「人権と教育」31号
特集「侵略戦争と罪責」

中国人留学生がみた
東史郎=南京事件裁判

暘 暘(ヤン・ヤン)


1 はじめに

「物事はすべて大小の別なく、自分に少しでも関係があれば、 つい格別に敏感になるものらしい」(魯迅『閑話などにあらず』相浦杲訳、 学習研究社、1984年初版)
だとえば、今年3月号『正論』に掲載された、 作家と称している阿羅健一氏の文章『高裁も退けた「南京大虐殺」のウソ』、 6月2日の『産経新聞』に掲載された記事「東史郎氏は中国で何を語ったか−− 歴史認識の断層露呈」、 および同紙14版「東氏を英雄扱い−−中国の政治的意図明らかに」。 また、『世界』8月号に掲載された、近現代日中関係の若い研究者であり、 現在中国北京の人民大学に留学中の水谷尚子氏の 「私はなぜ東史郎氏に異議を唱えるのか−−日中間に横たわる歴史認識の溝」。
今回の一連の騒動は、身近にこの事件を体験した者として、 やはり衝撃と憤慨を感じざるをえなかった。 人間は、誰でも自分の観察と体験したことを基にして、 是非をはっきりと口に出していうものだ。 私は、一私費留学生ではあるけれどもはっきりと口に出したら、 「通訳を装っているけれども、公安関係の人問なのだろう」(前掲『正論』より)、 あるいは「留学生を扮装しているけれども、中国政府のスパイではないか」と、 陰に陽に誹謗中傷される可能性があると、友人から忠告を受けたが、 私はこれらの悪意に満ちたウソと流言(デマ)に対して、これ以上黙して、 声なき声をきめこんでいるわけにはいかない。
「沈黙よ! 沈黙よ! 沈黙の中に爆発するか、それとも沈黙のなかに滅亡するか」 (魯迅『劉和珍君を記念する』同上)。 私も、何かを語る必要があると思った。

元日本兵東史郎さん(以下、略称東さん)が戦時中作成した日記は、 南京大虐殺を証明する貴重な記録である。 彼は半世紀の沈黙を破り、自ら加害者の一人として、戦争罪責者であると懺悔した。 さらに、 自分の内面に浸透する「自分自身の恥辱」に対する痛切な反省の気持ちを自覚して、 加害の体験の証言と日記の公開にふみきることになった。
隠された歴史を語り、世に問うことによって、彼自身の抑圧した矛盾の精神史の中に、 罪の意識が深く刻印されることになった。
彼は、『わが南京プラトーン−−一召集兵が体験した南京大虐殺』(青木書店、 1996年版)と『東史郎日記』(中国江蘇教育出版社、1999年版)を刊行し、 また、彼が日本と中国各地で自らを戦争の罪人として、 その体験を語り続けているということは、自分の体内に流れる恥辱の血を自覚し、 謝罪の心の発見による、懺悔と反省の気持ちの発露に他ならない。 彼の行動は「徳を以て怨みに報いる」という古い中国の諺からする 贖罪の意識からでたものであり、「鬼」から人間回復への願いの行動である。

