「人権と教育」月刊32号(2000.5.20)

南京大虐殺の残虐行為

30万人の論証

高興祖


1.南京大虐殺の残虐行為の真相

1937年7月7日、日本軍国主義は盧溝橋で戦争を引き起こし、 中国に対する全面的な侵略戦争を開始した。 北平(北京)と天津を占領したあと、8月13日、さらに上海に向けて侵攻した。 中国軍は勇敢にたたかい、日本侵略軍に深刻な打撃を与えた。 11月5日、日本軍は杭州湾に上陸し、中国軍の後方をつき、 12日中国軍は全面的に西に撤退せざるをえなかった。 日本軍は狂気じみた追撃をおこなった。 12月1日、日本の大本営は南京への進攻命令を出した。 南京守備軍は激烈な抵抗をおこなったが、12月13日、 当時の中国の首都は日本軍によって攻略され占領された。 日本軍は南京で、身に寸鉄をおびない一般市民と武器を捨てた中国軍人 および外地から逃げてきた難民に対して狂気じみた虐殺をおこなった。 南京は空前の災禍を被った。

「南京大虐殺」というこの名称は、 決して日本軍の南京での大虐殺の残虐行為だけを指すのではなく、 日本軍が南京で犯した大虐殺、強姦、強盗、放火、 破壊などの全ての残虐行為を包括したものである。

大量虐殺については、日本軍は2か月の間に、南京の30万人を虐殺した。 下関(シャーカン)を例にとれば、1937年12月13日、 中国侵略日本軍第16師団の佐々木支隊は、午前10時に下関に進攻した。 当時の南京は3方面を包囲され、南京から逃げるためには揚子江を渡るしかなく、 しかし河を渡る船などの手段がなく、 そのために大量の中国の一般市民と兵士が揚子江岸と下関地区に集中していた。 佐々木支隊は一部分が南京の城北の5つの城門を占領し、 こうした中国軍民が城内に引き返してくる道を切断し、 一部分は下関地区と揚子江岸に群がり集まった中国軍民に対して 気が狂ったように射撃をくわえた。

南の方面では、日本軍の第6師団の一部分が水西門と江東門から揚子江沿いに 下関に向かって追撃し殺裁をおこなった。 揚子江の上では、日本海軍の第11戦隊が揚子江をさかのぼり、 流れに沿って河を下ってきた中国の船舶を掃射し、午後2時に下関の揚子江上に到着した。 揚子江の向いでは、日本軍第5師団の国崎支隊が彩石より北の慈湖鎮から揚子江を渡り、 13日の午後4時には浦口に着き、下関は4方面から包囲され、 日本軍はここでこの世のものとは思われぬ程悲惨な大虐殺を繰りひろげたのである。

この虐殺の状況に関しては、佐々木本人が自分の作戦記録の中で書いている。 13日、「我支隊の作戦地域内に遺棄された敵屍は1万数千にのぼり、その外、 装甲車が江上に撃滅したもの並びに各部隊の俘虜を合算すれば、 我支隊のみにて2万以上の敵は解決されているはずである」。

下関の虐殺の後の状況はむごたらしくて見ていられない。 当時、 第6師団の輜重第6聯隊小隊長の高城守一が14日に糧秣を補給しに下関にいったとき、 彼が見た状況は「(揚子江岸の)波打ち際には、 打ち寄せる波にまるで流木のように死体がゆらぎ、 河岸には折り重なった死体が見わたす限り累積していた。 それらのほとんどが南京からの難民のようであり、その数は何千、 何万というおびただしい数に思えた。 南京から逃げ出した民間人、男、女、子供に対し、機関銃、小銃によって無差別な掃射、 銃撃がなされ、大殺戮がくり拡げられたことを、死骸の状況が生々しく物語っていた。 道筋に延々と連なる死体は銃撃の後、折り重なるようにして倒れている死骸に対して、 重油をまき散らし、火をつけたのであろうか、焼死体となって、民間人か中国軍兵士か、 男性か女性かの区別さえもつかないような状況であった・・・ 私は、これほど悲惨な状況を見たことがない。 大量に殺された跡をまのあたりにして、日本軍は大変なことをしたなと思った。」
これがまさに12月13日の大虐殺の一場面の状況であった。

