軍を引き寄せながら武漢へ、そして武漢が危うくなってくると、さらに上流の四川省の重慶に移ります。
 上海、南京で難を逃れた工業施設、様々な人々が重慶へ重慶へと集まっていきます。そこが中国の心臓であり、頭脳にとなるわけです。当時、蒋介石の国民党と毛沢東の共産党は、抗日のために国共合作していましたから、日本に抵抗する民族戦線のための国共合作の時期でしたから、重慶には共産党の指導者が集まりました。周恩来が中国共産党の代表として重慶に駐留しました。董必武、葉剣英、梔n超、後に中国外務大臣になる喬冠華をはじめとして、錚々たる人たちが重慶に集まって来ました。彼らは蒋介石と対峙しながら、しかも一致して日本に抵抗するという複雑な構図の中で抗日を戦うわけです。そこに日本軍が相対することになった。上海から南京へ、南京から武漢までは長江を遡りながら、あるいは平野を三方に分かれて進撃しながら、陸と水運によって、敵を包囲し、攻撃することが出来ました。しかし、武漢より上流の長江は 長江三峡とよく知られているように、幅が狭くなり流れが速くなり、とても船では遡れない。出来ないことはないのですが、海軍力を攻略のために割くことは出来ない。もっとも今は三峡ダムというものが出来て、川幅が広くなり流れが緩やかになりつつありますが、1938年当時はそうではない。では、陸軍はどうか、これも中国の地図を見ればよくわかりますが、武漢より西南の方角には高い山なみがずらっと続いています。「蜀道の難きは青天に上るよりも難し」というように、蜀の桟道というのは、それほど険しくか細い道で、陸軍の部隊が襲撃していくことなどはとても考えられない。武漢までは占領できても、重慶は断念せざるを得なかった。しかし、何としても蒋介石政権を倒さなければならない、その蒋介石政権は国共合作して重慶にこもり、徹底抗戦を全中国に呼びかけている。つぶさなければならないが、陸軍も海軍も通常戦力でつぶせそうにない。そこで「戦略爆撃」という空軍力のみをもって、敵の抗戦意図をつぶす、戦争継続意思を断念させる。つまり「空軍力のみをもって敵を降伏させる」という戦争史上初めての作戦がおこなわれることになりました。それを発明したのがわが日本海軍航空隊でした。いい発明だとは言えませんが、戦争の歴史の中でまさに初めて用いられた。ゲルニカの爆撃は1日1回でしたが、3日後の陸上の戦闘に備えるための補助的なものという言い方も出来ます。日本の重慶爆撃は、陸軍が進んで行って占領するという目的でなしに、純粋に空軍力だけで相手を屈服させるという手法が戦争に取り入れられたという意味で、戦争の歴史の中では突出している。それが「戦略爆撃」という手法であり、南京陥落後の約1年後に行われている。

