花岡「和解」は中日両国人民の
長期にわたる共同闘争の勝利の成果

                                   林伯耀


<はじめに>
 花岡和解について一部の中国人の間に誤った情報が流布され、その上に日本の状況に対する無理解が重なって、花岡和解の成果を倒錯して評価する人がいる。「公開書簡」から「和解」までの全過程を受難者の老人たちと共に歩んできた一人の中国人として花岡「和解」についてその見解を明らかにしたい。
 中日両国は近現代史のなかで異なった道を歩んできた。それが今日の民族のアイデンティテイを形成し、異なった価値観を生み出している。中国人の感情と尺度だけで日本人の民衆闘争を評価することは過ちをおかしやすい。その逆もまたしかりである。
 89年からはじまる花岡闘争は極東国際軍事裁判で明確には断罪されなかった企業の戦争責任を改めて問うという大きな社会問題を提起した。過去の侵略戦争の中で拡大発展し、ゼネコンの中でも一、二位を争うまでになった鹿島への中国人受難者の挑戦は、単に受難者の怨念を晴らすというだけにとどまらず、同時に日本の資本主義体制そのものの成立過程と存在理由を問うことになった。多くの日本の友人が、花岡中国人受難者への同情にとどまらず自らの闘争として駆けつけてきてくれたのもまさにこの点に集約されるであろう。そこには中国人受難者の自立の闘争とそれに連帯する日本人の自立した闘争があったのである。前者の闘争に後者の闘争を服従させるのは誤りであるが、その逆もまた誤りである。そこには長い闘争の過程で相互に学び合い尊敬しあう関係が自然に形成されていた。
 花岡闘争は国境を越えた闘争であり、その闘争の舞台は主要には反動的な色彩を強めている日本社会である。であれば、その「和解」についても資本主義社会における政治闘争の複雑性、日本の企業の二面性、日本の民衆運動自身のもつ進歩性と困難性、中国社会のもつ限界性、日本の司法を含む日本社会の限界性、第二次世界大戦中の強制連行・強制労働に対するアメリカ・ドイツを含む海外の戦後補償の現状と補償水準等、これら全ての要素を勘案し、考慮に人れて客観的に評価されるべきである。
 花岡「和解」に対して一部の中国人の中に生まれた誤解の大きな原因の一つは、「和解」の直後に鹿島によって単独で発表されたコメントである。それは和解そのものを否定するものではなかったが、自らの企業としての責任を否定するような響きをもっていた(末尾掲載の資料参照)。在米の一部の華人学者がこのコメントをもって、鹿島は「和解」を否定したものであり、したがって中国人受難者は鹿島に騙されたものであるといって「和解」を批判した(「北京日報」2000年12月27号)が、これは闘争をとりまく状況に対する深い分析と理解もなく、事実確認もないままに誤った情報に基いて出された無責任な批判である。
 ここで思い出されるのは、1972年9月の中日共同声明の調印直後に催された祝賀宴会における田中角栄首相の挨拶である。参列した中国人たちは締結したばかりの中日共同声明の精神に沿って田中首相の口からどれほどの誠実な反省と友好の意志表示がおこなわれるのかを期待した。しかし中国人たちの期待は完全に裏切られた。過去の侵略戦争について、田中首相の口から出たのは、「我国給中国国民添了很大的麻煩」(「人民日報」1972年9月26日号)という言葉であった。これは語感からいえば、「中国国民をたいへん煩わせました」ということになる。会場は一瞬騒然となった。これは十分に中国人を愚弄する響きをもっていた。あの共同声明の中に盛られた「日本側は、過去において日本国が戦争を通じて中国人民に重大な損害を与えたことについての責任を痛感し、深く反省する。」という精神は何処へ行ってしまったのであろうか。中国人たちは驚きかつ憤慨した。その夜、周総理は田中首相を訪ね、過去の日本軍国主義がもたらした侵略戦争で中国人民がどれほど筆舌に尽くし難い災難を蒙ったかを長時間にわたって話をした。これは有名なエピソードである。後でわかったことは、この挨拶文は中国には絶対謝罪しないという方針の下で日本の外務省が練った苦心の文言であったということである。