その他の地区の状況もだいたい同じようなものであった。 例えば当時南京にとどまっていた『ニューヨーク・タイムズ』のダーディンが報道の中で、 「市の南部および西南部から脱出できなかった多くの中国人一般市民が殺された」 と述べている。 南京が占領された後、ダーディンは南市を訪れたが、 彼がみた情況は「中国人の一般市民の死体がいたるところに転がっていた」 「南京の路上には死体が累々としていた。 時には死体を前もって移動してから、自動車で通行することもあった。」

強姦については、当時南京に留まった西欧人たちが組織した 「南京安全区国際委員会」の文献によると、12月16日と17日の2日間だけで、 1000人を超える南京の婦女が強姦された。 当時南京に留まったある外国人居留民が上海の友人にあてた手紙の中で、 「16日早朝、われわれははじめて婦女への強姦が行われていることを聞いた。 私たちが知るところでは、100名の婦女が日本軍に連れ去られ、 その中の7名は金陵大学の図書館から連行された。 家で強姦された婦女は、なおさらその数はわからない。 多くの婦女たちが安全な所をあちこち探し求めた」。 しかし、当時の南京で、どこに安全な地区があろうか。 国際委員会の事務所ですら、日本兵がやはりその獣欲をほしいままにしていたのである。

当時の国際委員会金陵大学教授のベイツの計算によれば、 「強姦事件は少なくとも800件」であり、彼がいうには、 「これは、当然ながら最低限度の推計である。 われわれの職員家族とアメリカ人が住んでいる住宅を含めて金陵大学構内だけでも 100件以上の強姦事件の詳細な記録があるし、約300件の強姦の確実な報告がある」 「実に強姦事件の3分の1は白昼に発生したのである」。

上海の友人にあてた手紙の中で、かれはまた、 日本軍は「どのような婦人でも見かけると公然と強姦した、 反抗した者はただちに殺戮された。 強姦された婦人だけではなく、そばにいた子どもも、日本兵によって刺し殺された。 フランの家(彼の家には150人の避難民がいたが)で日本兵に強姦されたある女性には、 生後4、5か月の赤ん坊がいたが、この赤ん坊が泣き出したところ、 その日本兵はその赤ん坊を窒息死させてしまった。 聖経師資培訓学校(聖書講師養成学校のこと)の収容所にいた娘は17回も強姦された。 あとで我々との交渉の末、 日本側はやっと大きな規模の収容所の入口に衛兵を配置することにした。 しかし、この日本の衛兵そのものも時々収容所に入り込み婦人を強姦した。 毎日毎晩私たちは日本軍による婦女の強姦の報告を受け取り、強姦事件は次々と起こり、 ほとんど筆に書き尽くせない恐怖のどん底にたたきおとされました」。

日本軍の獣欲を満たす行動に対して、 国際委員会は日本軍当局に数百回の報告と抗議をおこなったが、 しかし日本軍当局は少しも耳を貸さず、 依然として部下たちの強姦と虐殺行為を放置していた。

こうした類の事例はきわめて多く、枚挙にいとまがないし、 ここでは原稿に限りがあるので再び例をあげない。 全体の強姦事件の数字については、 南京国際委員会委員長でドイツ・ジーメンス洋行の支配人のラーべが、 「およそ2万人の中国の婦人が強姦された」と言っている。

掠奪、放火、破壊は南京市の3分の1に達した。 とくに城南地区は被害が大きかった。 中華門から新街口に至り、北に向かって鼓楼に進む大通りに沿った主な道、 ほとんどすべての大通りと路地は程度の差こそあれ、みな破壊された。 中華路は南京の有名な繁華街の一つで、綿布や時計、菓子類、 金融などの業種が集まっていたが、この商業の中心もその70%が焼き払われてしまった。 太平路(今の太平南路)の南は夫子廟と接し、北は大行宮と接し、二つの繁華街をかかえ、 南京市のもう一つの商業の中心だった。 この繁華街通りの破壊はさらに深刻で、その90%が破壊されてしまった。

