イラク戦争と公益法人改革(権力と市民活動) 2003.04



1.イラク戦争

「他人を強制し服従させる力」のことを権力という。3月は内外で国家の権力について改めて考えさせる大きな出来事があった。

ひとつは、アメリカ政府が国際社会の反戦の意志を無視して、イラクに対して一方的に先制攻撃を仕掛けたことである。子どもや女性など、非戦闘の市民を巻き込む戦争を認める人はいない。しかしブッシュ政権は、フセイン大統領とフセイン体制の危険性の排除を大義として掲げ、敢えて先制攻撃に踏み切った。日本政府はそうした姿勢を理解し、この先制攻撃に対する支持を表明した。

国内世論は、今回のブッシュ政権の最初から「戦争ありき」の姿勢に大方が疑問を抱いており、少なくとも先制攻撃には国連決議が必要との認識を持っていた。まして、日本国憲法は、国際紛争の解決に武力を用いることを永遠に放棄している。にもかかわらず、国民の声は小泉首相の「アメリカ支持こそが国益にかなう」の一言で黙殺されてしまった。

米英のイラクへの先制攻撃とそれを支持した日本政府の姿勢は、北朝鮮問題にも大きな陰を落とした。北朝鮮は、先制攻撃の脅威から軍備増強に拍車をかけるであろうし、一方的な理由での先制攻撃が可能であるなら、北朝鮮からの先制攻撃も認められるという、勝手な理屈を振りかざすであろう。北朝鮮の工作員が多数存在する日本社会において、テロ等による無差別の先制攻撃を防止できるとは思えない。

戦争は莫大な戦費を費やして人を殺傷し、環境を破壊する国家による犯罪行為と考える人は世界中に多い。各国での反戦行動がそれを証明している。独裁者の狂気や地政学等を根拠にした戦争の必然性についての専門家の解説も、たった一人のイラクの無邪気な子どもの写真の前では、たちまち説得力を失ってしまう。

憎しみは憎しみを増幅し、憎しみの連鎖は社会をますます不安定にする。どのような大義も一般市民を巻き込む戦争を正当化することできない。たとえ戦争が終結しても、テロの脅威から人々は開放されないであろう。日本国憲法に基づく不戦の主張を貫く好機を失し、先制攻撃の支持に回った日本は、確実に危険な道を歩みはじめている。

 

2.対話不足の日本政府のスタンス

今回、アメリカ政府という巨大な国家権力に対して、日本政府は自国の立場を国民にも明確に説明できず(国際社会に対しても国民に対しても充分な説明責任を果たせず)、ブッシュ政権の動きだけを注視していた。その姿勢は、国連の間でも埋没してしまい、アメリカ政府追従という弱腰外交に終始した印象を受ける。

アメリカ政府はどんなことをしても日本政府は追従する、ブッシュ政権を批判しないと高を括っていたわけで、日本外交の選択肢の少なさには改めて驚かされる。なにか日米の信頼関係というよりも、封建時代の殿様と家臣の忠義・忠節の姿が蘇ってくる。

まともな対話をして、互いに批判することがあっても友好関係が保たれるのが信頼関係であって、それができていない。そうした関係そのままに、日本政府が国民に忍耐や負担は一方的に押し付けても、説明責任や対話を重視するといった国民を信頼する姿勢は今回も見えてこなかった。

このうえは犠牲が拡大しないうちにこの戦争がただちに終結することを願わずにいられない。最近の情報は、それが誰によってもたらされているのか錯綜しているので断定はできないが、イラク戦争が長期化するという報道が増えていることが気がかりである。

日本政府は、イラクの戦後復興に全面的に協力すると言っている。戦後復興という行為においても国民の理解や協力が不可欠であり、政府は誰のため、何のための協力なのかを明確に説明する責任を果たす必要がある。湾岸戦争の際の拠出金がどのように使われたのかを知っている日本人は殆どいない。

今回の戦費と復興費用は、湾岸戦争の時の比ではないと思う。湾岸戦争のとき、金だけ出して血や汗を流さないと、日本は国際社会でほとんど評価されなかったと言われている。日本の拠出金が日本国民の汗の結晶である税金であったにも関わらずである。