 しかし、日本政府を代表する田中首相が祝賀宴会でいかに中国人を愚弄しようとも、それをもって中日共同声明を、中国人は「屈辱的な共同声明」といって否定することはなかった。共同声明の中では、1)日本側の侵略戦争に対する歴史認識の確認、2)中国への謝罪、3)中国の政府間賠償放棄に対する日本側の謝意などなかったし、4)中国政府が最もこだわった台湾問題についても、「台湾の帰属(法的地位)未定論」に執着する日本政府をして「台湾が中国の不可分の領土」であることの完全な同意付けをも得られなかったのであるが、中国人は中日共同声明とそれに基く中日国交回復を毛主席と周総理の英明な決断として受け入れた。なぜなら当時の中国政府が当時の中日を取り巻く彼我の政治的状況の中で最大限の可能性を追求して所期の政治的原則を貫徹したからであり、また中日両国人民の長期にわたる闘争と世界の人々の声援(70年11月、国連における中国の合法的地位の回復)なしには実現できなかった壮挙であることを知っていたからである。
 事実、中日国交回復はその後の中日両国人民の平和を擁護し、友好を促進し、戦争に反対する闘争を進める上で大きな作用を果たしてきたし、中日共同声明は民間交流や中国政府が日本政府との外交交渉を進めて行く上で有力な政治的基礎となった。


<「和解」が獲得したもの>
1、 花岡「和解」は、受難者の政治的原則を貫徹した
 89年12月22日の花岡受難者聯誼会が鹿島に送った公開書簡は三つの要求項目(謝罪、記念館の建設、賠償)を提起したが、その政治目標は鹿島をして認罪させ、謝罪を勝ち取ることであった。すなわち、1)鹿島は中国人強制連行・強制労働の歴史的事実を認めること、2)企業としての責任を認めること、3)以上の事実に立って中国人受難者に謝罪することであった。なぜなら、日本政府と企業は戦後一貫して、強制連行・強制労働の歴史的事実を認めることを頑固に拒絶してきたからであり、また花岡受難者聯誼会が公開書簡を送った直接の動機もここにあったからである。90年7月5日の鹿島との第一回談判に基づく「共同発表」の文案を巡って両者の間で激しい闘争があった。我々はこの三つの原則が前提とならない限り、花岡記念館も賠償金も仮に獲得したとしても大きな意義をもたないと考え強く堅持した。結局、鹿島は自己の責任の半分を日本政府に肩代わりさせるつもりであろうか、「閣議決定に基づく」という言葉の挿入を要求してきた。この結果、全文は次の通りになった。「中国人が花岡鉱山出張所の現場で受難したのは、閣議決定に基づく強制連行・強制労働に起因する歴史的事実であり、鹿島建設株式会社はこれを事実として認め企業としても責任があると認識し、当該中国人生存者及びその遺族に対して深甚な謝罪の意を表明する」。第一回談判に参加した在日の生存者であった故劉智渠氏は談判後、北海道から「鹿島が事実を認めて謝罪したことは金を貰うよりもうれしい」といって熱い手紙を寄越してこられた。この政治的原則は中国人受難者の闘争の原点であった。
 もともと、外国人の戦争賠償に不適切な日本の民法、国際法の優先を認めない硬直した思想をもつ裁判官達、国際間における個人の賠償請求権を認めない日本政府等、これらの状況下での第二審の判決結果も中国人受難者の側にとって決して予断を許さないものであった。99年9月10日の東京高裁の職権による和解勧告を受けた後開かれた原告団・幹事会議で確認したことは、第一に「和解」の中で90年7月5日の「共同発表」の双方による再確認を必ず勝ち取らねばならないこと、第二に原告団11名の解決ではなく必ず986名全体の一括解決が実現されることであった。中国人受難者たちは獲得すべき政治目標を強調し、「和解」の精神を重視した。受難者の老人たちの精神は高邁であった。かって奴隷以下の非人間的な取り扱いを受けた受難者たちにとって加害者が事実を認め謝罪することなしには一切は無に等しかった。しかし賠償金は加害者の誠意を象徴するものだから不当に低い金額も中国人の自尊心を傷つけるものとなろう。従って、金額については国際水準と比較して、他の中国人にも「可以交代的」(説明できる、顔向けのできる)金額という条件が弁護団につけられた。かくて鹿島の執拗な抵抗にもかかわらず、鹿島の認罪と謝罪を書き込んだ「共同発表」は和解条項で再確認され、受難者たちの政治的原則は貫徹された。