中正路(今の中山南路)は南京全市の中で最も有名な総合的百貨店の中央マーケットがあったが、 日本軍に放火され焼き払われ、後でその馬を飼う場所にされた。 中正路の南に向う白下路近くの一帯はほとんどすべて焼き払われ、その他の主な商業街、 白下路は十数ヵ所にわたって破壊された。 長楽路は中華路から武定橋にいたる一帯がすべて打ち壊された。 大行宮から新街口にいたる部分も破壊され、 幸いにも破壊を逃れた家屋も日本軍と一緒に入城した日本の商人によって占領された。 新街口以北の中山路でも、ある建物は破壊され、 その他の公私の大きな建築物は日本の軍事機関によって占拠された。 健康路旧坊口、黒廊、三山街口、承恩市、奇望街等の場所はすべて完全に焼き払われた。 また長江路、珠江路、中山東路などは全て日本軍によって焼却されてしまった。

破壊がもっともひどかったのは「門東」地区で、中華門の東であり、ここの膺府街、剪子巷、 倉門口など、およそ日本軍の通過したところの高層ビルはことごとく灰燵に帰した。 1034年に建設された(北宋景佐元年、1869年同治8年再建)夫子廟は、 人家が密集しており、多くの有名な建築物と古い老舗があり、南京の最も有名な繁華街である。 日本軍の入城以後、大成殿を中心とした東は龍門街、西は瞻園路、 南は秦淮河南石バイ(土ヘンに貝)街の一帯はすべて大火に包まれ、焼失した。 大成殿と有名な老舗の奇芳閣、六朝居、得月楼等は全て焼き払われた。 現在の夫子廟の古建築群は、 1984年以後南京市人民政府によって一歩一歩再建されていったものである。

下関は1899年に開港場として開かれてから、南京の最もにぎやかな波止場であった。 日本軍が侵入した以後は、旧儀鳳門(興中門)外大通りから恵民橋から鉄路橋までを除いて、 すべて焼き払われて破壊され、下関駅から揚子江が一望のもとに見渡せるほどであった。 日本軍はここに軍用倉庫を建てる予定で、立ち入り禁止地域に指定された。

南京の工業は、日本軍の破壊によってその80%の損失を被った。

商業は、ほとんど大部分の店舗は一つ残らず奪い去られ、商品も運び去られ、 商店と主な商業街は焼き払われ、ほとんど言うに足る商業らしきものは何もなく、 ただ難民が穀物を買う安全区内の米屋と、上海路にある2、3の闇市と露天、 にわかづくりの板囲いの小屋があるだけだった。 後で難民が無理やり難民区から追い出された時、闇市と露天もまた莫愁路に移った。 また大行宮、新街口付近では日本人が数軒の店舗を開いた。

文化教育の方面での損失も極めて大きなものがあった。 例えば南京にはもともと416の公私立中学があり、2万4000人余りの学生がいた。 日本軍が侵入した以後、1938年9月、 2か所の公立中学が学校を始めることができただけであり、学生は319人にすぎなかった。 後で人口が増加し、中学校もしだいに増えてきたが、しかし、1945年日本が降伏した時、 全市でも15か所の中学校があるだけで、学生はわずか5900人にすぎなかった。

2.当時、事件はすぐに全世界に伝えられていた

日本軍が南京を占領したとき、南京に留まったのは、 ニューヨーク・タイムズのダーディン(F. Tillman Durdin )、 シカゴ・デイリー・ニュースのスティール(Archibold T. Steele )、 ロイター社のスミス(L. C. Smith )、 APのマグダニエル(Cyatesm Mcdaniel )の4名の新聞記者と パラマウント映画の撮影技師のメンケン(Arthur Mencken )であり、 彼らは目撃した日本軍の残虐行為をいち早く報道した。 たとえば、12月15日スティールは南京から「日本軍の南京での虐殺、 掠奪」を電報で通信し、 12月19日ニューヨーク・タイムズ上海特派員アベンドは「日本軍、捕虜、一般市民、 女性、子供を殺害」というニュースを打電した。 12月18日以後にニューヨーク・タイムズ記者のダーディンは 漢口から詳細な報道を打電した等々。 日本軍の南京での残虐行為の情報は、次第に世界に伝わっていった。

しかし、この数名の記者はみな12月15日に南京を離れ、 日本軍の残虐行為のすべての過程を見てはいない。 しかし、彼らの目撃した最初の数日の状況だけで十分世間をぞっとさせるものであった。 ニューヨーク・タイムズのダーディンは、 「まるではるか昔の野蛮な時代のできごとのように思われる」と形容して言った。 それでは、すべての過程を目撃した外国人はいたのだろうか? いた。

