安田 浩「戦後平和運動の特質と当面する課題

渡辺治・後藤道夫編[講座]現代日本第4巻『日本社会の対抗と構想』(大月書店 1997年)所収 第W章の二 同書 p.261〜269

 

二 ベトナム反戦運動の意義と限界

 

1 原水禁運動の分裂――反帝平和路線への傾斜と転回

 

 一九六〇年の第六同原水禁世界大会東京アピールでは、「平和勢力」と「戦争勢力」との区別が強調され、平和連動による批判と圧力は「平和の敵」「アメリカその他の帝国主義、植民地本義勢力」にむけられるべきことがうたわれた。これは「帝国主義こそ戦争の根源」であり、それとたたかうという「反帝平和論」の採用を意味していた。だが原水禁運動が「ヒューマニズムの立場」で出発した運動であり、また連動の中心的担い手の一つであった総評・社会党は「中立主義」に立脚していたから、このことは対立を引き起こさざるをえなくなる。まず全国地域婦人団体連絡協議会(地婦連)と日本青年団協議会(日青協)が原水協方針を「独善的」と批判、第七回世界大会後には、社会党、総評、日青協、地婦連が原水協執行部不信任を声明する。さらに翌一九六二年の第八回世界大会では、ソ連核実験再開への抗議決議をめぐり、決議要求がいれられなかった社会党、総評の代表が退場した。そして六三年、「いかなる国の核実験にも反対」を原水禁連動の基調とし、部分的核実験停止条約を積極的に評価するよう主張した社全党、総評は、その主張を通せず大全不参加を表明、原水禁連動は分裂する。

 社会党の主張は、路線的にいえば積極中立主義であった。そして原水禁連動は「いかなる国またはブロックによるとを問わず、原水爆禁止と核戦争阻止の政策および行動を支持し、これに反する行動に反対対する」との方針をとるべきとしたのである。こうした方針にもとづき社会党、総評を中心に一九六五年、原水爆禁止日本国民会議(原水禁)が発足する。ただし社会党の「積極中立」の内容は、米ソ等距離論とは異なってきていた。社会党の中立政策にたいしてはソ連、中国が積極的評価を行なった経過から、その連携が深まりはじめており、一九六二年の第三次訪中使節団は「世界平和をまもる力」として「社会主義陣営」、非同盟・中立諸国、民族解放運動、資本主義国の民主勢力、全世界の平和をまもる人民、の五つをあげ、「アメリカをはじめとする帝国主義」とたたかって平和をまもる、との共同声明を発表していた。こうした点からいうと、社会主義=平和勢力論と反帝闘争を通じた平和擁護という反帝平和路線をうけいれた「積極中立」論になっていたのである。こうした社会党の反帝平和論への傾斜は、アメリカのベトナム侵略反対が平和運動で中心課題になるにつれて、また、ソ連・中国との関係が深まるにつれて、その後いっそう強くなっていくが、一九六三年段階では中立主義の立場から反帝平和路線を排するということで分裂にまで突き進んだのである。

 反帝平和論は、戦後世界もアメリカを頂点とする帝国主義諸国を中心に編成されており、その運動が主導力となってさまざまの矛盾があらわれてくること、軍事的にはアメリカの核独占、圧倒的軍事力優位のもとで冷戦と核軍拡競争が展開しはじめたのであり、アメリカ軍事政策への批判が重要な運動課題であるとの認識の限りでは一定の妥当性をもっていた。だが「戦争勢力」と「平和勢力」を、先験的に画然と規定できるとしたその発想は、歴史的限界をもった認識であった。とりわけ「社会主義国」も国家として特定の軍事政策を推進する存在であり、常に「平和勢力」と考えがたいことは見落とされていた。反帝平和路線を推進した共産党は、「社会主義陣営」と帝国主義陣営の軍事力を同列視できないとし、「いかなる国の核実験にも反対」を原水禁運動の基調とすることに反対したのである。こうした認識があらためられるのは、中ソの対立が軍事衝突にまで発展する経験をふまえて、一九七〇年代のことになる。

 また帝国主義の運動に規定されて諸矛盾が展開するにしても、平和の危機や武力紛争など具体的問題は、内戦や民族間紛争、地域小国間紛争など個別の具体的歴史的条件を通じてあらわれ、平和運動はこうした具体的課題に即して展開される以外にはないことが明確に認識されるのも、一九七〇年代の後半以降になる。一九七八〜七九年のベトナム・カンボジア紛争、中越戦争は民族解放運動が自動的に平和を創出するものではないこと、国家建設の矛盾にみちた過程であることを痛感させることになる。だがその時まで、とりわけ一九六五年のアメリカの大規模北爆にはじまるベトナム戦争への介入、ジェノサイド戦争の遂行は、アメリカ帝国主義に反対し民族解放運動を支持する「反帝平和」の運動を高揚させることになる。

