現代企画室編集長・太田昌国の発言のページです。世界と日本の、社会・政治・文化・思想・文学の状況についてのそのときどきの発言が逐一記録されます。「20〜21」とは、世紀の変わり目を表わしています。
2008年の発言

◆「海賊退治」に乗り出す「空賊」国家連合2008/12/20

◆無為な6年間にも、大事な変化は起こっている――拉致問題の底流

◆「皆さんが渋谷の首相の屋敷に向かっていたころ、私(たち)は法相の選挙区、千葉県茂原市にいた」2008/10/31

◆米国式「金融モデル」の敗退の後に来るべきもの2008/10/24

◆私の中の三好十郎208/10/24

◆シベリア出兵とは何だったのか2008/10/02

◆アトミックサンシャインの中へ――ある展覧会について2008/9/10


◆被害者の叫びだけにジャックされるメディア2008/9/7

◆世界銀行とIMFを批判するモーリタニア映画を観て2008/6/17

◆生態系債務の主張と「洞爺湖サミット」議長国2008/5/26

◆〈民族性〉へのこだわりを捨てた地点で生まれた映画2008/5/26

◆公正な「社会」と「経済」へ遍的に問いかける2008/5/26

◆「反カストロ」文書2008/5/26

◆チベット暴動と「社会主義」国家権力2008/3/12

◆歴史的過去の総括の方法をめぐって2008/3/7

◆中国産冷凍餃子問題から見える世界2008/3/7



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被害者の叫びだけにジャックされるメディア
『派兵チェック』第189号(2008年7月15日発行)掲載
太田昌国


 去る7月12日、東京で開かれた「裁判員制度と犯罪報道」と題されたパネル・ディスカッションの司会をした。

「光市事件報道についてのBPO(放送倫理検証委員会)の『意見』を受けて」との副題をもつこのシンポジウムは、2009年の裁判員制度導入を前に、犯罪報道のあり方を再検討することを目的とするものであった。

発題者として幾人ものジャーナリストや弁護士が参加したこのシンポジウムの全容は、いずれ発表される機会もあろう。
ここでは、印象に残ったひとつの発言を切り口にして、今回取り上げるテーマを考えることにしたい。


 米軍の爆撃にさらされるバクダッドから、殺され傷つけられるイラク民衆の姿を伝えていたフリージャーナリストの綿井健陽は、ここ数年、少年が母子を殺害した光市事件とその裁判およびメディア報道に孕まれる問題を抉る仕事を、活字と映像の双方で行なっている。

この事件の被害者の遺族は、むごい犯罪を犯した加害者と、職務としてそれを弁護する弁護団の言動に対して、常に厳しい批判を行なってきている。

綿井は、マスメディアが行なう光市事件報道は、被害者遺族の言動を絶対化し、それを軸にしてすべての報道がなされている点において、拉致事件報道と完全に重なり合っている、と語った。私は同じ思いをしてきたこともあって、深く共感した。


 歴史的に見て世界最強・最大の「テロ国家」であり続けている米国が、なぜ、他国を「テロ国家」呼ばわりできるものなのか、まことに理解に苦しむが、ともかく米国は北朝鮮を「テロ国家」と指定してきた。

それを解除しようとする動きに関しても、洞爺湖サミットに関しても、日本での報道の軸のひとつは、拉致被害者家族の言動を大きく取り上げることであった。

北朝鮮に対して厳しい制裁路線を維持することが、拉致問題解決に向けての唯一絶対の方針であることを信じて疑わない家族会からすれば、「テロ国家」指定解除に向かう米国政府の方針と、なにやらに煮えきらぬ態度に終始する日本政府のあり方は、当然にも、厳しい批判と不満の対象である。


 家族会のこのような考え方には、いくつもの疑問があり得る。安部晋三は首相の任務に就いていた一年未満のあいだ、家族会が全面的に信頼を寄せる対北朝鮮政策を採用してきた。

私の考えでは、それは「無為無策」をしか意味しない。当然にも、その期間、事態は少しも動かなかった。

家族会の解釈では、それでも、この政策によって金正日体制が追い詰められているらしいのである。

常時ワシントンへも出かけて「拉致を忘れるな」「テロ国家指定を解除するな」と陳情する家族会には、米国政府は表面的には同情・同調しつつも、おそらく困惑していると思う。

それは、畢竟、日本と北朝鮮のあいだでしか解決のつかぬ問題であり、自国政府の無為無策のツケを他国政府に回すのはお門違いだろうという本音があるにちがないからである。


 だが、2002年9月の日朝首脳会談以降の6年間、家族会は、いかなる言動をしても、常に一定の時間とスペースを割いてメディア報道がなされるという場所に居続けてきた。

一言の批判もなければ疑問提起もなされない。珍しくも「特権的な」位置である。誰の場合もそうなるだろうが、「特権的な」位置にいると、見えなくなる物事があるようだ。

「あなたたちは裸だ」と言ってくれる子どもたちがいないから、家族会はいつまでも、展望なき路線にしがみついたままだ。

私の考えでは、家族会の人びとの怒りと悲しみと苦しみが、そのまま直截に伝えられるべき時期は、とうに終わっている。

報道次第では、もっと知恵と工夫のある考え方を家族会が採るよう援助できるはずなのに、客観的姿勢を失って被害者に一体化したメディアは、みすみすその機会を手放してしまっている。


 そのなかで、注目すべき意見が、家族会周辺から出された。『世界』誌7月号に「対話再開のために何が必要か――蓮池透」と題するインタビュー記事が掲載された。

拉致被害者の実兄であるこのひとの意見を、家族会の人びとの言動への批判は控えていた私が、かなり早い時期に批判したことがある。

被害者の兄であることを「テコ」に、情念的なナショナリズムを悪煽動する場に身をおいていると判断したときに、であった。やがて弟夫婦が帰国し、ついで子どもたちも帰国できた。

兄の言動は次第に変化しはじめ、いつしか家族会の事務局の担い手であることも辞めた。私は、これは好ましい変化だと思った。

被害による怒りと悲しみをもち続けたまま、相手(北朝鮮)との相互の関係の中で問題の本質に迫る姿勢が見えたからである。

文庫版『「拉致」異論』(河出文庫)への「追記」では、そのことにも触れた。


 蓮池透はこのインタビューにおいて、一段と踏み込んだ発言を行なっている。

「家族会イコール日本の世論」とでも思っているらしい政府へのもどかしさを語り、「対話」の必要性を強調する。

北朝鮮に対する日本政府側の「だまし」に触れ、「過去の清算は誠実に行なう」ことを主張している。「訪朝」の可能性にさえ触れている。

拉致された娘に子どもがいることを知り、その孫に会いたい一心で訪朝を希望したひとを、かつて強引に諦めさせた人物が、そう語っているのである。

冷静、沈着、である。工夫も知恵もある考え方が、ここでは展開されている。現役の家族会の人びとが、このような声に耳を傾けるようになれば、事態は前向きに動くだろう。被害者の「悲痛な」声だけに、メディアがジャックされるという、あってはならない風景も自然と消えていくだろう。


 
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