南京だより

6年前と今と−バスと歩きで南京だより−

(2002年5月19日、南京にて、加藤実)


 地図を片手にふらりふらりと歩けるまでには、地図を両手にしっかりかざしてあれこれ研究し、バスの路線や、さっき通ったところを確認して、ふむふむと自らうなずくなど、いろいろ積み重ねも必要なようです。
 初めて見る長江の大橋を北のほうから渡りきり、なおもしばらくまっすぐ下がってきて平地についたと思ったら、十字路を過ぎてまもなく右にすうっと曲がって停まったところが、むかしイギリス領事館だったという黄色っぽい建物の裏手にある双門楼ホテルでした。1996年の8月下旬に愛徳基金会の夏の集いがここで行われるのに、合肥での語学研修を終えた数十名が送り込まれてきたのでした。
 昼食の後はずっと自由というので、さっそく唯一の日本人仲間の清水さんを引っ張り出して街へ。今さっき大橋からくだってきたかなり広い「虎踞路」(虎が踞る道)に出て右へ行き、まずは地図を買いこまねばと、とっつきの新聞売り小屋で一枚。どれでも来たバスにと乗りこんで、料金をどう払ったかは覚えていないのですが、やがて「草場門」という停留所と古風な建物が目にとまり、三つ目か四つ目でふらりと降りてみました。

[その通りが6年後の今では、高架道路にもなりずっと南へ続いています。市内のあちこちで道を広くしていますが、高架はまだここだけのようです]。

 降りたところの左が河海大学という学校で、門が大きく開いていたのに誘われ、なにくわぬ顔してすうっと入っていったら、そのまま静かなキャンパスをそぞろ歩きできることになり、しばらくしてもう一つの校門を出たところで、さてどちらへ向かうべきか。

 さほど幅広くない、うっそうと茂った並木道が九十度曲がってるように見えてバス路があり、左からきたバスが左へ折れ右からのが右へ曲がるのを眺めていて、乗るか乗らぬか、乗るとしてどちらへ行くか。まあとにかく左へ歩いてみようと、やみ雲にのんびり足を運んでいるうちに、やがて大きなバス道路に出ましたが、なんとなくそれを横切ってまもなく、すぐ裏手の割と細い道を右へ。

[この今歩いてきた道が南北に長く通る「西康路」で、右に向かったとした場合の「漢口西路」の右手一帯が南京師範大学だったとは、4年後にそこの金陵女子学院で働き初めてわかったことでした。そして間もなくその西康路を大きく広げる工事で3番バスが迂回することになり、半年くらいで見違えるほど立派な道路になったのですが、あの6年前のひなびた面影はまったくなくなりました。この西康路が65年前の国際安全区の西側境界線だたようです。]

 その右へ曲がった裏通りを進み始めたところ、なんと右も左も落ち着いた感じの二階建て門構えの高級住宅ばかりが建ち並んでいて、どんなお偉いさん金持ちさんどもが住まってござるんだろうと、清水さんと話ながら眺めて歩き、やがてまた右へ折れてバス通りに戻り、ちょうど来たのに乗り込んで左へ向かったときは、がらがらの無人バスで一人一元投げ込みました。

[1927年から10年間の国民党の首都建設で、このあたりが党や政府の高級幹部らの住宅街に造られたようでして、38年の春に書かれた蒋谷轂の『陥京三月記』にこの裏通りの番地が出てきて、そのころ傀儡政府の買弁どもが接収して住み込んでいた様子が描かれています。]

 そのバスが広い並木道をまっすぐどこまでも前進するのに任せてだいぶ乗り、どうしたわけでか降りたのが「太平門」というところ。前方が工事でだだっ広く何もない感じでしたが、それを右に眺めて進むと左手に大きく湖が開け、さらにその向こう高いところに黒っぽく城壁みたいなのが横並びに連なっていました。その手前に高級マンションみたいのが建ち始めていたのでしょう、それを売り出す事務所がポツンとありながら誰もいなかったようでした。湖を右に見下ろしながらゆるい坂をだいぶ上がったところの門からは先へいかれず、引き返したのですが、だいぶ疲れもしてきて清水さんに申し訳なく、さてそれからどうするかとはじめて見る地図と相談。ここを通るバスでどこどこへ行かれるか、多少焦り気味に眺め回しているうちに、おっ、「中華門」へ一本で行かれる、と大発見した感じで大喜び。

[おそらく「北京西路」から11番バスでまっすぐ東へ「北京東路」をずっと来たらしいのですが、その太平門の一つ手前のそのまた手前あたりの南京外国語学校で、なんと5年後に働くことになったのでした。バス停「太平門」の東南部分がここなわけで、6年間でマンションがぎっしり建ち並び、そこに住む人たちでいっぱい、いうなれば高級団地の一つとなっています。先へ行かれなかった門は玄武湖公園の裏門で、それとは別の近くの門から入場料を払って入ると、昔ながらの城壁の上を一時間ほど西へ散策でき、「鶏鳴寺」の近くの「開放門」から降りられる仕組みになっていて、そこには城壁博物館もあるようです。]

 中華門がどういうのかもまったくしらずに、ただその名につられてそっち行きのに乗ったのでしたが、それがまさに俗に言う正解でした。「これはいい、これはすごい」と清水さんが連発していたのにわたしもまったく同感で、ただ一箇所、65年前に日本軍に壊された跡をわざと残してあるらしいのが、人目でそれとわかるようでした。

[どうすごいかは、それこそ百聞不如一見で、各自の実見によるしかなく、これだけは6年前も今も変わりないことでしょう]。

 だいぶ夕闇も濃くなってくるころ、市内地図の上での南の端から北の端へと、満員バスにもまれて帰ったのでした。


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