捜査一課長損害賠償等請求裁判控訴審判決文(参考版 引用文付)


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平成七年(ネ)第三四九五号、同第三五一七号、同第三五四四号各損害賠償等請求擦訴事件

(原審・大阪地方裁判所昭和六一年(ワ)第一五四二号)

          判      決

      【控訴人清水 住所 略】

         平成七年(ネ)第三四九五号事件控訴人(以下「控訴人」という。)

                      清水一行こと

                         清 水 和 幸

         右訴訟代理人弁護士       森 田   弘 [注 判決文末尾 参照]

         同               森  保  彦

      東京都千代田区神田神保町三丁目六番地五

         平成七年(ネ)第三五一七号事件控訴人(以下「控訴人」という。)

                         株式会社祥伝杜

         右代表者代表取締役       藤 岡 俊 夫

         右訴訟代理人弁護士       那 須 克 己

      東京都千代田区一ツ橋二丁目五番一〇号

         平成七年(ネ)第三五四四号事件控訴人(以下「控訴人」という。)

                         株式会社集英社

         右代表者代表取締役       若  菜  正

         右訴訟代理人弁護士       星  二  良

         同               高 木 佳 子

      【被控訴人 住所 略】

         平成七年(ネ)第三四九五号、同第三五一七号、同第三五四四号

         事件各被控訴人(以下「被控訴人」という。)

                         山 田 悦 子

         右訴訟代理人弁護士       浦     功

         同               川 崎 伸 男

         同               横 井 貞 夫

         同               泉 裕 二 郎

         同               氏 家 都 子

         同               池 田 直 樹

         同               福 森 亮 二

         同               増 田 健 郎

         同               片 見 冨 士 夫

         同               須 藤 隆 二

          主      

  一 本件各控訴をいずれも棄却する。

  二 控訴費用は、平成七年(ネ)第三四九五号については控訴人清水和幸の、同第三五一七号事件については控訴人株式会社祥伝社の、同第三五四四号事件については控訴人株式会社集英社の負担とする。

          事

第一 当事者の求めた裁判

 一 控訴人ら

  1 原判決中、各控訴人ら敗訴部分を取り消す。

  2 被控訴人の請求を棄却する。

  3 訴訟費用は第一、二審とも被控訴人の負担とする。

 二 被控訴人

   主文と同旨

第二 事実の概要

   原判決の「第二 事実の概要」のうち、控訴人らと被控訴人に関する部分記載のとおりであるから、これを引用する。ただし、次のとおり付加訂正する。

 一 本件は、原告が、被告清水が『捜査一課長』と題する推理小説(以下「本件小説」という。)を執筆し、その余の被告らが右小説を出版等したことにより、原告の名誉ないしプライバシーを侵害したとして、不法行為を理由として、その損害の賠償等を求めた事件である。

 いわゆるモデル小説である本件小説につき、右不法行為の成否が問題となったものである。

 二 争いのない事実等(一部、公知の事実、証拠及び弁論の全趣旨により容易に認定できる事実を含む。)

1 当事者

 原告(旧姓澤崎)は、昭和二六年八月三一日生まれの女性で、短大卒業後、昭和四七年四月から社会福祉法人甲山福祉センターが経営する精神遅滞児施設甲山学園において、同学園内青葉寮担当の保母として勤務していた者である。

 被告清水は、作家である。被告株式会社集英社(以下「被告集英社」という。)、被告株式会社祥伝社(以下「被告祥伝社」という。)、被告株式会社小学館(以下「被告小学館」という。)は、いずれも単行本、雑誌等の出版物の刊行及び発売を目的とする株式会社である。被告伊賀弘三良(以下「被告伊賀」という。)は、昭和五四年五月当時、被告祥伝社の代表取締役の地位にあった者である。

2 本件小説

 (一) 被告清水は、本件小説を執筆した。

 本件小説は、神奈川県横浜市の精神遅滞児施設「光明療園」で発生した園児二名の死亡事件が殺人事件として捜査される過程を描いたものであるが、その中では、右施設の保母である「田辺悌子」か事件の被疑者として警察から特定されていく過程が描かれている。

 (二) 本件小説単行本

 被告清水は、被告集英社との間で、本件小説を単行本として出版する旨の出版権設定契約を締結した。

 被告集英社は、昭和五三年二月二五日付けで(ただし、右は奥付きの日付であり、実際の発行日は同月二〇日ころである。)本件小説単行本の初版を出版し、その後、三刷まで、合計部数五万三○○○部を出版し、全国の書店で販売に供した(ただし、三刷以降の重版はしていない。)。

 (三) 本件小説新書判

 被告清水は、被告祥伝社との間で、本件小説を新書判として出版する旨の出版権設定契約を締結した。

 被告祥伝社は、昭和五四年五月一日付けで右新書判の初版約二万部を出版し、被告小学館は、これを全国の書店で販売に供した(ただし、初版以降の重版はしていない。)。

 なお、本件小説新書判の奥付きには、被告祥伝社が「発行所」、被告伊賀が「発行者」、被告小学館が「販売」として、各記載されている。

 (四) 本件小説文庫判

 被告清水は、被告集英社との間で、本件小説を文庫判として出版する旨の出版権設定契約を締結した。

 被告集英社は、昭和五八年七月二五日付けで本件小説文庫判の初版約一〇万部を刊行し、これを全国の書店で販売に供した(ただし、初版以降の重版はしていない。)。

3 いわゆる「甲山事件」

 社会福祉法人甲山福祉センターが兵庫県西宮市で経営していた精神遅滞児施設甲山学園において、昭和四九年三月一七、一九日の両日、同学園青葉寮(中・軽度の精神遅滞児児を対象としていた施設)の園児A女及びB男が行方不明となり、右一九日夜、同学園の浄化槽内において右両名の溺死体が発見された。

 兵庫県警察本部は、B男の死体の状況等に鑑み、これを殺人事件と断定して、捜査本部を設置したが、前記青葉寮の園児からB男を連れ出したのは原告である旨の供述を得たこと等から、原告をB男殺害の被疑事実で逮捕及び勾留した。原告は、勾留中一旦は犯行を認める供述をしたが、その後否認し、神戸地方検察庁尼崎支部は、昭和四九年四月二八日、処分保留のまま、原告の身柄を釈放した。そして、原告は、昭和五〇年九月二三日、不起訴処分となった。

 しかし、神戸検察審査会は、B男の両親の申立を契機として、昭和五〇年一〇月八日職権により右事件を立件した上、右不起訴処分の当否について審査を行い、昭和五一年一○月二八日、不起訴不当の議決を行った。

 神戸地方検察庁検察官は、昭和五一年一二月一〇日、右議決の送付を受けて直ちに再捜査を開始し、昭和五三年二月二七日、原告を再逮捕した。原告は、検察官の取調に対し終始黙秘したが、同年三月九日、神戸地方検察庁検察官は、原告をB男殺害の公訴事実で神戸地方裁判所に起訴した。

 神戸地方裁判所は、昭和六○年一〇月一七日、原告に無罪を言い渡す判決をした。

 右神戸地裁判決につき検察官が控訴したのに対し、大阪高等裁判所は、平成二年三月二三日、原判決を破棄し、事件を神戸地方裁判所に差し戻す判決をした。

 右大阪高裁判決については原告が上告したが、これに対し、最高裁判所は、平成四年四月八日、上告を棄却する決定をした。

 事件は、現在、神戸地方裁判所において、審理中である。

三 原告の主張

 1 本件小説は、事件の内容(場所、日時、人物及び態様)、事件後の進展、捜査の進行について、「甲山事件」と非常に酷似しており、環実に発生した「甲山事件」をモデルとするものである。本件小説が発行されたころから現在に至るまで、「甲山事件」の内容、被疑者として逮捕されたのが原告であること等の事実関係は一般に知れ渡っていたから、本件小説は、その一般読者に対し、「田辺悌子」が原告以外の何者でもないとの印象を与えるものであった。

 本件小説は、最初から最後まで全編捜査官の視点で記述されており、捜査官が容疑者を追いつめていく推理小説であって、読者は、捜査官の立場で、本件小説を読み進むことが予定されており、一部の例外を除き、ほとんどの読者は、作者が予定した捜査官の目でこの小説を読むことになる。

 そして、本件小説では、犯人ははじめから田辺悌子(以下「田辺」という。)と定められ、捜査官がその田辺を如何に追いつめるかがテーマとされていて、本件小説の捜査官の視点(捜査官の目的)は、その舞台とされた精神遅滞児施設「光明療園」における事件(以下「光明療園事件」という。)の犯人(田辺)を特定し、その決定的証拠を発見するか、犯人を自白に追い込むことにより犯人として断定することにある。

 したがって、捜査官の視点で読み進んできた読者は、田辺が、本件小説の大詰めの章で、早い時期から同人を犯人と確信し、その自白を得ることを大きな目標にしてきた捜査官に追及され、捜査官の想定していたとおりに犯行を自白するに至ったことにより、やっと田辺が自白したかと安堵し、田辺が犯人であると確信するに至るのであり、作中において、田辺を犯人と断定する直接的な表現がされていないからといって、田辺が犯人でないとの印象を持つわけではなく、また、本件小説の最終場面での、本件小説の登場人物である捜査官桐原重治の「田辺以外に犯人がいるかもしれない」との独白も、担当検事が起訴に消極的態度を取るのに対し、再捜査の決意を固める桐原重治の脳裏を去来した述懐の一つとして出たものであるに過きず、本件小説の結論又は結末に当たっての作者の意見表明とは到底解することはできず、むしろ、この結末によって、読者は、これだけ証拠があっても起訴できないのか、ということで憤りを持ち、田辺=犯人説をより確信する効果を持つことになるのであり、作者の真の狙いもここにあったといえるのであって、本件小説は、田辺を光明療園事件 の犯人と断定しているものである。

 2 本件小説による原告の権利侵害

 (一) 原告のプライバシーの侵害

 (1) 犯罪捜査は、被疑者又は被告人(以下「被疑者等」という。)ないし事件関係者の私生活領域への侵入という側面を有している。捜査官から一方的な嫌疑を受け又は訴追されたというに過ぎず無罪推定を受けている者にとって、その生い立ち、家族関係、異性関係等の純然たる私生活に関する情報はもとより、被疑者等とされたこと、取調の経過、その他捜査資料等の捜査によって得られた情報は、他人に知られたくない個人の情報である。

 右情報を、法の予定する手続過程(公開の法廷で陳述されたこと、判決確定後に記録が閲覧されたこと等により、一般人が知り得る場合がこれに当たる。)によることなく、これをみだりに公開することは、適正な刑罰権の実現という法本来の目的を超えるものであって許されず、プライバシー(原告に関する個人的な情報の一切が、他人による評価の対象とされないまま確保されている状態をいう。)として法律上の保護を受け、右情報を違法に公開することはプライバシー侵害として不法行為を構成する。けだし、自己が嫌疑ないし訴追を受けている犯罪事実等に関する情報が、法の予定する手続過程によらないで公開されることになれば、被疑者等に保障された憲法上、訴訟法上の防禦権や無罪推定の原則は、その実効性を失い、司法手続外で犯罪者としての制裁を受けかねない結果ともなるからである。

 (2) 原告の個人情報そのものではないが、被疑者等とされている原告と極めて密接な関係を持つ捜査資料を公表することもプライバシーの侵害に当たる。鑑定書、報告書も含め、原告が問擬されていた被疑事実について、犯罪行為の存在及び原告と犯人との結びつきを立証する資料として収集作成された捜査資料は、一体となって、捜査官側の原告に対する嫌疑の根拠となっているからである。

 刑事訴訟法四七条にいう「訴訟に関する書類」とは、被疑事件又は被告事件に関して作成された書類をいい、裁判所又は裁判官の保管している書類に限らず、検察官、司法警察員、弁護人等の保管しているものを含んでいる。しかも、同条は、司法警察員、検察官、裁判官などの国家機関に対して公開の禁止を義務づけるにとどまらず、全ての者に義務づけたものである。

 (3) 本件小説は、これらの捜査資料を「田辺悌子」すなわち原告の嫌疑に結びつける形で公表し、原告が受けた嫌疑に関しての判断、評価の材料を一般人に提供したものである。本件小説によるこれらの捜査資料の公表は、原告か受けた嫌疑について、刑事手続外で違法に他人の評価にさらす結果となっているという意味において、原告のプライバシーの侵害に当たる。

 (4) 本件小説は、本来秘密とされるべき(後日「甲山事件」の刑事公判で証拠調請求された)捜査資料を違法に入手して、捜査によって得られた原告に関する情報、すなわち、原告をモデルとする「田辺悌子」が被疑者等として警察に特定されていった経過、逮捕後の「田辺悌子」の取調官に対する態度や会話のやり取り、自白に至る経緯、自殺を図った事実及び嘘発見器の検査結果等の諸事実を、文中にそのまま引用して違法に公表したものであり、右の執筆、刊行及び発売は、原告のプライバシーの侵害に当たる。

 (5) プライバシーとして保護される個人情報は、真実のものに限らず、創作による情報であっても一般人がそれを真実であると誤認し得るものを含む。

 本件小説は、これを小説中でそのまま引用するなどして用いながら、さらに作者の想像を交えて、具体的に描写したものであるので、一般読者をして、右諸事実を真実ないしは真実らしく思うことは避けられないと言わざるを得ず、仮にフィクションの部分が含まれているとしても、原告のプライバシー侵害の事実を否定し得るものではない。

 警察の発表とこれに基づく新聞等のマスコミ報道によって公表された情報を新たに再構成して小説の形で公表することは、仮に元の発表又は公表が正当なものであったとしても、プライバシーの侵害となる。

(二) 名誉侵害

 (1) 本件小説は、「田辺悌子」が小説中の事件の犯人であるとの印象を一般読者に与えている。そして、本件小説の内容が「甲山事件」と酷似しており、その中で「田辺悌子」なる人物が原告をモデルとしているため、読者は「田辺悌子」、すなわち、原告と受け取る。したがって、本件小説の一般読者は、「田辺悌子」、すなわち原告が「光明療園」園児の「土井衛」、すなわち甲山学園園児のB男を浄化槽に落として殺害したとの印象を強く抱き、原告が「甲山事件」の犯人であると確信するに至る結果となる。

 また、本件小説には、現実の「甲山事件」には存在しない、あるいは事実関係が異なる筋立てないし小道具が盛り込まれている。これにより「田辺悌子」の嫌疑を一層深め、同女を犯人とするための効果をますます強めた本件小説は、一般読者をして、現実の「甲山事件」には本件小説のような事実関係が存在したものと誤信させ、原告が、「甲山事件」の犯人であるとの印象をますます強めさせることとなる。

 被告らは、原告を「甲山事件」の殺人犯人と決めつける本件小説を執筆し又は出版、発売し、もって原告の名誉を毀損したものである。

 本件では民法上の不法行為の成否が問題とされているところ、民事上の不法行為類型としての名誉毀損の要件は、人格権としての個人の名誉が侵害されたか否かであり、この点は犯罪構成要件として「事実の摘示」を必要とする刑法の名誉毀損罪とは異なる、したがって、本件で、民事上の不法行為として名誉毀損が認められるか否かは、本件小説によって被控訴人の社会的評価が低下させられるか否か、言い換えれば、本件小説によって被控訴人が甲山事件の犯人であるとの印象を一般読者に与えるものか否かという点にあって、小説全体から受ける一般読者の印象において、被控訴人の名誉が侵害されるものであれば、民法上の不法行為は成立する。

 被控訴人が甲山事件の犯人であるということ自体は、事実でなく、主張ないし意見であるという控訴人集英社の後記主張は、新聞や雑誌などの事実報道を目的とする表現形態と小説との違いを全く考慮せず、一定の事実のあることを前提に意見ないし論評を加えることと、小説の中で展開される多岐に亘る事実の中から、読者が特定の事実を印象として特つこととの違いを区別せず、小説の読者が小説を読んで、印象を持つであろう事実、別の言い方をすれば、素材事実と虚構事実とから演繹される事実をもって、控訴人集英社は、意見ないし主張をしているにすぎない。

 (2) 原告は、いったんは逮捕され、犯行を自白したこと(実は、強制偽計による虚偽の自白であった。)を大きく報道されたものの、その後釈放され、自身が無実であることを訴える中で、マスコミの原告に対する見方も明らかに変化し、原告の無罪を確信する支援活動も盛り上がってきていた。確かに、本件小説単行本の発行当時には既に検察審査会の不起訴不当の議決がなされ、密かに捜査が再開されていたが、これらの点に対するマスコミの扱いは小さなものであり、「原告が『甲山事件』の犯人に間違いないとの社会的評価」などは存在しなかった。

