“ノーモア南京”という一句

     ― 創刊によせて
                   田中 宏


やゝ唐突だが、「南京」とのいささか個人的な「出会い」から書き始めたい。 まず、私は1937年生まれで、 いわば「南京大虐殺」とともに生きて来たことになる。 しかも、大学で学んだ外語が、 たまたま「中国語」だったことも重なっている。

1960年代は、アジア人留学生の世話団体で仕事をしていたが、 そこで直面した様々な「事件」の一つは、劉彩品さんの在留問題である。 彼女は台湾出身の留学生で東大で天文学を専攻していた。 そのビザの延長問題がおきたのは70年のことだったが、結局、71年7月、 彼女は中国に帰国した。 米のキッシンジャー国務長官が密かに北京を訪れ、 周恩来総理と会談していたことが発表されたのは、丁度その時だった。 その劉彩品さん一家の居住地は、 中国最大の紫金山天文台がある南京となった。

日中復交の年、72年から私は名古屋にある大学に勤務することになった。 名古屋市は89年に「市制百年」を迎えるため、 「世界デザイン博」などのさまざまなイベントが計画された。 そんな中、「名古屋市制百周年を考える市民連絡会議」(百市連) が発足したのは86年のことだった。 87年5月、百市連は「市制百年の前に、 まず南京50年を」という主張を掲げた。 というのも、名古屋市は78年に南京市と、愛知県は80年、 南京が省都である江蘇省と、それぞれ友好提携を結んでいたのである。 しかも、南京攻略戦の最高指揮官松井石根陸軍大将は名古屋出身であり、 南京大虐殺の責任を問われて、東京裁判で絞首刑の判決を受けていた。

百市連の代表水田洋先生と呼びかけ人のひとりである私は、87年10月、 初めて南京の地を訪れ、「南京大虐殺記念館」も訪ね、 そして劉彩品さんとも10数年ぶりに“再会”したのである。 その時の劉さんの話の中の一句、“ノーモア南京”にハッとさせられたのである。 もちろん。“ノーモア広島”との対句として、である。 姉妹提携10周年にあたる88年夏、市民の手で計画した訪中団は、 「ノーモア南京・私達の旅」と名付けられた。

1985年8月、中曽根首相が、 A級戦犯をも祀る靖国神社に「公式」参拝したのは、 南京に「記念館」がオープンしたその日だった。 ワイツゼッカー西独大統領が、 「過去に目を閉ざす者は、現在をも見ることができない」と演説したのは、 皮肉にもその3ヶ月前のことである。

1937年12月13日、日本は“祝南京陥落”に沸きたち、昼は旗行列、 夜は提灯行列がくりひろげられていた。 60年後のこの日、東京では、幸存者・研究者を中国から、 かのラーベ氏のお孫さんをドイツから、それぞれ招き、 日本の研究者・市民が一堂に会した国際シンポジウムが持たれた。 その夜、南京製の提灯を手に「追悼デモ」も行われた。 再び南京大虐殺を演じさせてはならない、 「ノーモア南京」の新しい一頁が刻まれたのである。

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