吉田 裕『日本人の戦争観――戦後史のなかの変容』岩波書店 1995. p.129〜134.

 

  • ……〈前略〉……

     時代状況を突きやぶろうとするもう一つの動きは、高度成長のほぼ後半期から、かつての戦争の侵略性や加害性を直視しようとする戦争認識の潮流がしだいに拡大してゆくことによって、もたらされた。その最初のきっかけは、ベトナム戦争の勃発である。特に、六五年二月以降、米軍による北爆が本格化し、さらに多数の米地上軍が直接投入されるようになると、米軍の出撃基地、兵站基地としての日本の役割は誰の目にも明らかになった。こうした中で、日本国内でも激しいベトナム戦争反対運動が展開されることになるが、反対運動の中でもユニークな位置を占めていたのが、六五年四月に結成された「ベトナムに平和を! 市民連合」だった。この「べ平連」は、「殺すな」というその象徴的なスローガンが示すように、日本の市民が戦争にまきこまれ再び戦争の被害者になることに反対すると同時に加害者の側に加担することをも自覚的に拒否することを運動の唯一の理念としたが、その有力メンバーであった作家の小田実は、ベトナム戦争がもたらした思想的なインパクトについて次のように回想している。

  • 六〇年の「安保闘争」についても同じことが言えた。そこに基本としてあったのは、「安保」があることによって日本は戦争にまき込まれる、「被害者」になるという認識であったにちがいない。……その認識がまちがっていたと言うのではない。ただ、そこに欠けていた認識がひとつあって、「安保」の強制によってアメリカ合州国とともに力弱い他者にむかって「加害者」となる、なり得るという事態についての認識だった。何年かあと、ベトナム戦争は、まさに、その事態を私たちのまえにあからさまなかたちで突きつけて来た(『「べ平連」・回顧録でない回顧』第三書館、一九九五年)。
  •  加害者としての立場の自覚は、小田を戦後の日本人の戦争観の批判的再検討に向かわせる。『展望』の一九六六年八月号に発表した「平和の倫理と論理」の中で小田は、「戦後二十一年の歴史のなかで、私たちは数えきれないほどの数のさまざまな戦争体験の記録をもつが、そのほとんどすべてが、ことばをかえて言えば、被害者体験の記録だった。学生の記録があった。農民兵士の記録があった。家庭の主婦の記録があった。あるいは、海外引揚者の記録。そのどれにも悲惨な被害者体験がみちている。その自然な結果は、戦争体験というと、被害者体験をさし、それ以外のものをささないという視点の形成であろう」と書いている。

     小田の議論のユニークさは、一五年戦争下の日本人が加害者としての側面だけでなく被害者としての側面をもあわせ持った存在であることを認めた上で、両者の側面のからみあいを問題にした点にあるが、その加害者としての側面を認識する上でベトナム戦争は決定的な意味を持ったのである。「ベトナム反戦」体験を共有する多くの日本人にとっても、程度の差こそあれ、ベトナム戦争は同様の意味を持ったものと考えられる。

     ただ、ここで注意を払う必要があるのは、ベトナム戦争が日本人の戦争観、特に被害者体験に根ざしたそれの見直しをせまったことは確かだとしても、逆に過去の侵略戦争の批判的総括が充分になされていないことがベトナム戦争に対する暖昧な態度を生み出している面もあることである。従軍記者として華北における一九四二年の治安粛正作戦一三光作戦一に従軍した山下幸男は、自己の体験について、……〈中略〉……

     日本人の戦争観に見直しをせまるもう一つのきっかけとなったのは、やはり日中国交回復問題である。……〈中略〉……

     しかし、それにもかかわらず、ベトナム戦争と日中国交回復を契機にして、日本人の戦争観に大きな変化がもたらされたということはできない。先に掲げた二つの世論調査(表15・16)をみても、この間、戦争の加害性を認識する人の割合がかなり増大してはいるものの、すでに述べたような戦争認識の構図自体にはほとんど変化がみられないのである。その意味では、ダブル・スタンダードの厚い壁は依然として健在であり、「ベトナム」も「日中」も、それを打ち破るだけの衝撃力は持ちえなかったといえよう。

     ……〈後略〉……

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