本稿は、歴史学的な立場をとるものではなく、私の瞳に写った東史郎であり、 ここ数年間の交流の中で、 私自身が体験したことを踏まえて描いた東史郎の具体像である。

2 私と東史郎さんの出会い

1998年4月、私はアメリカでの一年の遊学を終えて、 前から願っていた漢字文化圏における日中現代詩の表現の違いと 接近点を研究するために、日本の大学院の研究生活に戻った。 6月のある日、東京在住の友人から電話がかかってきた。
「東史郎という人を知っていますか。 彼は従軍日記に基づいて著書『わが南京プラトーン』を出版したのですが、 彼の日記を多量に引用した『隠された聯隊史』(下里正樹著)、 この日記も含む『南京事件京都師団関係資料集』(木坂順一郎他編、共に青木書店) に描かれた虐殺事件について、その実行者である元兵士が原告となり、 これらの行為を否定し、 東さんの日記の記述は名誉毀損にあたるとして賠償を請求した事件があります。 1996年4月、東京地裁は原告側の訴えを認め、東さんらに対して、 名誉毀損の賠償として、50万円を支払うよう命ずる判決を下しました」。
「ああ、そうですか。それが私と何か関係があるの?」
その時は、私は不思議に思っただけだった。
「東史郎氏の従軍日記は、南京大虐殺の事実を伝える基礎的な史料です。 北京の作家出版社は彼の日記、陣中メモなどを翻訳して出版する予定だが、 本人の翻訳同意と、出版承諾書が必要です。 青木書店に電話をかけたが、東さんのところでトラブルが起っているのか、 東さんの住所を教えてくれなかった。 君からもう一度頼んでくれないか」
これが東京の友人からの電話の主な内容だった。
しかし、日本語が上手な友人ができなかったことを私にできるはずがない。 でも、「ダメでもともと」という心境で、青木書店に電話をかけた。 意外に親切に東さんの住所と電話番号を教えてくれた。
そして、東さんのご自宅に直接電話で連絡をした結果、「家に来てください。 私の暮らす丹後半島は日本海に臨んでいて、 風景はとても綺麗ですよ」と東さんは欣然として承諾した。

6月末、花が咲き誇る初夏に、 私は大阪の詩人の友人と一緒に大阪から丹後半島へ向かった。 東さんは峰山駅まで自動車で迎えに来てくれた。 頭髪は真っ白で、黒縁の眼鏡をかけ、 元気いっぱいのおじいちゃんというのが第一印象だ。 86歳とはいえ、自動車を運転する時の動作が敏捷で、しっかりしている人だと思った。
東さんの家に着いてから、私たちが訪問したこの日、 本当はアメリカとカナダを訪問して「平和を語る旅」に参加し、 自らの体験を証言する予定だったけれども、 残念ながらアメリカの司法省から入国を拒否され、実現しなかったことを教えられた。
東さんは、次のような感慨を述べた。
「毎年、たくさんの日本人観光客がアメリカに旅行に行くが、その中で、 かつて戦争犯罪実行者であった旅行者も多いだろう。 彼らは口をつぐんで、沈黙したままで、人道に反する戦争行為を表に出さない。 僕は市民運動の要請に応じ、日記を公開し、体験を証言したが、 かえってアメリカに入国拒否されてしまったようだが、 拒否される理由がどこにあるのか」
私たちは、アメリカの司法省の措置について、 まったく知識がなかったので返答ができなかった。
その後の12月、北京・盧溝橋の抗日記念館で「東史郎訴訟案件と南京大虐殺の真相」 についての記念シンポジウムが行われた時、 ニューヨーク在住の紀念南京大屠殺受難同胞聯合会会長の邵子平氏と逢った。 彼によると、「2、3年ほど前、 何人かの元日本軍人(731部隊関係者)に対して アメリカ司法省が入国拒否の措置をとった。 東さんは自ら3人の中国人を斬殺したことを公表したので、 非人道的行為を行ったことが明らかになったので、 入国拒否の措置をとった」というのが邵氏の分析であった。 邵氏は、1937年当時、国際赤十字会の南京分会委員長であったマギー牧師が、 16ミリカメラで、自らの生命の危険をおして、 極めて秘密裏に日本軍の南京での残虐行為を撮影したフィルムの第一発見者であり、 また、のちに中国とアメリカでベストセラーになった『ザ・レイプ・オブ・ナンキン』 の著者である中国系アメリカ女性アイリス・チャン氏と共に、 当時の国際委員会委員長ラーべ氏の日記を探し出した人でもある。
話が脱線してしまったが、東さんがアメリカに入国拒否されて、 ご自宅にいらしたおかげで、私たちは東さんと巡り逢うチャンスを与えられた。

