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今井恭平の文章
ニューヨーク取材日誌

死の影の谷間から
<死の影の谷間から>
ムミア・アブ=ジャマール/著
今井恭平/訳
現代人文社/刊
今井恭平の文章

   人権のためにたたかうジャーナリストを殺害する国・アメリカ
ムミアの死刑執行を阻止しよう!  1999年9月12日

以下は、死刑廃止条約の批准を求めるフォーラム90のニュースレター「フォーラム・ニュース」のために書いたものです。
【1】

 ムミア・アブ・ジャマールにたいする死刑執行命令が近日中に出るのではないか、というニュースが七月中旬に入ってきたとき、私はにわかには信じがたかった。彼は一九九五年八月十七日、処刑期日を指定されたことがある。その時は世界中からの反対の声と、再審を申し立てている強力な弁護団の尽力もあり、処刑は回避された。それ以来、八月になると、また執行期日の指定があるらしい、という怪しげな情報が何度も流れてきたからだ。今回の噂のもとになったらしい「フィラデルフィア・デイリー・ニュース」紙の記事を読んでみても、根拠がはっきりしない。該当記事を書いた記者にメールを送り、情報の根拠を尋ねたが「州知事周辺からの情報である」というだけで、らちがあかない。

 しかし、八月二五日、パム・アフリカ、クラーク・キッシンジャーの連名で処刑期日の指定が近い、というメールが届き、確からしいと思わざるを得なくなった。パムとクラークは、ムミア支援諸組織の中心的人物であり、事実上、運動全体のスポークスパーソンだからだ。複数の州当局者からの情報として、確度の高いものという。

 いったん執行命令に署名されると、ムミアは一般の死刑囚処遇から「フェイズ2」と呼ばれる状態に移行させられる。それは、以下のような厳しい拘禁下におかれることを意味する。
  1. 独房内での私物の所持の禁止。裁判関係書類も閲読が禁止される。
  2. 電話をする場合、そのたびに一回一回、刑務所長の許可を得なければならない。
  3. 直近の家族以外の面会の禁止。
  4. 独房内での二四時間のカメラによる監視。
  5. 私服の着用の禁止。何時間も裸で放置される可能性がある。
  6. 弁護士との面会にも、刑務所当局による監視がつく。
 九五年にも、彼はいったんこの「フェイズ2」におかれたことがある。

【2】

 ムミア・アブ・ジャマールは、六十年代にブラックパンサー党の運動に加わり、七十年代以降はラジオ・ジャーナリストの道を歩んだ。人種的マイノリティと貧困層の立場に立った報道を行い、七八年にMOVEという黒人組織への大弾圧に抗議する論陣をはったが、これを口実に解雇される。フリーランスとなった彼は、ジャーナリスト活動をつづけながら、生活のためには副業も行わざるをえなくなる。

 彼の運命を決定的に変える事件が起こった一九八一年十二月九日早朝、彼が夜勤でタクシーのハンドルを握っていたのは、そうした理由による。

 市の中心から数ブロック南に下ったローキャストと十三番通りの交差点付近で、ムミアは自分の弟のビリーが、白人の警官から暴行を受けているのを目撃する(後に分かったことでは、ビリーは一方通行を逆に走ったという理由で警官から停止を命じられたらしい)。タクシーを近くのモータープールにとめた彼は、足早に警官と弟がもみあっている現場に近づいていった。その時、数発の銃声が響いて、白人警官のダニエル・フォークナー(当時二五歳)とムミア(当時二七歳)の二人が路上に倒れた。数分後に現場に到着した警官隊は、胸に銃弾を受けて重傷のムミアに、さらに暴行を加えて逮捕した。フォークナー巡査は近くの救急病院で、約一時間後に息を引き取った。

 翌日の地元新聞は、名を知られたニュース・キャスターが殺人容疑で逮捕された、というセンセーショナルな記事で埋まった。

【3】

 八二年六月、事件から約半年後に始まった裁判は、最初から公正とは縁遠いものだった。全米でもっとも多くの死刑判決を下したことで有名なアルバート・セイボ判事は、人種差別をむき出しにした訴訟指揮を行い、陪審からつぎつぎと黒人を排除した。

 公選弁護人は全く有効な弁護を行わず、自分自身で弁護にあたろうとしたムミアは、判事からたびたび退廷を命じられ、反対尋問の機会を奪われた。

 警官に致命傷を与えた銃弾が四四口径である、という鑑定結果は陪審員に知らされなかった。ムミアが事件当時所持しており、犯行に使われたとされた拳銃が三八口径であることとつじつまが合わなくなるからであろう。

