日本列島森づくり百科

(11)変化を恐れず苦境克服

速水 亨(三重県海山町) 

 

 


 林業に携わって今年の4月で、ちょうど25年が経ちました。昭和54年に地元に帰りましたから、材価の最も高い時期は既に終わっていました。それから多少は変化しながらも、材価は下げ一方で今日になってしまいました。今から考えれば、昭和50年代に帰れればありがたいと思います。それ以上にあの時「今はいい時期だ」と実感していなかったことを悔やんでいます。

●借金だけが100倍に


 こんな気持ちは横に置いておいて、少し材価と人件費などを分析してみると、今の材価はスギで昭和30年代前半、ヒノキで後半と言われています。その時の人件費っていくらかと考えました。少々調べてみると面白いデータが見つかります。法政大学大原社会問題研究所の公表資料<注1>の中に農林省林野庁「山村経済実態調査書」林業労働篇第1号(1954年3月刊)の資料で、1953年の愛知県南設楽郡鳳来寺村の林業労働者の生活実態が書かれています。1953年は私の生まれた年です。その中で「部落の林業労働者の年労賃収入は4万円前後である」とあります。これを現在に比較しますと、速水林業の従業員の年間所得は400万円位ですから、ちょうど100倍です。木材の価格は同じで、賃金は100倍ではどう考えても採算は合わなくなります。

●変わらない育林技術


 日本の今の育林技術は、各地に拡大造林と共に定着していったと考えられます。つまり、特に育林林業の歴史の長いいくつかの地域は別として、多くの林業地の技術は昭和30年代から40年代に形づくられたのではないかと推測できます。この時期は前述の賃金で、世の中は戦後からの回復が始まり、木材も不足物資のひとつでした。
 このような社会的背景で各地に普及した育林技術は、右肩上がりの木材価格、良質で低賃金な林業労働を前提に、木ならば小丸太から売れて、人手をいくら掛けても大した額ではないという感じだったと思います。では、現在はどのような状況でしょうか、農業用には既に殆ど木材は使用されなくなり、土木建築でも木の足場材は小規模な塗装の時に使われるくらいで、見かけることは少なくなり、海でも各種養殖筏も鉄が殆どです。つまり柱や板が取れなければ全く需要がなくなっています。

●求められる“変革”


 この現実を考えれば、我々は育林技術を全くゼロから組み立てる必要があると判るはずです。林業の現場では、経験豊かな人たちの意見が優先しがちです。その人たちの労働の結果が目の前の森林として残っているからです。新しい変化を求めても、その結果が出るのは20年あるいは40年先になってしまうとすれば、ついつい変化よりも現状を維持した方が安全ということになり、変化の芽は摘まれてしまいます。若い管理者や労働者が「こんなやり方が必要か?」と言えば経験豊かな先輩が「そんなやり方ではよい山は出来ない!昔からこのようにやるものと決まっていた」。これで終わりです。しかし、この変化を避けるたがる体質が、林業経営の苦境の一因でもあることに気づく必要があります。

●高密度林業の限界


 尾鷲林業は以前1ha当たり12,000本の苗木を植えていました。概ね3尺間(90cm間隔)に植えて、林分が鬱閉(隣木の枝と枝が接して林地の上部が閉じてしまう状態で林地内は暗くなる)する6〜7年生まで年に2度も下刈りを続け、弱度の除間伐を繰り返し、常に林分密度を高く維持して自然に枝を枯れ上がらせ、林分の形状比(高さ:mを胸高直径:cmで割る)1以上の状態が続くような、ひょろっとしたヒノキ林を育てるやり方でした。むろん林地の多くは裸地化する場面も多くありました。
 昭和30年代に枝打ちが地域に普及し始めるまでは、枝打ちは殆ど実行されることなく、このようなやり方で10.5cmの柱角を上小節(小さな節が柱の表面に少しだけある)が生産できるように育てていました。枝打ちが始まるとますます集約的な林業となり、50年の林を育てるのに1haに延べで430人位の労働投入となっていました。
 終戦後私の父が地元に帰り経営に携わって、労働者の通年雇用と良質材生産を目指して、冬季の雇用のために昭和25年に枝打ちを導入したことが始まりですが、その後林内の下層植生の維持を目指して、植栽本数を8,000本にすることと強めの間伐による密度管理を実行しました。その成果は現在充分に発揮されていますが、当時と同じような状態で育林を続けることは現状では出来なくなっています。

●植栽、下刈りに工夫


 そこで速水林業はますます旧来の尾鷲林業のやり方から離れていっています。植栽本数は小丸太が売れないのだからと5,000〜5,500本として、下刈りを避けるために、主要下層植生であるウラジロシダのみを枯らす除草剤を利用し、殆ど下刈りをしない育林に転換しました。
 また、以前は枝打ち時に生えている木全てを枝打ちしていたものを、柱が取れるサイズまで残るであろう木を充分に選木し、枝打ちする本数を大きく減少させました。
 これらの努力で現在は延べで140人で森林を仕立てることが出来ます。その品質も柱を生産する段階では、これまでと充分に対抗できる品質のはずです。
   (次回に続く)
<注1>「日本労働年鑑28集1956年版」(1955年発行、法政大学大原社会問題研究所編著、時事通信社発行)。このデーターは2002年3月にwebsiteで公開されています。
(http://oohara.mt.tama.hosei.ac.jp/rn/28/rn1956-248.html)

三重県海山町 ・ 速水 
TOHRU HAYAMI
林業家。
国際的な森林認証「FSC」を2000年に日本で初めて取得。
日本林業経営者協会理事。森づくりフォーラム理事。
慶應大卒。三重県海山町。49歳。

 
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