世界に知られていた重慶爆撃
 臨時首都になるということは当然、各国の大使館が来ている、世界中からジャーナリストが来ていますよね。その後世界にその名前を轟かせる錚々たるジャーナリストが来ています。そのへんの話を少しします。当時、重慶はもともと中国西南地方の大きな都市で、日本で言えば、広島とか熊本とかにあたります、その地方では有力な都市でした。人口は30万人くらいでした。臨時首都となって、上海から南京から北京からもたくさんの人が来ます。復旦大学、精華大学といった大学も占領地区を逃れてやってきました。重慶に劇団・京劇の演優たちが来る、有名な料理店も来る、新聞社も来ると、あっという間に100万を超す人口になりました。現在の重慶は1200万人といいますから、大重慶市と日本が爆撃目標とした当時の重慶市とではスケールがまるで違いますが、東京都と下町3区との違いでしょうか。いずれにしても、30万人くらいのところが、100万人くらいになった、そこに外国の公館・外交施設がくる。日本も総領事館を置いていたのですが、日中戦争が始まった1937年の8月、上海が攻撃された段階で、重慶の日本総領事館は閉鎖されて、総領事以下館員は長江を下って重慶を離れます。居留民も重慶を去り、日本人はいなくなります。正確に言えば、長谷川テル、鹿地亘といった反戦主義者は重慶で活動しますので、厳密にいえば日本人もいたんですが、日本人の社会的な活動はもう禁止された。しかし、自由中国の首都になったわけですから、国共合作政権の首都所在地ですから、外交施設があります。アメリカ、イギリス、フランス、ソ連を初めとして各国の外交施設があります。それから、教会があります。カトリック教会、フランス人の神父がいます。パブテスト教会にはアメリカ人の牧師も活躍しています。中国の人たちの教会もあります。
 スタンダードバキュームという石油会社もあります。そういったところに外国人、アメリカ人・ソ連人・フランス人が来ていました。
 またジャーナリストは、カール・マイダンスというカメラマンは今年亡くなったのですが、彼は戦争だけを撮り続けたわけではないけれど、偉大な戦場写真家として知られています。重慶爆撃の有名な写真をカール・マイダンスが撮っています、『ライフ』のレポーターでした。エドガー・スノーというのは中国革命の報道とは切り離せないほど大きな人ですが、彼も重慶にいました。アグネス・スメドレーは『偉大なる道』という総司令朱徳将軍の長大な伝記を書いた女性のジャーナリストですが、彼女も重慶にいました。ジョン・ハーシー、この人も数年前に亡くなりましたが、『ヒロシマ』という、世界を揺るがした広島の原爆に関する初めての小説を書いたジャーナリスト、あんまり長くはいませんでしたが、この人も重慶にいました。セオドア・ホワイトはジャーナリストであり、学者であり、いろんな面で活動した人ですが、重慶に関してはジャーナリストとして、また、晩年には回顧録で重慶時代のことを書いています。ソ連からも同じようにジャーナリストが来ていました。のちに駐日大使となるフェドレンコは重慶大使館で働いていました。いろんな人が重慶で日本の爆撃を体験し目撃し、それを本国に報告し、世界に記事として発信するわけです。

