名誉毀損・東京地裁判決報告

「おかしな判決文」で全面敗訴

上杉 聰


 いや〜負けちゃいました。全面敗訴です。 

 昨日の午後、「原告の請求をいずれも棄却する」という判決主文が東京地裁で読み上げられた瞬間、これまでの裁判の流れから見て、上杉側の勝利をほぼ確信していた私も「楽しむ会」の皆さんもびっくりしたのはもちろんですが、一番びっくりした表情をしていたのが小学館の弁護士さんでした。「うぇ〜ぉ」と驚いた複雑な表情をしていました。何しろ小林氏の弁護士は二人とも欠席、これまで無欠勤のトッキーさえ傍聴していませんでした。小学館側も判決文の受け取りを兼ねて来ていたその一人を除いて、他の弁護士は欠席。彼らも敗訴を確信していたものと思われます。小林氏が最新の『SAPIO』で私の顔をもう描かないと言っていたのも予防線だったと思っています(ついでに言えば雑誌『わしズム』発刊の意味も小学館から追放されるときの準備だった可能性がありますね)。ともあれ、東京地裁は大方の予想を裏切って私の請求をしりぞけました。

 しかし裁判というものは、時には交通事故のようなもの。悪い裁判官に当たると、とんでもない判決が出るものです。今回の判決も、素人が見てさえおかしなところがイッパイありました。そこで、すぐに高裁の判断を求めて控訴することを決めました。高裁でも交通事故に遭わないように、今度は油断をせず、全力を挙げて頑張りたいと思っています。

 判決文は、資料を除くとわずが29頁、しかも核心となる「当裁判所の判断」の部分は14頁にもならない簡単なもので、手抜きを疑わせるものでした。私の訴えをしりぞける理由を簡単に紹介すると―

 (1)私を「ドロボー」と描いて名誉毀損したと訴えたことに対して、「著作権違反(複製権侵害)に当たるか適法な引用に該当するかは、専門的判断を要する法律問題であって(中略)終局的には裁判所の司法判断により決せられるべき事柄である」という理由で「本件は意見ないし論評による名誉毀損というべきである」と判断し、また「本件漫画の表現では「泥棒」の語を「ドロボー」とカタカナで表記して比喩的表現である」ことなどにより、「原告に対する人身攻撃に及ぶなど意見ないし論評の域を逸脱し相当性を欠くものと評価することはできない」としました。

 もし専門的な判断を要することを「ドロボー」と軽率に表現したのであれば、小林氏による人権侵害は明瞭ということになりますし、裁判の判決の有無に関係なく名誉毀損になった呉智英氏等のケース(【判例解説】参照)もあります。そもそも司法判断で決することが名誉毀損にならないというのであれば、たとえば殺人罪も裁判所で判決されるのですから(しかもそこには殺意の有無など専門的な判断が必要です)、「人殺し」と公然と言っても良いことになります。またカタカナで「ヒトゴロシ」「ゴーカンヤロー」などと書けば「比喩的表現」となって「人身攻撃」にならないというのなら、カタカナであれば何を書いても良いことになるでしょう。

 (2)もう一つの訴えである肖像権侵害についても、「肖像権を侵害する行為となるのは、写真撮影、ビデオ撮影等個人の容貌ないし姿態をありのまま記録する行為及びこれらの方法で記録された情報を公表する行為」であると極めて狭く定義した上で、「作者の技術により主観的に特徴を捉えて描く似顔絵については、少なくとも本件のように似顔絵自体により特定の人物をさすと容易に判断できるときに当たらないときは(中略)肖像権侵害には当たらない」としました。

 肖像権の範囲は、写真等以外でも胸像などを含むとする判例がありますし、反対に写真が必ずしも本人に似ていないことは私たちが日常的に経験することです。もし似顔絵が特定の人物を指すものにならないのであれば、警察が指名手配犯人の似顔絵を公表することも無意味でしょう(でも現実にそれで捕まったりするんですね)。しかも今回小林氏によって描かれた私の場合を「特定の人物をさすと容易に判断できるときに当たらない」というのですが、小林氏が描いた私の漫画を見た友人達は、「似てないと言ってほしいっ!」と言う私の淡い期待に反して、みんな例外なく「似てるっ!」と笑っていました(何しろ彼は私の写真を見て描いたと言っているのですから似てない方がおかしいのです)。

 これ以外にも根本的な疑問が次々と素人目にも出てくる判決でした。今後このホームページ上に判決の全文を掲載し、広く皆さんの判断と批判を仰ぎたいと思っています。

 ただ、今回の判決が交通事故にあったようなものだったとはいえ、こちらにも大きな反省があります。名誉毀損裁判については著作権侵害事件と違って私に危機感が薄く、必死さに欠けていたところがあったのです。著作権裁判では、必死で細かな点まで裁判書面づくりに精魂を込めましたが、今回も勝てるだろうと言う油断や安心があり、弁護士さんと「楽しむ会」任せにした所がありました。弁護士さんがいくら優秀であっても、「楽しむ会」がどんなに頑張ってくれても、原告の熱意がなければ裁判所は考えてくれない面があると思うからです。

 これに比して被告の小学館側は必死でした。同じ被告であった小林氏の弁護士が投げやりになっている中、私の側に有利な裁判長の訴訟指揮があったときは執拗に最後まで変更するよう要求を重ねていました。『SAPIO』の寺沢編集長も最後の局面で一見して無駄としか思えない「陳述書」を提出するなど、その必死さにおいて私を凌駕していたと思います。恐らく小学館・寺沢氏と小林氏のつながりが今後どうなるかこの裁判にかかっていたのでしょう。私はそれを守ろうとする情熱をうち砕くだけの激しさをもって当たっていませんでした。

 その傾向は、とくに裁判官が交替したときに生じたように思います。新しい裁判官に対して、面倒でも再度一から説明する情熱をもって働きかける意思の有無が問われたとき、「めんどくさい。そこまでやらなくても大丈夫だろう」と思う私があったのでした。今回の判決が事故のようなものであったとはいえ、その前に事故を防ぐ努力を細心の注意を払って実行することが必要であり、それを怠ったことが敗因のかなりを占めているように思います。

 近く正式に控訴手続きをとりますが、私のこの意欲は、判決の傍聴や報告集会に駆けつけて下さった多くの皆さんの強い励ましのおかげでもありますし、もしここで私が手を引いたら、論的を醜く描いて社会的名誉を傷つける漫画による暴力を野放しにすることになるからにほかなりません。今後もつづけて高裁での闘いへの支援をお願いする次第です。


追伸

  上を書いて後、先ほど駅の売店で産経を除く全紙を買って目を通すことができました。産経は売っていなかったので帰宅してゆっくり見ます。入手できたすべての新聞が昨日の判決を取り上げてくれていました。おそるおそる「敗訴は恥ずかしい〜っ」と思いつつ読んだところ、今回の判決によって間接的ながら、著作権裁判の方での私の勝訴が浮かび上がる形になっていて、小林氏のウソがその面でほころびつつあることを見て、やはり継続は力だと思いました。そして6月中旬までには『脱ゴーマニズム宣言』の改訂「晴れて確定勝利判決」版(東方出版)が書店に並びます。楽しみにしてください。