 もっとも鹿島は花岡以外の四事業所での強制連行・強制労働の問題にも波及することを恐れたからであろう、自己の法的責任を認めるものでないことの同意を求めてきたが、我々中国人は当然「同意する」ことはできなかった。鹿島による強制連行・強制労働は国際法に違反し、当時の中華民国法にも違反し、現行の日本民法でも違反しているというのが我々中国人の立場である。さもなければ、95年の中国人による訴訟提起そのものが間違っていたということになり中国人として到底受け入れることのできないものであった。結局、条項の中では鹿島は一方的に主張することとなり、中国人は「鹿島がそのように主張していること」を「了解する」という文章によって、逆に「同意しない」という意思表示が行なわれた。
 和解は、政治的妥協の産物であるが、大切なことは、その和解の中で、いかに当事者の原則が貫徹され、いかにその原則から離脱しないかということである。
 和解の過程で鹿島の提示した内容は、「花岡現場の中国人罹災者に対する慰労と慰霊のために基金を拠出する」ということであった。この表現によれば、鹿島は自己の罪行を認めないばかりか、あたかも偶然事故や災難に遭った中国人を慰労慰霊すると言うことになり、中国人への同情と憐憫による基金の拠出ということになる。花岡現場での多数の中国人の受難の原因は、鹿島による劣悪な条件下の強制労働に原因がある。花岡基金は中国人が権利として獲得したものであり、鹿島の憐憫と同情によって恵み与えられたものではない。我々代理人は、鹿島のこの悪劣な表現を強く拒絶した。
 闘争の未「共同発表第二項記載の問題を解決するため」とすることになった。これは、言外にこの基金は賠償金であると言うことを意味している。同時に鹿島の慰霊の意志のあることも受け入れて、前者と並行して「受難者への慰霊の念の表明のため」という語句を並べることになった。企業が資本の論理に逆らって、中国人への同情のために5億円もの金を出すことなどありうるはずがない。鹿島がコメントの中でいかに賠償金であることを否定しようとも、その基金の成立経緯と性格からいって明らかに賠償金であり、事実、日本はじめ海外の多くのマスメデイアはこれを賠償金または補償金として伝えている。

2、「和解」は986名全員の一括解決を獲得した
 90年7月の鹿島との第一回談判以来、中国人受難者たちが目指したものは、鹿島による認罪、謝罪を前提とした986名全員の一括解決であった。これは中国人が公開書簡の時から最も強く求めたものである。米国のような代表訴訟制度がない日本では、原告11人は法的にはただその11人それぞれを代表することしかできない。純粋に訴訟行為そのものだけを取り上げれば、鹿島は控訴人の11名だけについて対処すればよく、986名全員について対処しなければならない法的義務など全くなかったのである。10年余の中日民衆の闘争とそれによる日本国内や国外の世論の高まりは遂に東京高裁をして「和解」勧告を出さしめ、鹿島は986名全員の一括解決を呑まざるを得なかったのである。11名の訴訟提起から986名全員の解決へ、賠償請求額の合計6、050万円から5億円の獲得へ、それは「和解」なしには実現しえなかったことである(東京高裁で裁判の結果中国人が100パーセント勝訴したとしても、鹿島は上告するであろうから、さらに最高裁において2、3年の歳月を費やして100パーセントの勝訴が確定したとしても11人*550万円=6、050万円でしかない)。全員の一括解決は日本の戦後補償裁判史上初めてのケースであり、それは、政治的妥協とはいえ、やはり獲得したものは大きい。共同闘争の成果とはいえ、弁護団長、弁護団の奮闘は血のにじむような日々であったにちがいない。
 一部の中国人の中には、和解条項の第五項をもって他の花岡受難者が、鹿島に対して別個に請求権を行使したり、訴訟に出るときは、11人の控訴人はこれを阻止する義務を負うものであると解釈し、「和解」は他の花岡受難者を拘束し、11人の控訴人は鹿島の楯になったと批判する人がいる。これは法律に対する無理解に因るものである。「一括解決」である以上別個に請求権を行使する受難者に対して説得する義務を持つということを精神的なものとして表現したのであり、実際には鹿島と中国人控訴人の契約を以て、第三者の請求権行使を阻止したり拘束することは、いかなる国の法律をもってしてもできるものではない。