東さんの家で4時間に渉って、東日記および彼の南京裁判のいきさつを語ってくれた。
東日記、陣中メモ、戦時中天皇からもらった金鵄勲章, 南京城突入の際に使用した弾痕のある戦旗 (日の丸に武運長久・天皇陛下万歳と書かれたもの)も見せてくれた。
私たちは、「軍国主義を再び化膿させないために、戦争の悪の原動力を探求し、 反省し、再び過ちを起こさないために」という東さんの生き方に深く感動した。 『東史郎日記』を南京で出版する予定であることも知らされた。 帰る時に、 東さんは「粉骨精白、南京戦史証言」と書いた色紙を私たちにそれぞれ渡して、 この裁判闘争には絶対勝利したいという気持ちを披瀝された。 筆がなかなか剛健で、がっちりして力が強い。
「白頭の掻(か)きて更に短く,渾(す)べて、 簪(かんざし)に勝(た)えざらんと欲す」 (杜甫『春望』、吉川幸次郎訳『新唐詩選』岩波書店、1968年版)
この言葉は、彼の国への愁い、 闘いへの意志の堅さと相重なっている心境を反映していると思った。
玄関の右側に小さな倉庫があることに気づいて「あれは何ですか」と、 好奇心を抑えきれずに聞いた。
「日本国内、国外からも支援者のお手紙や葉書が届いた。 反対者のもありますよ。見てごらん」
私の足が止まった。 山ほどたくさんだ。 その中の一つの葉書。「東さんの南京裁判を心底より支援いたします。 大変でしょうが、頑張ってください。 私は今年中国を訪れようと思っていますが、その際に南京にも行き、 大虐殺の跡を巡りたいと思っています」。
また、中国、アメリカ、フィリピン・・・・ などたくさんの国々から支援の手紙がたくさん届いている。
一方、「東史郎! お前は売国奴! 早く死ね!!」と、 赤いインクで書かれた威嚇・脅迫の年賀状、手紙もたくさん。
東さんは、すべての手紙に返事を出す習慣がある。 ところが、多くの脅迫手紙には、差出人の名前が書かれていない。 あるいは偽の住所や仮名で出されたものが大半だ。
東さんはこれらの手紙に返事を書いたが、そのまま返送されてきた。 このことからも、真の卑怯者は明らかにわかる。 玄関には、木刀と護身用のスプレーが置かれている。 以前、黒い装甲車が家を取り巻いたり、 家の中に発煙筒が投げ込まれたこともあったからだ。

3私にとっての1998年12月22日(東京高裁判決日)の真実

1998年11月に入ってから、 留学生が300人もいる東京の後楽寮の一留学生から、 メールを通じて在日留学生への「緊急呼びかけ」が発信された。
「留学生のみなさん、 一緒に東史郎さんの南京大虐殺裁判の声援に行きませんか」という長いメールで、 「東さんはなぜ南京大虐殺の証言を行なったのか、 その真実を証言した東さんが反対に訴えられたのはなぜなのか。 現在までの裁判状況、東さんから東京高等裁判所裁判長に提出された陳述書、 ・・・」等、インターネットを通じて日本中の留学生に呼びかけた。 やはり中国人留学生らは無関心、冷静ではいられなかった。 私の友人のメール宛にも毎日数通のメールが入った (私はコンピューターをもっていない)。
「私は、憤りを覚えている」、「私は悲しい!」、 「なぜ東さんらの闘いを傍観しかできないのか」、 「旧日本軍将校のグループはお金もあれば、時問もある。 ないのは良心だけ」・・・・
在日留学生は、自分たちのささやかな力で、東さんらと一緒に闘おうと決心した。 しかし、11月26日、東京高等裁判所が設定した判決言い渡し日が、 裁判長より「判決の日を延期してほしい」という連絡で、 12月22日に変更となった。

