ニュース第55号 00年4月号より

 NO.39  ふたつ海辺ストーリー

                                           中沢和彦
●清か水

 福岡県岡垣町には、長さ約6km、幅が最大で約1.3km、面積430haの三里松原がある。
  マツはどれもが内陸に向かって傾いており、地元の人は「梢を引っ張れるほど」と言う。この日も玄界灘は白波が立っている。
 松原の全体を撮りたくて、集落の向こうの中腹にある寺まで歩くことにする。こうした道を歩くと、必ず犬に吠えられる。こういう道を見知らぬ人は訪ねないし、ましてや歩く人なぞ、犬にとっては怪しいだけである。1匹の鳴き声から逃れた途端、次の家の犬がリレーして吠え始める。
 
  歩き始めて20分ばかりのところに、古木を鳥居のように組み立てたものがあり、「歳円の水」と書かれている。

「1口で3年長生きし、2口で6年、3口でなんと死ぬまで生きる」。
 そんな説明板のまわりにも白梅が咲いている。
 70歳代のおじさんが軽ボックスカーでやってきた。
「これを飲んでますと、水道の水なぞは飲まれんですたい。町の上流では、どんどん砂利を採るけんですねぇ」。
 玄海町で養鶏をしている、そのおじさんに勧められて、手を差し出す。と、予想に越える勢いで水が流れ出る。あっという間に10口分は飲んだ。振り返ると、おじさんが手動式のスイッチを押し続けているのだった。

 名水は山の中にあって、夏でも冷たく流れ出るもの。そんな、こちらの常識を簡単に覆して「ぬるい」清か水なのである。軟らかい水だ。卵と水の現況を聞きながら、自動車へのポリタンク積みを手伝う。
 さらに20分ほど歩いて寺に着いた。玄界灘にゆるくカーブする海岸と松林が見える。春霞かと思ったら、寺の駐車場から上がるバーベキューの煙だった。

 来たコースを変えてふもとのバス停まで戻る。途中、照葉樹の森の中を歩いた。見あげると、樹冠が高いところで傘をかけている。木々が光を争い、その結果として隙間なく空を塞いでいる。
 毎年、3月に、家近くの小学校5年生の教室に出かけている。1時間ほど森林や山村の話をしている。その時、照葉樹林の見上げたスライドを使う。屋久島で20oくらいの広角レンズで撮ったものだ。もうひとつ必ず持っていくのは、北海道で撮ったオオウバユリの葉の写真。これは、緑色の葉に茶色の葉脈が見事に見える。キャベツよりも、ナッパよりはっきり見える。1枚の葉の中に木が見える、葉の中に川が見える。

 教室にいても2枚のスライドで15分は大丈夫なのである。森の中なら1時間はあっという間だ。

●海は 

 宮城県唐桑町へ行った。気仙沼のホテルを早起きしてバスで役場まで行き、そこから歩くことにする。

 気仙沼港に立ったことがあるだろうか。目の前は「広いな大きいな」の海ではなくて、里山に囲まれた湖のような水面である。しばらく眺めていて気づいた。水平線がない。この日は波もなかったから、余計にその印象があった。
 そう、これが教科書で習ったリアス式海岸である。気仙沼もそうだけれど、リアス式海岸は波も小さそうだし、いかにも「天然の良港」という感じがする。

 やはり、社会科教科書に登場する畠山重篤さんは、この海辺でカキ養殖をしている。そして、湾に流れ込む川の上流にあたる岩手県室根村で毎年6月第1日曜日に「森は海の恋人植樹祭」を開き、広葉樹を植えている。
 先端がツンと競りあがった屋根構え、手入れの遅れたスギ林、畑の端に置かれているカキ殻、おだやかな水面、やっぱり歩いている人はいない。地図で見ていたよりも遠い。通りかかった赤オートバイの郵便局青年に聞けば、目的地はもうひとつ先の集落とのこと。

●思い出は、雨

 歩いていたら、突然に思い出した。
 私の通っていた高校では、当時、学校から東京の奥多摩駅(当時は氷川といっていた)まで夜をとおしての強歩大会をやっていた。夜、学校を出発すると、大菩薩脇の柳沢峠を越えたあたりで夜明けを迎える。それまではひたすら登り道である。そして、昼過ぎまでに到着するというものだった。およそ100qくらいだと思う。

 平地だって100kmは大変なのに、峠越えである。

 2年生の時、途中で雨が強くなり中止となった。私は20kmくらい進んでいたかと思う。真っ暗な夜道を前方から、ぞろぞろ戻ってくる人がいる。「なんだなんだ」と聞けば「中止だとよ」。なんて、具合に情報を知る。
 そして、バスが迎えに来てくれるわけでもなく、また、ぞろぞろ雨の中を数時間かけて戻ったのだった。家に着いたのは朝に近かったように思う。

 で、大会は、昼近くなって奥多摩湖あたりを歩くことになる。足は痛いし、峠をスタートした女性徒(そう、女の子も朝、峠をスタートして氷川に向かったのだった)に追い越されるわで、すっかり疲れ切っている。
 と、その時、水辺のすぐ向こうに進むべき道が見える。歩いているヤツがいる。けれど、そこまでに行くにはグーッと湾曲して行かなくてはならない。つらい。跳びたい。このヤロー。・・・思えば、それがリアス的地形初体験だった。

●TSUNAMI 

 唐桑の小さな峠を越えると静かな入江が現れた。雨になった。
 集落の手前、大きな杉の下に碑がある。明治29年「為溺死供養塔」と昭和8年3月3日の津波の「大震嘯災記念碑」である。『地震があったら津波の用心』と記してある。
 この二つの津波は、最大波高が15m と10mもあり、三陸地方に大きな被害をもたらした。昭和8年の三陸津波では唐桑町でも、死者58人、負傷者1157人、流出家屋93戸という大きな被害となっている。

 山国育ちの私は、こんな静かな入江なのにと思う。けれど、津波は、入り江や水深の浅いところに来ると波高が非常に大きくなるのだそうだ。そして、驚くのはそのスピードだ。5000mの深さの海では、飛行機なみの時速720km(秒速200m)で進み、陸に近づいても新幹線ほどの速さで進んでくる。
 情報も少ない明治の人や昭和8年の人たちは、逃げ切れなかった。いま、この町には津波体験館がある。

 約束の時間まで、集会所の軒先で雨宿りさせてもらう。突然、放送塔から音楽が鳴りだした。『恋は水色』。私が丸刈り頭の頃に、たしかフランス女性が歌った曲である。けれど、その音量が尋常ではない。思わず、椅子から立ち上がってしまった。スピーカーの真下にいるのかと思って見回したら、50mほど先にスピーカーを発見した。

 曲は I KNOW 知ってる。張り裂けそうな音量に弱気なボクは、ただ、驚いてる。津波は轟音とともにくるらしいから、この位の音量も必要なのかもと思わないでもない・・・。ただ、選曲は「なぜぇー」という感じもある。

●侘びしさ

ところで、サザンは TSUNAMIと歌っている。知ってますか、英語でもTSUNAMIで通じるということを。いやいやサザンの功績ではありません。先に書いた2度の津波が国際的に知られるところとなり、津波はTSUNAMIとなったのだとか。
 ある辞書には「津波」  a tsunami  a seismic sea wave.と出ていた。KARAOKEだけでなく近頃はKAROUSI・過労死も通じると聞く。これこそ侘びしい。

 室根村で毎年広葉樹を植えている畠山さんと、杉の話をした。
 カキの養殖イカダには「杉材の皮付き丸太が、使い勝手も使用後の廃棄にしても一番いい」と畠山さんは話していた。

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