日本軍の残虐行為期間の始めから終わりまで南京に留まった外国人には、 アメリカ聖公会牧師のマギー(J. G. Magee )、 金陵大学歴史学部教授ベイツ(M. S. Bates )、 金陵大学社会部教授スマイス(L. C. Smythe )、 ドイツ・ジーメンス洋行の支配人ラーべ(John H. D. Rabe )等である。 彼らは南京で国際委員会を組織し、難民区を成立させ、最も危険な時期であっても、 撤退していなかった難民達が身を隠すことのできる場所を提供した。 日本軍の残虐行為のすべての期間をとおして、 彼らは自分の目で目撃した日本軍の残虐行為を記録し、 日本軍当局と日本領事館に報告と抗議を提出した。 これらの文献と彼らが上海にいる家族や友人たちに宛てて日本軍の残虐行為を書いた手紙を、 1938年3月にイギリスのマンチェスター・ガーディアン特派員の ティンパーリー(H. J. Timperley )が編集して本にし、 『戦争とはなにか−−日本軍の中国での暴行』(1)として、 ニューヨークとロンドンで出版した。 中国でも同年の7月に『外国人の目撃した日本軍の暴行』というタイトルで 中国の翻訳本を発行し、日本語訳本も同年に中国で出版された。

1938年1月から2月にかけて、 日本軍の南京での残虐行為に関する報道は全世界にひろく伝えられ、 当時日本の植民地の朝鮮総督の南次郎でさえも、 彼が新聞紙上で日本軍の南京での残虐行為の報道を見たことを、 戦後の極東国際軍事法廷で承認している。

類似の資料は非常にたくさんある。 こうした資料はすべて西側記者、伝教師、学者、 商人が正義と人道的な立場に立っでおこなったニュース、記録、手紙、抗議と報告である。

しかしながら、日本のなにがしかの政界の要人は、 たとえば文部大臣の藤尾正行(1986年)、 国会議員で前運輸大臣の石原慎太郎(1990〜1991年)、 法務大臣の永野茂門(1994年)等は、 かえって南京大虐殺の血の事実を歴史上から抹殺せんと妄想し、 「南京大虐殺は中国人のでっち上げたウソ」であると述べた。 とりわけ石原慎太郎は彼が歴史の事実を顧みずにデタラメを述べ 日本国内外から広範な批判を受けた時、彼はなんと「自民党の政治家に訊ねてみるといい、 ほとんど全ての人がみな『南京大虐殺』のことを信じてはいない」と言った。 まさに驚かされることであるが、もし彼の話が事実であるとすると、大きな問題である。

3.死体の処理と被虐殺人数

日本軍の狂気じみた虐殺で、南京市は一面の死体であふれかえり、交通の妨げになる上に、 不衛生であった。 死体の埋葬は、日本軍当局の強い要求によって、 その証明を出して埋葬人員に発給して安全を保障することで、 やっと中国の慈善団体がおこなった。 城外の死体は城内よりもはるかに多かった。 それは多くの中国兵は城外で捕虜になったあと銃殺されたからである。 また、南京は当時、3方面を包囲され、南京から逃げようとすれば、 ただ揚子江を渡るしかなかった。 しかしまた河を渡る手段がなく、そのため大量の中国の兵士と一般市民が揚子江岸に集中し、 彼らは全て虐殺された。 またたとえ域内で捕まえられた青壮年であったとしても、 しばしば城外に護送されて虐殺された。 死体が多い上に加えて天候が暖かくなり腐敗し始め、埋葬は多くがいいかげんにおこなわれ、 近くの塹壕や用水路、窪地を埋めて埋葬し、特に城外ではこのような方法でおこなわれた。

南京の慈善団体の崇善堂が1937年12月26日から 1938年5月1日までに埋葬した死体は、城内では7549体、 城外での埋葬は10万4718体で、合計11万2266体になる。 中国第2歴史档案館でわれわれは1938年2月の崇善堂の関係資料を発見し、 彼らが埋葬隊を組織し、自動車を使用して死体を埋葬した事実が証明された。 また、中華門外の兵工廠、雨花台、望江磯、花神廟、普徳寺、 水西門外の莫愁湖等に死体を大量に埋葬した合葬地のあることが裏付けられた。 南京紅卍会は1937年12月22日から1938年5月31日まで死体を埋葬し、 城内で1793体、城外で4万2230体、合わせて4万3123体の死体を埋葬した。 この数字は1938年4月16日の『大阪朝日新聞』の「北支版」に載った 林田特派員の報道と完全に一致している。