重慶爆撃の実態
今日の資料の中に、東京朝日新聞の昭和14年5月5日の記事がありますが、「重慶を再度大空襲、敵都大半暗黒と化す」と書いてあります。初期の最大の被害を出したものです。これは5月4日の爆撃ですが、5月3日と5月4日が、一度に一番大きな被害が出た爆撃です。中国ではこれを「ウーサン(5・3)・ウースー(5・4)」というように言います。我々が「8・6」、「8・9」とか「3・10」とか言うのと同じように、重慶の人は「5・3、5・4」という言葉で記憶し教育している。
 重慶爆撃は先ほど言いましたように、1938年の暮れから始まって、1939年の「5・3、5・4」、そして1940年の「101号作戦」というのが半年くらい断続的に続きます。これは長期間に及んでトータルとしては被害が一番大きかった。1日1回の被害としては、「5・3、5・4」の被害が最も大きかったのですが、トータルの被害としては翌年の「101号作戦」が一番大きかった。1941年には「102号作戦」というのが行われました。これを中国の人たちは「疲労爆撃」と言っています。疲れてしまった。その時までに、中国の人たちはかなり本格的な防空洞、防空壕ではなくて、われわれは土を掘った防空壕ですが、中国の人たちは壕でなくて洞、砂岩ですと割りと加工しやすい、砂岩でできた岩盤をくり貫いて地下工場まで作るほど徹底した地下要塞化していくわけですね。これが「5・3、5・4」のころはできていなかったから、大きな被害が出た。1941年には地下の防空洞が完成していた。だから人命の被害はそんなにたくさんは出ないけれど、しかし、ひっきりなしに日本軍は1日中攻撃してきますから−黎明攻撃、昼間攻撃、薄暮攻撃、夜間攻撃−と深夜攻撃がないくらいのもので、とにかくこれをずっと1週間くらい続けるわけです。アメリカ大使が国務省に送った電報の綴りがアメリカの国務省にありますから参照できます。“重慶は1週間ずっと爆撃にさらされ市民は街に出てこられない”というようなことを書いています。中国の人たちはこれを「疲労爆撃」−疲れてしょうがない、死にはしないけれどずっともぐっていなければならないという状況を強いられるわけです。そのように1938年の末に始まって1941年まで続く、最後のほうに1943年にぽつんとありますから、厳密にいいますと1943年までありますけど、これは点みたいなものですから、足掛け3年、延べ2年半、218回というように中国側の記録にはあります。日本側の記録でいってもそう違いはありません。ですが、少し中国側の記録のほうが多いです。日本側は1回の攻撃を1カウントにしますが、中国側は、日本の爆撃機の編隊が重慶の上空を廻って、そこで爆弾を落して戻っていってもう一回来る場合があるんですが、爆弾をうまく落とせなかったり、目標をより正確にしたくて落とさなかった場合、戻ってきてもう一度攻撃する、そういう場合中国側は2回とカウントします。日本側は「攻撃復命書」、「攻撃報告書」で1回としか報告しませんから、日本側の記録は1回でも中国側は戻ってきたときは2回になりますから、そういうのを含めて中国側の報告は218回、死者が11,889人となっていますが、これもまだ分らないことが多い。というのも重慶爆撃というのは中国側でもまだ研究が始まったばかりです。
 私は1986年に中国に行ってかなり長期間取材して、当時の記録を中心に調べましたが、重慶爆撃を調べている中国人の学者というのは、3人しかいませんでした。社会科学院にひとり、西南師範大学という師範大学の女性の研究者がふたり。ふたりの女性研究者は地域研究として重慶爆撃を研究していました、社会科学院の人は経済学です。なぜあれほど大きなことを研究する人が少ないのか不審にお思いでしょうが、それは理由が明白です。80年代まで、蒋介石の首都で行われた英雄的な抗戦を研究するのは大変勇気のいることでした。延安の抗戦の研究ならいくらでもできるけど、重慶は蒋介石がリードしたわけですから、周恩来ももちろん重慶にいましたが、政権の主はもちろん蒋介石でしたから、そこの抗戦記録を英雄的に描くということは、中国では奨励されないというよりも学問として成り立たないのです。
 私は途中にも行っていますが、今年の(2004年)4月にシンポジウムがあって中国に行ってきました。西南師範大学には研究センターがあって、若い学者を含めてたくさんの人が研究に集まって、今日証言されたような幸存者からの聞き取りや記録の収集を中心にやっていました。これまでやってこなかったから基礎的な事をやらなければならない。早くやらないと、幸存者はいなくなってしまう。

 重慶には様々な外交施設、様々な人がいてジャーナリストもたくさんいて、その人たちが世界に向けて写真を、記事を発信した。また蒋介石も周恩来も自分たちの戦いを勝利に導くには国際世論の後ろ盾がなければならないということをしっかり認識していましたから、報道を歓迎するわけですね。蒋介石もいろいろな人に会っていますが、まさに周恩来の方は権力がないわけですから、国際世論を味方にしなければならない。そのためにはジャーナリストと仲良くならなければならない。
 セオドア・ホワイトが自伝のなかで書いていますが、“周恩来はとにかく素晴らしい、私にとっては宝物のようなものだ、そういう人物をあげるとすれば、ジョン・F・ケネディと周恩来は別格だ”といいます。セオドア・ホワイトは、周恩来はケネディと並び、自分の出会った人物の中で特別だと書いています。
 重慶に行くと、「周公館」というのが今でもありますが、そこで周恩来はいろいろな人と会うのですね。そこから周恩来の話が世界に発信される。われわれは大本営発表で、「敵都は暗黒になった」と思っているのですが、そうではなくて、逆に重慶は世界に広まり、また、そこで行われている工業期戦争型虐殺、重慶爆撃をわれわれ日本人が知るのは戦争が終わってからですが、その当時かなりのことがその場から世界に発信されていた、と言っていいと思います。