12月22日、東京高等裁判所は、 東日記に記載された1937年12月21日の虐殺事件は真実ではないとして、 東氏らを全面敗訴とした。 東裁判の判決の取材のために来日した中国のマスコミは、 次のことに驚愕し憤激を覚えた。 第一は、裁判官は定刻より13分も遅れて出廷したこと。 第二は、判決の言い渡しは簡単すぎたこと。 「控訴は棄却する」とだけ聞こえたが、 もっと耳をすませてその理由を聞こうとしていたところ、 裁判官はすでに法廷から出ていってしまった。 アッという問に「無影無踪(影も形もない、跡形もない)」。
第三は、もっと驚き憤慨したのは、HM氏側の記者会見に、 本人が登場しなかったことである。 HM氏本人が記者会見に出席できない理由がわからない。
開廷の直前、東京高裁810号法廷の前で、 傍聴席の抽選に当たって傍聴することができた私は、 その場でHM氏本人から直接質問された。 「あなたたちは、中国から来ている人ですか」、 私は「そうです。みなさん南京から来ています」と答えた。 HM氏は、一言二言中国語でしゃべった。 「我去過中国好幾次(私は数回に渡って中国へ行ったことがある)」。 HM氏が、まだ中国語を覚えていることに驚いた。

記者会見ではHM氏側代理人高池弁護士だけが壇上にあった。 彼の後ろには「南京虐殺捏造裁判勝利」と書いた横断幕が掲げられている。 「この幕は、多くの中国人の心に深い傷をつけるので、取り外してください」。 南京からわざわざ来日された、カメラマンであり、 『中華英才』の記者でもある周さんは、憤激を抑え、気をおし鎮めて言った。 この横断幕は、 高池法律事務所に住所を置く「南京大虐殺の虚構をただす会」が準備していたものだ。 厳しい抗議にも関わらず、記者会見が終わるまで、取り外さなかった。
「この裁判は、日本側はあくまでも民事裁判であると称しているが、 この幕はどういう意味なのか。 裁判と南京大虐殺との関係はどう考えているのか」と、 中国の女性からの厳しい質問がなされた。
「この訴訟は、南京大虐殺全体を扱っているものではなく、東さんの本の中の、 ある部分がHM氏の名誉毀損にあたるという意味です。 南京大虐殺があったか、なかったかが問われていると言い出したのは、 あなたたち中国側でしょう。違いますか」
高池弁護士は、挑戦的に答えた。
「この幕を取り外してください。中国人に対しての侮辱です」。 中国の記者群が高池代理人の前に迫った。 司法記者クラブの幹事があわてて制止しようとする。
「私たちは、南京大虐殺の現場である南京から来ている南京テレビ局、 江蘇テレビ局の記者です。 高池弁護士とHM氏は南京大虐殺事件についてどう考えていますか。 もう忘れてしまったのですか。 (事件そのものを)認めないのですか」と、中国の記者は自ら名乗って質問をした。
「そういう質問なら、こちらから尋ねます。 南京虐殺の証拠というものがどこにありますか」
「虐殺を起こしたのは日本側です。日本が証拠をあげるべきでしよう」
「いや。(南京大虐殺が)あったというのなら、 そう主張する方が(証拠を)あげるべきではありませんか」
高池代理人と中国記者グルーブとのやりとりが始まった。 今回日本に来ている中国記者グループの中には通訳が2人しかいなかったので、 通訳が問に合わなかった中国の記者が中国語で質問をした。 人間は誰でも、激しい喜怒哀楽をあらわす時、自国の言葉が、 口をついて一番先に出てくるものだ。
高池弁護士は、「南京虐殺についての論争は、私の法律事務所に来なさい。 ここでは訴訟関連の質問にしか答えない」と述べた。