 ところが、本件小説の出版は、その内容、方法、時期において、新聞雑誌等の事実報道と比較にならないほどの原告の社会的評価の低下をもたらした。そもそも未解決の刑事事件の取扱いは慎重でなければならず、特に被疑者等になっている者をモデルとする場合には、その者が無罪推定を受ける地位にあることを害してはならない。無罪推定は刑事手続上の大原則であるが、刑事手続以外の社会生活においても同じく承認されている。被告人は、刑事裁判が進行している段階では、あくまで法律上無罪推定を受けている。これは、我々の社会が、犯人として疑われ、訴追された存在であっても、裁判で有罪が確定するまでは、個々人の内心における評価はともかく、社会的、対外的な関係においては、無実として扱うことが法律上のルールとして承認されている社会であることを意味する。とすると、この社会内で、被告人が享受しうる社会的評価の水準を測定するに当たっては、無罪の者(一般市民)と同程度もしくはそれに近いレベルが保証されるべきことが要請されていることになる。したがって、被控訴人が、逮 捕され、さらに起訴までされたとしても、犯人と断定する表現行為が、被告人としての社会的評価を低下させることはもとより、本件小説のように、全体的なストーリー展開の中で、読者をして、犯人ではないかとの印象を与える事実を摘示していって、被控訴人が、甲山事件の犯人であるような印象を読者に持たせることも、被控訴人の社会的評価を低下させるものである。本件小説は、現実に存在した「死亡事故」を素材として取り上げ、被疑者等の地位にとどまっていた原告を「殺人犯人である。」とするストーリーを創作し、小説の形で出版したものであって、原告の名誉を甚だしく棄損している。

 (3) 新聞及び週刊誌等が事実報道を基本姿勢としているのに対し、小説は、事実を素材としつつも、あくまで作者の自由な創作により、事実と異なる展開を自由に繰り広げることができるのであり、そのストーリーをいか迫真性をもって表現するかが、まさに作者の腕の見せ所となる。また、新聞等は、事件の断片的な事実を途切れ途切れに流すため、その都度記事を切り抜いて整理し、後でまとめて読み直すなどしない限り、事件の概要を掴むことが困難であるのに対し、小説は、ストーリーが現実の捜査の流れに即する形で進行し、作家が手際よく事実をかみ砕き、自由な味付けをして一連の流れを説得していくものである。したがって、本件小説から受ける「真実らしさ」は、新聞等とは比較にならない。

 (4) 本件小説は、単行本、新書判、文庫判として大量に出版され、全国ネットの流速機構に乗って、全国の書店に置かれ、販売後も被告らによって回収されることなく、そのまま読者の書架に長く保存されている。 発行部数は新聞等に比べて少ないものの、新聞は日常的に保存されず、断片的事実が順次記事にされても順次捨てられていくのが通常であり、記事の取扱いも事件発生地を遠ざかるごとに小さくなるが、本件小説は、一連の事実をわかりやすくまとめて再構成しており、しかも原告を犯人であると表現している。

 (5) 被告清水は、マスコミに対し、「私は作品の中で施設の保母をクロとしたが…」、「私は、いろいろなところから得た情報から推理、山田さんが犯人に間違いないとの結論に達し、小説を書いた」などと発言して、本件小説が原告をモデルとした「田辺悌子」を犯人として描いていることを肯定していた。

 (6) 犯罪の嫌疑を受けている人に関する論評を公表する場合には、その目的が「専ら公益目的」である必要があり、およそ「営利目的」に利用し公表することは許されない。被告らによる本件小説の出版行為は、紛れもなく「営利目的」であった。

3 被告集英社、被告小学館及び被告祥伝社の責任

 現実にヒントを得て書かれた小説を出版する際、出版社は、作者に取材方法を問い合わせるなど、その作品の内容を厳重に審査し、自らの出版行為により個人の名誉を害することのないよう、万全の措置を講ずるべき義務を負う。

 しかし、被告集英社、被告小学館及び被告祥伝社は、本件小説の出版又は販売の際に、右義務を怠った。

4 被告伊賀の責任

 被告伊賀は、被告清水と被告祥伝社との間の出版権設定契約に基づき本件小説新書判を出版するに際し、その発行者すなわち出版に向けての一連の諸活動を一般的に監督する総轄責任者に就任し、発行及びそれに至る過程を指揮命令(主宰)したものであり、他人の名誉又はプライバシーを侵害する出版活動をさせないよう注意すべき義務を負っていた。しかし、被告伊賀は、本件小説新書判の発行に当たり、右義務を怠った。

5 原告の損害

 本件小説の執筆出版により、原告は、甚大な精神的損害を被った。右損害に対する慰謝料は、少なくとも二〇〇〇万円を下らない。また、前記不法行為と相当因果関係にある弁護士費用は、二〇〇万円である。

 6 よって、原告は、被告ら各自に対し、不法行為による損害賠償請求権に基づき、金二二〇〇万円及びこれに対する訴状送達の日の翌日(被告集英社、被告祥伝社及び被告小学館については昭和六一年三月八日、被告清水については昭和六一年三月九日、被告伊賀については昭和六一年三月一一日)から各支払済まで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求めるとともに、民法七二三条に基づく原告の名誉回復のための措置として前記第一の請求二記載のとおり謝罪広告の掲載を求める。

四 被告ら共通の主張

 1 本件小説について

 (一) 本件小説は、「甲山事件」をヒントに執筆されたものであるが、その主題は捜査活動にある。被告清水は、昭和五二年三月ころ、「甲山事件」について、事件に対する社会的非難が強かったにもかかわらず、相当数の捜査陣を動員しているはずの警察が犯人を挙げられないことに疑問を抱くとともに、実際の殺人事件の捜査の難しさや捜査陣の苦労を痛感し、文学的創作意欲を刺激されたため、「甲山事件」を素材に捜査活動を中心とした小説の執筆を決意し、取材を開始し、同年八月に本件小説の執筆を始め、同年一二月に入稿した。

 本件小説は、事件現場を神奈川県横浜市鶴見区獅子ヶ谷町の精神遅滞児施設「光明療園」とし、そこでの園児殺害事件を想定し、登場人物の人間性、感情、ものの考え方等は全て著者である被告清水の創作の下に、神奈川県警捜査一課長桐原重治と同県警鶴見署の刑事達の地味で真摯な捜査活動及び彼らが現代科学捜査を駆使して殺人犯を追及していく過程を描いており、結末としては、捜査陣が苦労して送検したものの、担当検事が起訴に消極的な意見であったため、改めて捜査官らに殺人事件捜査の難しさを再認識させるところで終わっている。以上のとおり、本件小説は、警察の捜査官を主人公とした被告清水の創作であって、原告をモデルとしたものではない。

 (二) 本件小説は、捜査官により事件が解明されていく過程を、捜査官の立場から小説としてごく普通に描いたものであり、それ以上のものではない。一般的に、犯罪捜査に際し、捜査官は、被疑者を逮捕勾留して取り調べる以上、当該被疑者を犯人であるとの嫌疑を抱き、それを前提として行動するのが当然である。

 したがって、本件小説が、事件の解明に当たる捜査官の主観に基づく捜査活動を描いたからといって、そのことだけで「田辺悌子」を犯人として描いていることにはならない。本件小説において、「田辺悌子」は、送検されたにもかかわらず、公訴提起されずに終わっているし、主人公である桐原重治捜査一課長も「田辺悌子以外に犯人がいるのかもしれない。」と述懐している。本件小説において、「田辺悌子」は容疑が濃厚な容疑者として描かれているに過ぎない。

 小説に限らず、ストーリー性のある文書において、最も大切な部分は、結末ないし結論である。ことに推理小説では、この点は、一層重要であり、犯人が誰であるかが、最も読者の興味をそそるところである。そして、犯人が誰であるかということについての読者の印象は、小説の結末によって決定される。本件小説の結末は、右のとおり、主人公である捜査官も、田辺の容疑性について疑問を示し、それまでの捜査の結果だけでは起訴できないとした検事の意見に従って、田辺以外にも犯人がいるかも知れないと考え、さらに捜査を続けるということになっているから、法律的な知識のない一般読者でも、結末において起訴すらできない容疑者を有罪判決を受けた被告人と同視することは考えられず、まして、それ以上に確定的に犯人であるとの印象を持つはずがない(控訴人集英社が、本件小説につき、一般読者に対してなした読後感のアンケートによれば、一般的な読者の受け取り方や解釈は、田辺が本人であるとの印象を与えるものとは、到底言い難く、せいぜい黒っぽい(つまり疑わしい)という程度に過ぎない。)。

 2 原告のプライバシー侵害の主張について

 (一) 捜査資料には、作成者、作成目的及び記載内容が全く異なった文書や資料が混在しているのが通常であり、捜査資料でありさえすれば当然に「個人的な情報」になり、プライバシー保護の対象になるものではない。原告は、捜査資料となり、かつ、原告の嫌疑と関連づけて公開されれば、どのような文書であっても原告のプライバシー侵害となると主張するが、右主張によれば、記載内容に関係なく、捜査資料がどうか及び資料の公開のされ方が原告の有利か不利かという外形的要素によって、プライバシー侵害の有無が決定されることとなり、妥当でない。

 本件小説は捜査資料がなければ書けない部分など含んでいないし、原告の指摘する捜査資料は、そのほとんどが原告が提起した国家賠償請求訴訟において、国及び県から提出された供述調書であり、本件小説の出版当時未公開のものではない。

 (二) プライバシーとして保護されるのは、個人的情報の中でも「その性質が純然たる私生活の領域に属し、しかも他人の生活に直接影響を及ぼさない事柄」あるいは「自分自身にのみ関係するに過ぎないと正当に主張し得る事柄」(以下、まとめて「私事」という。)である。原告が本件訴訟においてプライバシーとして主張する捜査資料は、原告の私事とはいい難い。

 更に、私事であっても、それが公の利益に係わる事柄であれば、その公開を妨げられるものではない。本件で問題となっている「甲山事件」は、幼い園児が二人も行方不明となり、施設の浄化槽から見つかったという残酷な事件であり、このような事件に対し、社会の構成員である一般人が関心を持つことは当然かつ正当なことであり、事実を糾明することは社会全体の利益にもつながる。原告は右事件の被疑者として捜査の対象となり、被告人として刑事裁判を受けている者であり、「甲山事件」に関する限り、原告の私事であることを正当に主張できなくなっており、右の限度で原告のプライバシー保護の利益は失われている。

 (三) 「甲山事件」は、その発生当初からマスコミ等でその内容、関係者の言動が極めて詳細かつ繰り返し報道されており、本件小説の執筆及び発行の当時、既に新聞週刊誌等で詳しく公表されていた事柄であって、何ら秘匿性はなく、原告に関する情報はもはや「他人の評価の対象にされないまま確保されている状態」からはほど遠いものであったから、原告のプライバシーは本件小説によって侵害されていない。

 また、原告は、当時、自ら進んで、週刊誌記者らと会見したり、取調べ状況を記載したメモを公開し、テレビのワイドショーに出演するなどしていたから、プライバシーを放棄していたものである。

3 名誉侵害について

 (一) 原告は、本件小説の出版当時、極めて容疑の濃厚な容疑者であるか(本件小説単行本出版時)、又は刑事被告人であった(本件小説新書判、文庫判出版時)ことは公知の事実であり、更に、「甲山事件」の真犯人にほぼ間違いないとの社会的評価を受けていた。

 殺人罪のような重罪の場合、起訴されるのは検察官からみて確実に近い証拠がある場合に限られ、その結果、一〇〇パーセントに近い有罪率となっている。このことは、一般市民も十分承知しており、かつ、そのような認識を持っている。したがって、単に犯罪捜査を受けただけの容疑者と、実際に起訴された被告人との間には、社会的評価において、著しい開きがあり、後者の社会的評価は、前者の社会的評価を大幅に下回る。

 本件小説は、田辺を「犯人としての容疑は否定できないが、検事に起訴を決断させるには至らず、決定的な証拠はない容疑者」として描いているに過ぎず、被控訴人の社会的評価を何ら低下させるものではない。

 (二) また、本件小説は、当時報道されていた事柄を質的にも量的にも上回るものではなく、社会的評価を低下させていない。

 本件小説は、読者に対する説得力を持たせるため、基本的事実をそのまま小説中に生かす努力がなされており、作者である被告清水が特別に手を加えることはしなかった。創作部分は、事実と事実の間を埋める部分だけであって、しかも、合理的解釈の範囲を超えたものではなく、小説としてであれ論評としてであれ、社会的に許された範囲に属するものである。本件小説の「田辺悌子」に関する記述は、当時新聞等が原告に関して報道していた事柄を質的にも量的にも上回るものではなく、仮にメディアの違いを考慮しても、原告の社会的評価を低下させるものではない。

 仮に今後の刑事裁判において、原告が無罪とされることがあっても、それは右無罪判決が新たに原告の社会的評価を変動させる要因となるだけのことであり、本件小説の発行当時の原告の社会的評価に遡って影響を及ぼすものではない。

 (三) 刑事事件における差戻前の一審と二審とで結論が異なったように、法律家の間でも結論を異にする「甲山事件」においては、被疑者等とされた原告を犯人であると一般人が考えたとしてもやむを得ず、原告が犯人であることが真実であると信じたことにつき相当性がある。

 (四) 原告は、被告清水の「私は作品の中で施設の保母をクロとしたが…」「私は、いろいろなところから得た情報から推理、山田さんが犯人に間違いないとの結論に達し、小説を書いた」との発言が、本件小説が原告をモデルとした「田辺悌子」を犯人として描いていることを肯定している、とするが、右発言はそのような趣旨のものではない。仮にそうであったとしても、ある表現が名誉毀損になるかどうかは、その表現者の内心ではなく、発表された表現自体によって判断されるべきものである。名誉毀損の存否は、当該表現自体がその対象となる人物が現に享受している客観的な社会的評価を低下させたかどうかによるのであり、それは当該表現に接した一般読者の認識を基準として決定すべきものである。

 (五) 書籍は、購買意思のある者がわざわざ書店に出向いて入手しなければならない手数を要するし、本件小説程度の部数のものは大都市以外では書店に並べられることすらほとんどなく、読み終われば捨てられてしまい、後日の入手はほとんど困難であるという特殊性がある。

 4 違法性阻却事由

 (一) 仮に本件小説が原告のプライバシー又は名誉を侵害するとしても、「甲山事件」の経過と報道の実体を考えると、本件小説は、小説という形式をとった、原告に対する「公正な論評(フェアーコメント)」として違法性が阻却される。

 (二) 本件小説が執筆出版された当時、「甲山事件」の容疑濃厚な被疑者等とされた原告は「公の存在(パブリックフィギュア)」となっていた。このような原告に対しては、刑事犯罪という公的性格から、一定の合理的限界内であれば、たとえそれが私生活の側面であっても論評が許されるところ、本件小説は、小説という形式をとった被告清水の原告に対する、右の合理性を充たした論評である。よって、本件小説の執筆出版は違法性が阻却される。

五 被告清水の主張

 1 本件小説について

 (一) 被告清水は、本件小説執筆に当たって、新聞、雑誌等で得られた「甲山事件」に対する報道事実は、できるだけ手を加えずに、事実の持つ説得力を生かし、事件の重要部分である原告本人の自白、園児の目撃証言、繊維の相互付着、ミカン、死体解剖の結果等についても、できるだけ集めた資料に手を加えずに忠実に載せることにした。仮に創作部分を加えるにしても、基本的事実から合理的に推理できる範囲を超えないようにした。

 また、被告清水は、本件小説の事件の発生場所及び登場人物等を、「甲山事件」が発生した兵庫県西宮市から神奈川県横浜市鶴見区に移し、事件にとって重要な人物以外は創作したが、「甲山事件」で殺害された園児二名の遺族に対しては十分に配慮した。園児の一人の母親の手記は、被告清水に本件小説執筆を決心させたものの一つであるが、「甲山事件」の残虐さと犯人への怒りを一般の人々に対し訴えるため、本人の了解を得て本件小説中に引用した。