 

  2 ぺ平運運動の思想的意味

 

 一九六〇年代後半から一九七〇年代初めにかけて展開されたベトナム反戦運動は、社会党、共産党、「新左翼」といった政治党派ばかりでなく、多様な運動体によっても担われたものであった。そしてこの時期に政党から自立した「市民運動」「住民運動」の形成がなされたとの評価がしばしばなされる。この時期の「市民運動」の自立とは、いかなる平和意識の成立を意味していたかを「ベトナムに平和を――市民連合」(べ平連)に焦点をあてて考えておこう。

 べ平連は、小田実を代表に一九六五年に発足したが「綱領も規約ももたない」、自立した個人による運動体であることをうたっており、各地のグループごとの相違・多様性をもつ集団であった。だがその第一の特徴は、徹底して個人に立脚する運動=組織論にあった。その点を小田実は端的に、「戦前の運動」「戦前的な運動」は「プロレタリアートの解放」など二つの大きな『公』の大義名分」があって、それが「個人の『私』」を引きずっていく、これにたいし自分の「戦後的な運動」は「まず『私』があって、それに結びついたかたちで『公』の大義名分が存在する」と定式化している。ここでは社会党や共産党に担われた戦後革新運動が「戦前的な運動」と捉えられていたのであり、運動の正当性の確信が「階級的利益」「国民的利益」「人類的立場」といった「大義名分」に依存していて、個人の権利・尊厳の意識が弱体であることが問題にされたのである。ただし初期のべ平連が依拠していた平和意識は、厭戦感情に根ざした素朴な「大衆的常識としての戦後平和主義」にほかならなかった。その点は「人殺しに反対の人、ベトナムの戦争はイヤだと思う人、日本人も巻きこまれちゃ困ると思う人」に反戦広告寄金をよびかけたアピールによく示されている。

 ところが一九六七年の日米市民会議以降、急進的市民主義の平和思想がおしだされてくる。小田は世界の現状を、国家利益の追求によって個人原理、「個人の生活がもっている普遍的原理への信仰」が踏みにじられているとし、その極端な例がベトナム戦争であるという。ここには、個人の私生活の価値化によって国家を相対化・批判する志向が明確に示されている。そして、日本人民は国家と個人という関係では「被害者」の立場におかれ、国家に協力せざるをえないところに追いこまれているが、そのことによってベトナム人民にたいしては加害者の立場に立っているという、有名な「被害者=加害者」論がうちだされたのである。この被害者の加害者化のメカニズムを断ちきる拠りどころの「市民的不服従の原理」で、ベトナム反戦運動は理論づけられる。この提起が最初に示された日米市民会議を、鶴見良行は「諸国家の市民が、国家権力あるいは国家権力の同盟(たとえば日米安保)に対抗して横に連帯するという運動の構想」が「すべての国家権力にたいする強い不信の念」に立つものであり、そこに既存の運動とは異なった新しさをもつと指摘している。べ平連の市民主義は、あらゆる国家への不信と個人の抵抗権の直接的行使の承認、国境を超えた市民的立場での連帯をうちだすことで、ラディカルなものであることを明確にした。

こうした国家への不信と反戦の意識は、「世界的規模での国家悪の連鎖を考える」ことにつながらざるをえない。その場合、世界構造の認識としては、民族的抑圧と核兵器体系の問題が、重要な変革の課題として意識されてくる。鶴見良行は前掲の論文で、ベトナム戦争を広島・長崎にはじまる「新らしい世界の二つの主要な矛盾」を集約的に表現するものとしていた。その二つの矛盾とは、「帝国主義と植民地、先進国と後進国、南と北の矛盾」と「世界が国家を単位に分割され、しかもその独立が究極的には核兵器によって保障されているという矛盾」である。

 べ平連は、直接の運動の対象はベトナム戦争に限定しつつも、戦争をうみだす国家権力の状況に批判の眼をむけることになり、市民の普遍性の立場から帝国主義的な差別・抑圧の構造や、核兵器に支えられた国民国家体系の問題、南北問題を含む抑圧的な国民国家体系の問題にまで視野を及ぼすことになり、いわば一種の先進国における反帝型市民運動ともいえる特徴をもつことになった。こうしてべ平連は、国家批判と市民的不服従の原理を共通基盤としつつ、一九七〇年代になるとさまざまの差別と抑圧を問題にするようになり、「無数の個別の課題」「基地・自衛隊・権利擁護・差別・公害、などなど――にとりくむ無数の自立したグループ」の運動に分岐していった。ベトナム和平協定の成立を契機に、一九七四年にべ平連は解散するが、政党から自立した市民運動の成立とその発想様式という点で、それはその後にも強い影響を与えることとなった。