「このビラは、判決文を言い渡す前に用意したものですか」。 ある中国の記者は、 記者会見の前に配布された「本訴訟の審議の経過」をかかげて質問した。 このビラには、 「この勝利判決によって東氏の書籍自体の信用性がないことが 明らかになったということができる。 (略)我々は、一審で述べたことをもう一度繰り返したい。 かねがねマスコミや評論家と称する人たちが旧日本軍の非行を暴く場合、 告発者への一方的な取材だけで、それの真偽も検証せず、 その主張するままを記事にしているのではないか。 本件もその一例ではないか。 『東日記』なるものが、戦場でその書かれた日記であることを大々的に宣伝され、 多くの新聞やテレヴィなどでは、本件訴訟中においても、 我々に対する取材は殆どなく、真実であるかのように報道された。 (略)マスコミの皆さんには虚心坦懐での取材と 公平な両当事者からの取材をお願いしたい。 平成10年12月22日弁護士高池勝彦」(本文は旧漢字・旧仮名遣い)と書いている。
先の質問に、「そうです」と高池弁護士が答える。
「判決文を言い渡す前に、すでに今日の判決結果が分かっていたのですか」。 中国の一記者が、勢い込んで、高池弁護士をたじろがせる。
「そうです」。高池弁護士が答える。 突然、HM氏側の支援者が、「中国人記者のレベルが低い。常識が欠けている。 どうやって日本に入国したの?」と叫んだ。
「けしからん。そういう人身攻撃は止めてほしい」
「どうやって日本に入国したのか。正式に日本の入国管理局のビザを取って入国した」
(侮辱的なヤジに)中国の記者グループは深く憤慨している。
記者会見の終了時問となり、高池弁護士らは、中国の記者グループの、 心底からの憤りの気持ちで、ぴんと張りつめた視線の中を退室した。
退出の際、HM側の支援者の一人の中年の男性が身を乗り出して、私に言った。 「あなたは中国人だ。中国を愛するのは当たり前だ。 私は日本人であり、日本を愛する。お互いの立場が違う。 日中友好のために、握手をしましょう」
私は、手を出さなかった。
12月22日、中国のマスコミの中では中央テレビ局の記者が来なかった。 そして、「通訳を装っているけれども、公安関係の人物」も、一人もいなかった。 これは確信をもって言うことができる。 中国のマスコミと比較して日本のマスコミは穏やかな質問に終始した。
中国では、このような諺がある。 「直言不諱(率直に言って包み隠さない)」。 「理直気壮(理が通っているため意気盛んである)」しかし、 「直言賈禍(直言すると災いを招く)」。

4 私にとっての中央テレビ番組「実話実説」

中国の人気作家でもあり脚本家でもある沙葉新氏はかつて次のように語ったことがある。 「私は中央テレビの『実話実説』という番組が大好きだ。名前の良さがここにある。 『実話実説』こんなにすばらしい名前! 『実話』というのは真実に、偽りなく、 本当のお話をありのままに語る。 『実話』の反対はウソをつく、でたらめ、虚言だ。」 (沙葉新『大人たちのうそ』沙葉新〈読者〉1998年1月)。
東さんは『東史郎日記』(中国語版。江蘇教育出版社)が中国で出版されたのを機に、 再び訪中した。 北京へ着く前、東さんと彼の支援団体は、 中央テレビの超人気番組「実話実説」で 裁判のことを収録される予定であることを全く知らされていなかった。 もちろん彼らは司会者の崔永元氏がどれくらい人気があるのか、 この番組の視聴率が何パーセントであるのかも知らなかった。 その後、この番組は「戦争の記憶」と題して、 1999年4月18日、25日の両日放映された。 上編は東さんと支援者たちの談話。 下編は観衆との討論で構成されている。 前述した水谷尚子氏(日本女子大学大学院在学中、 当時中国人民大学留学中)も観衆の一人として番組に参加し、 東史郎氏に異議を唱えていた。
なお、『産経新聞』によると「北京の日本大使館ではこの『実話実説』をビデオに撮り、 詳しい内容を外務省に報告した。 内容に対しては同大使館は『三権分立の日本の司法判断を政治判断と非難することや、 高裁判決が南京事件自体を否定したと断じることは事実に反し、 日中友好を損なう』と批判している」(1999年6月2日)。