 しかし、本件小説の中で、園児殺害についての結論を出さず、容疑者である「田辺悌子」を犯人と断定しなかった。「田辺悌子」が容疑濃厚な被疑者であったことは間違いないが、それでも犯人とは断定しないまま終わっている。本件小説は、「甲山事件」の客観的な報道事実に対して、作家としての主観を加えず正確に読者に伝え、無理なこじつけをやめて、現代の警察活動を信頼し、許すことのできない犯人が一日も早く検挙されることを期待して、「田辺悌子」以外にも犯人がいるかもしれないという可能性を残して終わっている。

 「田辺悌子」は、その人間性そのものが被告清水の完全な創作に基づくものであり、原告をモデルにしたものではない。また、被告清水は、「田辺悌子」の私生活に関する撞描写は必要最小限のものに止め、異性関係についての描写は意識的に載せなかった。

 更に、被告清水は、本件小説の冒頭に、「この作品は現実に起きた事件にヒントを得たものですが、フィクションであることをお断りします。」との断り書きを入れた。

 (二) 本件小説は、昭和五〇年九月二三日に原告の不起訴処分があってから約二年五か月後に発表された。したがって、本件小説を読んだ一般読者が、本件小説の中の「田辺悌子」から原告を即座に連想するものではない。

 仮に「田辺悌子」に原告の実像と偶然に一致する点があったとしても、被告清水は、既にマスコミにより報道されていた事実をはじめ、活発な取材活動によって得られた材料をもとに本件小説を執筆したのであって、本件小説は、初めて原告の私生活を公にしそのプライバシーを侵害したものではない。原告が「甲山事件」の被疑者として逮捕されマスコミに報道されるに至った時点で、原告に関する情報は公知の事実となり、秘匿性がなくなっており、原告においてプライバシーの侵害を主張しうるものではない(もっとも、前記のとおり、本件小説の中の「田辺悌子」の私生活に関する描写は、必要最小限の範囲のものしかないところである。)。

 2 原告の社会的評価について

 本件小説の発行までの間、「甲山事件」においては、園児二名の死亡、原告が園児二名に対する殺人容疑による逮捕、原告の処分保留のままの釈放、原告の国及び兵庫県に対する国家賠償請求訴訟の提起、園児の遺族の甲山学園に対する損害賠償請求訴訟の提起、原告に対する不起訴決定、園児の遺族の神戸検察審査会に対する審査申立、同審査会の不起訴不当の議決、前記損害賠償請求訴訟における園児遺族の勝訴、という経過をたどっていた。検察審査会が民間人が入って構成される機関であり、当時の世相を客観的によく反映するものであることを考慮すると、本件小説の発行当時、社会一般的に見て、原告が「甲山事件」の極めて容疑の濃厚な被疑者であり、これを不起訴処分にすることに対する反発及び抵抗は大きかったものと見ることができるのであって、原告の当時の社会的評価は著しく低下していた。このことは、本件小説発行とほぼ同時期に原告が再逮捕され、かつ、殺人罪により起訴されたことからも窺えるのであり、また、右再逮捕及び起訴の事実が大きく報道されたことにより、社会一般の人から見れば、やはり原告が「甲山事件」の犯人だったのかという感 情を抱かせるに至っていたのであるから、原告の技会的評価はこれによっても著しく低下していた。

 本件小説は、右のような時期に発行されたものであり、しかも、既に報道された事実を中心として描かれ、容疑者である「田辺悌子」を犯人と断定することもなく終わっているであるから、原告の社会的評価を低下させたとは到底考えられない。

 3 違法性阻却事由

 「甲山事件」は、精神遅滞児施設内における園児二名の殺人事件であり、その犯人を挙げることは必要かつ重要なことであり、その報道が社会一般の多数の利害に関係する公共性を有し、公益性を有することは明らかである。

 「甲山事件」においては、差戻前一審において無罪判決が出たものの、差戻前控訴審において破棄差戻とされ、差戻前上告審においても上告が棄却され、神戸地方裁判所において差戻後の一審の審理がなされているが、右差し戻し前控訴審の判決は、重要部分につき自らの解釈を示し、原告の犯行を極めて強く印象づける内容となっているのであり、有罪判決に近いものと評価できる。したがって、本件小説の真実性は証明されているが、少なくとも真実であると信じるにつき相当の理由がある。

 4 消滅時効の抗弁

 (一) 原告は、本件小説単行本が発行された昭和五三年二月二五日から原告が再逮捕された同月二七日までの間に、本件小説を読み、本件小説の執筆、出版及び販売の事実を認識していた。

 (二) 右認識の時点から三年が経過した。

 (三) 被告清水は、平成六年九月二七日の本件口頭弁論期日において、右の消滅時効を援用する旨の意思表示をした。

 (四) なお、本件小説は、単行本、新書判及び文庫版の三判とも、内容が全くといってよい程同一であるから、本件小説新書判、本件小説文庫判の発行は、新たな不法行為ではない。

 仮に新たな不法行為であるとしても、本件小説新書判は昭和五四年五月一日の発行であって、被控訴人は、遅くとも、昭和五四年七月には本件小説新書判が出版された事実を認識していたのであるから、この時点を基準にして三年を経過した時点で時効が完成したと解すべきである。本件小説新書判は、在庫の一部が残っていたにせよ、少なくとも昭和五四年末ころにはほとんど在庫も流通に置かれなくなったというべきである。不法行為としての名誉毀損が成立する為には「一定範囲の流布」が必要であるから、ごくわずかな在庫だけではその程度に達しない。したがって、本件小説新書判に対する損害賠償請求権は、昭和五四年末ころから三年の経過により時効消滅している。

 また、仮に、本件小説文庫判について、新たな不法行為であるとしても、被控訴人は、控訴人清水に対して、昭和五三年二月二七日以降、本件小説単行本について損害賠償の請求ができたはずであるところ、ずでに三年の経過によって、これが時効消滅している。したがって、後に本件小説文庫判が出されたからといって、同一内容の事件について、一度消滅時効にかかっている損害賠償請求権を、あらためて行使することは、権利の不行使による失効(失権効)として認められないというべきである。

六 被告集英社の主張

 1 本件小説について

 (一) 本件小説は、被告清水がテーマ、題材を決め、その取材、執筆をした後、原稿が被告集英社に渡されたものであって、被告集英社は、本件小説のテーマの選択、取材展び執筆方法につき何ら関与していない。また、被告清水は独自の取材陣を抱えている作家であるから、その取材方法につき被告集英社が調査する義務はない。

 被告集英社は、被告清水から本件小説の原稿を受け取った際、これを小説作品として読み、小説作品としてよいものかどうかを問題にするだけである。

 本件小説をみると、そこで訴えられていることは、@ 捜査活動がいかに大変であるか、捜査員の苦悩、多数の捜査員による地味で気の長い活動に支えられていること、A 「甲山事件」のような残虐で社会的問題性の大きい事件が真犯人が挙がらないまま放置されている現状にあることの問題点、である。右の主張を、読者に興味を持ちながらわかりやすく読んでもらい、かつ、理解してもらうために、本件小説は、桐原重治という捜査一課長を登場させ、被告清水の得意とする小説作法に従い、推理小説仕立てで表現している。

 被告集英社としては、本件小説を小説として読み、かなりの調査の上で書かれた真面目な作品であること、実在の事件をヒントに書かれたため、登場人物を仮名とし、事件の舞台を移し替えるなどしていること、実在の人物との符合が問題となるとしても、マスコミにより報道されている限度では真実に反する部分はないと見受けられたこと、特定人に対する誹謗中傷的表現はないこと、私生活のプライバシーにわたる部分の描写がなかったこと、などを判断して、本件小説を出版した。

 (二) 作家から受け取った小説作品中に、供述調書の体裁をとって書かれた部分があっても、出版社としては、作品の表現方法としてそのような体裁をとったものと考えるのが当然であり、供述調書をそのまま使ったものと考えることなどあり得ない。

 また、被告集英社には、被告清水が捜査資料を違法に入手していたかどうかにつき予見する義務はない。

 小説は、作家がその責任で創作するものであり、出版社が提供された作品につき勝手に修正をする権限はない。出版社が決定できるのほ、当該作品を出版するか否かであるが、出版しなければ作家との関係で契約違反となる。被告集英社は、被告清水に対し、書き下ろし長編小説を執筆してくれるよう依頼し、その内容は被告清水に一任していた。

 出版社としては、特別の事情のない限り、作品自体に現れた限度で注意すればよいというべきである。

 被告集英社は、担当者二名及び編集長が本件小説をチェックしたが、本件小説は小説作品であり、しかも登場人物を仮名とし、事件の舞台も関東に変えた上、登場人物の描写も希薄にして私生活上の事柄には触れず、精神遅滞児施設であることを配慮するなど表現を穏当にする等の配慮がなされていた。更に、支援団体の動き及び捜査妨害の事実については当時の新聞縮刷版で内容を確認した。また、原告がマスコミを通じて積極的に発言していたことから本件小説を出版しても問題ないと判断した。そして、本件小説の中に、フィクションである旨の断り書きを記載して、読者に注意を呼びかけた。

 (三) 本件小説に限らず、現代において、多かれ少なかれ実在の事件や事実をべースにしている小説は多い。

 小説の概念及びその社会的機能についてはいろいろな考え方があり、また時代とともに変化していくものであるが、現代においては、ノンフィクションの隆盛に見られるように、事実の世界の前に小説の存在理由が問われ、その領域を狭めているともいえるのである。その結果、現代小説のある一定のジャンルのものとしてのフィクションとの区別は容易でなく、全くの絵空事でない、実際の事実や事件をベースとし事実の重みを取り入れて説得力を持たせ、読者の共感を呼ぶような方法による小説作りを一般的とする傾向がある。現代の読者の共感を呼ぶためには、ただ「面白い」「楽しい」小説では足らず、作家の主張又は問いかけを含まない形ではあり得ないものとなってきている。小説とは、事実を記載したものではない。本件小説は、小説家である被告清水が「甲山事件」に関し評価し認定した事実に関する主張又は意見である。

 本件小説は、マスコミの断片的な報道から事実を丹念に集め、事件の全体を再構築して小説作品として提示したものであり、そこに小説としての価値がある。むろん、事件全体の再構築のためには、断片的な事実の寄せ集めでは足りず、事実と事実の間を埋めるものが必要であり、その部分には、解釈された事実、推理又は推測された事実、言い換えればフィクションの部分が存在する。この部分こそ、作家独自の考え方による、独自の観点からの事実の捉え方があるのであり、作家の責任において提示される部分である。

 原告は本件小説の右フィクションの部分を問題にしているものと考えられるが、断片的社会的事実からの推理や解釈が合理的である限り、当然表現の自由の範囲内にあるものとして許されるものである。そして、本件小説における解釈は、合理的で通常の解釈であり、悪意に基づくものとは到底考えられない。

 (四) 被告集英社及び被告清水は、本件小説文庫判の初版を出版した後、更なる出版を中止したが、これは刑事事件に影響を与えることを配慮したためである。右事実は、被告らが本件小説出版に際し、十分に配慮した事実を推認させる。

 2 名誉棄損について

 (一) 「田辺悌子」を含めた本件小説の登場人物は、被告清水の創作であり、被告清水は「田辺悌子」を表現したのであり、原告を表現したものではない。被告清水は、大学卒業後故郷を離れて就職して一、二年目の二二歳の独身女性が、何を考え、どのように行動するかを想定しながら、「田辺悌子」を創り出した。仮に原告との間に符合性又は同一性があったとしても、当時報道されていた客観的事実、そこから解釈される事実、登場人物の内面、いずれにおいても経験則に従って合理的に解釈した場合の描写を超えるものではないから、到底名誉棄損には当たらない。

 (二) 本件小説における「田辺悌子」と原告との同一性が仮に肯認されるとしても、本件小説は、「田辺悌子」が犯人であると決めつけているものではなく、犯人である容疑が濃い人物として描かれているだけである。当時の報道を見ても、原告は、極めて容疑の濃い人物とされていたのであり、本件小説は、これら報道の論調を超えた表現をしたものではない。 (三) 原告は、原告の無罪判決の後、被告清水が、新聞社の求めに応じ、自分の確信はあくまで原告の有罪であると述べたことを問題としているが、仮に被告清水が内心において原告が犯人であると考えていたとしても、本件小説において「田辺悌子」が犯人であると断定的に表現していない以上問題にならない。

 (四) 名誉として保護の対象となっているものは、主観的感情や希望的観測ではなく、客観的で現実的な社会的評価であるところ、原告は、「甲山事件」につき、無罪を前提とした社会的評価を受けていないことは明らかである。一般に、公訴を提起されることは、少なくとも容疑があるということを意味するし、容疑が十分でなければ起訴されないから、一般的表現によれば「容疑が濃厚」ということになる。本件小説単行本の出版当時には、原告は公訴提起はされていなかったものの、後に検察審査会において不起訴不当の議決がなされたことからすると、潜在的容疑はあったものと認められる。また、本件小説文庫判が出版されたのは原告の公訴提起後であり、原告の社会的評価は本件小説単行本出版当時よりも更に低下していた。

 また、無罪推定の原則があるからといって、被疑者ないし被告人に対し「容疑がある」又は「容疑が強い」との意見を述べることが常に名誉毀損になるものではない。

 (五) 名誉侵害において、違法とされる対象行為は表現行為であり、表現物の中の事実摘示であり、事実摘示でない単なる意見は、原則として、名誉侵害の対象とはならない。すなわち、意見の表明、ひいては表現の自由は、民主主義の根幹として最大限に保障されるべきものであり、たとえ虚偽の意見、間違った思想であるとしても、それは名誉侵害の対象として処罰または民事上の損害賠償の対象とすべきものではなく、批判、反論など言論の応酬や多数の思想の共存の中で淘汰されていくべきものである。

 小説は、「事実」と「意見」の分類でいうならは、原則的に「意見」に属する。小説は全体としてフィクションであるが、場合によっては、小説中の一部の個別的記述、具体的記述を取り上げ、名誉毀損の土俵に乗せることは可能であり、十分あり得ることである。その場合、取り上げられた個別的記述、具体的記述は、事実そのものと言う場合もあるし、ストレートに事実とは言えないにしても、事実と評価できるという場合もある。この場合は、事実と主張された対象範囲を確定し、事実と言い得るかどうか判断したうえ、通常の法的判断に従って名誉毀損の有無を判断すればよい。

 しかし、小説を一冊全体として名誉毀損の問題とするのならば、それは、事実の問題ではなく、意見として問題にすべきである。すなわち、本件小説は、当時報道されていた断片的事実を拾い集めて、事件全体を再構築したものであり、事実と事実の間を埋めている解釈された事実、推理された事実、フィクション部分が作家の責任において呈示される部分であり、本件小説は、小説家の目を通して、小説家が評価し認定した事実に関する意見というべきものである。

 そして、意見に関しては、事実とは別の法理によって、名誉毀損の有無が判断されるべきである。なぜなら、意見については、事実の場合における真実性の証明や真実と誤信したことの相当性の証明は不可能である。しかし、意見が、名誉毀損的であるから、そしてそれにより社会的評価が低下されたからといって、それだけで直ちに名誉毀損とされるのは、表現の自由が憲法上の要請であることから正しい在り方ではない。問題とされる当該行為の内容を検討し、その上で、名誉毀損の要件としての違法性の要件、責任の要件を定めていくことが、表現の自由の観点から必要である。

 小説のような表現物は、一つの事実や意見を書いたものと容易に決められるものではなく、多面的でかつ多義的な解釈があり得るものである。小説の骨格的要素に絞ってみたとしても、解釈が一つや二つはあり得るものである。表現が曖昧で、解釈が難しい多面的な意味を持つ表現に関しては、事実の言明とはみなすことができず、名誉侵害の根拠とすることはできないというべきである。

 本件小説は、殺人事件の捜査手法を写実的に書いたというような解釈も当然成立するし、他方、田辺を殺人事件の被疑者として特定し、身柄を拘束した上で、自白に追い込んでいく過程を書いたことから、被控訴人が甲山事件の犯人であることを書いたと解釈することも不可能ではない。さらに、田辺が犯人である可能性が高いとするにとどまるものであった可能性もあり、捜査官の報われることのない苦労を書いた、この程度の証拠では有罪とすることが難しいことを書いた、容疑者と支援団体が捜査妨害ともいえる活動を行っていることの問題を指摘したもの等々、種々の解釈がありうるし、読み方も、現実をあるがまま中立に書いた、肯定的に書いた、否定的に書いた等、本件小説の解釈については、読者が立つ立場によって、いろいろ解釈が可能である。また、読者に考えさせる、あるいは任せたと考えられる部分も多くある小説である。

