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死の影の谷間から
<死の影の谷間から>
ムミア・アブ=ジャマール/著
今井恭平/訳
現代人文社/刊
今井恭平の文章

代替刑を批判する

死刑廃止全国合宿での発言  2002年9月21日


以下は、2002年9月21日、死刑廃止全国合宿の初日に、主催者のご厚意により、発言の場を得ましたので、そこでの発言をテープ起こししたものです。
明かな重複や無用な間投詞などは削除しましたが、基本的にしゃべったままのテープ起こしですので、文章として読みづらい部分があることはご容赦ください。


今井恭平と申します。ぼくの話は言われるまでもなく簡潔に終わろうと思っています。今回の合宿は非常に具体的な課題をもっていると思いますので、何より大事なのは同じ目的に向かって、同じ信念をもってみんながすすんでいるという確信と信頼感を獲得することが非常に大事だと思いますので、誰かがマイクを独占すべきではないと思いますので、簡潔に話をしたいと思います。

いま小河原先生のお話しを伺って、二弁の考えていらっしゃる方向などについては、ぼくも非常に共感する部分がありました。

私が言いたいことは一つなんですけれども、ぼく自身はフォーラムとの関わりはそんなに深くなくて、95年からアメリカのムミア・アブ=ジャマールという死刑囚−−これは冤罪事件だというふうに私は思っているんですが−−の支援を始めたときにフォーラムの方達とお話しをさせていただいたり、その後はフォーラムの会議に時たま顔を出すという程度でした、あまりきちんとした活動に関わっているわけではありませんので、この間の内部での論議の過程などについても、承知していない部分も非常に多いのですが、私がずっと疑問に思っていたのは、いわゆる代替刑、終身刑という問題です。これが出てきたあたりから、ぼくは基本的に原則として反対でした。最近またフォーラムの合宿へ向けての会議に出てくる中で、議連案とくに亀井案などについては、当然ながら反対であるということが全体として出ている。これはある意味で当たり前のことだと思うんですが、私は終身刑という言葉よりも、代替刑という言葉に非常にこだわる−−非常に疑問を感じます。つまり、この言葉が出てきたときからぼくは何かおかしいんじゃないか、と思っていました。
つまり死刑を廃止するために代替刑を考えなければならない、これはただ単に死刑の廃止された後の最高刑のことを言っているだけだという言い方もあるんですが、であれば死刑が廃止されれば無期刑が最高刑に自動的になる、というだけの問題であって、何かあらためて代替刑という言葉を使って何を論議するんだろうか、というふうに思いました。

つまり代替という言葉を素直にとれば、死刑という制度がいまあると、それが廃止されるならば、いま死刑という制度が何らかの機能なり効果を社会に対してもたらしていた、それが死刑という制度が廃止されることによって、従来もっていた効果なり何らかの有益なことがなくなってしまうので、それに代わる何かの措置をとらなければならない、というふうに考えられます。しかし、死刑が廃止されることによって何かマイナスなこととは、何がおこるんでしょうか?マイナスの点がおこるのであれば、それに対して何かの代替措置を考える必要があると思いますが、マイナスが生じないのであれば、考える必要はないだろう。私は死刑が廃止されることによって何のマイナスが生じるのかということに関して理解できないので、代替刑という概念に非常に疑問を感じます。

また、代替という概念が出てくることの背景にあるのは、明らかに、いわゆる世論などで、仮釈放を許さない終身刑があれば、死刑がなくてもいいという世論があるんだ、ということがつねに一つの理由付けにされてきた。それが代替という概念を、あえて認めるとすればそういうことだと思います。
しかし私たちは、死刑によって、たとえば被害者の方達の被害感情が慰撫されるというようなこと、そういう考え方自体を批判してきたのではなかったでしょうか?そういう概念を失ったときに、ぼくらは死刑廃止に向けてのぼくたち自身の論理を一つ明け渡すことになるのではないのか、その意味でぼくは代替という概念を−−終身刑なのか、仮釈放を許す、許さないと言う以前に−−代替という概念をぼくは認めることが、死刑廃止運動の一歩後退と言うよりは−−一歩後退なら戦術的なこともありえます−−一歩後退ではなく質変だと思います。
という意味において代替という概念を考え直すことがこの合宿において必要ではないか、と一つはご提案したいと思います。