 金額についていえば、戦後の戦争責任への姿勢でよく比較されるドイツにおいても、ナチス時代の強制労働に対して、過去に一部の企業が支払ってきた金額は、企業毎に差はあるが、大体一人当たり5万〜15万円という低額なものであった。2000年7月6日のドイツ連邦議会で可決された「補償基金設立法」に基き、政府と企業の共同出資によって設立された「記憶、責任そして未来」財団による強制労働の受難者に対する補償はケース別で一人当たり25万〜75万円という金額である(政府と企業による出資基金(比率50%:50%)の合計は百億ドイツマルク、対象者は約120万人といわれる)。しかもその補償金の対象者は1999年2月6日までの生存者とその相続人に限られているが、「花岡平和友好基金」にはそのような制限はない。すべての遺族は受け取る権利を有している。勿論、中国人受難者にとって50万円であれ、5000万円であれ、いかなる金額も一人の人間の生命にとってかわることはできない。5億円は中国人受難者の自尊心をぎりぎりのところで保持しうる最低額のものであり、中国人は決して満足しているわけではない・・・ドイツの財団による補償金とその制約条件に多くのユダヤ人たちが今なお決して満足していないと同じように。中国人であれユダヤ人であれ受難者の受けた傷はとても深く、加害者の一言の謝罪や一握りの金銭では、その溝は埋まるはずもなく、心の傷は容易に癒えるものではない。

3、「和解」を通じて花岡事件は日本の社会的認知を獲得した
 90年7月5日の「共同発表」は中国人受難者と鹿島との間の二者間の契約でしかなかったが、今回の「和解」では、「共同発表」は東京高裁という公的司法機関を媒介にして再確認されたのであり、もはや鹿鳥が後退することは許されない。そして大切なことはこの「和解」を通じて花岡事件そして中国人強制連行・強制労働の事実が歴史の中の厳然たる事実として社会的認知を受けたことである。中国大陸から多くの中国人が理不尽にも強制連行されてきたこと、日本の多くの作業所で強制労働させられ、劣悪な労働条件下で多くの中国人が生命を失っていったこと、花岡の地で民族の尊厳、人間の尊厳を守るために中国人たちが蜂起したこと、これらの中国人に対する不法な行為に対して日本政府と企業に重大な責任があること、鹿島は企業としての責任を認めて謝罪をしたこと、・・・これらの厳粛な事実を日本社会は左右いずれの立場を問わず認知したのである。多くの日本のマスメデイアは大きくこの事件を取り上げ、その「和解」の意義を高く評価した。最も保守的な「産経新聞」すらもその社説は企業寄りであったが、「和解」の経緯を忠実に報道していたのである。
 今までは、中国人強制連行の事実を拒絶するか、事実を認めたとしても責任を認めないという中途半端な形でしか対応してこなかった日本社会がこの「和解」を契機に認知に踏み切ったことの意義は大きい。まさに、「記憶と責任」が国民的規模で認知されはじめたのである。勿論、日本政府の謝罪と賠償がないかぎり、その認知は完全なものとは言えないが、それでも、花岡事件や中国人強制連行の歴史的事実を次の世代へと語り伝えていくうえで大きな道を切り開いたし、歴史を正視することを「自虐史観」と攻撃する人々に大きな打撃を与えたことの意義は大きい。1999年、江沢民国家主席が来日の際、中日友好の未来の発展は“以史為鑒”をより所とすべきことを再三強調したが、花岡「和解」は日本の民衆に過去と未来が連続したものであることを再認識させたにちがいない。

4、緩慢ではあるが、受難者たちの名誉は回復されつつある
 受難者たちは過去三つの不名誉を被った。第一は、日本の政府、企業により人間として扱われず、牛馬にも劣る状態で連行され、重労働を強いられ、死の淵まで追い込まれたことである。そしてこれは主要なものである。
 第二は、文革時代に、日本から生還してきたことによって批闘(大衆的批判闘争)の対象とされ屈辱を味わったことである。90年11月、北京で39人の生存者と20人余の遺族が集まって最初の追悼集会を開いた時、少なからぬ生存者が村人の目を避けて夜中に家を出てきた。文革中、彼らの過去の連行と生還は一種の犯罪歴にも等しかった。抗日戦争中、国民党政府軍の連長でもあった耿諄氏は百回以上もの群集大会に連れ出され批闘の対象となった。家族もやむを得ず外では耿諄氏を批判せざるを得なかったが、「家に帰ってから家族で抱き合って泣きました。家族の心は一つでした」と涙を浮かべて語った氏の顔が忘れられない。優秀な共産党の地下幹部であり、中国人民義勇軍に参加し朝鮮戦争で戦った王敏氏も、この過去の経歴ゆえに地方部隊の幹部以上に昇進することはなかった。【編集者注:第二の点は日本の中国侵略が中国社会に遺した爪痕に起因するいわれなき受難に他ならず、日本社会による自省が不可欠と思う】