 このように、多様な解釈が可能な本件小説については、結局のところ、ある特定の事実の言明とはみなされず、意見ないし主張と考えられるので、前述の理由から、その一つを取り上げて名誉毀損の摘示事実とすることは許されないというべきである。

3 違法性阻却事由

 (一) 当該事件が世間の耳目を集めたような公共性を有するものであった場合には、目的や手段が相当であるならば、当該事件につき「この被告人には容疑がある(又は容疑が強い。)。」との意見を発表することは許される。

 「甲山事件」は、事件自体は特殊であったのみならず、事件発生後の原告を含む関係者がとった態度も世間の目を奪うものがあり、それを考慮すると、その公共性及び公益性は第一級のものである。したがって、表現の目的、手段及び方法が相当であれば、原告に容疑がある旨の意見を癸表することは当然に許される。

 (二) 名誉毀損的事実の言明が、起訴された被告人について、「犯人である疑いがある」程度にとどまり、起訴された公訴事実を踏み越えていない限り、当該犯罪の被告人として、起訴されていることが主張立証されたときは、その証明があったものとして、違法性が阻却されると解すべきである。

 名誉毀損における違法性阻却事由の立証責任は、立証テーマとの関係において、個別的に考えるべきであり、名誉毀損が問題となる表現内容によって異なるものである。

 逮捕又は勾留されるなど、社会の表面に出て問題となる以前に、ある者が「○○が○○事件の犯人である」旨表明すれば、その者は、○○が犯人であることの真実性又は誤信の相当性について立証責任を負い、逮捕、勾留あるいは起訴後に、その者が「○○が○○事件の犯人である」旨表明する場合には、その者が、被疑事実又は公訴事実を超えて、名誉毀損的表現を付加しない限り、犯人である疑いがあることの真実性又は誤信の相当性について立証責任を負わない(ないしは形式的に負ったとしても、立証は尽くされている。)というべきであり、付加的表現がある場合には、その者は、付加した部分の真実性又は誤信の相当性について立証責任を負うというべきである。

 本件小説は、被控訴人が甲山事件の犯人であるとの印象ないし疑いを抱かせる程度のものであり、かつ、起訴された公訴事実を踏み越えていないから、真実性または誤信についての立証責任を負わない(ないしは形式的に負ったとしても、立証は尽くされている。)というべきである。

4 消滅時効の抗弁

 (一) 五(被告清水の主張)4(一)及び(二)に同じ

 (二) 被告集英社は、平成六年九月二七日の本件口頭弁論期日において、右の消滅時効を援用する旨の意思表示をした。

七 被告祥伝社及び被告伊賀の主張

 1 被告祥伝社及び被告伊賀は、本件小説新書判出版当時、本件小説が「甲山事件」にヒントを得たものであることを知らなかったし、被告清水が本件小説の執筆に当たりどのような資料を参考にしたのかも知らなかった。

 被告祥伝社は、被告清水から、本件小説を判型を替えて発行しないかと申し出を受け、それ以前にも被告清水の作品を新書判で発行していたことから、右申し出を了承したものであった。

 日本で有数の出版社(控訴人集英社)より単行本が発行され、その出版社あるいは著者(控訴人清水)から、作品の内容に関して特クレームがあった旨の報告も受けていない場合、版型を変えて「小説」を発行する出版社としては、当該作品の記述、表現、構成、描写等作品自体から、問題が容易に想起される場合はさておき、さらにそれ以上の内容に関する調査をする注意義務はないというべきである。

 また、現実に起った事件を素材にして作品が書かれていることを知り得る場合においても、出版社において、作品の基礎となった事実まで調査する義務はなく、基礎となった事実が誤りであることを知っていた場合、あるいは、基礎となった事実が誤りであってもかまわないとの意図のもとに、出版がなされた場合のみ、責任を負うものと解すべきである。

 本件小説新書判発行に際し、控訴人祥伝社は、出版社として、必要な注意義務を怠っておらず、控訴人祥伝社には、責任がない。

 出版社が作品につき独占的な販売権を有していることはむしろ稀であり、通常有しているのは特定の判型に限定された出版権である。他方、単行本発行から新書判発行までの期間が短いことも決して稀なことではない。被告集英社発行の本件小説の単行本の発行と被告祥伝社の新書判の発行が近接しているからといって、被告祥伝社が事情を知悉して本件小説を発行したことにはならない。

 もとより、被告伊賀は、被告祥伝社の本件小説新書判の発行につき、諸活動を一般的に監督する統括責任者であったことはないし、右発行を指揮命令したこともない。

 2 違法性阻却事由

   本件小説は、次のとおり、違法性阻却事由がある。

 (一) 本件小説には、具体的な記述において、名誉毀損となるような部分がない。

 (二) 本件小説は、警察の捜査陣を主人公として犯罪捜査の難しさを訴えるものであり、同時に、甲山事件の真相を推理するものであったとしても、犯罪行為の真相を究明すること自体は、何ら非難されるべきではない。

 (三) 本件小説新書判が出版された当時、被控訴人は、殺人事件の被告人として起訴されていた。嫌疑がなければ起訴されることなく、日本の刑事裁判の有罪率が九割を上回るものであることは、公知の事実であって、被控訴人が当時享受していた社会的評価は、このような殺人事件の被告人としてのものである、それ以上のものではなかった。本件小説は、現実にはすでに被告人とされている人物を、被疑者として描いているに過ぎず、それも公訴提起さえ行うことのできない程度の被疑者に止めている。本件小説は、どの部分をとっても、田辺を犯人と断定している部分はなく、あくまで被疑者の一人として描いており、当時すでに被告人であった被控訴人が享受していた社会的評価をさらに低下させるものではない。

 (四) 甲山事件は、精神薄弱児施設で、園児二名が浄化槽で溺死したという極めて悲惨な事件であり、右事件につき作品を書くことは、公共の利益と直接的な係わりがある。

 (五) 被控訴人は、甲山蓼件の保母であったもので、事件発生後、施設関係者は、事実の究明にあたるよりは、むしろ反権力を提唱して、警察と対立する運動を行ったが、一方死亡した園児に対する配慮は殆ど感じさせないものであった、被控訴人は、釈放後、自らマスコミに登場し、さらに支援団体を組織して、多数の出版物も発行していた。

 これらの事実からすれば、甲山事件に関する限り、被控訴人の地位は公的人物と同様であり、論評の対象となることは避けられない立場であった。

 (六) 甲山事件のような重大事件で、かつ、右のような諸要素がある場合、一般人が未解決の刑事事件につき意見を言うこと自体は、何ら制限されない。そして、既に、被告人として公訴が提起されている人物を描くにつき、一定の事実が認められるとすれば、あるいは一定の事実が認められる以上、容疑が濃厚であるとの意見を述べることは原則として許される。本件小説において、田辺を犯人と断定した記述はなく、表現においても不穏当な部分はない。

 以上(一)ないし(六)のとおり、本件小説は、違法性阻却事由に該当する事由がある。

 なお、本件において、真実性の証明の対象は、被控訴人が甲山事件の犯人であるということではなく、被控訴人が甲山事件を犯した疑いがあるということであり、かつ、被控訴人が甲山事件の犯人として、起訴された場合には、有罪判決がない段階においても、真実性の証明はなされたものとして、違法性は阻却されるというべきである。

 3 消滅時効の抗弁

 (一) 原告の支援団体である「沢崎悦子さんの自由を取り戻す会」が発行する,「支援通信」昭和五四年七月号には、本件小説新書判が発行された旨の記載がある。したがって、原告は、遅くとも昭和五四年七月には、本件小説の発行及び販売の事実を認識していた。

 (二) 右認識の時点から三年が経過した。

 (三) 被告祥伝社及び被告伊賀は、平成六年九月二七日の本件口頭弁論期日において、右の消滅時効を援用する旨の意思表示をした。

 (四) 名誉毀損に基づく損害賠償請求においては、被害者の社会的評価が、小説の発行により低下されたことが必要であり、かつ、それをもって足りると解されるところ、社会的評価の低下は、小説の発行後一定期間(書籍がある程度広く流布されたと認定できる期間)経過後に発生する。そして、その後さみだれ的にごく少部数の書籍が流通に置かれたとしても、既にその段階では、被害者の社会的評価は低下した状態となっており、新たな社会的評価の低下をもたらすものではない。したがって、社会的評価が低下した後の書籍の流通が継続的不法行為とされるためには、新たな社会的評価の低下をもたらすと認定できる程度の、一定範囲、一定数量の書籍の流布が必要である。

 控訴人祥伝社は、本件小説新書判を二万部印刷し、その殆どは、昭和五四年五月に流通に置かれ、遅くとも、半年経過後には、流通に置かれなくなった。その後、返品されたものがさみだれ的に流通に置かれたことはあるが、ごく少部数に過ぎず、一定範囲、一定数量の書籍の流布とは到底いえるものではなかったから、被控訴人に対して新たな社会的評価の低下をもたらすものではなかった。

八 被告小学館の主張

 1 本件小説の新書判が発行された昭和五四年五月一日当時、被告祥伝社、被告小学館、訴外小学館販売の三者間における昭和四八年八月一八日付業務委託契約に基づき、被告小学館は、被告祥伝社から、同社発行の全ての書籍の販売業務の委託を受け、右業務を訴外小学館販売に代行させていた。

 すなわち、通常、雑誌及び書籍類は、出版社から取次店へ、取次店から小売店へと、それぞれの販売委託契約の形態で流通に置かれるものであるところ、被告祥伝社は、昭和四五年一一月に設立された後昭和五六年二月末日に至るまで、取次店との間の販売委託のための取引口座を有していなかったため、被告祥伝社の発行する全ての雑話及び書籍類に関する取次店との間の販売委託をなしえなかった。そこで、被告祥伝社の取引口座として被告小学館の取引口座を利用する目的で、前記業務委託契約が締結された。本件小説の新書判の奥付に「発売 小学館」との記載があったのは、右書籍の流通の関係上、小売店及び取次店からの注文又は返本の処理の宛先として、取引口座を有する被告小学館の表示をする必要があったためであるにすぎない。

 被告小学館は、前記業務委託契約の期間中、被告祥伝社発行の全ての書籍を販売したが、各書籍の内容、定価、発行日及び販売部数等については被告祥伝社において決定し、被告小学館は関与しなかった。また、それらの販売についても各取次店に対し委託していたのであり、流通に関しては取次店と同程度にしか関与していない。

 したがって、被告小学館としては、本件小説の内容、それが「甲山事件」及び原告と関連があることなどを認識しうる立場にはなかったのであり、本件小説の販売につき、原告に対し何らの責任も負わない。

 2 消滅時効の抗弁

 (一) 七(被告祥伝社及び被告伊賀の主張)2(一)及び(二)に同じ

 (二) 被告小学館は、平成六年九月二七日の本件口頭弁論期日において、右の消滅時効を援用する旨の意思表示をした。

九 控訴人らの違法性阻却事由の主張に対する被控訴人の主張

 1 控訴人集英社は、前記六3(二)のとおり主張するが、右主張は、犯罪報道に関して、犯罪を犯した疑いがあるとして報道された記事を前提とした主張であるところ、犯罪報道と小説とは表現目的に違いがある上、本件小説は、田辺を光明療園事件の犯人と断定しているのであるから、被控訴人集英社の方主張は、その前提を欠くものである。

 2 控訴人祥伝社は、前記七2のとおり、本件小説には、違法性阻却事由がある旨主張する。

 しかしながら、本件小説における名誉毀損にかかる摘示事実は、被控訴人が、甲山事件の犯人であるとしていることであり、本件小説は、甲山事件の当時の極秘捜査資料を、殆ど原形をとどめたまま用いているのであって、いわゆる暴露小説や実録小説と異ならず、仮に警察の捜査陣を主人公として、犯罪改査の難しさを訴える小説を描くとしても、甲山事件における捜査資料や事実関係を、そのまま用いるような必然性は何もなく、かえって、犯罪捜査の難しさを訴えるものとする以上、捜査陣に追及される被疑者が真犯人でなければ成り立たない構成になるのであって、この点からも、モデルとされた被控訴人の名誉を毀損することは避けられないものであり、本件小説の主題から、その違法性を弱めるようなものとは解し得ない。

 本件小説の骨格的事実と、モデルとされた個人の社会的評価の係わりの点についても、本件小説が犯罪捜査の段階を描いているため、田辺が被疑者として登場しているに過きず、本件小説が、田辺が犯人であるとの印象を与えるものである以上、刑事被告人とされている人物の社会的評価を下げるものであることは、明らかである。

 甲山事件は、園児二名が浄化槽で溺死したという、極めて無惨な事件であったが、公共の利益との係わりで問題にすべきは、その事件をモデル小説として取り上げることが、社会的にどのような積極的な意味、社会的貢献があるか、という点であって、事件の無惨さそれ自体が公共の利益ではない。

 被控訴人が甲山学園の保母であるとしても、それ自体は社会的に見て公的人物と評価しうる立場ではなく、また、犯人としていわれなき責任を追及される以上、それに対して、反論・防御の行動をとるのも当然のことであって、これをもって、公的人物と同様の評価を与えることはできない。

 無罪を争っている被控訴人にとって、多数の部数が出版される小説でもって犯人とされることは、社会に与える影響が大きく、裁判で無罪を得ても、小説を読んだ読者には、それでも真犯人は被控訴人であるとの印象を与えかねないものであって、その名誉毀損行為の与える結果は、決して軽いものではなく、また、本件では殺人事件の犯人ということであり、その名誉毀損の内容としても、重いものがある。

 控訴人祥伝社は、本件における真実性の証明対象は、「被控訴人が甲山事件の犯人である」ということでなく、「被控訴人が甲山事件を犯した疑いがあるということである」と主張するが、本件小説には、被控訴人が甲山事件の犯人であるとした点について、名誉毀損行為があるのであって、控訴人祥伝社の主張には理由がない。

一〇 被告らの消滅時効の主張に対する原告の主張

 1 書籍の出版は、これを流通市場に置くことであって、そうした状況が続く限り、名誉毀損の不法行為は継続しているのであるから、本件小説を一旦流通市場に置いた以上、これが回収されない限り被告らの不法行為は終了しない。したがって、本件において、原告の被告らに対する損害賠償請求権の消滅時効は進行しない。

 本件小説の単行本、新書判及び文庫判の内容が同一であるとしても、各小説は、いずれも控訴人清水と他の控訴人らとの間で、別個の出版権設定契約を締結し、これに基づき、各々別個に編集、出版されたものであるから、各々別個の不法行為を構成するものというべきである。

 本件小説新書判は、昭和五九年二月の段階では、その在庫があり、流通に置かれていた。

 2 仮に、消滅時効が進行するとしても、原告は、昭和六一年二月二五日、本訴を提起したので、これにより右時効はその進行を中断した。

第三 当裁判所の判断

 当裁判所も、被控訴人の控訴人らに対する請求は、原判決が認容した限度で理由があり、その余は失当と判断するが、その理由は、次に付加訂正するほか、原判決の「第三 当裁判所の判断」記載のとおりであるから、これを引用する。

一 本件小説執筆に係る経過

 被告清水本人尋問の結果によれば、以下の事実が認められる。

 1 被告清水は、昭和五二年春ころ、被告集英社から書き下ろしの長編推理小説の執筆の依頼を受け、これを承諾した。被告清水は、右執筆に際し、テレビの刑事物にないような地道な捜査活動の描写を通じて、本来の警察の姿、捜査方法を紹介する警察小説の形を取ることを構想した。

 2 被告清水は、右構想当時、いわゆる「甲山事件」について、同事件は、精神遅滞児施設内にある浄化槽から園児二人の死体が発見された衝撃的かつ特異な事件であり、外部から隔絶された施設内での事件であるにもかかわらず、犯人が容易に断定されず、施設職員の組合が警察署周辺において、身柄拘束をされた原告を支援するシュプレヒコールをかけるなど捜査活動が妨害される状況の下で、警察は、一貫して地道な捜査を続けているとの認識を有していた。

 3 そこで、被告清水は、前記1の構想に係る警察小説の題材として、「甲山事件」が適当であると考え、三人体制の取材スタッフを組織して、マスコミを中心とした周辺取材、更に、本件小説の執筆資料としての新聞、雑誌等の「甲山事件」に関する記事等の収集を開始した。なお、被告清水は、右取材の過程で、原告や「甲山事件」の被害園児A女及びB男の遺族等に直接面会して取材する方法は取らなかった。ただし、被害園児B男の母親に対しては、その手記(甲第二一号証と同じ内容のもの)の存在を知り、これを本件小説中で転用させてほしい旨の手紙を出して、同女の了解を得た。