私は、番組内容について解説するつもりはない。 しかし番組に対する誤解もあるようなので、補足的に説明をしておきたい。
今年(99年)7月、私は司会者崔永元氏と番組のプロデューサー2人、 およびこの番組をコーディネートした呉広義氏 (現在中国社会科学院世界経済政治研究所勤務)と一緒に、 中央テレビ局の近くでお茶を飲む機会があった。 この番組は現在、 中国全土では少なくとも一億人が観るということを誇っているとのこと。 以下、崔氏の話をまとめると、崔氏によれば番組「実話実説」の根本的な主旨は、 「実話実説」。 「中国改革開放政策の下で、中央テレビも大胆に内部改革されつつある。 番組の製作面、経費の配分、人事の刷新、企業の再構成等々。 『実話実説』番組のスタッフは平均年齢30代。 番組の内容は中国政府に厳しくチェックされることはない。 中国の長期に渡るプロパガンダとしてのメディアの時代から徹底的に決別したという。 魯迅が語った『忘却の救い主がやがて降臨するだろう』 という予言が現実のものとならないために、この番組を『戦争の記憶』と題した。 番組に出演した一日本人による、『南京大虐殺の死亡者数は30万人というが、 誰が一人ひとり数えたのか』というようなひどい発言については、 当事者を保護するためにカットしたが、もし本当にそのまま放送したならば、 中国人民はどんな行動を起こすかわかりません。 この番組が、より多くの中国と日本の若者に伝えようとしたことは、 日本の侵略戦争を憎むべき歴史として正視し、反省し、 そして両国の本当の友好関係を発展させ、 未来へ向かって日本と中国および世界の平和を維持するため、 絶え間ない努力をしなければなりません」と、語られた。
また、2人のプロデューサーは次のように補足した。 「番組に参加した観衆の中で、『南京大虐殺』の生存者、肉親を日本軍に殺された方、 そして自分の身体にまだ日本軍の刀に刺された傷跡を持つ方が涙を抑えきれず、 感情的になることは理解できます。 私たちも予想しなかったけれども、水谷氏のような学者的な冷静な発言に対して、 強い憤慨を表したのは、虐殺を身を以て体験し、 四苦八苦して生き残った人たちの行動として、十分理解できます」。
呉広義氏は、「この番組が報道された後、水谷氏と2回会いました。 私も人民大学歴史科出身で、彼女の先輩です。 彼女の真実の日中現代史研究のため、 私が持っている中国側の資料をすべて提供します」と言った。
「実話実説」番組が放送されてから、中国全国で大きな反響を呼んだ。 テレビ観衆者から番組制作者宛てに、あるいは直接司会者宛ての手紙が数百通もあった。 その中には、清華大学教授、北京の弁護士、 普通の民衆が番組の感想を書いて東史郎氏への激励の言葉を贈った。 自ら無償で東さんの陣中メモを翻訳したいと申し出る人、 カンパをしたいと申し出る人・・・・もいる。 中には、東さんに対して、反対する人もいる。 「東さんは中国から帰れ。今になっての反省では遅すぎる。 中国人の首を斬りながら、中国人の支持を求めるな! 我々中国人はなめられている」という手紙も1通あった。