さらにまた、中国赤十字南京分会が2万2371体を埋葬、 日本の傀儡南京市長高冠吾が無主孤魂死体を3000体余り合葬し、 南京の上新河に住んでいた湖南の材木商盛世征等が費用を出して人夫を雇い2万8000体を埋葬、 市民のゼイ(草カンムリに内)芳縁が7000体を埋葬しているなど、 全部で合わせると埋葬死体は22万体を数える。

これと同時に、日本軍はまた部隊を出動させ、大量に死体を処分し、 あるいは揚子江に投げ込み、あるいは死体にガソリンをかけて放火し焼き払った。 こうした類の資料は非常に多く、その中で規摸が最も大きく、 焼き捨てた死体の最も多いのが 1954年の元日本軍中佐太田寿男が撫順戦犯管理所で書いた次のような申し開きである。

日本軍の南京攻略戦の時、彼は南京碇泊場司令部の少佐部員であった。 1937年12月16日、彼は死体処理の命令を受けた。 その司令部は運輸兵を800名選抜し、トラックを配備し、船舶で死体を運送した。 太田と安達少佐はそれぞれ400名を率いて、太田が処理したのが1万9000体、 安達が処理したのが8万1000体であった。 彼の推測ではその他の部隊の処理したのが約5万体あり、あわせて15万体の死体を処理した。 その中には重傷で未だ完全には息が絶えていない者もあったが、 カギ状の棒でその頭と心臓部を突き刺し、完全に息を絶った後搬送した。 現在中国にある档案(重要保存資料)の中から、 われわれはその碇泊場司令部が1937年12月16日から 死体の処分をおこなった傍証を発見し、その資料は死体の処分について、 軍隊が出動しただけではなく、また傀儡政権の組織を利用し、 時間もずっと12月下旬まで続いたことを明らかにしている。

先に述べた各慈善団体の埋葬死体の数字と日本軍による死体処分の数字を総合的に考えてみると、 その間に出てくることがありうる重複を差し引いても、 1947年中国戦犯裁判軍事法廷がこの事件の判決の中で認定した 「被害総数30万人以上」という数字は肯定できるものであり、根拠のあるものである。

4.国際法廷と中国法廷の判決

日本軍国主義の南京大虐殺の残虐行為は、国際法に重大に違反している。 戦後、 極東国際軍事法廷と中国戦犯裁判軍事法廷は直ちにこの事件について裁判をおこなった。 国際法廷の裁判の中で、 当時南京にとどまり国際赤十字会の会長をつとめたアメリカの牧師マギー、 南京安全区国際委員会の委員で金陵大学教授のベイツ、 鼓楼病院の医師ウィルソン(Robert O. Wilson )、 国際委員会総幹事のフィッチ(George A. Fitch )、 金陵女子文理学院舎監の陳瑞芳女史、 死体埋葬の責任者だった元中国慈善団体紅卍字会会長の許伝音博士などが出廷し、 日本軍の残虐行為について証言した。

中国の幸いにも死を免れた被害者の伍長徳、尚徳義、梁廷芳、 陳福宝等も出廷して証言をおこない、自らの受けた被害の事実を語った。 裁判の結果は、「日本軍占領後の最初の6週間で、 南京及びその付近で虐殺された一般市民と捕虜は、総数は20万人以上に達していた・・・ この数字には、日本軍によって焼かれた死体、 揚子江へ投棄されたりその他の方法で処理された死体は含まれていない」 「南京が占領された後1か月間に発生した強姦事件は2万件前後にのぼる」 「被害者であろうと、彼女を守ろうとした家族であろうと、 ただ少しでも抵抗・拒否をしようものなら、殺害という刑に処せられた。 南京市内全域で、少女であろうと老婆であるとを問わず、多くの者が汚された。 この強姦事件のうち、多くのものが変態的な錯乱した性行為であった。 多くの婦人が強姦後さらに殺害され、その死体は切り刻まれた」 「日本兵は一般市民に対し、自らの欲するあらゆる物の掠奪を始めた・・・ 価値のあるものが何も見つからないと、これを射殺した。 非常に多くの住宅や商店が侵入され掠奪された。 掠奪された物資はトラックで運び去られた。 日本兵は店舗や倉庫を掠奪した後、これらに放火したことがたびたびあった・・・ 市の商業区の一区画一区画と相次いで焼き払われた。 なんら理由らしいものもないのに、一般市民の住宅を兵は焼き払った。 このような放火は、数日後になると、一貫した計画に従っているように思われ6週間も続いた。 こうして全市の約3分の1が破壊された」とはっきりと認めた。

