4. 地域文化と捕鯨 4-1) 祭事と捕鯨 鮎川浜における鯨及び漁業にまつわる祭事としては、鯨祭と、海難物故者や 鯨魚霊の慰霊を行う施餓鬼供養の2つがある。また、新聞報道によると、それ らの行事とは別に鯨供養というものが行われている模様である。 それらの祭事と、慰霊塔類について説明する。 (1) 鯨祭 鯨祭は、1953年(昭和28年)の 8月22日から25日までに行われたものが最初 のものであると記録されている。これは、当時小型捕鯨で栄えており、捕鯨の 町として知られつつあった鮎川浜の発展を願ってはじめられたもので、消防団 が中心となり、町(当時の鮎川町)・青年団・婦人会などが後援して開催され た。あわせて、鯨や海難物故者の慰霊も目的とされた。また、祭を観光資源と して活用しようという意図も当初よりあったものといわれている。 記録によると、第一回鯨祭の内容は、野球大会・水上競技・大漁唄い込み・ 模型のクジラを用い実砲を使った捕鯨の実況・仮装行列・山車・花火大会・盆 踊り大会・万霊供養施餓鬼・灯篭流し・鮎川音頭の発表などであったという。 翌1954年からは、新たに鮎川鯨祭協賛会が組織され、同団体の主催で、時期 も 8月13〜15日に変更されて行われた。 しかし1960年(昭和35年)、チリ地震による津波の被害があり、その年から 鯨祭は中止される。 町の沈滞ムードの一掃を狙って鯨祭が復活したのは1964年(昭和39年)であ り、この時に中心となったのは鮎川商店会であった。時期は 8月15〜16日の 2 日間とされた。 更にその後1967年(昭和42年)の第10回鯨祭からは期日が 8月 2〜3 日と変 更になった。これは、旧会期の 8月中旬は、日本では全国的に「盆」と呼ばれ る宗教行事があり、観光には適さない時期であるためだと考えられる(日本で は、盆の時期には、あまり観光旅行は行われない。故郷に戻って宗教行事に参 加しなければならないからである。ただしこの習慣は、近年急速に風化しつつ ある)。現在の行事の内容は、宮城県警音楽隊の演奏・町内小学生による鼓笛 パレード・婦人会民謡パレード・鯨ショー・鯨みこしを伴うパレード・郷土民 俗獅子振り大会・民謡大会・花火大会などとなっている。 なお、鯨ショーだが、新聞報道(河北新報)によると、第一回の鯨祭のほか に少なくとも1992年には、現役の捕鯨船を使ったショーが行われたようだ。し かし、継続して行われているメインのショーは、網取式の古式捕鯨を摸したも のであるという。念のためだが、鮎川浜を含む近隣の地域で古式捕鯨が行われ ていたという記録はないようである(*1)。 鯨祭の観客動員数は、1991年の主催者側発表で 15000人であったとのこと。 *1 この地方にも「網取式捕鯨」が存在したと主張しているようにも読める文 献に、アルバアタ大学のミルトン・フリーマン氏による「くじらの文化人 類学」がある。本著作では、捕鯨技術の伝播の項目の図示説明のうち1675 年〜19世紀末の項目で、山口から牡鹿半島付近(地名表記なし)に網取式 の技術が伝わった、としている。 文中では、「1887年(明治20年)には、鮎川は人口わずか 332人の小さな 漁村であり、捕鯨技術をもっている人は一人もいなかった。この地方では、 江戸時代末期に網取り式捕鯨が試みられてはいたが、捕鯨の伝統が本当に 根づいたのは20世紀初頭になってからであった」と説明されており、なん らかのかたちで伝統捕鯨である網取式捕鯨が行われていたことを示唆して いるようにも読み取れる。 しかしながら、「牡鹿町史(上巻)」には網取式捕鯨に関する記述が全く ないことなども鑑みて判断するならば、少なくとも現在の牡鹿町の範囲で 網取式捕鯨が行われていたと信じることには、かなりの無理があるように 思われる。 もっとも、近代捕鯨ショーよりは網取式捕鯨のショーの方が見栄えがする であろうことから、観光資源として考えた場合、この選択は理解できるも のである。「事実にもとづかないから網取式捕鯨ショーはやめるべきであ る」と主張するのは、これは『野暮』というものであろう。 とはいえ、網取式捕鯨ショーが「網取式の時代から鮎川では捕鯨が行われ ていた」という誤認を広める可能性があることもまた指摘しておかなけれ ばならないし、この問題が解決されなければ「網取式捕鯨ショー」を行う という判断そのものが批判を受ける可能性もまた否定できないようにも思 う。 【写真】 捕鯨ショーで使われる鯨(ayu34.gif)と鯨祭の鯨神輿(ayu35.gif)。イメージ67K
イメージ94K (2) 施餓鬼供養 施餓鬼供養は、海難物故者及び鯨や魚の霊をとむらうための宗教行事であり、 夏季の盆の行事のひとつとされている(「鯨祭」の項目でも簡単に触れたが、 盆とは、その時期にだけ死んだものの霊が現世に戻ってくるので、それを迎え るという習俗。戻ってくる霊を出迎え、もてなし、見送るというのが、盆とい う宗教行事の基本的な概念である。また、日本には、人間と人間外の生物とを 霊的な側面で区別するという思想は存在しない。もっともこの思想も近年急速 にすたれつつあり、西洋的思想である人間中心主義が、欧米以上に独善的な姿 を伴って、台頭してきている)。 この施餓鬼供養は、鯨祭にあわせて行われていた時期もあるが、若干ずらし て行われている時期もあり、一定しない。当初は消防団の手で行われて来たが 1981年(昭和56年)からは、人手不足と伝えられる理由から、仏教寺院である 真言宗観音寺によって執り行われている。 施餓鬼供養の際、人間や鯨の霊を象徴する位牌は海岸に作られる施餓鬼棚に 安置され、供物などが捧げられ、読経がなされる。施餓鬼供養への参加者は、 例年 100〜200 人程度であるという。 ほかに、鳥羽捕鯨が彼岸・盆に、東泉院という仏教寺院で、鯨供養を行って いる。 (3) 慰霊塔 鮎川浜にある観音寺の境内に、捕鯨関連の供養碑などがいくつか存在する。 ただし、鯨の供養に関するものというよりは、捕鯨関係の海難死亡者などに関 するものが多い。 <資料・観音寺境内の捕鯨関連碑> 哀悼碑 東洋捕鯨が1922年(大正12年)12月の、自社のアバロン丸 の遭難にちなんで建立したもの。 記念碑 東洋捕鯨が1928年(昭和3年)4月の、自社の第三東洋丸の 遭難にちなんで建立したもの。 三界万霊塔 伊佐奈商会が1932年(昭和 7年)に建立したもの。伊佐奈 商会は、塩蔵肉など鯨産品を扱っていた。 千頭鯨霊供養塔 鮎川捕鯨が1933年(昭和 8年)に建立したもの。 海ニ眠る碑 戦没殉難者のために大洋漁業が建立したもの。 (「牡鹿町史」より作成) (4) 鯨霊供養祭 新聞報道(河北新報)によると、1993年の鯨祭に際して、「はじめて鯨霊供 養祭が営まれた」という。この供養祭と施餓鬼供養との関係はよくわからない が、この回の鯨祭のオープニングセレモニーという扱いであったらしい。 鯨霊供養祭が終わったあと、ツチクジラの焼肉大会(計 200キロ2000人分) を皮切りに、1993年の鯨祭がスタートしたそうだ。 次の項目へ
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