5 結び、在日留学生と東史郎さん

ある日、私が大学の図書館で『南京大虐殺と日本人の精神構造』 (津田道夫著、社会評論社、1995年6月版)を読んでいた時のことだった。 同大学の中国人男子留学生は「おい、君、 暇があればもっと自分の専門知識の本を読みなさい。 南京大虐殺事件からもう60年以上経った。 (そんなこと)どうでもいいじゃないの。 今の日本人は、とても優しくて親切だよ」。
彼の専門は中日両国古代文化交流史。 確かに、私たちは普通の私費留学生だ。毎日とても忙しい留学生活を送っている。 学校の勉学、論文だけでめまぐるしく忙しい。 そして、賃金の差が35倍ぐらいの日本で、授業料、家賃、生活費を稼ぐため、 アルバイトもしなければならない。
けれども、普段の生活の中で優しくて親切な日本人が、 なぜあれほどの残虐行為を行うことができたのか。 また、そこにはどのような理由・原因があるのか。 日本人の問では、半世紀前の日中戦争について歴史として理解を深めることを阻む 大きな力が働いているかのような印象を受けている。 このような事実は、 中国と日本の若い世代の者にとって相互理解の弊害となっているように思われる。 私たちは、せっかく日本に来て、たんに日本語、 そして自分の専門知識をマスターして、学位を取得して、 錦を飾って帰国すればいいのか。
「存(そん)する者は旦(しばら)く生を倫(ぬす)むも、 死する者は長(とこし)えに己んぬるかな」(杜甫『石壕吏』、松枝茂夫編、 中国名詩選、岩波文庫、1984年版)。 時が流れ、60年前日本が中国を侵略した痛ましい歴史も流れてしまいそうだ。 私たち若者が歴史に対して漠然としている、さっぱりわからないということは、 現実に対しても不明であるということだ。 私たちの生活経験の不足が反映している。 現実社会への深刻な認識不足を反映している。 大きな憎しみがなければ、大きな愛情も生まれない。

多くの留学生は、忙しい時間の中でも、いろいろな形で東裁判を支援している。 例えばメールを通じて呼びかけたり、 東京高裁の前に傍聴抽選券を得るために長い列に並んだり・・・。
メールには、次のような言葉が送られてきている。
「87歳の高齢で、多くの非難を浴びているにも関わらず、 勇敢に闘っている東史郎さんを見て、 私は無関心でいられる自分の良心を疑わざるを得ない」
「いくら闘っても、何も変わらないじゃないか。そうかもしれない。 しかし、確実に言えるのは、我々が闘いを放棄すれば、 変わるものは一つもないということです。 日本の現行の法律体制では、東さん、我々はまた裁判に負けるかもしれないが、 より多くの人々に、より多くの事実を知ってもらえば、それでよいのではないか」
「我々は力不足かもしれない。人数も少ないかも知れない。 しかし、一人でもよい。 私たち外国人留学生、とくに中国人留学生が東さんの闘いに加わることによって、 この闘いの性質が変わる。 また、この闘いは不屈の我々の決心を表し、 南京大虐殺は虚構であるとする『南京大虐殺=まぼろし派』への『当頭一棒 (あたまごなしにぴしゃりとやる、真っ向からの痛撃を与える)』でもあると思います。 『只見樹木、不見森林(木を見て森を見ず)』、 南京大虐殺の死亡者は30万人か3万人かの人数の問題ではない。 日本軍は中国に何をしに来たのか(という問題だ)」