城外の地区については、判決書では 「南京から200中国里(約66マイル)以内のすべての部落は、 だいたい同じような状態にあった」と述べている。 このため、被告人の1人の元中支那方面軍司令官の松井石根は責任を問われ、 絞首刑が言い渡された。

中国戦犯裁判軍事法廷も自らその場に立ちのぞみ、 幸運にも死を免れた証人1250余人を調査したが、 彼らはみな血の涙が点々とついている証言を提供した。 また、当時死体埋葬を中心になって行った慈善団体の責任者の具体的な証明と 当時の死体埋葬の統計表、 さらに傀儡南京市長の高冠吾が3000余りの無主孤魂の死体を 合葬したところに立てられた碑文を手に入れた。 そして、それぞれの合葬された場所にそって5か所の塚を発掘し、 被害者の死骸や頭など数千体を発掘し、法医学で、刀で叩き割ったり、弾が当たったり、 あるいは鈍器で殴られた傷跡がたくさんあることが明らかになり、 鑑定書に記入され証拠とされた。 さらにまた、当時の日本軍が戦の手柄をひけらかすために、 自分で撮影した虐殺の写真15枚と実地で撮影された皆殺しの映画も、 中国軍の勝利の後差し押さえて没収し、裏付けの証拠とした。

法廷は当時の中立国の外国人が組織した国際委員会の『南京安全区档案』に列挙してある 日本軍の暴行、外国人記者のティンパリーが書いた『外国人の目撃した日本軍の暴行』(2) および当時南京防衛戦に参加した中国軍営長の郭岐が書いた 『陥都血涙録』(3)を複写して突き合わせ、 それぞれの記載されていることがことごとく一致していることを発見した。 当時南京に留まったアメリカの教授のベイツとスミスも 自分の目撃した実状に基づいて出廷し宣誓し証言した。 このようにして出された結論は、 「南京を連合攻撃した日本軍の各将校が野放しの兵士と共同して、手分けして虐殺、強姦、 掠奪、財産破壊をおこなった事実は、すでに衆人の証明する確かな事実であり、 隠蔽することは不可能である」。 集団虐殺された者の総計は「19万人以上」で、 分散して虐殺された者は「15万人以上」にのぼり、 「被害総計は30数万人」であるとした。

ここで注意しなければならないのは、中国法廷が言っているのは「被害総数」であるが、 国際法廷の判決では「この数字には、日本軍によって焼かれた死体、 揚子江へ投棄されたりその他の方法で処理された死体は含まれてはいない」 と明確に指摘していることである。

5.次々と新しい証拠が発見される

極東国際軍事法廷と中国法廷裁判以後、今日に至るまで、 日本軍の南京での残虐行為に関する資料は次から次へと発見されている。 たとえば、1984年南京市が、当時まだ健在な幸存者、 目撃者の1700人の調査をおこない、その中の600人の証言を整理して出版した。 これと当時に、南京で大量虐殺した第16師団長の中島今朝吾の陣中日記が日本で発見された。 彼は日記の中で「大体捕虜ハセヌ方針ナレバ、 片端ヨリ之ヲ片付クルコトトナシタレ共・・・」と書いている。 その日記の統計によれば、ただ12月13日のこの1日だけで、 彼のこの師団は2万余人の虐殺をおこなっている。 日記の中で言っている「捕虜ハセヌ方針ナレバ」とは、当然中島師団長の独断専行ではなく、 上海派遣軍司令官の命令である。 また、元日本軍の将兵と下級兵士の東史郎氏なども 自分で南京の戦場で書いた手記や日記を公開しており、彼らはみな、 自分自らの体験で南京大虐殺の真実の情況を説明している。