 4 被告清水は、昭和五二年八月に本件小説の執筆を開始し、同年一二月に被告集英社に対し完成原稿を交付した。

二 本件小説の内容について

 1 成立に争いのない甲第一号証の一、二、第七号証の一、二、第八号証の一、二によれば、本件小説の内容は概ね以下のとおりである。

 三月一七日午後七時五分、神奈川県警鶴見警察署獅子ケ谷派出所に、横浜市鶴見区獅子ヶ谷町の精神遅滞児を収容する社会福祉施設である光明療園で一二歳の女子園児新田文子が行方不明となったとの連絡が入る。警察の捜索にもかかわらず、新田文子は見つからない上、更に一九日には男子園児土井衛が行方不明となり、結局、同日午後九時三〇分、園内の浄化槽から、右園児二人の遺体が見つかる。

 神奈川県警捜査一課長の桐原重治ら捜査官は、状況から殺人事件と考え、捜査を開始する。施設職員に対する事情聴取がなされる中で、畔上浩指導員の非協力的な態度が際だっている。施設への外部からの侵入は極めて困難であることや被害園児の性格等から、犯人は施設内部の者であると考えられる。二二日の療園葬で、田辺悌子が「わたしがいけなかったんだわ。わたしのせいよ!」などと絶叫する。田辺悌子は、一七日の宿直であった保母であるが、その容姿は、「肩幅のがっしりとした、小肥りで丸顔、髪を無造作に後ろで束ねた目の細い」女性と描写されている。

 施設の用務員や他の園児の犯行の可能性も検討されたものの、結局、容疑は施設の職員である畔上浩、田辺悌子ほか二名に絞られる。また、土井衛の遺体の胃から発見された食後一時間以内の未消化のみかんの残滓も有力証拠とされる。

 その後、田辺悌子が一九日にみかんを買ったとの証言が得られた。また、施設の他の園児から、田辺悌子が、一七日に新田文子を、一九日には土井衛をどこかに連れ出したことの証言も得られた。また、他の職員の証言から、一九日夜の田辺悌子の行動やアリバイにも疑問点が生じていた。

 捜査本部は田辺悌子と畔上浩に対し任意出頭を求めるが、拒否される。捜査会議の結果、土井衛殺害の被疑事実で田辺悌子の逮捕状と捜索差押許可状を請求することに決まる。

 四月四日、施設に赴いた捜査官に対し、田辺悌子は任意出頭を拒否し、逮捕状の緊急執行を受ける。畔上浩以下の施設職員組合員や扇動された施設園児の父母らが田辺悌子の引致を妨害しようとするが、警官たちに排除される。

 田辺悌子は、引致後も犯行を否認する。田辺悌子のアパートが捜索され、一九日夜着用していた黒色のラッフルコート、引き出しの中にあった「えらいことをしてしまった」という走り書きのあるノート等が差し押さえられる。

 捜査官同志の会話の中で、田辺悌子にポリグラフ検査をしたところ特異反応があったこと、施設の職員組合員や他の上部団体員が田辺悌子の身柄のある鶴見警察署にデモをかけ支援のシュプレヒコールを続けており、それが田辺悌子の供述に影響を与えていることが示される。

 田辺悌子は、取調に対し、黙秘を続けていたが、捜査官の理詰めの取調に対し、アリバイ供述を微妙に変化させ始める。また、光明療園では、軽度遅滞の園児達の多くが始業式にも登園しないという事態となり、畔上浩が園児の父親の一人に糾弾される場面、畔上浩が施設の保母の一人に対し、同女が田辺を官憲に売った者として糾弾する場面が挿入される。

 有力な物証として、科学捜査研究所の低倍率顕微鏡では断定できなかった、土井衛のセーターと田辺悌子のラッフルコートの繊維の相互付着の事実に対し、電子顕微鏡を用いることにより、事件解明への光明が見出される。また、捜査官同士の会話の中では、新田文子の事件は過失致死、土井衛の事件は殺人であり、田辺悌子と男女関係にあった畔上浩が、田辺悌子から新田文子の過失致死の事実を打ち明けられ、土井衛の殺人を教唆したとの可能性が示唆される。

 職員組合のデモや弁護士の接見により態度を硬化させていた田辺悌子であるが、四月一七日、組合員のシュプレヒコールの聞こえる中で、浄化槽のマンホールの上で折檻していると新田文子が暴れ出したため、手を滑らして浄化槽の中に落としてしまったこと、それを見ていた土井衛にみかんを与えて、外で食べようと言って呼び出し、浄化槽に連れていって落としたことを自白し、土井衛を抱え上げた方法を捜査官の前で実際にやってみせる。右自白後、房に帰りたくないといっていた田辺悌子は、その夜、ハイソックスやパンティの紐で自殺を図る。そして、翌一八日には、田辺悌子は、再び否認に転じる。

 繊維の相互付着については合致に極めて近い酷似との鑑定結果を得ることができたが、担当検事は起訴に消極的な様子であった。捜査官の桐原重治が捜査に対する更なる努力を決意するところで本件小説は幕を閉じる。

 2 以上に照らすと、本件小説は、神奈川県警捜査一課長である桐原重治を主人公として、殺人事件の捜査手法を写実的に描いたという側面も肯定できないものではないが、むしろ、本件小説は、その構成要素の重要部分が、精神遅滞児施設において園児二名が浄化槽の中から遺体で発見されるという特異な状況の下で、当該施設の保母が容疑の濃厚な被疑者として捜査の対象となるという過程を詳細に描写することによって占められていることは、前記1からも明らかであるところ、右に挙げた本件小説の構成要素の重要部分は、まさしく、前記第二、二、3記載の「甲山事件」の事実関係の構成要素と同一のものであることは疑いを入れないところである。前掲甲第一号証の一、二、第七号証の一、二、第八号証の一、二及び成立に争いのない第五号証並びに弁論の全趣旨によれば、本件小説の登場人物のうち、被害者である「新 田文子」、「土井衛」はいうまでもなく、その他重要人物として登場する「田辺悌子」保母、「畔上浩」指導員、「坂井京治」園長、「駒村郁夫」副園長、「若原淳次」指導員、「池田好一」指導員、「中原保子」保母が、いずれも「甲山事件」の関係者である原告、N.S.、荒木潔、Y.T.、M.T.、N.M.、O.ことT.N.であることは容易に認識することができる。右の各人物以外に、本件小説中で「光明療園」側の重要人物として登場する者はないに等しく、これらに匹敵するような人物も被告清水によって創造されていない。また、前掲甲第一号証の一、二、第五号証、第七号証の一、二、第八号証の一、二及び弁論の全趣旨によれば、本件小説に記載されている「光明療園」の施設の配置状況も、「甲山学園」のそれと基本的に同一であることが認められる。

 また、前掲甲第一号証の一、二、第五号証、第七号証の一、二、第八号証の一、二及び弁論の全趣旨によれば、本件小説は、事件の舞台を、「甲山事件」が発生した兵庫県西宮市ではなく、神奈州県横浜市鶴見区としていることが認められるが、右のように事件の舞台を移したことにより本件小説の内容に影響があったかどうか、すなわち、周辺地域との関連から地域的な特徴が現れたかどうかという点については極めて疑わしいのであって、右は単に地名を形式的に置き換えたに過ぎないといわざるを得ない。

 そうすると、本件小説は、「甲山事件」の要素となっている諸事実をそのまま用いた設定の下で、桐原重治以下の捜査官が「田辺悌子」を殺人事件の被疑者として特定し、身柄拘束した上で自白に追い込んでいくという過程を描いているということができる。

三 いわゆる「モデル小説」とプライバシー・名誉の侵害

 1 実在の事件からの取材に基づいて執筆された小説において、その中で摘示された事実は、「小説」という表現形態の性質上、「作者の資料・取材等に基づく事実」(以下「素材事実」という。)と「作者がその想像で補った虚構の事実」(以下「虚構事実」という。)に概念上は区別され得る。虚構事実の全く存しないものはもはや小説ではない。

 しかして、右のような実在の事件に基づく小説の執筆(事実摘示)の方法も一様ではなく、次の二通りがあるものと考えられる。すなわち、

 (一) 小説の描写中において、素材事実が、(小説のモデルとなった)本来の事件をもはや具体的に想起させないほどに完全に消化され、作家の想像・虚構に基づく小説の構成要素に換骨奪胎されてしまった場合(もはや虚構事実そのものになってしまったといえるような場合もあり得る。)

 (二) 小説の描写中において、素材事実の重要な一部ないし全部が、本来の事件を容易に具体的に想起させる程度に原形をとどめた形で、使用された場合

 そして、右の(二)の型の小説にも、更に次の二種類の類型が存するということができる。

  (1) 素材事実と虚構事実(及び作者の意見表明)との間が截然と区別されている場合

  (2) 素材事実と虚構事実とが渾然一体となって、区別できない場合

   右の(二)の手法により執筆された小説は、その取材元=モデルが容易に想起できるという意味で、まさしく「モデル小説」であるということができる。

 2 モデル小説は、当該小説のモデルとなった事件(以下「モデル事件」という。)ないし個人の注目度ないし話題性ゆえに、虚構事実(フィクション)を織りまぜることにより、これに対する読者の関心を当該小説への関心に転換し、ひいては、多くの読者の購読意欲を高めて、これを取り込むことに執筆目的の主たる部分が存するということができる。この点は、新聞記事のみならず週刊誌の記事とも異なる特質を有するものである。

 そして、モデル小説を読む際、一般読者は、その描写中の素材事実を具体的に認識し、それが自ら入手していたモデル事件の情報と一致することを認識し確認しながら読み進むのが通常である。けだし、マスコミが高度に発達し、その報道が事実関係につき極めて微に入り細に入る手法を確立しているという現状に鑑みれば、特に当該小説のモデル事件が実在の著名事件であった場合、読者は当該小説を読む以前にマスコミ等から右モデル事件に関する情報を既に入手しているのが通常であって、読者が当該モデル小説を通じて初めて素材事実に接するということはむしろ稀れであり、また、仮に読者が当該小説中において素材事実を認識・確認できないならば、当該小説は読者の関心を引くことができないため、前記モデル小説の執筆目的の主たる部分を達成することができなくなってしまうからである。これを作者の側からいうと、読者に右のような読み方がされることによって、当該小説はモデル小説として成功したものとなるということができる。

 読者は、右のような認識・確認を経ることにより、当該小説の素材事実が真実であるとの印象の程度を更に高めていくのである。もちろん、右印象の程度は、実際の事件が発覚し報道された時期と当該小説の発行時点とがどれだけ近接していたか、実際の事件がどの程度マスコミの注目を集めていたか等にも依存する。

 そして、虚構事実と素材事実との間の境界が明確でない前記1の(二)(2)の型のモデル小説においては、右のように素材事実が真実であるとの印象が強まることにより、右小説中、虚構事実又は単なる仮定的事実に過ぎないものを、あたかも素材事実であるか、又は素材事実同様の事実であるかのように、当該小説の一般読者に誤信させる結果となるということができる。

 したがって、前記1の(二)(2)の型のモデル小説は、その作品形態自体から原則として、小説の中における摘示事実が素材事実か虚構事実かを問うことなく、モデル事件又はその素材事実に関係した個人にとって、当該摘示事実がみだりに公開されることを欲しない私生活上の事実である場合にはプライバシーの侵害となり、また、当該摘示事実が当該個人の社会的評価を低下させるような事実である場合には名誉の侵害となるものと解するべきである。

 この場合、当該小説によるプライバシー又は名誉の侵害者側は、当該事実が素材事実でなく虚構事実であることを立証しても、そのことから直ちに右権利侵害の事実を否定するものではないというべきである。けだし、前記1の(二)(2)の型のモデル小説においては、その一般読者の見地からは当該摘示事実が素材事実から虚構事実を区分して、これを別個のものとして認識することはできないからである。

 そして、@前記のとおり、モデル小説は、モデル事件ないし個人の注目度ないし話題性ゆえに、素材事実に虚構事実(フィクション)を織りまぜて迫真性等を持たせるなどにより、これに対する読者の関心を当該小説への関心に転換し、ひいては、多くの読者の購読意欲を高めて、これを取り込むことに執筆目的の主たる部分が存するものであって、本来、事実の客観的な論評ないし批判を意図し、これを目的としたものではないことの外に、A人は、小説のモデルとされることにより、多かれ少なかれ、その名誉ないしプライバシーが侵害されるので、本来、無闇に小説のモデルとされるべき理由がないのに対し、作家及び出版社は、当該モデルとされた個人の犠牲において営利を得るものであることなどの特質があるので、モデル小説の摘示事実がモデルである個人の名誉を毀損する内容のものであるときば、右小説の執筆出版は、原則的に違法性を有するというべきである。もっとも、当該小説の摘示事実が素材事実と虚構事実により渾然一体、不可分の関係において構成されながら、右摘示事実のうちの特定の素材事実、又は素材事実と虚構事実から演繹される特定の事実が当 該モデル小説の骨格的要素をなしているときに、右骨格的要素をなす事実が公共の利益に関する事柄であり、かつ、真実であること又は真実であると信じるにつき相当の理由があることを立証したときは、例外的に当該小説の摘示事実全体の名誉侵害の違法性が阻却される場合があるというべきである(控訴人清水は、モデル小説も小説である以上、原則的に表現の自由として、認められるべきであり、その中の具体的描写が個人のプライバシーや名誉を侵害するに至った場合、初めて違法性を帯びるのであって、モデルとなる人物、モデル事件がある場合、これらを素材に書いた小説が、原則的に違法性を帯びるとなれば、もはや表現の自由を否定することになりかねない旨主張する。しかしながら、モデル小説も小説である以上、表現の自由として、認められるべきであるとの控訴人清水の主張を前提としても、個人のプライバシーや名誉との関係において、小説における表現の自由が常に優先するものといえないこと、モデル小説のうち、前記1(二)(2)掲記の「素材事実と虚構事実とが渾然一体となって、区別できない場合」に該当するモデル 小説においては、一般読者に対し、前記説示のとおりの誤信をさせる結果となることから、右小説の中の摘示事実が、モデル事件又はその素材事実に関係した個人にとって、そのプライバシーにかかる事実もしくは社会的評価を低下させるものである場合には、プライバシーあるいは名誉の侵害となり、右説示にかかる違法性阻却事由がない限り、原則として違法性を有するというべきであって、右のように解したとしても、モデル小説につき、小説として有する表現の自由を否定するものということはできないので、控訴人清水の右主張は、前提を異にするものとして、採用することができない。)。しかして、前記のモデル小説の特質等に鑑みるとき、右違法性が阻却されるか否かは、当該名誉毀損に係る摘示事実の内容、当該小説の主題及び性格、当該小説の骨格的事実と当該モデルとされた個人の社会釣評価の低下との係わり、右事実と公共の利益との係わり及びその程度(その係わりが直接的なものか否か)、モデルとされる個人の社会的地位ないし立場、毀損される名誉の内容及びその名誉毀損の程度等の事情を総合考慮して判断すべきで ある。そして、右違法性が阻却されるのは、当該モデル事件等の公共の利益との直接的な関係において、当該小説の主題及び性格から、モデルとされた個人の名誉毀損の事実を押してでも、当該モデル小説を執筆出版することが適当とされるか、あるいはその必要性があると判断される場合に限られるべきである。しかしながら、モデル小説については、その特質及び形式等からみて、右要件を具備して違法性が阻却される場合は決して多くないといえよう。

 3 なお、以上のように解したとしても、作家としては、虚構事実を交えず、素材事実のみに基づき、自己の意見表明の部分を明確にした前記1の(二)(1)の型のモデル小説(それは、もはや小説ではなく、「ノンフィクション」又は「評論」の手法に近いものとなるとも考えられるが、かつては「文学」と「小説」が同義語であったことを考えると、あながち奇妙なことでもない。)という手法を取ることによって、自らの表現作品の中で素材事実を摘示し、それを配列、編集し、本件小説と同じ内容の意見表明を行うことも不可能ではない。また、前記1の(一)の型の手法を取ることも可能であることはいうまでもない。更に、前記の1の(二)(2)の型のモデル小説にあっても、可能な限り、モデルとされるべき本人の承諾を得た上、執筆出版することによって、これを補いうるところである。