 第三は、89年12月公開書簡を出して以後、花岡受難者聯誼会の主な幹部たちは当局の監視対象になった。支援した中国人の市民ボランティアや大学教師までが監視された。彼らは天皇や日本の首相が来る度に外出を禁じられた。89年の公開書簡が出された直後、当局の幹部は直ちに耿諄氏の家にやってきて、この活動を非合法活動として厳しく批判し、一切の活動を禁じた。氏は文革の再来かと思ったという。その数日後に、氏のみすぼらしい家に着いた私に氏がふるえる手で「それでも985名の難友の為に私は引下がらない。必ずやる。」と書いた紙切れが今も私の手元にある。91年の予定していた天津での追悼集会の時には、50名近い生存者の老人と20名の遺族、それにその付添い者も含めて計150名近くの花岡受難者とその家族が天津到着後に、急遽集会を禁止した公安当局によって宿舎の門前で次々と追い返されるという屈辱を受けた。その時のショックが原因で以後二度と集りに来なくなったり、連携を断った老人たちもいる。またある時、北京に出てこようとした二人の幹事は北京駅で公安当局者ともみあいになり公衆の面前で実力で連れ戻されるという屈辱を味わった。聯誼会の内部連絡用刊行物すらも一号でもって当局の発禁処分を受けた。耿諄氏を含めて何人かの受難者や遺族は何度も出国を阻害された。当局に睨まれることは身内や家族にとっても不名誉なことであり耐え難いことであった。公安局員が受難者の家を出入りするのを見て村人たちの中にはいかなる反政府行為かと懐疑心をもつ者もいた。
 尊厳と名誉は別物であろうが深く結びついている。「和解」の中で「共同発表」を再確認することによって鹿島は企業としての責任を認め受難者に謝罪したのである。鹿島の「和解」受け入れを前提に、半官半民の中国紅十字会が基金の信託行為の受託者として参入してきたことにより、中国政府は花岡受難者の89年以後の花岡闘争を認知したのである。ある受難者は「これでもはや誰からも白い目で見られることはない。過去の歴史も我々が今までやってきたことも正義であることを政府が認めてくれた。これはなによりも栄幸(ロンシン=光栄、名誉)である」と私に言った。受難者の名誉回復の作業は第一に彼ら自身の信念によって、第二には広範な中日両国民衆の支援によって進められてきたが、「和解」は一つの到達点を示したといえよう。今後、鹿島と鹿島を含む日本社会総体が「共同発表」の精神を誠実に履行していくとき受難者の尊厳は回復され、名誉は確固としたものになろう。


<日本の民衆運動の自立と主体性を尊重する>
 花岡「和解」が成立した後、一、二の中国人受難者の「和解」内容に対する不満があることを理由に、「日本人がこの「和解」を”勝利”というのはおかしい」という意見が一部の在日中国人から出された。これは中国人の情感と尺度に日本の民衆運動を拝跪させようというもので、同意できない。本来日本側の支援運動は彼ら自身の歴史の負の遺産をどのように批判的に継承するかというところから始まった。「和解」は両国の民衆、とりわけ現地花岡をはじめとする日本の民衆の長期の闘争と台湾やロサンゼルスの友人をはじめとする国際的な声援のなかではじめて勝ち取られたものであり、それ故にそれは日本の民衆運動が負の歴史に対処するために獲得した一つの地平線であり、かけがえのない成果である。「和解」の内容が、中国人の情感と期待の尺度からいって相当の距離があったとしても、「和解」を通して中国人受難者が貫徹した政治目標と獲得した成果は、日本の司法の限界と中日の政治的社会的制約状況を見るとき、それは実に容易ならざるものであった事を知らねばならない。我々中国人は日本の冷酷な現実状況をよく知る必要があるであろう。戦前は勿論のこと、戦後から今日に至るまで、様々な公害訴訟や労働争議において、日本の政府と資本がいかに自国の民衆や労働者に対して冷酷な棄民政策を取ってきたか。サリドマイド薬害事件、水俣病事件、薬害エイズ事件、三井三池争議、国鉄反合理化争議など、解決があったとしても、補償を得られたものは一握りであり、その額もほとんどが平均年収を下まわる苛酷なものである。それらの実例を取り出せば枚挙にいとまがない。ましてや、民族排外的な日本の政治状況と司法制度のなかでごく一部のけっして好ましいともいえない例外を除いて、次々と棄却され、敗訴を言いわたされていく多くの戦後補償裁判を見るとき、花岡「和解」が決定的とはいえなくとも、今後の戦後補償獲得闘争に一縷の希望を与えたことは確実であり、全般的な戦後補償の解決に向けての世論の形成に果たした作用は計り知れないものがある。これを“勝利”と言わないならば、なにをもって“勝利”というのであろうか。我々中国人は本当の友人を見失ってはならない。