90年代になると、ドイツ連邦公文書館ポツダム支所で、 元ドイツ駐南京大使館の外交文書が発見され、その中に南京大虐殺に関する記述があり、 約200ページのものである。 ドイツの外交官ローゼン(Georg Rosen )が本国政府にあてた報告書の中に 次のようなことが書いてあった。 1937年12月24日、彼が下関から乗船し上海へ発つとき、 南京の郊外で「山のように積み重ねられた、一般市民の装いの人たちの死体」を見た。 次の年の3月8日、 彼はまた「郊外の下関港には大量虐殺に由来する約3万の死体が流れ着いた」のを見た。

続いて1991年、ニューヨークで当時南京に留まっていたマギー牧師が 日本軍の耳目を避けて撮影した日本軍の暴行記録フィルムが発見された。 約30分余りの長さのもので、それは今までに残されている唯一の生の動く画像である。

さらにまた、 当時金陵女子文理学院校長のヴォートリン(Minnie Vautrin )女史の日記(4)、 鼓楼病院のウィルソン医師の日記、 南京安金区国際委員会総幹事のフィッチの日記が発見された。 アメリカのイエール大学神学院図書館でまた、ベイツ文献(Bates' Papers )が発見された。 1996年12月また、ラーべの孫娘のラインハルト夫人によって、 元安金区国際委員会委員長でジーメンス洋行の支配人であったラーべの日記が公開された(5)。 全部で2千余ページにのぼり、彼らが自分の眼で目撃した日本軍の南京での虐殺、放火、 強姦、掠奪等の残虐行為が記述してある。

また、満鉄の公文書の中から関係資料が発見され、その中の埋葬死体の数字が、 南京慈善団体の紅卍学会が埋葬した死体の数と一致している。 とりわけ、アメリカで解禁された自本の電報の中から、 日本軍が南京で30万人を虐殺したという記述が発見された。 この電報は日本の外務省が1938年1月17日、日本の駐アメリカ大使館に打電したもので、 発信人は当時の外務大臣の広田弘毅であった。

すべてのこれらの証拠はみな、再度極東国際軍事法廷と中国戦犯裁判軍事法廷の この事件に対する判決の正確さをあらためて実証しているものである、

6.日本軍国主義の計画的な恐怖政策

日本は幕府の時代から軍国主義の伝統を持っていた。 明治維新の後、資本主義を実行するために、「富国強兵」を推し進め、軍国主義路線をとり、 国内に対しては軍事警察統治を実行し、対外的には絶えず侵略戦争を発動した。 彼らは極端に中国人とアジアの他国と民族を蔑視し、 その人民を殺害してもかまわないと考えていた。 戦後、ある日本の下級兵士が彼らの受けた軍国主義教育の後で 生み出された数々の恐るべき精神状態を語ったとき、次のように述べている。 「その頃中国人を虫けらのように思っていた。 我々が受けた教育はこのようなものであった。 虫けらを殺しても、良心の呵責を感じられるであろうか?」

盧溝橋事変が勃発し、日本が全面的な中国侵略戦争を発動して以後、 日本軍中枢は国際法に従って事を進める必要はないことを決定し、また、 「俘虜」の言葉を使わないという方針も決め、この決定をそれぞれの部隊に徹底させた。 日本の著名な学者藤原彰教授は次のように指摘している。 この決定は、 1937年8月5日の陸支密第198号支那駐屯軍参謀長宛陸軍次官通牒の形式で、 その後順次各部隊に伝達された。 この「通知」では、中国に対する侵略は戦争であることを承認していないから、 「『陸戦ノ法規慣例二関スル条約其ノ他交戦法規二関スル諸条約』ノ具体的事項ヲ 悉ク適用シテ行動スルコトハ適当ナラズ」。 また、「日支全面戦ヲ相手側二先ンジテ決心セリト見ラルル如キ言動 (例ヘバ戦利品、俘虜等ノ名称ノ使用〉」などはつとめて避けよと指示している。