しかし、留学生の中には「異議」もある。
「東さんは、軍国王義と闘うのならば、まず軍人恩給を放棄しなさい。 それのほうがもっと格好がいい」
「多くの人が東さんのことを論議や支持をする時、 私はかえって一種の悲しさと荒唐無稽を感じている。 東さんを支持することは当然だけれども、人類は懺悔を拒否することができない。 しかし、この種の支持は中国人にとって一種の風刺だと思う。 日本社会が理性不足で、中国人がかえって老鬼兵を支持するということは、 中国人はあまりにも『善良すぎる』『弱すぎる』という証明です。 中国人は、アメリカのように敵を征服する力がないので、 敵の懺悔を期待して満足しているだけ。 弱者は凶悪な敵を懲罰する力がない」
中国人留学生の中でも、この問題に関して論議がある。 私は東さんと知り合ってから、日本国内、中国で、何回も彼の加害証言を聞いた。 東さんは時、場所を問わず、決してその証言が変わることがない。
その証言の中で、私は東さんと論議し、喧嘩になることもある。 というのは、東さんはよく「僕は300万人の元日本軍の中で、 一人で卑怯者たちと闘っている」と言う。 いいえ、彼は決して一人ではない。 私が知っている限り、和歌山県南部川村の本多立太郎さん(85歳)は、 73歳の時から13年問に渡り、戦争体験を各地で語り続けている。
埼玉県在住の倉橋綾子さんのお父様、大沢雄吉さんの遺言は「俺が死んだら、 これを墓石に彫りつけてくれ」というものであった。 大沢さんが亡くなられてから12年後、倉橋さんは父の遺言どおり、 次の言葉を彫り込んだ石碑を、お墓のすぐ横に建立した。
「その問十年、在中国陸軍下級幹部(元憲兵准尉)として天津・北京、山西省、臨汾、 運城、旧満洲、東寧などの憲兵隊に勤務。侵略戦争に参加、 中国人民に対し為したる行為は申し訳なく、只管お詫び申し上げます」
お墓に謝罪文を彫りつけるということは、もっとも勇気がいる。 大沢さんの子孫は、先祖の一人が戦争犯罪人であることを知ることになるからだ。

そして、私が所属している日中友好協会の中でも、 中国の「希望工程」(中国で学校に行けない貧困地域、 貧困の家庭の子どもたちを支援するプロジェクト)にカンパ、 寄贈する元日本兵が少なくない。
東裁判を支える会の人々、弁護団、中国、香港、 フィリピン華僑は一生懸命東さんを応援している。 私は、決して東さん一人で「独胆英雄(非常に大胆勇敢で一人立ちで切り回す人)」 ではないと思う。
私は歴史研究者ではない。 自分の日本語のレベルが及ばないことも重々承知しているが、だが、 南京大虐殺の問題は数字の多寡ではないと思う。 なぜ戦場において、一般住民が世にも凄惨な死に方で死ななければならなかったのか。 この問題点を検証する上で、東日記は、重要な資料の一つになるのは間違いない。 墨で書いた虚言は、所詮、血と涙で書いた事実には変えられない。
日中民衆は、子々孫々に至るまで、 どんなことがあっても再び戦うことがあってはならない。 そのために、私はごく普通の一留学生としての立場から、 より実りのあるものにしたいという考えから以下の2点について意見を中し上げたい。
一つ、日中双方の歴史研究者や教師、 民間人による専門委員会を組織して歴史研究にあたること。
二つ、具体的な南京現地調査の実施。
死者に口なし。しかし、まだ加害者と被害者が生きている。 彼らが健在しているいま、彼らの体験に基づく証言を集めること。 そして、その証言を元に一歩一歩地道な研究に着手すること。 そして、中国側関係資料、日本側関係資料をともに公開し、共有し、 充分に吟味することによって、より正確な歴史事実を把握し、それを礎に、 未来を切り開いていくこと。
東さんは「英雄」ではない。 しかし、彼は「日本は侵略国ではない」と考える人、 侵略戦争を美化する人と比べれば、東さんは「英雄」である。 彼の戦争での罪行を反省し、懺悔する正義の行動は、 世の多くの人々の良識を喚び起こしている。
最後に、魯迅の「かりそめに生きる者は、淡い紅の色の中に、 かすかな希望をかいま見るに違いない。 真の勇者は、さらに奮い立ち前進するだろう」 (魯迅『劉和珍君を記念する』)を想起したい。           (1999年9月5日)
          (中国人留学生)

[編集部註]暘暘氏は中国人留学生で、文学者、詩人でもある。 東史郎=南京事件裁判にかかわった経験をつうじて、 この問題をめぐる日本と中国の関心の落差などにつき、エッセイ風に書いてもらった。 直接・日本語で書いたため、いくらかぎこちないところがあるが、 彼女にとっては外国語なのだから、読者諸君は諒とせられたい。


「人権と教育」編集部のご厚意により再録させて頂きました。


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