この戦争を理解し支持した日本政府は、今回もアメリカ政府が言うがままの負担をすることになるのだろうか。行財政の赤字や景気低迷が続いている日本がこのような負担に耐えられるかという不安も大きい。

湾岸戦争当時に比べて、日本の市民活動は大幅に力を蓄えてきている。イラクの復興には国内の多くのNPO(NGO=非政府組織という言葉が適切かもしれないが)やボランティアが活動をすることになるであろう。

日本政府の要請でこうした復興活動に自発的に参加する市民やNPOもあるだろうし、日本政府が充分に説明責任を果たしていないことを怒り、日本政府とは別に主体的に支援活動を行う市民やNPOもあるだろう。このときに、説明責任や対話を重視しない日本政府は、一方的に都合のよい市民活動だけを評価するのだろうか。都合の悪いNGOを排除しようとした外務省の行為は、まだ記憶に新しい。

社会を良くしようとする市民の活動では、行政とのパートナーシップや協働が重要と言われている。これからの公共(社会)活動は行政と市民が協力して担うということであり、日本の社会は、1998年にNPO法(特定非営利活動促進法)を成立させたことで、行政が担う公共から市民と行政がパートナーシップによって担う新しい公共の世界に踏み込んだはずである。しかも、このNPO法は、衆参両院全会一致で可決されている。

新しい公共を構築するには、相互の情報公開と説明責任が信頼の基本になるといわれている。相互に批判をしあえる対話性こそが重要であると、千葉県ではこうした関係を醸成することを「千葉デモクラシーの確立」と公約している。
実際に、市民が行政等の「権力」に対して反対意見を述べることは重要で、黙っていると支持しているものと都合よく解釈するのが「権力」である。黙っていなくても、それを黙殺する場合があるのも「権力」である。イラク戦争は、日本政府を含めていろいろな国家権力があることを知らしめた。

国家権力を制限するために憲法というものがある。日本国憲法は国民を主権者とする民主憲法であり、国民には日本政府を監視・評価する権利がある。それに対して日本政府は、今回の問題だけでなく、情報公開、説明責任等を充分に果たしているとはいえない。

 

3.公益法人等の改革と政府の説明責任

もう一つの国家権力について考えさせる出来事は、NPOに突然降りかかった公益法人等の改革の問題である。

現在、小泉内閣は「公益法人等の改革」を推進しようとしている。この「等」というのが問題で(「等」というのは、意図的にいくらでも拡大解釈できる)、この「等」の中にはNPO法人や将来的には任意のボランティア団体なども含まれる可能性がある。

公益法人とは、民法34条に定められた一般的には財団法人や社団法人を指す言葉であり、これら公益法人の天下り、補助金濫用、民業圧迫などの諸問題の解決がこの公益法人等改革の出発点であった。

公益法人等改革は、内閣官房行財政改革事務局と財務省税制調査会という政府の2つの組織で検討されてきた。そして、今年になって、NPO法人を含む非営利法人に対して原則課税の方針が突然打ち出され、3月末までに閣議決定するシナリオで動いていた。

その方針とは、公益法人(全国に約2万6千法人)とNPO法人(全国に約1万法人)や中間法人(全国で約170法人)を一体化して新たに原則課税かつ準則主義(決められた基金を積み、書式を整え、法務局に届ければ誰でも非営利法人になれる)の非営利法人制度をつくり、その上に行政が公益性を認めれば登録できる登録非営利法人制度をつくる。登録された非営利法人には現行のNPO法人が権利として既に持っているものと同様の減免資格を与え、更に、その中から特に行政が公益性(社会貢献性)が高いと判断した登録非営利法人に寄附控除等の減免資格をあたえるという2段階で行政介入を許すものであった。