 もとより、表現の自由は民主主義の根幹をなす重要なものではあるが、小説又はモデル小説という表現方法又は形式の選択という点に関しては、他の表現手段を採りうる余地がある以上、人間の尊厳から直接的に導かれるべき人格権の一つであるプライバシー権又は名誉権に劣後する場合があると考えても差し支えないということができる。前記1の(二)(2)のモデル小説の手法による事実摘示が素材事実の関係者の権利を侵害する許されない表現方法又は形式であるとしたとしても、作家の表現の自由に対する不当な制限となるものではないというべきである。

四 本件小説のモデル小説性

  本件小説について検討するに、本件小説が実際の事件である「甲山事件」を素材としたものであることは、明らかである。そして、その素材事実については、捜査に関する資料そのものの形式を巧みに踏襲すること(例えば、被害園児の解剖鑑定の結果、駒村郁夫及び田辺悌子の「供述書」、県警の北沢功次の捜査報告書等)により、あたかも捜査資料そのままを忠実に表現したかのような印象を強めている一方、捜査に対する原告の対応(事情聴取や逮捕に対する反応等を含む。)、園児の捜査官に対する供述態様や原告本人の取調状況、自白の態様、状況(この点が、「甲山事件」に関する刑事事件において、公判証言又は自白の信用性に関して重要な争点になっていることは公知の事実である。)等の事実についても、一貫して捜査官の視点から臨場感あふれる描写手法で表現しており、素材事実と虚構事実が渾然一体となって、容易に区別できず、両事実の誤認混同を伴う危険性が極めて高いものと評価できる。したがって、本件小説は、前記三で検討した1の(二)(2)の型のモデル小説の典型的なものとして、まさしくこれに該当するもの(そして、本件小説においても、 前記三2@、Aの特質を有する。)ということができる。

 ところで、被告清水は、「甲山事件」の被害園児の遺族に不快な思いをさせたくないと考え、また、甲山学園が精神遅滞児の施設である点に配慮が必要であると考えて、本件小説の執筆上配慮し、学園内の保母も必要以上には登場させなかったし、「田辺悌子」についても、雑誌やテレビで得た原告の印象と異なるように、丸顔で小柄で活発な女性として描写するなどしたと主張する。しかし、他方、被告清水は、本人尋問において、「甲山事件」は、当時衆人の注目を集めていた事件であり、いくら小説であるからといって荒唐無稽、唐突なストーリー展開をすると、実際の事件につき知識を有している者は違和感を感じ、ひいては本件小説自体が失敗するおそれがあったので、基本的な事実は取材メモをもとにできるだけそのまま用いたとも供述しているのであり、仮に被告清水が前記配慮をしていたとしても、それは、「甲山事件」の基本的事実を動かさないとの限度内でのものに過ぎなかったのであるから、本件小説は、素材事実が「甲山事件」をもはや想起させないほどに完全に消化され、被告清水の想像・虚構に基づく小説の構成要素に換骨奪胎されたとか、虚構事実その ものになってしまったとは到底いえない。なお、本件小説の冒頭には、この作品は現実に起きた事件にヒントを得たものですが、フィクションであることをお断りします。」との文言が記されているが、右文言の存在により本件小説の内容や構成が変化するわけがないことはいうまでもなく、右文言の存在は前記の認定を何ら左右するものではない。

五 原告のプライバシー侵害の有無の検討

 1 原告は、被疑者等に関する又はそれと極めて密接な関係にある捜査資料、その他犯罪捜査で得られた情報を、刑事手続又はそれに伴う公開の手続により一般人が知り得る機会以外で公開することは、直ちにプライバシーの侵害に当たると主張する。

 しかしながら、特定の被疑者等の犯罪捜査によって得られた事実であっても、当該被疑者等の名誉又は信用に直接に関わる事項に係る事実でない限り、これを公開したことによって直ちに当該被疑者等のプライバシーを侵害することになることはないというべきである。なお、このことは、右情報の入手が違法な手段によった場合であっても、判断を異にするものではない(念のため付言するに、刑訴法四七条は、刑事訴訟に関する記録が公判開廷前に公開されることにより、訴訟関係人の名誉を毀損し、公序良俗を害し、又は裁判に対する不当な影響を引き起こすことを防止するために、あらかじめ訴訟関係書類を公にすることを原則として禁止した規定であって、右目的からすると、右刑訴法四七条は裁判官、検察官その他の訴訟関係人に対し、公開の禁止を訴訟法上義務づけているものであり、その違反が直ちに不法行為に該当するという趣旨のものではないと解されるから、右訴訟関係人以外の者はその対象ではなく、また、ある者が訴訟関係人から刑事訴訟に関する記録を事前に取得して、これを公表した事実があったとしても、その一事をもって、不法行為責任を負うこと となるものではない。)。そうすると、被告清水が本件小説において捜査資料から得た情報を公開したか否か、また、被告清水が「甲山事件」の捜査機関から違法に捜査資料を入手したか否かについて判断するまでもなく、原告の前記主張は理由がない。

 2 なお、原告は、本件において、本件小説が個人がみだりに公開されることを欲しない私生活上の事実を公開しているとの主張を何らしていないから、当裁判所は、さらに本件小説が原告のプライバシーを侵害しているか否かにつき、判断に及ばないこととする。

六 原告の名誉侵害の有無の検討

 1 前記のとおり、本件小説は、個々的事実を見たとき、一般読者において、素材事実と虚構事実が渾然一体となって区別できないモデル小説である。そして、本件小説は、前記のとおり「甲山事件」の重要な要素となっている諸事実をそのまま用いた設定の下で、桐原重治以下の捜査官が「田辺悌子」を殺人事件の容疑者として特定し、身柄拘束した上で自白に追い込んでいくという過程を詳細に描くことによって、素材事実と虚構事実の演繹的事実として、原告をモデルとする「田辺悌子」が「甲山事件」をモデルとする本件小説中の殺人事件の犯人である(ひいては、原告が「甲山事件」の犯人である)との印象を一般読者に対し与え、右事実をその骨格的要素として摘示していることが明らかである(なお、本件小説の最終場面での、本件小説の登場人物である捜査官桐原重治の「田辺悌子以外に犯人がいるのかもしれない。」との独白は、担当検事が起訴に消極的な態度を取るのに対し、再捜査の決意を固める桐原重治の脳裏を去来した述懐の一つとして出たものであるに過ぎず、本件小説の結論又は結末に当たっての作者の意見表明とは到底解することはできない。控 訴人らは、本件小説において田辺を犯人と断定している部分はないし、小説の解釈においては、その結末が重要であるところ、本件小説の結末部分は、右のとおり、犯人が不明のまま終了していること等からして、本件小説が、一般読者に対し、前記説示にかかる印象を与えるものではない旨主張する。しかしながら、前記説示のとおり、本件小説は、前記三1(二)(2)の類型のモデル小説であるということができるものであって、控訴人清水において、被控訴人が甲山事件の犯人であるとの推理に確信を得て、本件小説の執筆にあたったもので(控訴人清水本人)、甲山事件の要素となっている諸事実をそのまま用いた設定の下で、桐原重治以下の捜査官が田辺を殺人事件の被疑者として特定し、身柄拘束をした上で、自白に追い込んでいくという過程を捜査官の視点から描いたものであり、前記二1認定のとおりの本件小説の内容、構成、殊に、田辺が殺人事件の容疑者として絞られて、捜査官から追及され、逮捕後自白に至る経緯等を勘案すれば、本件小説において、直接的に田辺を犯人と断定している部分はないとしても、被控訴人をモデルとする田辺が、甲山事件をモデルとする本件小説中の殺人事件 の犯人である(ひいては、被控訴人が甲山事件の犯人である)との印象を一般読者に与え、右事実をその骨格的要素として、摘示しているとの前記説示を左右するものということはできないし、また、本件小説の結末部分は、右掲記のとおりであるとしても、前記説示に照らせば、一般読者に対し、犯人が不明のまま本件小説が終了しているとの印象を与えるものということはできないから(むしろ、本件小説の結末部分により、一般読者に対しては、これだけの証拠があっても、田辺を起訴できないのかとの気持ちを抱かせ、田辺が右殺人事件の犯人であるとの印象を、より確信させる面があることを否定し得ないということができる。)、控訴人らの右主張は、採用できない。)。したがって、本件小説は、モデルである原告にとって、右摘示事実が原告の社会的評価を低下させるものであるので、原告の名誉を侵害するものであるというべきである。

 控訴人らは、本件において、名誉毀損となるべき事実の摘示がない旨縷々主張するが、本件小説は、素材事実と虚構事実とが渾然一体となり、その演繹的事実として、一般読者に対し、被控訴人をモデルとする田辺が、甲山事件をモデルとする本件小説中の殺人事件の犯人であり、ひいては、被控訴人が甲山事件の犯人であるとの印象を与え、右事実をその骨格的要素として摘示することにより、被控訴人の社会的評価を低下させ、その名誉を侵害するものであるというべきであるから、控訴人らの右主張は採用できない。

 控訴人集英社は、本件小説は、作家である控訴人清水の目を通して、控訴人清水が評価し、認定した事実に関する意見ないし主張というべきものであり、これらに関しては、事実とは別の法理によって、名誉毀損の有無が判断されるべきである旨主張する。しかしながら、本件小説が、一般読者に対して、右のとおりの印象を与えることをその骨格的要素として、摘示したものであり、本件において、有摘示された事実が被控訴人の名誉を毀損するものであるか否かが争点となっているのであるから、控訴人集英社の右主張は、その前提を異にするものとして、採用することができない。

 そして、成立の争いのない甲第六号証の一ないし四及び被告清水本人尋問の結果によれば、被告清水は、取材の過程で収集した資料等を検討していく過程で、原告が「甲山事件」の犯人であるとの推理につき確信を得て、本件小説の執筆を開始したものと認めることができる。また、被告清水は、警察を主体とした小説という性質上、本件小説の描写は、主人公的立場にある捜査官たちの視点に立ったものとなり、その中で「田辺悌子」が容疑が極めて濃厚な唯一の容疑者として追求されていく過程を描く結果となることも十分認識していたと認めることができる。したがって、被告清水は、本件小説の執筆により、一般読者に対し、原告が「甲山事件」の犯人であるとの印象を与えることとなることを認識し、又は認識しえたと認めるのが相当である。

 2 もっとも、被告清水の本件小説執筆の意図ないし認識は、本件小説の素材事実及び虚構事実が実際に存在したと仮定すれば原告が「甲山事件」の犯人である可能性が高いとするにとどまるものであったとの可能性が考え得る。しかしながら、本件小説は、前記のようにその手法と表現方法により、それ自体、現実にも、素材事実と虚構事実の誤認混同を生ぜしめる危険性が極めて高いものである。しかも、本件小説のモデルである「甲山事件」は、歴史的事実というにはいまだ到底至っていない上、原告の有罪無罪が刑事事件において現在に至るも、なお鋭く争われており、原告は、事件の被疑者・被告人として、極めて微妙で危うい立場にあったのである。かかる状況下にある原告をモデルとして小説を執筆出版するとき、多かれ少なかれ、その名誉ないしプライバシーを侵害する恐れがあったのであるから、被告清水としては、本件小説を執筆出版するに当たっては、その取扱いには慎重な上にも慎重であることが要請されたということができる。それにもかかわらず、被告清水は、前記のように素材事実と虚構事実の違いを明確にしないまま、原告をモデルとして、本件小説 を執筆し、その中で、捜査官が「田辺悌子」を事件の容疑者として特定し、身柄拘束をした上で自白に追い込んでいくという過程を詳細に描くことによって、原告をモデルとする「田辺悌子」が「甲山事件」をモデルとする本件小説中の殺人事件の犯人であることを記述したのであって、その結果として、本件小説が一般読者に対し、全体として、原告が刑事公判で有罪になるか否かは別として、実際にも、いわゆる「甲山事件」の犯人である可能性が非常に高いとの印象を強く与え、これにより、本件小説出版当時における原告の社会的評価を低下させたということができる。したがって、被告清水の本件小説執筆の意図ないし認識が、本件小説の素材事実及び虚構事実が実際に存在したと仮定すれば原告が「甲山事件」の犯人である可能性が高いとするにとどまるものであったということはできない。

 3 ところで、名誉、すなわち個人の人格的価値についての社会的評価は、決して不変のものではなく、当該個人の置かれた客観的状況によって絶えず変動するものである。したがって、名誉侵害、すなわち社会的評価の低下の有無も、絶えず変動する当該個人の社会的評価のうち、当該侵害行為時における評価を基準として、そのいわば基準値から当該侵害行為により評価が低下したか否かが判断されなければならない。本件小説による原告の社会的評価の低下も、本件小説単行本、新書判及び文庫判の各出版当時における原告の社会的評価を基準として、そこから本件小説による原告の社会的評価の低下の有無が判断されなければならない。前記認定のとおり、本件小説単行本が出版された昭和五三年二月二五日当時、原告は、既に、昭和五一年一〇月二八日に神戸検察審査会において不起訴不当の議決を受けており、昭和五三年二月二七日の神戸地方検察庁検察官による再逮捕を間近に控えていたのであるから、原告の社会的評価は相当に低下していたものと認めうるが、甲山事件は、昭和四九年三月に発生し、被控 訴人は、同年四月七日、B男殺害の被疑事実で逮捕された後勾留されたが、同月二八日処分保留のまま釈放され、昭和五〇年九月二三日、不起訴処分となり、以後、本件小説単行本が出版された時まで約二年五か月経過していたこと、被控訴人は、昭和五〇年八月結婚し、昭和五一年六月長女を出産して、夫婦及び長女の三人で生活していたこと(乙二二の2、被控訴人本人)、被控訴人は、昭和四九年七月、甲山事件につき被控訴人は無罪であり、右逮捕勾留が違法であった等として、国及び兵庫県を被告として、慰籍料の支払及び謝罪広告の掲載を求める旨の訴訟を、神戸地方裁判所尼崎支部に提起し(右訴訟では、被控訴人のほか、甲山学園の指導員であった二名が原告となり、兵庫県に対し、被控訴人の逮捕時に警察官から暴行を受けたこと等に基き、慰籍料の支払を求めている。)本件小説単行本出版当時においても、同裁判所で、右訴訟の審理が継続してなされていたこと(乙二、三、一六ないし一八、被控訴人本人、弁論の全趣旨)に加えて、前記第二の二1のとおりの被控訴人の年齢、職歴等に鑑みれば、右事情の下でも、なお原告 は、 その品性等の人格的価値について、一市民として、相応の社会的評価を享受していたのであり、その評価自体、なお保護に値するものであったということができる。また、前記認定のとおり、本件小説新書判が出版された昭和五四年五月一日当時及び本件小説文庫判が出版された昭和五八年七月二五日当時は、原告は、既に、昭和五三年三月九日に神戸地方裁判所に起訴されていたのであるから、被告の当時の社会的評価は本件小説単行本出版の時点よりも更に低下していたものの、いまだ甲山学園の園児B男の殺害の公訴事実につき有罪の判決が確定していたわけではなかった(前記認定のとおり、実際は、その後の一審判決は原告の無罪を宣告し、その後、控訴審において破棄差戻判決が言い渡されて、その後、最高裁判所の決定により右破棄差戻判決が確定し、現在、なお、一審の神戸地方裁判所において審理中である。)のであるから、右事情の下でも、なお、原告は、その品性等の人格的価値について、一市民 として、保 護に値する相応の社会的評価を享受していたのであり、原告が「甲山事件」の犯人であるとの印象を与える事実を摘示する本件小説の出版により右社会的評価が低下したものと認めることができる。

 控訴人らは、本件小説新書判及び文庫版が出版された当時、被控訴人は、起訴され、刑事事件の被告人の地位にあったことを前提に、前記第二の四3(一)中、後段のとおり主張する。しかしながら、前記認定にかかる被控訴人が甲山事件で一旦逮捕勾留された後に釈放され、不起訴処分となった後、再逮捕されて起訴されるに至った経緯、右刑事事件においては、被控訴人の罪責の有無を巡って、検察側と被控訴人側とが、真っ向から対立し、被控訴人は刑事事件の審理において、当初から一貫して無罪を主張してきたこと(乙一六ないし一八、二四、被控訴人本人)、右刑事事件における一審判決は、被控訴人の無罪を宣告したこと等を考え合わせれば、当時、被控訴人について、検察官からみて確実な証拠があったから起訴されたのでありその結果、一〇〇パーセント近い有罪率となることを、一般市民において、十分承知し、そのような認識を持っていたとの、控訴人らの主張には、にわかに肯認し難いものがあり、むしろ、本件小説が、一般読者に対し、被控訴人が甲山事件の犯人であるとの印象を与えることにより、被告人として、甲山事件について無実を主張していて、か つ、前記説示のような社会的評価を享受していた被控訴人の右評価を低下させるものであったということができるから、控訴人らの右主張は採用できない。