 これ以外にも、証人への脅迫や利益供与の疑いなど、この裁判には多くの疑惑がある。それらは、九五年六月に、ムミアが再審請求を行い、数多くの死刑事件や公民権関連裁判を勝利に導いた著名な弁護士、レオナルド・ワイングラスが彼の主任弁護人となって以降にはじめて明るみに出てきた事実だ。

 同年七〜八月に行われた再審請求公判をたまたま傍聴した日本のある弁護士は、法廷でこうした事実を明らかにしながら激しく検察を追求するワイングラスの鋭い弁論を見て「安田みたいだ」と感想をもらしたと聞いている。

 ムミアに対する公正な再審の要求と、死刑執行の停止を求める運動は、この時に大きなうねりとなり、全米はもとより欧州各地でも数千人から数万人規模の集会などがもたれた。アムネスティ・インターナショナル、欧州議会、ローマ法王、ネルソン・マンデラ南ア大統領(当時)らも声明を出し、死刑に反対した。日本でも、死刑廃止議員連盟の四四名の議員が署名を行った。ちなみに私がムミアの支援に関わり始めたのも、九五年七月のこの再審請求運動のときからだ。

【4】

 昨年十月末、ペンシルバニア州最高裁が再審請求を棄却する決定を下し、舞台は連邦裁判所に移った。今年二月、ニューヨークの事務所にワイングラスを訪ねた私は、この後の裁判の行方について、いろいろと教えていただいた。法律に素人の私の理解の範囲だが、連邦段階で判決が覆る確率は、統計的には日本の最高裁より少しだけ希望がもてるようだ。しかし、それはあくまで一般論であり、政治的背景をもち、被害者が白人で被告が黒人である場合、死刑をまぬがれることはきわめて困難だ、とワイングラスは率直に語った。

 四月二四日、フィラデルフィアとサンフランシスコで同日にミリオンズ・フォー・ムミアと名付けられた大集会がもたれ、二つの都市をあわせると五万人にのぼる人たちが街頭でムミアのためにデモを行った。私もそれに加わり、フィラデルフィアの街を埋め尽くした人々が、人種差別による死刑反対の声を挙げるのを目の当たりにした。

 こうした運動の盛り上がりに対して、直後からFOP=警察友愛会(全米に二八万の会員をもつとされる白人至上主義的警察官団体)や右派マスコミなどから露骨な反撃が始まった。七月に入って、「ムミアがかつて犯行を自白したのを聞いた」と称する人物が登場し、ラジオや雑誌で注目を浴びたのも、そうしたキャンペーンの一環と見ることができる。この四七歳になる元刑務所訪問ボランティアの男性の話は、なんの裏付けも信憑性もなく、直後から矛盾する証拠物件が出てきた(彼自身がムミアに送った手紙で、ムミアが「告白」したとされる時期より半年後のものだが、彼はムミアに対して、君の無実を信じている、と書き送っている)。にもかかわらず、ムミア本人へのインタビューもないまま、このデマが大々的に報じられ、FOPは鬼の首でもとったように大騒ぎを演じている。

 こうした報道などが、ムミアへの死刑執行命令を出しやすくするための世論誘導ではないか、と私は疑っている。

【5】

 今年五月一日、私はウエストバージニア州との州境に近い辺鄙な場所にあるグリーン刑務所にムミアを訪ね、二時間ほどの面会をする機会をえた。その顛末については別の原稿に書いたので、見ていただける機会もあると思う。十八年の獄中生活の中で二冊の本を出版し、アメリカ社会の病弊についてするどい批評を繰り広げている彼と実際に会って、私がより確信を強くしたことは、ムミアが死刑にならなければならない唯一の理由は、彼がアメリカの不正義そのものと闘いつづけているから以外ではない、ということだ。

 日本とともに死刑をいまだ存置し、執行をつづけているアメリカ、しばしば他国の「人権問題」に口を出すこの大国は、未成年者や精神的障害者をも処刑しつづけている国家でもある。そして、そうした国家のありようを批判しつづけている同時代のもっともすぐれたジャーナリストの口をも、死刑によって封じようとしている。

 ムミア救援の運動は、死刑制度の根底にある、ある人間集団による他の人間集団への差別・抹殺の論理そのものとの闘いにほかならない。

1999年9月1日
いまいきょうへい(ムミアの死刑執行停止を求める市民の会)
http://www.jca.apc.org/~pebble/mumia/