営利を目的としない市民活動は原則非課税というのが、日本に近代的な法体系ができた明治依頼の基本的な考え方である。それに対して、内閣官房行財政改革事務局が非営利活動法人の枠組みを決め、財務省税制調査会が非営利法人の原則課税というこれまでの市民活動の税制度の180度の転換といえる方針を打ち出したわけである。

減免制度が付いている方針とはいえ、原則非課税が国民の権利であり、減免が行政が与える恩典(お目こぼし)ということを考えれば、たとえ結果として同じような納税額になったとしても、その違いは明らかである。これは、政府に都合のよい

市民活動だけを優遇し、市民活動全体をコントロールしていくことにつながるものであり、国家権力が市民の原則非課税という権利を一方的に踏みにじろうとするもので、まともに容認できるものではない。公益法人改革に名を借りて、当事者との充分な対話を行わないままに、なにか大きなすり替えが行われようとしている。

実際、政府はこの政策形成のプロセスや結果を説明してこなかったし、現在も説明していない。そもそも、なぜ公益法人(財団法人、社団法人)、NPO法人、中間法人の3つの法人制度を合わせて非営利法人とするのか。中間法人というのは、端的に言えば営利を目的としないものの、構成員の利益のために活動する同窓会のような、最近制度ができた原則課税の組織である。目的も活動もまるで違う組織を無理矢理一緒にしようとするのは、逆に隠された意図があるのではと、疑ってしまう。

こうした事態に歯止めをかけないと、今後様々な問題が生じる可能性が高まることになる。公益(社会)活動も事業を行えば原則課税となるわけで、例えば、ボランティアグループが集めた会費や寄付金なども、来年度に繰越金などが出れば課税されることにもなりかねない。そうなると市民活動全体の根幹が大きな影響を受けることになる。

検討してきた2つの政府組織は、懇談会等でNPOや学識経験者の意見も聞いていると言うが、それらの意見がどこに反映されているのかは不明で、最初から方針の青写真が用意されていたとしか思えない内容である。更に、昨年の夏に公益法人改革についての意見募集をしたと言うが、今回の具体的な方針案についてのパブリックコメントは行われていない。検討中と言う理由で充分に情報を公開せず、説明責任も果たさず、当事者である市民との対話も行わないままに閣議決定しようとしたわけである。

この「公益法人等の改革」の方針案は、その情報をキャッチした市民団体等が騒ぎ出したために、統一地方選等への影響を心配したと思われる政府与党からもクレームがあり、方針は修正されるようであるが、こうした一連のプロセスを考えると油断はできないという気がする。

営利を目的としない団体は、NPO法人、財団法人、社団法人だけでなく、学校法人、社会福祉法人、宗教法人などたくさんある。民法34条がその特別法も含めて複雑になりすぎており、そうした見直しは確かに必要と思われる。

欧米では、営利を目的としない活動であっても原則課税が普通のようである。しかし、イギリスのチャリティ委員会のように、政府ではなく第三者機関が団体の公益性を判断したり、行政の判断を監視・評価する機関が存在している。こうした公正な仕組みが確保されるならば、原則非課税の国民の権利を放棄してもよいのではないかと言う考え方もある。

こうした課題の解決は、情報開示や説明責任はもちろん、当事者との開かれた対話が不可欠で、国家権力が一方的に押しつけてよいものではない。公(パブリック)に対しての責任を担う市民の自発的・主体的な活動によって市民社会を実現しようとするNPO法の精神からすれば、当事者である市民やNPOに非公開のプロセスは大きな問題と言わざるを得ない。

3月12日の夜に、千葉市民活動センターで行われたボーンセンター主催の「公益法人等改革に関する緊急学習会」には、行政、NPO等の約30人が集まった。参加者の満足度は高く、こうした学習会の必要性が確認された。また、ボーンセンターでは、政府が進めてきた「公益法人等の改革」の枠組みやプロセスについての反対声明を出し、NPO立県を推進する堂本知事にも反対表明をお願いする意見書を提出した。

各地で市民団体の反対の声が大きくなり、千葉県もNPO活動推進の行動計画の中にNPOに関わる法人制度改革の問題を盛り込んだ。

 



(副代表・栗原 裕治)

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