七 被告らの違法性阻却事由の主張について

 1 前記のとおり本件小説は、素材事実と虚構專実が渾然一体の関係をなしながら、本件小説の摘示事実のうち、その結論的事実ともいうべき原告をモデルとする「田辺悌子」が殺人事件の犯人であるとの事実が本件小説の骨格的要素をなすので、右事実が公共の利益に関する事柄であり、かつ、右事実が真実であり、又は真実であると信じるにつき相当の理由があるときは、例外的に本件小説の摘示事実全体の違法性を阻却する場合があるというべきところ、本件において、被告らにより、本件小説のモデルとされた原告が甲山事件の犯人であることが真実であること、又は真実であると信じるにつき相当の理由があることの立証がなされたということはできない(なお、本件訴訟において、原告が甲山事件の犯人であるか否かの観点からの実質審理はなされていない。この点は、本来、刑事裁判において確定されるべき事柄である。もとより、本件小説の執筆出版が違法であるか否かは、右執筆出版の時点を基準として、本件小説の執筆出版により原告の社会的評価を低下させ、もって、原告の名誉を毀損したといえるか否かの判断であるから、仮に、後日、原告が刑事裁判におい て有罪又は無罪のいずれになったとしても、そのことは、本件小説の執筆出版の違法性の有無の判断に影響を及ぼすものではない。控訴人清水は、本件小説のモデルとされた被控訴人が甲山事件の犯人であると信じるにつき相当の理由があった旨主張するが、控訴人清水は、三人体制の取材スタッフを組織して、マスコミを中心とした周辺取材、甲山事件に関する新聞雑誌類の記事等を収集し(ただし、取材の過程で、被控訴人や甲山事件の被害園児の遺族等に直接面会して取材する方法は取らなかった。)、その過程で、被控訴人が甲山事件の犯人であるとの推理につき確信を得て、本件小説を執筆したものであるところ、控訴人清水は、右のとおり収集してきた新聞雑誌類のコピー、取材スタッフが右新聞雑誌類の担当記者等から聞いてきた情報の基礎資料をもとに、右資料の裏付け取材のために、二回ほど神戸市を訪れたこと、そして、マスコミ関係者を紹介され、同人から、供述調書、鑑定書等の捜査資料から引用した箇所もあるメモ(二センチメートルほどの厚さで、B五版の二つ折りをしたものと、その半分ほどのものの二点で、内容は、 マスコミに報道されていたようなことが中心で、時系列的に整理してあった。)を借りたこと、甲山事件の捜査主任であった兵庫県警察の警部高橋亨と会ったが、捜査に関連した話を聞くことができなかったこと、取材スタッフの一人が不起訴を不当する検察審査会の議決書のコピーを入手したこと(もっとも、控訴人清水は、検察審査会の組織や職務等については、あまり知らない。)、取材スタッフが繊維メーカーや電子顕微鏡の製作会社を訪問したこと、控訴人清水は、捜査資料そのものを見たことはなく、本訴が提起された後、同控訴人の代理人から、ロッカー一杯分の捜査資料を見せられ、こんなものを、これだけ見なければならなかったなら、甲山事件を素材にしなかったとの感想を抱いており、当時、物理的のにこれだけの資料を読んで、小説の構想を練る時間的余裕はなかったこと(控訴人清水)、以上のとおりの控訴人清水の取材方法、執筆の基礎とした資料等に加えて、前記認定にかかる、被控訴人が甲山事件で起訴されるに至った経緯、控訴人清水が本件小説を執筆した当時の被控訴人の置かれていた状況、被控訴人自身、甲山事件については無罪を訴えており、国と兵庫県を被告として、 損害賠償等を求める訴訟を提起し、右訴訟は審理中であったこと等を勘案すれば、控訴人清水が、本件小説のモデルとされた被控訴人が甲山事件の犯人であると信じたとしても、これにつき相当の理由があったということはできない。)ので、その余の事情を考慮するまでもなく、本件小説による原告の名誉毀損の違法性は阻却されない。したがって、この点の被告清水の主張は理由がない。

 控訴人集英社は、前記第二の二の六3(二)のとおり主張する。しかしながら、前記六2説示のとおり、本件小説が、一般読者に対し、全体として、被控訴人が甲山事件の犯人である可能性が非常に高いとの印象を強く与え、これにより、本件小説出版当時における被控訴人の社会的評価を低下させたものであって、本件小説が、一般読者に対し、被控訴人が甲山事件の犯人である疑いを抱かせる程度にとどまったものということはできないから(犯人である可能性が非常に高いことと、犯人である疑いが同一のものであるということはできない。)、控訴人集英社の前記主張は、その前提を異にするものであって、採用できない。

 控訴人祥伝社は、前記第二の七2のとおり主張する。しかしながら、前記説示のとおり、本件小説は、被控訴人の社会的評価を低下させるものであって、被控訴人の当時置かれていた立場や状況、甲山事件の内容等を勘案すれば、控訴人祥伝社主張にかかる事実を考慮しても、本件小説に、違法性阻却事由に該当する事由があったということはできない。また、控訴人祥伝社は、本件小説では、田辺を公訴提起さえ行うことのできない程度の被疑者に止めていることを前提に、真実性の証明の対象は、被控訴人が甲山事件を犯した疑いがあるということであり、被控訴人が甲山事件の犯人として起訴された場合には、有罪判決がない段階においても、真実性の証明はなされたものとして、違法性は阻却される旨主張するが、前記説示のとおり、本件小説は、一般読者に対し、被控訴人が甲山事件の犯人である可能性が非常に高いとの印象を強く与え、これにより、当時の被控訴人の社会的評価を低下させたものであるから、控訴人祥伝社の右主張は、前提を異にするものであって、採用することができない。

 2 被告らは、本件小説が「公正な論評(フェアーコメント)」であるから、仮に本件小説により権利侵害があったとしても違法性が阻却されると主張する。しかしながら、仮に、表現活動につき、右の「公正な論評(フェアーコメント)」の理論により権利侵害の違法性が阻却されるべき場合があるとしても、本件小説は、原告をモデルとして、虚構事実(フィクション)を織りまぜるなどして、原告が殺人事件の犯人であるとの印象を強く与える内容のものであって、これをその骨格的要素とするものであるが、それは、およそ事実に対する批判・論評であるとは到底いえないというべきであるので、かかる形式、方法及び内容の表現活動についてまで、「公正な論評(フェアーコメント)」の理論の適用より、その行為の違法性が阻却されるとする余地はないというべきである。したがって、被告らの前記主張は理由がない。

 3 被告らは、原告が本件小説の執筆、出版当時刑事事件の被疑者ないし被告人とされた「公的人物(パブリックフィギュア)」であったから、仮に、本件小説により原告に対する権利侵害があったとしても、それが合理的限界内のものである限り違法性が阻却されると主張する。 しかし、被疑者が直ちに「公的人物」に当たるか否かはさておき、「公的人物」であるからといって直ちにプライバシー権や名誉権の保護を享受し得なくなるわけではない。被告らが「合理的限界内のものである限り」とするのもその趣旨であろう。しかして、本件小説は、原告につき、いまだ被疑者ないし被告人の段階にあって、刑事裁判が確定していないのに、その区別が困難なまま素材事実と虚構事実を渾然一体として織りまぜて、原告が甲山事件の犯人であるとの印象を強く与えるものであって、その執筆、出版の目的も、多分に営利的目的にあり、公益を図るものとはいえず、かつ、前記のとおり本件において、被告らにより原告が甲山事件の犯人であるとの事実につき真実の証明がない(なお、本件訴訟において、原告が甲山事件の犯人であるか否かの観点からの実質審理はなされていない 。この点は、本来、刑事裁判において確定されるべき事柄である。もとより、本件小説の執筆出版が違法であるか否かは、右執筆出版の時点を基準として、本件小説の執筆出版により原告の社会的評価を低下させ、もって、原告の名誉を毀損したといえるか否かの判断であるから、仮に、後日、原告が刑事裁判において有罪又は無罪のいずれになったとしても、そのことは、本件小説の執筆出版の違法性の有無の判断に影響を及ぼすものではない。)のであるから、本件小説による原告の名誉侵害が合理的限界内のものであるということはできず、本件小説の執筆、出版が違法性を阻却するものではない。したがって、被告らの右主張は理由がない。

八 被告らの責任について

 1 被告清水の責任について

 (一) 前記のとおり、本件小説は、原告の名誉を侵害するものであるから、本件小説を執筆し、また、被告集英社及び被告祥伝社との間で本件小説の出版権設定契約を締結し、その出版を許諾した被告清水は、原告の被った精神的損害を賠償する責任を負うというべきである。

 (二) なお、被告清水は、原告が甲山事件の犯人であるとの事実が真実であることが証明されているか、少なくとも真実であると信じるにつき相当の理由があるとするが、この点が理由がないことは前記のとおりである。

 2 被告集英社の責任について

 (一) 証人大波加弘の証言によれば、以下の事実が認められる。

  (1) 本件小説は、被告集英社から被告清水に対し、書き下ろし長編推理小説の執筆を依頼したことにより、執筆されたものであった。

  (2) 被告集英社における本件小説の担当者は、被告集英社文芸出版部文庫副編集長の美濃部修と同編集主任の横山征宏であった。

  (3) 通常、編集担当者は、作家から小説の完成原稿を受け取った後、これを読んで感想を述べたり、更なる書き込みを注文したりした後、用語、表現を含めた作品内容につき点検し朱入れを行う原稿整理をして、印刷所に渡すという過程を経る。小説に素材がある場合には、編集者においても新聞、雑誌等の刊行物で公表されている内容を一応調べたりすることがある。モデルが存在するような場合には特に注意し、表現上の注意を作家に促すこともあるし、地名や人名については仮名にして配慮したりする。

 本件小説については、被告集英社はその取材には一切関わらず、被告清水から完成原稿を受け取った。その後、前記横山征宏は小説の出来映え等について検討した後、用語、表現等につき原稿整理を行った。前記美濃部修、横山征宏らの上司であった文芸書編集長の大波加弘もゲラ刷りに目を通し、本件小説が甲山事件をモデルないし素材としたものであること、右事件については再捜査中であること、被控訴人は無罪を訴えていたことを知っており、「甲山事件」について原告の逮捕時に実際に支援団体による混乱があったのかどうか新聞の縮刷版で確かめさせたりした。大波加弘は、「田辺悌子」が原告をモデルにしていることは認識していたが、原告が既に新聞、雑誌等で積極的に外部に発言をしていたことから特に問題にはならないと考えていた。他方、大波加弘は、被告清水に対し、本件小説単行本の扉裏に「この作品は現実に起きた事件をヒントを得たものですが、フィクションであることをお断りします。」との文言を入れることを提案し、了承 を得た。以上の過程を経て、被告集英社は本件小説単行本を出版した。

  (4) 被告集英社の昭和五八年七月当時の文庫編集長山崎隆芳は、被告清水の要請を受けて、本件小説単行本に対し原告の支援団体から抗議があったことを認識ながら、本件小説文庫判の出版を決定したが、本件小説単行本の初版出版時から五年以上経過したことから、仮名遣いや差別用語についての点検等を含め内容を再度点検して、巻末に収録する解説文の原稿を依頼した後、本件小説文庫判を出版した。

 (二) 以上により、被告集英社としては、本件小説が前記のように原告の名誉を侵害する内容であることを認識して本件小説単行本及び文庫判の出版を行ったと認めることができる。したがって、被告集英社には、被告清水と共に、本件小説単行本及び同文庫判の各出版につき、それぞれ独立に共同不法行為が成立するということができる。

 なお、この点、被告集英社は、その対象となる事件が世間の耳目を集める公共的性格を有するとき、表現の目的、手段及び方法が相当であれば、本件小説において被告に容疑がある旨の意見を発表することは許されると主張するが、対象となる事件が社会の耳目を与えるものであるからといって、フィクションを織りまぜるなどしてモデル小説の形態を取って、一般読者に対し、原告が甲山事件の犯人であるとの印象を与えて良い理由はなく、本件小説の出版の目的、手段及び方法が相当であるとは言い難いので、被告集英社による本件小説の出版につき、違法性を阻却すべき理由はない。

 3 被告祥伝社の責任について

 (一) 証人渡部起知夫の証言によれば、以下の事実が認められる。

  (1) 被告祥伝社は、被告清水から、本件小説の判型を変えて出版しないかと持ちかけられた。そのころまでに被告清水の著作の新書判を四冊出版していた被告祥伝社は、編集会議を開いて検討した上、右申出を受諾し、昭和五四年五月一日、本件小説新書判を出版した。

  (2) 右出版に当たり、被告祥伝社においては、出版担当者である渡部起知夫が、親判である本件小説単行本を読んで、内容を検討していた。渡部起知夫は、被告清水に加筆修正の有無について尋ねたが、被告清水は加筆修正はないと答えた。本件小説単行本の中には「社会党」、「共産党」の表現が見られたが、当時被告祥伝社の編集部は作品中で特定の政党名を原則として使わないこととしていたので、渡部起知夫は、本件小説単行本から右の表現を修正した。また、渡部起知夫は、本件小説単行本に記載されていた「この作品は現実に起きた事件をヒントを得たものですが、フィクションであることをお断りします。」との文言をそのまま本件小説新書判にも転記することとした。

 (二) 被告祥伝社は、本件小説新書判を出版した昭和五四年五月一日当時には、本件小説が「甲山事件」にヒントを得たものであることを知らなかったと主張する。しかし、成立の争いのない甲第九号証の一ないし八、乙第一ないし第一四号証(乙第四ないし第一四号証はいずれも枝番も含む。)によれば、「甲山事件」は、その発生時からマスコミにより繰り返し報道され、捜査や公判の状況を含めた事件の経過が一般社会からも注目され、衆人に知れ渡っていたものと認めることができるから、前記認定のとおり、被告祥伝社の出版担当者が、本件小説新書判出版までに本件小説の中身については検討し、また、本件小説単行本がフィクションである旨の断り書きを記載していること及び右記載により実際の事件を素材にしていることを認識していたことと照らし合わせると、被告祥伝社は、被告清水に右断り書きの趣旨を照会するなどして、本件小説が「甲山事件」をモデルにしたものであることを容易に認識したものと認めることができる。したがって 、被告祥伝社の前記主張は理由がない。

 (三) 以上により、被告祥伝社は、本件小説が前記のように原告の名誉を侵害する内容であることを認識して本件小説新書判の出版を行ったと認めることができる。したがって、被告祥伝社には、被告清水とともに、本件小説新書判の出版につき、共同不法行為が成立するということができる。

 控訴人祥伝社は、日本で有数の出版社(控訴人集英社)より単行本が発行され、その出版社あるいは著者(控訴人清水)から、作品の内容に関して特にクレームがあった旨の報告も受けていない場合、版型を変えて「小説」を発行する出版社としては、当該作品の記述、表現、構成、描写等作品自体から問題が容易に想起される場合はさておき、さらにそれ以上の内容に関する調査をする注意義務はないというべきであること、また、現実に起った事件を素材にして作品が書かれていることを知り得る場合においても、出版社において、作品の基礎となった事実まで調査する義務はなく、基礎となった事実が誤りであることを知っていた場合、あるいは、基礎となった事実が誤りであってもかまわないとの意図のもとに、出版がなされた場合のみ、責任を負うものと解すべきであること、本件小説新書判発行に際し、控訴人祥伝社は、出版社として、必要な注意義務を怠っておらず、控訴人祥伝社には、責任がない旨主張するが、右説示のとおり、控訴人祥伝社は、本件小説が甲山事件をモデルにしたものであることを容易に認識したものと認められ、したがって、前記説示のとおり、 本件小説は、被控訴人をモデルとする田辺が、甲山事件をモデルとする本件小説中の殺人事件の犯人であり、ひいては、被控訴人が甲山事件の犯人であるとの印象を一般読者に対して与え、右事実を骨格的要素として摘示しているもので、控訴人祥伝社が、右小説を出版することにより、被控訴人の享受していた社会的評価を低下させることになることを認識していたものということができるから、控訴人祥伝社の右主張は、その前提を欠くものであって、採用することができない。

