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死の影の谷間から
<死の影の谷間から>
ムミア・アブ=ジャマール/著
今井恭平/訳
現代人文社/刊
今井恭平の文章

「金曜日」バッシングは、メディアの自殺行為
    2002年11月22日

「週刊金曜日」による曽我さんのご家族インタビュー記事掲載を支持する



(1)インタビュー記事の掲載を支持する
「週刊金曜日」2002年11月15日号が、曽我ひとみさんの夫と2人の娘さんのインタビュー記事を掲載したことに対し、これを非難する論調が一部のマスコミなどで流され、また拉致被害者家族の会からも、批判がおきていると報じられている。
 フジテレビ、朝日新聞、毎日新聞の3者が、キム・ヘギョンさんのインタビューを行った際にも、非難の声がおこった。だが、今回の「週刊金曜日」による取材と、これを同一視することはできない。
 キム・ヘギョンさんへの取材は、未成年者への心ないインタビューに加え、テレビによる過剰な演出など、報道の姿勢や内容において問題とされるべきものがあった。しかし、キム・ヘギョンさんを取材し、報道したこと自体は、何ら非難すべき事ではない。むしろ、取材しなかったり取材内容を秘匿したとしたら、メディアの役割を放棄する行為として問題とされるべきだったろう。
 メディアの役割は、人々に情報を伝えることであって、価値判断を下すことではない。むしろ、メディア自身が価値判断を先行させ、知らせるべき情報と知らせるべきでない情報を選別するとしたら、その方がむしろ危険なことである。
 北朝鮮側の情報を流すことは、彼らの政治宣伝に利用される、という非難は、じつは日本政府側だけの情報を一方的に流せと要求することに等しく、人々に選別された情報のみを提供することにしかならない。
 この間、帰国した5名の方々の情報に比して、北朝鮮に在住するご家族の動静などの情報が圧倒的に不足している。そうした中で、「週刊金曜日」がご家族の状況を伝えたことは、情報の偏りを正す意味でも、意味のある報道であった。
「週刊金曜日」のこうした報道がバッシングを受けるようでは、メディア全体が、北朝鮮側に取材することや、そこで知り得た情報を報道することに対して萎縮することさえ危惧される。それはまさしくメディアの自殺行為となりかねない。

(2)「北に言わされている」だけなのか?
 北朝鮮にいては「彼らが本当のことを言えるはずがない」という批判がある。だが、曽我さんの夫や娘さんにすれば、母親がとつぜん日本に帰国し、いつまでたっても連絡さえとれない、いつ帰ってくるのかもわからない、という状態が続けば、このままでは一生母親と再会できないのではないかと不安を募らせるのは当然であろう。その意味で、彼らの言葉のすべてが金正日に言わされているもの、としか見ないのもまた、きわめて一面的であろう。この間の拉致問題報道を通じて、北朝鮮当局に対してだけでなく、北朝鮮の一般の人々や、拉致被害者自身およびそのご家族に対してすら、その声に真摯に耳を傾ける前に、「洗脳されている」という一言で片づけてしまうことは、独善主義、ひいては理性なき排外主義に転じていく危険をはらんでいる。彼らがおかれている状況に配慮しつつ、冷静に判断すべき事である。そして、そうした判断をするための前提としても、彼らの声や状況を報道すべきであることは、言うまでもない。
 また、国家の意図を背景にしてしゃべっているのは、北朝鮮の人たちだけではない。メディアは、日本側の情報に対しても、北朝鮮側の情報と同様にその背景や政治的意図に配慮した報道をしているだろうか?北朝鮮側から得られた情報を流すこと自体を非難する一方で、日本政府側の情報が無批判に垂れ流されていないのかをこそ、検証すべきであろう。

(3)「金曜日」への批判方法の自己矛盾
「週刊金曜日」の記事が「おかあさんに会いたい」「妻に帰ってきて欲しい」というご家族の声を伝えたことが、曽我さんの気持ちを乱した、ということが、北朝鮮当局に利用されているという論点と同時に、曽我さんへの配慮のなさとして批判されている。だが、その記事を批判すると称して、同誌のインタビューの一部だけを切り出し、「曽我さんを苦しめた」という部分を何度も繰り返して報道しているのは、自己矛盾ではないのか?金曜日の記事は言うまでもなく活字だが、テレビの一部報道では、それを紹介するにあたって、女声のナレーションで、ことさらにエモーショナルに「おかあさんに帰ってきて欲しい」と繰り返していた。こうした手法こそ、フジテレビのキム・ヘギョンさん報道と同様であり、批判されるべきものであろう。
 また、曽我さんが「私は怒っている」と伝えて欲しい、という報道で、その怒りの対象が「週刊金曜日」であるという部分がすべて伝聞としてしか報道されていないのは、どういう訳なのか?この点で果たして正確に事実が伝えられているのか否かについて、メディアは説明責任を果たしていないように思える。「金曜日」を批判することが自己目的化し、その目的に好都合なように情報が操作されているという疑念をもたざるをえない報道や発言が目につくことも事実である。
 同誌の記事は、取材対象者との適切な距離をおきつつ、冷静に相手の状況を伝達しており、取材や表現の手法として間違いを犯しているとは考えられない。

(4)筑紫哲也氏のニュース23における発言への疑問
「週刊金曜日」編集委員である筑紫哲也氏は、問題の号の発売当日の「ニュース23」の中の多事争論コーナーで、この問題についてコメントした。
 筑紫氏のコメントに対して、私は次の3点の疑問を感じざるを得なかった。
  1. 自分が「週刊金曜日」の編集委員であることを述べず、一般論として語った。
  2. フジテレビ等の報道と「週刊金曜日」の報道を同列に論じた。
  3. 北朝鮮と同じになる、という発言はシンボル操作である。
(3)に関してのみ、補足すれば; 氏は「国の方針に水をさすような報道はすべきでない、となると自由な報道ができなくなり、北朝鮮と同じになる」(要旨)と述べた。なぜことさら「北朝鮮のようになる」などと表現する必要があるのか?われわれは北朝鮮を批判している、という言い訳をしなければ言論活動さえできなくなりつつあるのが、「金曜日」バッシングの示しているものであり、この発言はそれを批判し得ないばかりか、それに迎合しつつ自己正当化をはかることになるのではないか?また、北朝鮮という言葉を抑圧の代名詞とすることはシンボル操作であり、排外主義への氏の無自覚を示していると考える。

 私は、週刊金曜日に寄稿している者の一人として、今回の同誌の記事掲載および、それに対する非難に関し、自分の考えを明らかにする必要があると考えた。また、金曜日バッシングにマスメディアが無批判であったり、自身で荷担するようであれば、それは、自ら報道することへの規制を強める自殺行為であると考える。「個人情報保護法」など、メディアに対する規制や国家権力の介入が強化されようとしている政治情勢の中で、今回の出来事が、メディアを政権の意図に従順な宣伝装置に転落させていく一里塚にさせてはならない。