2-2)  鮎川の近代史

 さて、ここで一度、捕鯨から離れて、鮎川の産業構造の変遷を見ておこう。
鮎川の歴史の中で、捕鯨という産業がどのような位置付けであり、かついかな
る影響を与えてきたのかということを見なければ、捕鯨の位置付けもまた理解
が困難であると思われるからである。
 なお、この項目の各集落の歴史は、大半を「牡鹿町史」によった。

 近代捕鯨以前の鮎川は、たとえば1883年(明治16年)の宮城県水産綴による
1879〜1883年(明治12〜16年)の漁獲高資料によると、金額順位で上から、タ
イ・マグロ・イワシ粕・アワビといったものが主力であったとされる。これら
の資料から当時の漁業を解析すると、大網(定置網)などによる沿岸漁業が主
流の漁村であったよう推測できるという。江戸時代には地引網が行われていた
形跡も認められる。その後の1907年(明治40年)の調査では、鮪延縄・流網・
鮫刺網などの沖合漁業によると思われる漁獲物も登場しているとのこと。地場
資本による、沿岸漁業から沖合漁業に向けての移行が、徐々に発生してきてい
たことが読み取れる。
 ただし、鮎川などでは漁業株の集中などによる地場の漁業資本家の登場など
がみられたが、定置網が村網として運営され、漁獲物は均等に配分されていた
ことから、漁業資本家の登場が遅れていた集落もあった。

 捕鯨産業が進出して来なかったら鮎川の漁業の歴史はどうなっていたのだろ
うか。その推理のための資料として、捕鯨産業の進出がなかった小網倉浜の歴
史を主軸として、簡単に紹介しよう。
 沿岸漁業から沖合漁業への移行が大きな流れとなったのは、明治末期から大
正にかけての時期であるとされる(1910〜1920年頃か?)。この頃、漁船の動
力化が進み、まず先行する漁業資本家などが沖合漁場に進出した。ところが、
動力船をもって沖合いに進出した漁民は、底曳網漁を盛んに行い乱獲を繰り返
したことから、地先海面が荒廃、沿岸漁業は大きな被害を受ける(同様のこと
が寄磯浜でも起こったようで、牡鹿町史は寄磯浜の漁業について「大正、昭和
にかけておこった機船底曳網の発展につれてこれらの漁場(注:地先海面のこ
と)は荒らされ、赤魚漁業もサメ刺網も衰え」と表現している。時期が若干異
なるが、幅がある表現であるため、前後関係ははっきりしない)。
 こうして、沿岸漁業から沖合漁業へという流れは更に加速されていくことに
なる(これらの大規模化した漁業資本の中には、牡鹿町から女川・石巻・塩竃
などの地域に流出したものがかなり存在するという)。
 沖合いに向かわなかった漁民は、ほぼ時を同じゅうして、魚から牡蛎などへ
とシフトし、その後天然牡蛎の枯渇から種牡蛎を使った浅海養殖漁業へ、更に
さまざまな魚介類の養殖へとつながる、別の道を歩むことになった。

 対して、捕鯨産業が押し寄せてきた鮎川はどのような歴史をたどったのか。
 1906年(明治39年)の東洋漁業の鮎川への進出、それに続く土佐捕鯨・紀伊
水産・長門水産などの進出によって、鮎川の漁業産業の成長は、大きな影響を
受けることになる。通常は、小網倉浜などのように、現地に生まれた漁業資本
家などの主導によって、沿岸漁業から沖合漁業へという流れが生じるはずであ
った。ところが鮎川においては、漁業資本家は漁業へは向かわず、鯨肥生産業
などに移行していったのである。また、小規模な沿岸漁業などを行っていたは
ずだった漁民の多くも、外来の捕鯨資本に取り込まれ、独立した漁民から賃金
労働者へと変貌していった。流入してきた捕鯨資本には、今も食品商社として
盛業中の巨大資本(現在のマルハ、ニッスイなど)もあれば、若干先行して資
本の統合が行われた近隣漁村などの小規模資本もあり、さまざまであったが、
いずれにせよ鮎川は、自力での資本主義システムの成長を待つことなく、いき
なり圧倒的な力を持つ外部資本によっての経済構造の変革を余儀なくされたの
である。
 このことは、単に産業構造の変革だけをもたらしたのではなく、村落共同体
の変質をも招いた。居住者が、加工業者や雇用労働者に変わり、また外部から
の流入者が増えるに従って、鮎川では、藩政時代からの緊密な村落共同体の形
が早くから崩れていたとされる。
 更に、捕鯨船のサポートや鯨肥産業などの大資本に対する従属的な産業は生
まれたものの、それらの産業を担った資本家は、出自が鮎川であった者も含め
て必ずしも鮎川を地盤とは考えなくなっており、捕鯨関連産業の隆盛で蓄積さ
れた資本のかなりの部分が、鮎川から流出していった。地場の漁業資本の石巻
などへの流出は鮎川だけに起こったことではないが、それより遥かに早い時期
から、鮎川からの資本の流出は発生していたのである(後述の 2-3における鮎
川捕鯨の関係者による石巻近辺での土地購入の事例などを参照せよ)。
 このあたりの推移について、「牡鹿町史」は、次のように述べている。
 「大正11年から13年(1922〜4) にかけて機船底引き網漁業を経営したものが
三人程現れたが鮫延縄と同様に捕鯨業の根拠地となった鮎川浜では消滅の道を
たどる他は無かった。かくして沿岸漁業の内部より分化成長した沖合、遠洋漁
業の萌芽は鮎川浜においては開花することなく戦後を迎えることになるのであ
る」。

 こういった町の経済の変質は、単に経済構造の問題だけにはとどまらなかっ
たようだ。
 聞き取り調査の中で、ある町民は、鮎川の町風について「定置網思考」とい
う言葉を使った。これは、自力で未来を切り開こうとする気概が薄く、依存体
質が深いということを意味して使われた言葉である。定置網は、網を張って、
待つという漁法である。「産業が来るのを待ち、自らは積極的に動かない」と
いう風潮が、鮎川には強いという。
 明治から昭和にかけての激動の時代に、鮎川は、自力で未来を切り開くとい
うチャンスを奪われ、大資本に蹂躙され続けた。それと同時に、捕鯨産業によ
るバブリーな好景気によって、地域全体が浮かれてしまってもいた。現在の鮎
川の苦境は、日本全国で進行中の「過疎」という社会現象によるものが大きい
が、鮎川に特異な事情があるのだとすれば、それは「大資本が一斉に手を引い
たことから、経済の上でも、意識の上でも、大きな痛手を受け、立ち直るまで
に時間がかかっている」とまとめることができるように思われる。現在でも、
観光産業などの振興をする上で、この「定置網思考」が大きな障害となってい
る、と、その町民は指摘した。
 鮎川は今、その「捕鯨産業の後遺症」から立ち直るために、自らを励まし、
懸命の努力をしているところだと言えようか。

 次章からは、この構造の中での捕鯨産業の歴史を、詳細に眺めてみたい。

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