4 被告伊賀の責任について

 証人大波加弘の証言によれば、書籍の奥付に出版権者である出版社の代表取締役の氏名が「発行者」として記載されることがあるが、これは出版法が効力を有したころからの慣行に基づくものであって、実際に代表取締役が文芸書の編集に携わることはないこと、被告集英社の代表取締役が書籍の出版に関わるのは発行部数を決定するための部数会議においてであり、その会議においても当該書籍の内容について詳細に知り得るものではないことが認められる。

 右の事実は、同じ出版社である被告祥伝社においても同様であると推認することができ、これを覆すに足りる証拠はない。そうすると、被告伊賀が本件小説新書判の奥付において単に「発行者」と記載されていたからといって、本件小説新書判の出版を実際に指揮命令していたということはできない。そして、本件小説新書判の奥付の記載という点を除いて、被告伊賀が本件小説新書判の出版を実際に指揮命令していたとの根拠について、原告は何ら主張をしていない。したがって、被告伊賀につき、不法行為が成立する余地はなく、この点の原告の主張は理由がない。

5 被告小学館の責任について

 証人渡部起知夫及び同新藤雅章の各証言並びにそれらにより真正に成立したものと認められる戊第一ないし第三号証、第四号証の一、一二によれば、被告小学館の主張1の事実(すなわち、本件小説の新書判が発行された昭和五四年五月一日当時、被告祥伝社、被告小学館、訴外小学館販売の三者間における昭和四八年八月一八日付業務委託契約に基づき、被告小学館は、被告祥伝社から、同社発行の全ての書籍の販売業務の委託を受け、右業務を訴外小学館販売に代行させていた。すなわち、通常、雑誌及び書籍類は、出版社から取次店へ、取次店から小売店へと、それぞれの販売委託契約の形態で流通に置かれるものであるところ、被告祥伝社は、昭和四五年一一月に設立された後昭和五六年二月末日に至るまで、取次店との間の販売委託のための取引口座を有していなかったため、被告祥伝社の発行する全ての雑誌及び書籍類に関する取次店との間の販売委託をなしえなかった。そこで、被告祥伝社の取引口座として被告小学館の取引口座を利用する目的で、前記業務委託契約が締結された。本件小説の新書判の奥付に「発売小学館」との記載があったのは、右書籍の流通の関係 上、小売店及び取次店からの注文又は返本の処理の宛先として、取引口座を有する被告小学館の表示をする必要があったためであるにすぎない。被告小学館は、前記業務委託契約の期間中、被告祥伝社発行の全ての書籍を販売したが、各書籍の内容、定価、発行日及び販売部数等については被告祥伝社において決定し、被告小学館は関与しなかった。また、それらの販売についても各取次店に対し委託していたのであり、流通に関しては取次店と同程度にしか関与していない。したがって、被告小学館としては、本件小説の内容が「甲山事件」及び原告と関連があることなどを認識しうる立場にはなかったとの事実)を認めることができる。右事実はよれば、被告小学館は、本件小説の販売に当たり、本件小説の内容に全く関与し得なかったと認められるので、本件小説の内容に問題があったとしても、本件小説の販売につき、被告小学館に不法行為が成立する余地はないということができる。したがって、この点の原告の主張は理由がない。

九 被告らの不法行為の関係等について

 以上のとおり、被告清水、被告集英社及び被告祥伝社につき、それぞれ不法行為が成立する。なお、右被告らの各不法行為は、本件小説単行本、新書判及び文庫判ごとに独立に成立する(被控訴人清水は、本件小説は、単行本、新書判及び文庫版とも、内容が全くといってよいほど同一であるから、本件小説新書判、本件小説文庫版の発行は新たな不法行為と考えるべきでない旨主張するが、本件新書判は控訴人清水と同祥伝社との間で、本件小説文庫版は控訴人清水と集英社との間で、それぞれ、出版権設定契約が締結され、これに基づき、それぞれ、本件小説の新書判及び文庫版として、単行本とは別に編集、出版されたものであることに照らせば、右各行為は、それぞれ独立の不法行為を構成するというのが相当であって、控訴人清水の右主張は採用することができない。)。本件小説単行本の重版は、執筆及び出版とそれぞれ継続的な関係にある一個の不法行為を構成するというべきである(なお、被告清水と被告祥伝社の関係、被告清水と被告集英社 の関係は、本件小説単行本、新書判及び文庫判ごとにそれぞれ各別に共同不法行為を構成する。)

一〇 消滅時効の抗弁について

 1 本件小説単行本についての被告清水及び被告集英社の責任について

 成立に争いのない乙第二四号証、第二五号証の一ないし三、第二六号証、第三三号証、原告本人尋問の結果によれば、原告は、本件小説単行本が発行された昭和五三年二月二五日から原告が再逮捕された同月二七日までの間に、本件小説を読み、被告清水が本件小説を執筆し、被告集英社が本件小説単行本を出版した事実を認識していたことが認められる。

 ところで、乙第三三号証、証人大波加弘の証言によれば、被告清水は、本件小説を執筆し、被告集英社により昭和五三年二月に本件小説単行本初版三万部が、同年三月に第二版一万五○○○部が、同年四月に第三版八○○○部がそれぞれ出版されたが、その後、昭和五三年五月二三日、「沢崎悦子さんの自由をとりもどす会」なる原告の支援団体から右出版に対し抗議の申し入れがあったことなどを理由に、被告集英社は、以後、重版しないこととしたことが認められるところ、右事実によれば、本件小説単行本は、一部在庫があり、それが流通に置かれたであろうことを考慮しても、その後間もないころに、流通に置かれないこととなったと推認することができる。したがって、本件において、遅くとも、昭和五四年末ごろまでには、既に本件小説単行本が流通に置かれなくなり、これにより、被告清水及び被告集英社の各不法行為は完了したということができる(なお、原告は、本件小説が流通市場から回収されない限り、被告らの不法行為が継続している として、それまで消滅時効は進行しないと主張するが、かように解すべき根拠はない。)。

 したがって、前記のとおり、既に、原告は、本件小説を読み、被告清水が本件小説を執筆し、被告集英社が本件小説単行本を出版した事実を認識していたのであるから、本件小説単行本に関する原告の被告清水及び被告集英社に対する損害賠償請求権は、前記の昭和五四年末ころから三年の経過により時効消滅したということができる。

 よって、この点の被告清水及び被告集英社の本件小説単行本についての消滅時効の主張は理由がある。

 2 被告祥伝社の責任について

 また、成立に争いのない丁第一〇号証の一ないし五によれば、原告は、遅くとも昭和五四年七月には、被告祥伝社が本件小説新書判を出版した事実を認識していたことが認められる。

 しかし、本件小説新書判による原告に対する名誉侵害の不法行為は、昭和五四年七月以降もなお継続していたものと解するのが相当である。

 確かに今日の出版事情からすると、本件小説新書判は、初版本のほとんどが流通に置かれた昭和五四年五月からそう遠くない時期には、書籍の流通市場から姿を消していたとの推認が成り立つ余地がないではない。しかし、証人渡部起知夫の証言によれば、本件小説新書判は、初版二万部が出版され、ほとんどは直ちに流通に置かれたが、一部は在庫として残されていたこと、本件小説文庫判が昭和五八年七月に出版されると本件小説新書判の出荷は鈍ったこと、原告の支援団体から出版について抗議のあった昭和五九年二月には本件小説新書判は在庫なしの扱いにされ、新たに流通に置かれなくなったことが認められるところ、本件小説文庫判が出版された昭和五八年七月の段階、更に被告祥伝社が本件小説新書判が在庫なしの扱いになった昭和五九年二月の段階で、本件小説新書判にどれだけの在庫量があり、そのうちどれだけが流通に置かれたのかについての被告祥伝社の主張立証は全くない(本件小説新書判の回収を図ったか否か、また、本件小説新書判の返本があったか否かについての主張立証もない。)。そうすると、右各段階において本件小説新書判の在庫があったこと が前掲渡部起知夫の証言から認められる以上、本件小説新書判は少なくとも昭和五九年二月ころまで被告祥伝社により流通に置かれていたと推認するのが相当である(控訴人清水及び同祥伝社は、本件小説新書判は、在庫の一部が残っていたにせよ、少なくとも昭和五四年末ころには、殆ど在庫も流通に置かれなくなったこと、不法行為としての名誉毀損が成立するためには、一定範囲の流布が必要であるところ、わずかな在庫では、その程度に達しないことからして、本件小説新書版に対する損害賠償請求権は、昭和五四年末ころから三年の経過により時効消滅した旨主張する。しかしながら、本件小説新書判は、初版二万部が出版され、殆どが直ちに流通に置かれたことによって、不法行為が成立したのであり、その後も、これが流通に置かれる等してきたことにより、不法行為が継続し、昭和五九年二月に在庫なしの扱いにされたことにより、新たに流通に置かれなくなり、不法行為は完了したというのが相当であるから(不法行為としての名誉毀損が成立するには、一定範囲の流布を必要とするとしても、右のとおり流通に置かれ、一定範囲の 流布がなされた本件小説新書判が、その後も継続して流通に置かれてきたのであるから、消滅時効の起算時との関係では、控訴人祥伝社において、昭和五四年末ころ以降、一定範囲の流布といえない程度の流通量であったことを主張立証すべきであるというのが相当であるところ、これについての控訴人祥伝社の主張立証はないから、本件小説新書版に対する損害賠償請求権は、昭和五四年末ころから三年の経過により時効消滅したとの右控訴人らの主張は採用できない。)。それゆえ、昭和五九年二月ころまで、本件小説新書判についての原告の被告祥伝社に対する損害賠償請求権につき時効が進行する余地はない。したがって、その後時効が進行したとしても、原告が昭和六一年二月二五日に被告祥伝社等を相手として本訴を提起したことにより、時効の進行が中断したということができる。よって、原告の右損害賠償請求権が三年の経過により時効消滅したとの被告祥伝社の主張は、理由がない。

 3 本件小説文庫版についての控訴人清水の責任について

 控訴人清水は、被控訴人は、控訴人清水に対して、昭和五三年二月二七日以降、本件小説単行本について、損害賠償の請求ができたはずであるところ、既に三年の経過によって、時効消滅した後に、本件小説文庫版が出版されたからといって、同一内容の事件について、一度消滅時効にかかっている損害賠償請求権を改めて行使することは、権利の不行使による失効(失権効)として認められない旨主張する。しかしながら、本件小説文庫版の出版は、本件小説単行本の出版とは別の新たな不法行為を構成することは前記説示のとおりである上に、被控訴人は、本件小説単行本出版後、間もなくこれを知り、本件小説を読んで、被控訴人が犯人として書かれていると理解し、控訴人清水に抗議しようと思ったが、その矢先に甲山事件で再逮捕され、その後起訴され、刑事裁判が始まったため、それどころではない状況にあったこと、被控訴人は、右刑事裁判につき、一審で無罪判決を受けたが、これに対し、控訴人清水が、右判決が言渡されたにもかかわらず、被控訴人が犯人だとのコメントをし、これが複数の新聞に掲載されたため、擦訴人清水を許せないと思って、本件訴訟を提起 したこと(甲六の1ないし4、控訴人清水、被控訴人各本人)、等に照らせば、被控訴人が、本件小説文庫版が出版されたことに対し、控訴人清水に対し、損害賠償の請求をすることが、権利の不行使による失効(失権効)として認められないということができないので、控訴人清水の右主張は採用できない。

一一 原告の損害と慰謝料額について

 前記のとおり、個人の社会的評価は、当該個人の置かれた客観的状況によって絶えず変動するものであるから、名誉侵害、すなわち、右社会的評価の低下の有無のみならず、その程度も、絶えず変動する当該個人の社会的評価のうち当該侵害行為時における評価を基準として当該侵害行為によりどれほど低下したかが判断されなければならない。本件小説による原告の社会的評価の低下も、本件小説新書判及び文庫判の各出版当時における原告の社会的評価を基準として、そこから本件小説による原告の社会的評価の低下の程度がどれほどであったかが判断されなければならない。

 被告祥伝社により本件小説新書判が出版された昭和五四年五月一日当時、原告は、既に、昭和五三年三月九日に神戸地方裁判所に殺人罪で起訴されていたのであり、しかも、本件小説単行本も既に昭和五三年二月二五日に出版されていたのであるから、原告の当時の社会的評価は本件小説単行本出版の時点よりも更に低下していたものと認めることができる。更に、被告集英社により本件小説文庫判が出版された昭和五八年七月二五日当時は、本件小説単行本及び新書判が既に出版されていた以上、原告の当時の社会的評価は本件小説新書判出版の時点よりもなお一層低下していたものと認めることができる。しかしながら前記のとおり、いずれの時点においても、なお原告が保護に値する相応の社会的評価を享受していたということができる。

 原告の被った精神的損害の程度については、右に見た原告の社会的評価の低下の程度を勘案することが必要である。

 更に、本件小説の各版の出版部数(本件小説新書判は二万部、本件小説文庫判は一〇万部)も、原告の損害の認定に当たって当然考慮すべきである。

 以上の事情の外、その他一切の事情を勘案するとき、原告の被った精神的損害に対する慰謝料額としては、本件小説新書判に関する被告清水及び被告祥伝社につき各自金八○万円、本件小説文庫判に関する被告清水及び被告集英社につき各自金八○万円と認めるのが相当である。

一二 弁護士費用について

 本件各不法行為と相当因果関係のある原告の弁護士費用に係る損害は、本件事実の内容、審理の経過、原告の損害額等に照らすと、被告清水及び被告集英社に対する関係で各自金八万円、被告清水及び被告祥伝社に対する関係で各自金八万円であると認めるのが相当である。

一三 謝罪広告について

 原告の謝罪広告に関する請求について検討するに、前記のとおり原告は、本件小説新書判及び文庫判の出版後、原告を無罪とする一審判決がなされたものの、その後、控訴審において、右判決が破棄差戻しされ、現在、なお、被告人として刑事責任が追及されている状況にあるなど、現実問題として相当にその社会的評価が低下しているところ、前記のとおり被告清水、被告集英社及び被告祥伝社に対し、損害賠償責任を認めるほかに、謝罪広告の掲載を命じたとしても、その効果は極めて小さく、原告の名誉を回復するに適当であるとは言い難いので、本件につき、右被告らに対し、謝罪広告を命じないこととする。

一四 結論

 よって、原告の請求は、被告清水及び被告集英社に対し、各自、金八八万円及びこれに対する訴状送達の日の翌日(被告清水については昭和六一年三月九日、被告集英社については同月八日)から、被告清水及び控訴人祥伝社に対し、各自、金八八万円及びこれに対する訴状送達の日の翌日(被告清水については昭和六一年三月九日、被告祥伝社については同月八日)から、各支払済まで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を各求める限度で理由があるから、これを認容し、被告清水、被告集英社及び被告祥伝社に対するその余の請求はいずれも理由がなく失当であるからこれを棄却し、被告伊賀及び被害小学館に対する請求はいずれも理由がなく失当であるからこれを棄却することとし、訴訟費用の負担につき民訴法八九条、九二条本文、九三条を適用して、原告、被告清水、被告集英社及び被告祥伝社に生じた費用の一〇分の九並びにその余の被告らに生じた費用を原告の負担とし、原告、被告清水、被告集英社及び被告祥伝社に生じた費用の 一〇分の一を被告清水、被告集英社及び被告祥伝社の負担とし、仮執行の宣言は相当でないので、これを付さないこととし、主文のとおり判決する。

第四 結論

 以上の次第で、本件控訴は理由がないからこれを棄却し、控訴費用の負担につき民事訴訟法八九条を適用して、主文のとおり判決する。

         大阪高等裁判所第一民事部

 


          裁判長裁判官    田 畑   豊

             裁判官    神 吉 正 則

             裁判官    奥 田 哲 也



[転記者注] 控訴代理人の弁護士 森田は判決文の記載のままでは、森田 弘となっている。しかし、これは活字の字体に一致するものがないため後から手書きで書き込む予定であったのを忘れたものと思われる。森田弁護士の名は漢字2字から成り、1文字目は人偏【イ】に旁が【青】である【イ青】。JISコード表などでは【倩】となっている。


 
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