米原  謙 『日本的「近代」への問い――思想史としての戦後政治』新評論 1995年

p.144〜150.

 

 3 運動の思想

 上述のように参加は制度化すればいずれ空洞化する。参加の具体的局面で一般の市民とセミプロの分離が避けられないだろう。こうした空洞化をさけるためには運動が不断に活性化する以外にない。参加と運動は不即不離なのである。ところで戦後日本における運動の思想について考えるとき、われわれは自然にべ平連に行さ着く。六〇年代後半の日本は急進主義の高波に襲われた。大学闘争とべ平連の運動がその代表だが、青年層の暴力を伴った激しい運動が社会に衝撃を与えたのは日本だけのことではない。アメリカ、フランス、西ドイツ、イタリアなどとともに、ポーランド、チェコ、中国などの社会主義国にも同様の現象がみられた。先進資本主義国と社会主義国の現象を同質のものとして把握するのは問題があるかもしれないが、両者が相互に影響しあったことは否定できない。大学闘争に「造反有理」というスローガンが現れ、大衆団交が叫ばれたのは中国の文化大革命の影響だし、べ平連がアメリカの黒人運動活動家や新左翼の理論家を招いて講演会を催したのも、運動の国際的広がりを示唆している。こうした急進主義の国際的広がりのなかで展開されたべ平連と大学闘争のなかから、この時期の運動の思想の特徴を探り出してみよう。

 まずべ平連(ベトナムに平和を!市民連合)について述べる。べ平連の初デモは一九六五年四月二四日だった。このデモの最初の呼びかけ人は「声なき声の会」の高畠通敏で、高畠が鶴見俊輔に話して準備会をもった。鶴見はより若い世代への広がりを考慮して小田実を誘い、その後は小田が、終始、中心的役割を果たした。この年の二月に北爆が開始され、日本国内は危機意識でみなぎっていた。鶴見は、この三人がこのような形で動かなかったとしても、ベトナム反戦の市民運動は起こっただろうと書いている。しかし運動の中心に六〇年安保世代ではない小田がすわったことは、その後の運動の展開を考える際にやはり重要だと思う。この日のデモの「呼びかけ」には高畠や鶴見の名前はなく、小田、開高健などの名が並んでいる。察するところ、小田、開高のように個人で参加した老と、わだつみ会などの団体を代表する者が混在しているのだろう。ともかく六〇年安保の経験を引きずりながら、新しい運動を模索していた事情が推測できる。この時発足したべ平連の正式名称は「ベトナムに平和を! 市民文化団体連合」だった。この名称にも、六〇年安保方式から個人単位の市民運動方式への過渡的性格がよく出ている。小田が書いたと思われるパンフレットの冒頭にはつぎのように書かれている。「私たちは、ふつうの市民です。(原文改行)ふつうの市民ということは、会社員がいて、小学校の先生がいて、大工さんがいて、おかみさんがいて、新聞記者がいて、花屋さんがいて、小説を書く男がいて、英語を勉強している少年がいて、(原文改行)つまり、このパンフレットを読むあなた自身がいて(後略)」。そしてこの文章はつぎのように結ばれている。「『ベトナムに平和を!市民文化団体連合つまりふつうの市民」。「ふつうの市民」を強調する小田の意図と「市民文化団体連合」という名称がいかにも不釣り合いに見える。

 第一回のデモの後、小田は「ふつうの市民のできること――『公』と『私』の問題」という文章を書いている。そこでかれは「戦前」あるいは「戦前的な」運動は「公」が「個人の『私』を強引に引きずって行った」のに対して、「戦後的な運動」の特徴は「まず『私』があって、それに結びついたかたちで『公』の大義名分が存在する」と語る。そして安保闘争はすでにそのような性格を帯びていたのに、運動の形態がそれに対応していなかったために「失敗」したのだという。すでに見たように、安保の運動の盛り上がりが大衆社会化と密接に関わっていたことは、加藤秀俊がその当時指摘していた。小田は同じことをつぎのように表現する。「私」から「出発」する運動は、すぐには発火しないが火の回りは早い。また運動は深化しない(弾圧があれば私生活に逃げ込む)が、悲壮感や挫折感は少ない。こうした状況で「組織の外にある『私』」を捉え、「一つの力とする」ためにどうしたらよいかと考えたとき、「ふつうの」人々が声を挙げるチャンスを作らねばならないという単純な結論にかれは到達した。この文章は小田の六〇年安保への態度を示唆している。一九三二年生まれの小田は安保闘争の中心にいても不思議ではなかった。しかしかれは六〇年の四月に「何でも見てやろう」の旅から帰国したばかりだった。その本の執筆にかかったのは夏だったという。帰国から執筆開始までの間に安保闘争があったことになる。おそらくかれは六〇年安保を異邦人のようにして通りすごしたのではないか。「戦後派的な私は、あの闘争を戦後民主主義の勝利であると感激するつもりもないが、さりとて、それが自分の運命の方向を一変させるような大事件であるとも思わない」。この傍観者的な突き放した姿勢が、安保とは異なった新しい運動を生みだすことになったのだと言えよう。

