父の謝罪の碑と私の課題

倉橋綾子


墓碑 (40kB)

大澤雄吉氏(憲兵時代) (20kB)

大澤雄吉氏(70歳) (15kB)

昨年の秋に、父の墓碑がようやくできあがりました。 高さ1メートル余りの小さなものです。 黒の御影石に中国へのお詫びの気持ちが、きちんと刻まれました。 実家を継いだ甥が腕のたしかな石屋さんにたのんでくれたので、 これからずっとここに立ちつづけることでしょう。 一族の墓が立ち並ぶこの墓地に、 謝罪の碑をたてられる日がくることはないだろうと思っていましたので、 私も夫も感無量でした。
しばらくしてその写真を東史郎さんにお送りしたところ、とても喜ばれ、 居合わせた中国のテレビ局の方々に紹介してくださいました。 それから劉燕子さんが中国の新聞などに記事を書いてくださり、 さらに春には第十四次追悼献植訪中団に参加された野崎忠雄さんが、 南京市人民政府に写真を持参してくださいました。 そして碑の写真が南京大屠殺紀念館に展示されることになりました。 多くの方の熱意で一兵士の謝罪を広く伝えてもらえ、本当に勇気づけられます。
父が亡くなってから12年間の私の課題は碑をたてることともうひとつ、 父の犯した戦争犯罪を実感することでありました。 娘としては非常に辛いことですが、 野田正彰さんのおっしゃるところの「親の影の部分」を直視しなければなりません。 被害者、加害者の証言を聞き、本を読み、 さらに小説を書く中で追求するようになりました。 そして未熟ですがようやく三作目の「苦娑婆の徹三」 で少し達成できたような気がします。 (これを、縁あってNCCキリスト教アジア資料センターが、 「アジア通信」の別冊として3月に発行してくださいました。)

そんなわけでひと息ついた感じですが、問題はこれからなのです。 自分自身をふくめた子供の世代のことです。 親の世代の沈黙にのっかってしまい、 アジアに対する加害の罪の意識をになわないで生きてきた戦後世代の問題です。 あれほどの戦争犯罪を民族全体で忘却するなんてありえないはずのことが、 この国ではおこなわれてきてしまった。実に恐ろしいことです。 そのことが私たちの人間性をいかに歪めてきたかを 戦後世代は広く認識しなければなりません。
ところが目の前には日米のガイドライン問題、 次の戦争が押し寄せようとしているではありませんか。 落ち込むことしきりなのですが、考えてみれば「押し寄せる」ではなく、 私たち自らが「作り出した」のでしょう。 あの戦争にたいする深い反省と謝罪を親の代も子の代も作りだしえなかったからこそ、 次の戦争を許すような時代を招いたわけです。
もはや戦後世代の人間も親の世代のせいにすることはできません。 自らの心に問いかけて、自分はどう生きるのか選択しなかればなりません。 「日本の参戦反対」が頭の上のスローガンでなく 心の内からほとばしり出るものでなければ、 草の根ファシズムの勢力と戦っていけないのではないでしょうか。
つまり私たちは親の世代のなした戦争の罪行を深く知って自分の胸に沈殿させながら、 それをよりどころにして、今進行しつつある戦争をくいとめていかねばなりません。
そして、1人の人間として時代に立ち向かう、 その立ち方を私は東史郎さんに学んでおります。 私の父もきっと生きている時に、自らの戦争犯罪を告白し謝罪したかったのでしょう。 でも父にはそれができなかった。 それでせめて墓に刻んで謝罪の意をあらわそうとしたのだと思います。 それで精一杯だったのでしょう。 ところが今、東さんはさまざまな妨害に会いながらも、 毅然として戦っていらっしゃいます。 自身の南京攻略戦参加の罪行を正面からみつめて、一人の兵士として、 人間としてすっくと立っていらっしゃる。 罪を認めた地点に潔く立っているからこそ、 それを命じた上の者たちの罪の大きさと無責任さが くっきりと浮かび上がってくるのだと思います。
空元気ばかりでしょっちゅう動揺している私も、すっくと背をのばして立ちたい。 自らに問い正した末、一人の人間として立ちたい。その上で連帯を求めたい。 団塊世代とよばれ、 勇ましそうに見えた私の世代はこの半世紀なにを胸の内に紡いできたのかが、 いま問われているのだとおもいます。

父の謝罪

(「ノーモア南京の会」ニュース第2号)」

父のいた石門子への旅

(「ノーモア南京の会」ニュース第8号)」

 

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