その後、8月15日、日本政府は「暴支膺懲」の声明を発表し、 これが事実上の宣戦布告であった。 その方針は、暴力的な手段で中国の抗戦意志を消滅させ、中国軍隊を残滅、 破壊、殺裁することであった。 9月5日、外務大臣の広田弘毅は議会の中で演説し、この方針をはっきりと述べている。 「わが国はこの種の国家に間違いを反省させる(中国を降伏させると読め)ために、 決定的な打撃を与えることを決心した。 日本帝国が取りうべき唯一の道は、中国軍隊に完全に戦闘意志を喪失させ、 先に述べた打撃を与えることである。」

まさにこの方針の指導の下に、「南京攻撃の際」、日本軍は上海派遣軍司令官の名義でもって、 所属各部隊に対して「捕虜をすべて殺してしまえ」という命令を下したのである。

日本が南京を攻略し占領した後の次の日、日本大使館は西側の人士で組織する国際委員会に 「日本陸軍は南京に甚大な打撃を与える決心をした」と漏らしていた、

これらの資料はすべて、中国侵略日本軍の残虐行為を説明している。 それは日本軍国主義の計画的な恐怖政策に他ならない。 そうでなければこのような大規模な残虐行為は実行不可能である。 事件発生時に関東軍参謀であった田中隆吉でさえ次のように言っている。 「停戦後、私は各方面から日本軍の南京付近でおこなった大虐殺の全ての情況を把握した。 そして、如何にしてこうした大規模の大虐殺をおこなったのかという研究を試みた。 そして出てきた結論として、このような大量虐殺は、 もしも軍隊の統一した指揮の下で集団行動をおこなわなければ絶対に不可能なことであり、 そしてこうした集団行動はただ上司の命令に従って やっと実行することができるものであるということを、肯定せざるをえない。」

「極東国際軍事法廷判決書」は指摘している。 「中国の都市と農村の住民に対しでおこなわれた虐殺は、 つまり日本側の言うところの『膺懲』行為である。 こうした行為は日中戦争の中でずっとやむことはなかった。 その中で最悪の例証こそ1937年12月南京の住民に対しでおこなわれた大虐殺である。」 南京は当時の中国の首都であり、 日本軍国主義は「南京に甚大な打撃を与えれば」否応なしに 中国を屈服させることができると考えていた。 しかしながら、殺人、放火、強姦、 掠奪をもってしても中国人民の抗戦意志をうち砕くことはできなかっただけではなく、 反対にさらに中国人民の反抗を引き起こし、 そして最終的に日本軍国主義の徹底的な敗北と降伏へと導いたのである。
                             (1997年7月南京にて)

編集部註
(1)(2)H.J.ティンパーリー編『戦争とは何か−中国における日本軍の暴虐』は、 洞富雄編『日中戦争南京大残虐事件資料集・第2巻』(青木書店)に、 日本語で収録されている。
(3)郭岐『陥都血涙録』は、『南京陥落後の悲劇』の題名で、 南京事件調査研究会編訳『南京事件資料集・2』(青木書店)に収録されている。
(4)『南京事件の日々−−ミニー・ヴォートリンの日記』(大月書店)
(5)ジョン・ラーべ『南京の真実』(講談社)

解説
もとの題は「中国侵略日本軍による南京大虐殺の残虐行為の真相−− 日本軍国主義の計画的な恐怖政策」というのであったが、 本誌への収録にあたり、表題のごとくにした。
中国側は今日、南京大虐殺にあたっての死者数を30万以上としているが、 この高興祖論文はその論証にあてられている。 もっとも私は、死者数30万か20万か、あるいは40万かというふうに数を争うのは、 あまり意味がないように思うのである。 数を争うことで、虐殺、強姦、 強姦=殺害といった一人一人の人問を襲った悲惨が忘れられかねないからである。 この点、「南京大虐殺の死者数は30万か3万かの人数の問題ではない。 日本軍は中国に何をしに来たのか(という問題だ)」 (暘暘「中国人留学生がみた東史郎“南京事件裁判」、 増刊『人権と教育』31号参照)という一中国人留学生の見解に私は与する。
なお高興祖氏は、南京大学歴史系教授を停年退職の後、 いまは南京にある「南京大屠殺史研究会」会長をしている。 また、本日本文は銘心会南京の翻訳によるものである。


「人権と教育」編集部のご厚意により再録させて頂きました。
なお、高興祖氏は2001年1月にお亡くなりになりました。ご冥福をお祈りします。


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