 もちろん、すべての妥協を排して永遠に加害者を告発し糾弾し続けるのも歴史に対処する一つの方法である。しかし、我々中国人はユダヤ人のように永遠の告発のためのいかなる運動や組織を用意してきたのであろうか。むしろ、我々中国人は、花岡受難者の老人たちの闘いを別にすれば、この半世紀、いかに主体的に歴史を清算するための運動に取り組んでこなかったかを自省しなければならない。中国社会の制約が主体的な支援闘争の組織化を許さなかったというのであれば、それは中国人自身の責任である。「和解」の内容に不足があるというならば、まず我々中国人自身の不努力と怠慢を反省するところから始めねばならない。ユダヤ人たちは力を結集して地球の果てまでナチスの戦争犯罪人を追っているが、我々中国人はただ怒ることと甘えることだけを知っているだけだ。今日の中国人は口は勇ましいが本当のところ臆病なのか、寛容なのか、それとも愚鈍なのか。我々中国人は被害民族としての歴史的責任を放棄してはいないだろうか。


<受難者の思いを深く受け止め、新たな歴史の創造への思想的源泉としよう>
 「和解」を通じて中国人受難者の政治的原則が貫徹されたとはいえ、中国人の期待と願望が百パーセント満たされた訳ではない。その主要な原因はやはり鹿島と日本政府にある。鹿島は「共同発表」を再確認したが、この間の経緯からいえば、鹿島が主動的に.自発的に承認したというよりも運動と世論の圧力に屈して承認したといってよい。したがって「和解」後に鹿島によって発表されたコメントは自己の弁護に終始し、歴史を歪曲し、誠実な反省の意志は見られなかった。受難者に限らず多くの中国人が怒ったのも当然のことである。筆者は道義的責任は法的責任よりももっと深く重いものであると考えるが、鹿島の法的責任もまた自明のものであるにもかかわらず鹿島は90年の談判開始以来ずっと法的責任を認めず、「和解」のなかでも承認しなかった。自分たちを非難する記念館などつくることはできないといって、記念館建設についてもこれをずっと拒否し続けてきた。
 日本政府も「日中間ではすでに決着済み」(1990年3月7日、田英夫参議院議員の花岡事件に関する国会質問に対する海部首相の答弁)といって花岡事件を含む中国人の強制連行問題に対して極めて冷淡な姿勢を示してきた。責任ある当事者たちが斯様であるから、受難者たちの心は容易に癒されるものではない。
 「和解」によって、鹿島の過去が清算されたわけではない。清算の第一歩が始まったにすぎない。鹿島はこの基金をもって死に追いやった中国人の生命と相殺できたと思ってはならない。いかなる額の金が積まれようと、どれほどの謝罪が繰り返されようと、道理のない侵略戦争のもとで受難者が受けた苦痛と悲しみは容易に消え去るものではない。ただただ、加害者と加害の側にあった社会総体が加害の事実とその歴史的責任を認知し、受難者の苦痛と悲しみを正面から受け止めていく作業を不断にすすめていく中でこそ、受難者の心は癒され、その自尊は回復され、怨嗟は永遠の怨嗟であることをやめていくであろう。大館市の市民と行政が、この十五年余途絶えることなく、市主催或いは市民団体主催で加害の立場から追悼と記念の為に進めてきた多様な活動は、受難者の自尊がいかにして回復されるかを考える上で豊かな示唆を与えてくれた。深い敬意を表したい。
 「和解」後の課題はなお多い。一つは、鹿島が和解の精神を誠実に履行していくかどうか見守っていく必要があるであろう。今一つは、日本政府の責任をどのようなかたちで追求していくかという課題が残されている。更には、花岡「和解」の先例を、他事業所の中国人強制連行・強制労働の問題にどのように結び付けていくかを考えねばならない。すべての中国人強制連行の解決がないかぎり、花岡事件は真に歴史的な清算を受けたとは言えないだろう。なによりも、鹿島が拒絶した「花岡記念館」を、我々民衆の手でつくらねばならない。「花岡記念館」に魂をいれることができる者は、受難者であり、民衆でしかないからである。
 受難者の怒りと悲しみを正面から受け止め、歴史への感性を磨き、新たな歴史の創造への思想的源泉としようではないか。