もう一つ、できるだけ具体的なことを提起したいと思いましたので、この間、モラトリアム−−死刑執行の一時停止−−ということが出されてきています。私は、たしかに即座に死刑廃止という法案が通るか通らないかということは非常にむずかしいと思うんですね。というのは、いま、死刑廃止に向けてそうした法案が通ったりするチャンスなんだというような言い方が若干あるんですが、はたしてぼくはそうなのか、ということは非常に疑問でして−−終身刑導入にとっては非常にチャンスですよね、いまは−−つまり厳罰化ですとか、そういう法案を通すためには非常にいまはチャンスだろうと思います。それは言うまでもなく9−11のテロ−−テロという言葉はぼくは使わないんですけど−−9−11事件あるいは北朝鮮のいわゆる拉致問題もそうですが、それがマスメディアによってどのように扱われているか、あるいは国民感情に何を呼び起こしているか、それを政治家がどう利用しようとしているか−−小泉政権はすごくドジして今回の拉致問題でも何かしら国民の反撥をかっているように見えますが、ぼくは必ずしも小泉政権のドジだとは思ってなくて、それによって醸し出される排外主義ですとか、テロ国家に対する強攻策をとれとか、そういうことというのは、彼らにとっては非常にありがたい国民感情の鼓舞でありまして、けっして彼らはドジをしているわけだとは思われません。
それは、ブッシュ政権のやっていることに関してもそうですね。ブッシュ政権は理性を失っていると一方で言う人がいますが、ぼくが支援しているムミア・アブ=ジャマール、彼はジャーナリストでして、彼はブッシュ政権のいわゆる反テロ戦争に対する批判の文章などもたくさん書いているですけれど、その中でムミアが言っていることがあって、ブッシュは理性を失っているように見えるけれど、それは敵に対して、アメリカは理性を失って何をするかわからないと思わせること自体がアメリカの意図なんだ、それ自体が彼らの意識的な行為なんだと言っていまして、けっしてブッシュが、個人的には理性を失っているかもしれませんが、一つの国家の権力の意志というものが理性を失うというような形でいたずらにあるものだというふうにも、単純には思えません。したがって小泉政権にしてもブッシュ政権にしても、単にドジをしているとか理性を失っているとか、判断力を失っているという形でだけ見るならば、そこから生み出されている結果が、どちらに向かっているのかということに関して、戦っていく方向性をむしろ失うのではないかというふうに思っています。

ぼくは、一つその意味で、死刑廃止に向けて、枠組みの転換をはかる必要があると思います。つまり、タフ・オン・クライムというか、犯罪に対して手厳しい厳罰主義にのっかって、終身刑は導入されるかもしれません。その終身刑と引き替えに死刑を廃止しようという枠組みでは、やはり違うと思います。【この場で言い忘れたことですが、そういう枠組みの行き着いた先が、まさに亀井案であったということです−−後からの付け足し。】
そうではなくて、厳罰主義そのものに反対する、それを批判するという運動の中から死刑を廃止していく以外に、確固とした基板の上に死刑を廃止できないんではないか、と思います。その意味で、一つには、フォーラム90は死刑廃止国際条約の批准を求めるフォーラム90という形で運動が開始されているわけですし、自由権規約の第二選択議定書を批准せよということが、やはり原点だと思います。それから、数日前の死刑執行に関してもそうなんですが、この間、日本で死刑が執行されるたびに、海外、ヨーロッパとかアメリカのアムネスティなど、いろんなところから批判が出ますが、必ず出てくるのは、日本の死刑制度の異常さなんです。死刑一般だけでなく、日本の死刑制度の執行における秘密性、密行性と、直前までご本人に通知しないで1〜2時間前に通知してそのまま執行する、したがって法的な防御措置をとる余裕がない、弁護士と連絡をとることもできない、家族と会うこともできない、といった死刑制度と死刑囚の処遇に対しての批判は必ず出ているわけです。このことをまず問題にすべきであって、現行の日本の死刑制度の異常さ、その残虐性がつねに海外から批判されていることをもって、死刑制度の現状に対する批判を受け止めて、どのように現状を理解し、国民に情報を開示するのかということを求めるということ、そのためにその期間の死刑執行のモラトリアムを要求するという形が、ある意味で一番、一つの現実性をともないつつ、厳罰化ではなく、死刑制度とは何なのかということを考えることを通じて、いったんモラトリアムもでき、死刑制度を廃止する条件を作っていく方向ではないか、と思います。
そのことは同時に、そういう形での死刑制度の現状を見直すためのモラトリアムと、基本的にやはり第二選択議定書の批准と言うことを視野に入れた何らかの形でのモラトリアム法案というのが、現実性をもった対案として出せるのではないかというように、この間思いました。

それともう一つ、ぼく自身がアメリカのムミアの支援運動に関わってきた中で感じてきたことなんですが、先程もちょっと申し上げましたようにムミアはこの間のアメリカのアフガニスタンやコソボへの侵攻などの戦争政策に対する批判を獄中から行ってきました。そして、ムミアの支援運動というのは、死刑廃止運動と冤罪という側面と黒人に対する人種差別の問題などいろんな要素が入っているんですけども、そうした運動がいま−−ムミアが反戦のジャーナリスト活動をしているということももちろんありますが−−死刑廃止運動や冤罪運動が、アメリカでは明確に対ブッシュ政権、とくにイラク侵攻に対する反戦運動と結びついているんです。
いま、そうした社会全体の状況と無縁に死刑廃止ができるわけはないのであって、いま、世の中どっちに向かっているかというと、やはり北朝鮮、テロ国家とんでもない、ブッシュと一緒になってテロ国家をあれしろっていう方向に動こうとしている。そのことに反対する運動と死刑廃止運動はもっとシームレスに結びつくべきだし、結びつきうると思うんです。現実にムミアの支援運動がアメリカの反戦運動の中で一つの核になっている−−実体的にも核になっている−−ということがあるんです。
こうしたことも一つの見るべき方向性としてあるのではないか、ぼくは、死刑制度に反対すると言うことと戦争に反対することというのは、ある意味で非常に密接に同じ問題だというふうに思っています。死刑廃止運動がより大きな排外主義や戦争政策に反対する運動と何らかの形で結びついていくならば、反戦運動の中に、反戦思想とは死刑廃止と結びつくんだという思想が生まれてくるならば、もっと死刑廃止運動も別の広がりを見せる可能性もあるんではないかと思います。
以上です。