不再戦の誓いへ

      稲葉恵子


山西省付近の地図 (敗戦時の第一軍警備態勢)

私は昭和25年中国の山西省の省都であります太原で生を受けました。 敗戦から5年後です。

昭和20年の終戦と同時に、父母が引き上げていましたならば、 私の人生もまた変わっていたでしょうが、 現人神である天皇が世界を統治するために国土を広げ、 中国を日本の支配下に置くための戦争を聖戦と信じ、 天皇のために死することを、最高の道徳とした天皇制軍国主義思想を、 徹底的に教え込まれた父は
「自分たちの力が足りなかった事で 無条件降伏の汚名を着せられた天皇に対して誠に申し訳ない。
今まで天皇の御為に忠誠を尽くして戦って来たのに 敗戦したからといっておめおめと日本に帰れるだろうか。
これからが真に大和民族の優秀さを示し、天皇のために働くときでないか」
と自問自答しながら、中国の領土を再び、日本帝国復興に利用するために、 最後の最後まで戦い、天皇の御心に応えようと残留を決意したわけです。  

当時の中国は毛沢東率いる共産党と蒋介石が率いる国民党との間に 国内戦が始まっており、日本軍が残留するにあたり、 山西省を牛耳っていた国民党司令長官・ 閻錫山との間に複雑な相克関係があったようです。 詳しいことは父の本「白狼の爪跡」を読んで頂きたいのですが、 父は再び中国を日本のために利用しようと、率先して皆に残留を訴え、 結果的に1万6千人もの日本兵と居留民が残留し、 太原が陥落するまでの4年間、解放軍と戦っておりました。

私が7ヶ月の時に解放軍によって父が逮捕され、 戦犯として13年の刑を受けました。

私たちは帰国し、母の深い愛情の元で姉妹3人は成長しました。 中学生の時、中国に抑留されている戦犯の釈放が報じられると マスコミの方が家に取材に来ました。
私はまだ見ぬ想像上の父に会える喜びしかなかったのですが、 上の姉は涙ながらに、
「父は中国で悪いことをしたのだから一生中国で罪を償ってほしい」 と話していたのを思い出します。
当時の私は姉ほど父の罪について深く考えていなかったのでしょう。

13年目にして一家5人の新しい生活が始まった訳です。 この間、色々な事がありましたが、丁度、私も楽しい青春時代に突入したため、 自分の生活をエンジョイするのに忙しく、 父の帰国してからの大変さや過去について、 また公安関係の方にしつこく付きまとわれていたことなど、 薄々は気が付いていたのかも知れませんが、 それほど深く思っておりませんでした。

結婚し、子育てが一段落した6年前、父たち中国帰還者連絡会の方々が、 この会は中国に抑留されていた方々が二度と再び、戦争はしないと誓い合い、 反戦、恒久平和、日中友好を掲げて日夜努力している会なのですが、 中国の旅に行くというので私も父と共に参加しました。

当時の私にはまだ謝罪をするという気持ちがそれほど強くなく、 ただ自分の生を受けた土地を見てみたいという思いだけでした。
人間は生まれた処の空気と水を体で覚えていると言われますが、 とても懐かしい気がしました。

北京から太原へ向かう寝台車では色々な話がでました。 一緒に参加された元軍医さんは、気が重そうに
「もし自分が手がけた人の遺族に会ったらどうしよう。 謝らなければいけないがつらいな」
と話されました。人体実験をされたということです。
またある男性は多くの従軍慰安婦の方に申し訳ないことをしたと 話されていました。 現地妻との間にできた子供と孫が迎えに来ていると 嬉しそうに話された方もおりました。 みんなそれぞれに重い過去をひきづり、深い反省の上に参加されておりました。

終戦後でありながらも、中国人を相手に戦いが行われた牛駝塞では、 三千人近くの中国人兵士が眠る慰霊碑の前で、 父達は一列に並び深々と頭を下げました。
地形が変わるほどの戦いが行われたなんて嘘のような、静けさの中に、 立ち並ぶ墓標の多さに、 死んで行かなければならなかった若者の無念さを感じました。
と同時に、何故こんな遠くの地で私は生を受けたのかを考えた時、 父の存在があったのです。 この時から私は戦争加害者の二世として意識しだしたのだと思います。