福田 昭典

戦略のなかった日本の侵略

  付け加えますと、約12,000人が重慶爆撃で死んだといわれているのですけど、正確な資料が今後もっと明らかになっていくこともあると思いますけれども、その中には直接空襲でなくなられた方以外に、1941年6月5日、「大遂道惨案」という、いわば防空洞の中でたくさんの人が、日本軍の飛行機が急襲して、定員をはるかに超える人が防空洞の中に入って5,000人とも1万人とも言われる人々が窒息するという凄まじいことがありましたが、こういう人々の数は死者のなかに入っていないわけです。これを付け加えさせていただきます。  もう時間がないのですが、私が思うことを少し言わせていただきますと、「戦略爆撃」というけれど、日本軍全体の構造のなかでいうと、全然戦略性はないわけですね。「7・7」のあと、上海を占領すれば、中国はもう一撃のもとに、蒋介石政権は屈服するだろうと、非常に甘く見ていたわけです。実態がよく見えていなかった。ところが上海でものすごい抵抗に遭うわけです、それは凄まじい抵抗です。それは先ほど木野村さんが言っていましたけれど、日比野四郎の『ウースンクリーク』という中公文庫の本の中にもでてきます。上海を落しても屈服しない。それでは南京を落せば屈服するだろう、そして南京を凄まじい殺戮の末に占領する。南京を占領しても蒋介石は武漢に逃げるわけです。だから今度は武漢を徹底的に攻撃して占領する。1938年の10月27日、武漢は陥落する。武漢が落ちれば今度は屈服するだろうと思っていた、ところが蒋介石は重慶に行くわけですね。重慶に行くと、先生がさっきいわれましたように、陸軍の部隊が行けない。それで徹底的な爆撃を加えていく。人類の戦争史の中でかつてなかったような爆撃を加える。それを大きな成果だ、成果だというわけです。たしかに1939年の5月3日・4日の爆撃というのは本当に悲惨なものですけど、重慶の市民たちは防空洞を作るわけです。そのなかでまったく屈服しなかった。日本の軍隊というのは 全く先の見えない、その場限りの、ある意味では戦略性のない戦争をやっているとしか見えないわけです。武漢に飛行場を作って重慶を爆撃するわけですけど、こういう重慶への爆撃が日本に撥ね返ってくる。撥ね返ってくるというのは、重慶には大使館があってジャーナリストがたくさんいる。どんなにひどい爆撃をやっているのかを、世界中に発信するわけですね。
 クリア・シェンノートというアメリカの軍人ですが、彼は日本軍が焼夷弾をばんばん落すのをみているわけですね。重慶は木と竹の家が広がっていますけど、それが瞬く間に火が広がって燃えて行く、焼夷弾は効果があるよ、日本の攻撃に焼夷弾を使ったらどうですか、ということを彼はアメリカの空軍の本部に進言するわけです。日本に対する憎しみが世界中から沸きあがってくる。日本が初めて焼夷弾を使って焼き尽くしていく、それが今度は日本に跳ね返ってくる。その辺の構造を少しお話ください。