 さて「ふつうの市民」が声を挙げるチャンスは何よりデモだった。『べ平連ニュース』第一号(六五年一〇月)の「事務局だより」にはつぎのように書かれている。「毎月第四土曜日午後二時、これがべ平連のデモに集まる時間です。清水谷公園にぜひいらっして下さい。十一月は二十七日です。プラカードは各自おもいおもいのものを作ってもってきて下さい。デモで会いましょう!」。おそらくこれまでは政治運動に特別な関わりなどなかった女性によって書かれたものであろう。それにしても「デモで会いましょう!」という言葉ほどべ平連の運動の特徴をうまく表現したものは他にない。デモはもっとも手軽な自己表現の方法であり、しかも時間と場所さえ決めておけばひとりでも参加できる。準備も簡単だ。しかし運動は、簡便さによって集めた量だけでは質に転化しないし長続きもしない。べ平連の創意はそれを定例化したことである。定例化は参加者に「持統する志」を要求し、単なるお祭りでは終わらない内的倫理を持ち込んだ。運動の対象を漠然たる反戦や平和の要求ではなく、ベトナム戦争に限定することによって、この内的倫理はさらに効果的なものになった。また二回目のデモがアメリカのバークレーでのデモと同じ時間帯に設定されたことが示すように、国際的な連帯の視点も早くからあった。ベネディクト・アンダーソンの『想像の共同体』を想起するまでもなく、想像上の絆は参加者のアイデンティティと行為の正当性の確認のために重要な役割を果たしたと考えられる。

 自己表現のもうひとつの方法は新聞広告だった。最初は『ニューヨーク・タイムズ』に、つぎには『ワシントン・ポスト』に反戦広告が出された。反戦広告を出すというアイデアを出したのは開高健で、『東京新聞』に書いた文章では「金ある人は金を、知恵ある人は知恵を」と訴えている。できることを各自の創意でやろうというのである。もし自分が戦場にいたらと考えて「身につまされる」とする者から政治的、倫理的な反戦・反安保論まで、募金に応じた人の意識はさまざまだった。そのさまざまな思いを糾合するところに運動のエネルギーが生まれ、自分の創意と責任によって可能なことをするという市民運動のスタイルが形成された。しかしデモとは異なって、募金を集めて広告を出すという方法にはある種の消極性がある。岡村昭彦は金銭によって運動を肩代わりしてもらうという頽廃を生んだと批判したという。募金をすることによって運動の免罪符を買い取るという一面があったことは否定できない。とくに記者会見で配布したパンフレットでは、募金した「著名人」が列挙されておりその感を強くする。何もしないより「まし」というプラグマティズムは政治運動につねにつきまとうディレンマである。ともあれ多様な人間の多様な活動がべ平連の活力だった。一九七四年一月二六日の最後の集会で、鶴見俊輔は「めだかの学校」の「誰が生徒か先生か」こそべ平連の真髄だと述べている。運動が定型化したことがべ平連解散の理由だった。

 べ平連の第三の活動として脱走米兵の援助も挙げておかねばならない。六七年一〇月、横須賀に寄港した米軍の空母から脱走した四人の兵士を庇護し、ソ連を通じてスウェーデンに亡命させたのが最初で、その後も十数名の日本脱出を成功させた。組織ならぬ組織としてのべ平連と機密を要する脱走兵援功は矛盾するように見えるかもしれない。しかし脱走兵援助は組織防衛を優先する既成の左翼組織には二の足を踏む活動である。組織がアモル7で異分子が入り込むことを恐れないからこそ、脱走兵が接触し不特定の人々がかれらを匿うというスタイルができたのだった。

 次に大学闘争に話を転じよう。

……〈中略〉……

 こうしてべ平連とは逆に「日常性」の拒否と「自己否定」が叫ばれる。これは条件闘争にはなりえないので、必然的に永久革命の色彩を帯び、最終的には革命的敗北主義として終わらざるをえない。……〈後略〉……

                 

(注)なお、1995年1月の本書「あとがき」によるとこれは書き下ろしの部分だが、その前年、1994年4月に発行された雑誌『世界』臨時増刊「キーワード 戦後日本政治50年』のなかの「ベ平連と大学闘争」には、米原によるほとんど同文同趣旨の文章が載っている。ただ、そちらには次のような文章が終わりに付け加わっていた。

 

……〈前略〉……

(全共闘は)、ベ平連と同様のある種の直接民主主義が支配していたことがわかる。

 全員加盟制の自治会や企業別労組ならノンポリ層が総会などで運動にブレーキをかけるが、参加民主主義型の運動ではもっともアクティブな部分がリーダーシップを握るから、運動は急進的になりやすい。穏健な活動家やシンパは引きずられるのを拒否するなら、運動から脱落するしかない。べ平連が「市民・文化団体連合」から「市民連合」に名称変更したのは、「文化人」がリーダーシップを失い、運動が急進化したことを示唆している。

 最初は機動隊に向けられたはずの全共闘の武装が、後には対立する党派に向けられ、運動を内部から腐食することになったのも、参加民主主義型の運動の弱点が現れたものといえよう。

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