帰国してから日中戦争について調べたく、 図書館にある戦争関係の本を手当たりしだい読みあさり、 日本軍による想像を絶するような残虐な行為を知りました。

一緒に旅行に参加したあるジャーナリストの方が、 この方もやはり日中戦争について調べられており、 北京の本屋さんで日本人戦犯の裁判記録を購入し、 父の事が載っているからと貸して下さいました。 5センチ程の厚さで全部中国語で書かれているのですが、 父の処だけを辞書を片手に一字一句訳してみました。

それまで戦争経験者の数多くの手記を読んで、 侵略の残虐性を判ってはおりましても、やはり、普段は温厚な父が、 また私たちには一度もそのような話をしたことが無かった父の過去の行為を知って、 やはり娘として耐えられるものではありませんでした。 訳さなければいけないと思いながらも、筆が進まず、一ヶ月ほど、 埃をかぶった状態が続きました。

平成5年に再び撫順の戦犯管理所に収容されていた方々と、 その家族で中国を訪れる機会を得ました。731部隊の跡地を訪れ、 二階に上がった処に何気なく鞄を置いた台を見ると、 それは拷問に使われた台でした。 この上で何人もの方が亡くなられたのかと思うとぞーとしました。
また全村民3千人が惨殺され、証拠を隠すためにガソリンをまいて焼き、 さらに山を爆破して遺体を覆い隠した平頂山事件の跡地では 累々と横たわる遺骨に日本軍が犯した罪の深さを感じました。
参加した総勢50名は日本人としての自責の念に駆られ、 ただただ深く頭を下げるのみでした。731部隊に直接関わりを持った方が、 ハルピンに向かう寝台車の中で、当時の事が頭をよぎり、 眠られなかったとおっしゃっていました。

しかし、あえて再びこの地を訪れたのは加害者としての責任からの認罪と謝罪、 さらに戦争の残虐性を生き証人として後生に伝え、 不再戦を誓う為だとおっしゃっていました。
なんら戦争に対して反省の色も無く、 中国人を数多く殺害したことを自慢げに暴言を吐く人もまだまだいると聞きます。
しかし父を始め、多くの戦争経験者の過去へのこだわり、 いくら戦争だったから仕方がなかったんだと自分を慰めても、消えない心の傷、 高齢に達した現在も過去の行為に懺悔し続けなければならない 多くの戦争経験者の人生を思うと、彼らもやはり戦争の犠牲者なのです。
軍国主義教育によって他国への侵略を聖戦と信じた教育の恐ろしさを つくづくと感じます。と同時に平和教育が如何に大切か、痛感します。

 幸いにも父は中国の管理所で受けた「罪を憎み人を憎まず」 の人道主義に基づく平和教育のお陰で、中国侵略を聖戦だと信じて天皇の為、 お国の為、さらに家族の為と一生懸命成果をあげる事に努力してきた事が、 結果的には中国人を苦しめ、傷つけ、 不幸にしてきた鬼畜の行為であったと気づき、 自分の犯した罪は永遠に消えることは無いが、二度と再び、 侵略戦争に加担することなく平和を愛し、人類を愛し、 世界平和が訪れるまで反戦平和を一人でも多くの人に訴えることが、 免罪の道であると微力ながら活動しております。
父と共に中国の戦跡を訪ね、軍国主義者だった戦前の父を知り、 帰国してからの平和主義者への変革の父を見てきて、 私も娘として父の意志を継ぎ、共に頑張っていきたいと思っております。

まだまだあの世からお迎えが来ない処をみると、 まだまだ訴えたりないのでしょうし、 亡くなられた方々のお許しがでないのかもしれません。 しかし、80歳ともなりますと、体力にも無理があります。
そこでどうか皆様が今日の父の話を隣近所、友人に話して頂ければ、 それだけで倍の聴衆を前に話したことになります。
もし話すのが苦手ならカンパでもいい。足のある人はビラ入れでもいい。 自分の出来る方法で、 二度と再び人殺しが栄誉とされた時代が来ることの無いように、 戦争という愚かな行為が、 この地球から無くなるよう一歩前進しようではありませんか。

目的に向かって、  ノー・モア・南京

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