2. 鮎川捕鯨の歴史

2-1) 近代捕鯨前史

 牡鹿町は、南西部にあたる旧鮎川村地域と、北部にあたる旧大原村地域にわ
かれる。

 この旧鮎川村地域には、鮎川浜・十八成浜(以上牡鹿半島)・長渡浜・網地
浜(以上網地島)・金華山(以上金華山。金華山は鮎川浜に含めることが多い
模様)の集落があったが、その中の鮎川浜が近代捕鯨の根拠地であった場所で
あり、現在も牡鹿町の行政・経済の中心的な地位を占めている場所でもある。
 鮎川近辺の山には、今から 10000年前ほど前から2000年ほど前までの縄文時
代には人が住んでいたことがわかっているが、その後しばらくは人が住んでい
たという痕跡が跡絶えている。確かな資料を伴って生活の痕跡が認められるの
は、1300年前後までジャンプすることになる。14世紀には、紀州から船でくだ
ってきた船乗りたちが半島の各地に住み着いたといわれている。17世紀には紀
州より鰹釣漁法などが伝わって来ていたことがわかっている。
 明治にはいり、1889年(明治22年)には、鮎川浜・十八成浜・網地浜・長渡
浜・金華山を統合し、鮎川村となった。

 さて、金華山沖の鯨資源だが、これに着目していた者は、江戸時代から存在
した。記録によると、文政年間(1818〜1830)に金華山沖での捕鯨の効用を説
く文書があるとされ、1838年にはこの付近で少なくとも 4頭のクジラが捕獲さ
れているという(ただし鮎川ではなく大須浜・江ノ島)。
 また、江戸時代には、シャチに襲われて逃げ込んできた寄り鯨を捕獲したと
いう記録が残されている(ただし鮎川浜ではなく長渡浜・十八成浜・谷川浜の
こと。鮎川浜の集落史からは、寄り鯨などの記録は発見できなかった)。イル
カの引き網漁の記録もある(これもまた、鮎川浜ではなく、大原浜・給分浜の
ことであるとされる)。

 明治になってからも捕鯨を試みる者がおり、1887年(明治20年)には金華山
沖で捕鯨銃を使ったマッコウクジラ漁が試みられ、少なくとも 1頭が捕獲され
ているという(仙台資本によるもの)。その後も、田代・渡波(以上、現石巻
市)・仙台などの資本による小規模な捕鯨会社がいくつか設立されたが、しか
しながら操業には見るべきものがなかったとされている。
 1906年(明治39年)には、東岸の寄磯浜(旧鮎川村ではなく、旧大原村に属
する)でも、地場資本によってアメリカ式捕鯨を試みる金華山漁業株式会社が
設立されている。この金華山漁業株式会社は 300トン級の大型帆船を保有して
金華山沖で操業をしたが、直後に鮎川などに進出したノルウェー式捕鯨に蹂躙
され、ほとんど成果をあげることができなかったとされる。
 これらの事情を総合すると、1906年に東洋捕鯨が鮎川に進出してくるまでの
間、鮎川は、捕鯨とは全く無関係な集落であったと考えられる。確かに金華山
沖などの海域には鯨が多く、それをターゲットとする捕鯨産業は特に江戸時代
末期から多少は試みられてきた。しかしながら大原村寄磯浜のものを除けばそ
のすべては現牡鹿町とは無関係な人々が企画したものであり、それらの試みを
現在の「鮎川の捕鯨」につなげて理解するのは、極めて困難である。

<資料・近代捕鯨開始前の寄鯨及びイルカ漁の記録>
 1665年(寛文 5年)給分浜・大原浜、イルカ漁の利益配分で争う(なお、
     このあたりの浜は、イルカ漁以外でも頻々と争っている)。
 1673年(延宝 3年)給分浜・大原浜、寄鯨の分配金で争う。
 1677年(延宝 5年)給分浜・大原浜、イルカ漁の利益配分で争う。
 1714年(正徳 4年)給分浜・大原浜、イルカ漁の利益配分で争う。
 1731年(亨保16年)小淵浦・大原浜、イルカ漁の方法について争う(イル
     カ漁を行った上で争ったのではなく、やり方をめぐって争った模
     様。漁場の縄張り争いとみられている)。
 1750年(寛延 3年)給分浜・大原浜・小淵浦、イルカ漁の利益配分で争う。
 1759年(宝暦 5年)給分浜・大原浜、イルカ漁の利益配分で争う。
 1762年(宝暦12年)給分浜・大原浜、イルカ漁の利益配分で争う。
 1865年(元治 2年)十八成浜にシャチに追われた寄鯨1頭(1864年とする記
     事もある)。
 1885年(明治18年)大原浜で鯨捕獲。10.8メートルとの記録。
                      (「牡鹿町史」より作成)

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