前田哲男

「戦略爆撃」の特質と現在の戦争

 そんな簡単なものではないですが、“戦略爆撃―都市爆撃―皆殺しの思想”、といいましたけど、「戦略爆撃」という名前をつけたのはアメリカです。日本は「地域爆撃」という名称を使っていました。イギリスも「地域爆撃」という名称を使っています。ドイツは「恐怖爆撃」・「テロル爆撃」という名称を用いていました。名称は違いますが、アメリカが一番二次大戦で勝ったので、「戦略爆撃」という名前が通用していますが、必ずしもそれだけではない。日本軍は「地域爆撃」とか、「要地爆撃」とか「要地攻撃」という名称を軍の命令書のなかでは使っています。第一の特徴は、都市そのものを攻撃対象にするということ、無差別性です。二番目に空軍力のみを用いるということです。陸軍が進んで行くその前をたたくというのではなしに、空軍力のみをもって相手を落す。三番目に敵の戦意を、戦争継続意欲を破壊するわけですから、焼痍兵器が重視される、火事を起し民家を焼き払う。この三つ、“都市そのもの”、“空軍力のみ”、“戦意喪失のための焼夷兵器が主力になる”というのが戦略爆撃の特質です。それはゲルニカにもある程度いえますが、日本軍の重慶爆撃は完全な形でそれが成立します。それはやがてブーメランとして日本の諸都市に跳ね返ってくるということは先ほど申し上げましたが、同時に第二次世界大戦後の地域戦争のなかで、この「戦略爆撃」−「空からの皆殺しの思想」は、いろいろな形で使われている。敵の都市を破壊することで、その国民に厭戦の気分−戦争はいやだという気持ちにさせ、それをしみこませて倒す。前線で敵の軍隊を破壊するだけでなく、同時に敵の首都を征圧(征圧)する。こういう戦法はお気づきでしょうが、アメリカが戦後やってきた地域戦争は悉くといっていいほどこれでしょう。ベトナム戦争における南爆、北爆がそうでしたし、湾岸戦争でも、イラク戦争でも、バグダッドがそうでしょう。あそこではいろいろな破壊爆弾が使われる。さらに音響爆弾のようなもの、いわゆる都市生活・市民生活を破壊するような兵器が多用されるという意味で、重慶爆撃に端を発する戦略爆撃の思想はそこで終わったわけではない、日本の敗北によって完結したのではなしに、第二次世界大戦後の歴史のなかにまだ生き続けている。最新例ではファルージャ、ヨーロッパでは21世紀におけるゲルニカと言われています。ゲルニカがヨーロッパでは知られています。ピカソのゲルニカが有名ですが、“21世紀のゲルニカ−ファルージャ”といわれています。
 われわれはファルージャは“21世紀における南京”だといえると思います。スケールは小さいが動き(働き)は南京です。まず空軍が先行する爆撃が行われました。アメリカは誘導爆弾を使った精密爆撃だというけれど、あとを見て御覧なさい。上からは精密だったんでしょうが、中に入ってみればほとんど無差別の破壊のされ方をしています。もっともどれが空爆で、どれが後から入った戦車によるものか区別は難しいところがありますが、いずれにせよ、まず空からたたいて、南京は初の渡洋爆撃が8月15日に始まって、55回空から攻撃した。そのあと陸から攻撃していく、ファルージャはまさに縮小された南京と言っていいと思います、小型版南京。しかし、目的は同じだけど重慶は違います。重慶には陸軍は入っていません、海兵隊も入っていません。ファルージャは最後は、陸軍と海兵隊が突入して制圧しましたから、そういう意味ではファルージャは南京型ブーメランとしてのファルージャ、と言っていいと思います。しかし、そのように過去完了したことではないということです。記憶は生き続いていることが分りました。今日、幸存者のお話を聞いて痛切な思いで知ることができました。記憶は生き続いている、それだけではなしに戦法もまた、戦いの方法もまた模倣され、受け継がれ、いろんな目的に拡大され、今なお続いている。そのこともまた、私たちはかみしめなければならない。そのイラクに自衛隊を送っていくということはどういうことなのか、さらに1年派遣を延長するというのは一体どういうことなのか、これも歴史から私たちが考えねばならない課題のひとつだろうと思います。

福田昭典

 どうもありがとうございます。最後に前田さんがこの本の中で「核を落す思想」について述べていますが、日本は被爆国で、来年は被爆60年、敗戦60年です。「核を落す思想」というのを、私らはどれほど根源的に乗り越えられるのか、批判することが出来るのか。「核を落す思想」は、まず日本軍が重慶でしたことですね。

前田哲男

 そう思いますね。日本が重慶でしたことは、もちろん核弾頭爆弾ではありませんが、何回か使ったキーワードをもう一度使わせてもらうならば、「空からの皆殺し思想」、空軍力のみをもって、都市そのものを攻撃の対象として、住民の抗戦の意思を破壊することによって勝利を得ようという、その目的から言えば、核爆弾はなかったけれど、核と同じ思想、都市抹殺という意味において、そういう共通性を指摘しうるのではないかというのが私の考えです。
  
福田昭典

「核を落す思想」を被爆国として批判するだけではなくて、加害国として乗り越えていくという問題が、60周年を前にして僕らが問われているのだと思います。
           



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