 

  3 運動の意義と限界

 

 六〇年安保までの平和運動が基盤としていたのは、日本の敗戦体験、国民の戦争被害や原爆被爆の記憶にもとづく直接的な厭戦感情であった。これが、戦前の軍事国家への復帰の強い拒否意識をつくっており、五〇年代の復古的反動、「逆コース」に反対する平和と民主主義の運動のなかから、憲法第九条の非武装平和主義――「武力による平和」とは異質の平和主義の自覚化もすすみ、平和国家型平和意識とよびうるようなものが成立する。また米ソ二大陣営の軍事力拡張体制=冷戦への組みこまれを拒否する意識――中立主義の主張も拡大していったのである。

 これにたいし、一九六〇年代から七〇年代前半にかけての平和運動が直面したのは、新しい事態であった。六〇年安保までの運動を経験した自民党政権は、ひとまず憲法の明文改憲を断念し、経済成長主義を前面におしだす。しかし経済成長による国家財政規模の拡大とともに、自衛隊は本格的な軍隊として、世界でも第一級の装備を整えていく。原子力潜水艦から原子力空母までが寄港して、日米安保体制は核軍事同盟であることが眼のあたりにさらされる。そして日本を出撃・補給基地としてアメリカ軍がベトナムヘ出撃し、ジェノサイド戦争の展開される様相は、テレビの映像を通じて知らされる。こうして経済成長と物質的富裕化のなかで、日本の「平和国家」の建前と現実の乖離がいっそう激しくなっていることは意識されざるをえなかった。

 平和運動、とくにベトナム反戦運動は、こうした欺瞞的な現実にたいする異議申し立て、抗議の気分を基盤に展開されることになる。そのなかから多様な意識が形成されてきた。アメリカ軍の爆撃とその爆撃にさらされる水田のなかのベトナム農民の映像は、空襲にさらされた咋日の日本人の姿を思いおこさせた。物質的な支援を含め、第三世界の解放運動への直接的連帯・支援の意識がそのなかから形成される。日本がベトナム侵略の基地となり、戦争加担の当事者となっている現実は、戦争拒否意識を一般的な国家政策のレベルのみでなく、個々人の行動レベルの問題として自覚されねばならないという意識をうみだした。また、戦争の被害者の加害者化のメカニズムの問題提起は、日中十五年戦争以来の侵略国としての責任に加え、国民としての加害責任の問題の自覚にもつながりはじめる。こうしていわば、反帝市民型平和意識ともいえるようなものが、新たに成立してくる。

 このような現実にたいする強い批判と抗議の意識によって平和運動が継続的に展開されたから、外交方針をめぐっては国論の二分状況が持続することになる。図1にもどって外交政策にかんする世論調査結果をみてみると、一九六〇年代は親自由陣営志向が四〇%強、中立志向が三〇%前後を示し、前者の優位のもとでの拮抗状況が示される。とくにベトナム反戦運動の高揚する六〇年代後半からは、両者の差が接近する傾向を示し、一九七〇年代前半には一時的に逆転の状況も生じたのである。こうしたなかで自民党政権は武器輸出三原則、非核三原則を表明し、安保・自衛隊体制に一定の制約が加わることも生じる。

 しかしこの時期の平和意識の動向は、そのラディカル化、批判的平和意識の増大としてのみ捉えることはできない。経済成長のなかで自民党政権の新たな支配イデオロギーとしては、「安保繁栄」論、日米安保条約が日本の安全を保障し、経済の発展と繁栄の条件となったという議論がおしだされてくる。この議論は、経済成長の事実で安保体制の正当化をはかろうとするイデオロギーであったが、各家庭に耐久消費財が普及し、「消費革命」「豊かな社会」が喧伝されて、一九六〇年代後半には「中流意識」が多数化していく現実と、そこにうまれた私生活保守主義を捉えようとするものであった。そこでは「『平和』はそのもとで達成された『生活向上』とのかかわりで価値あるものと意識」されるような平和意識、保身的平和意識が形成・拡大していった。ここでは「平和」は実現されるべき理念としてではなく、自分の生活の物質的富裕化を実現する「手段」として位置づけられるのである。

 こうした意識を拡大する基礎条件になっていたのは、一九五〇年代後半から六〇年代にかけて民間大企業で急速に強められてきた企業主義的統合にほかならなかったと考えられる。生産合理化・労務管理強化を受容する代償として賃金上昇・生活向上が実現されるという循環は、生産性上昇のために人間を手段化する社会容認の気運をひろげ、直接的には自分の生活の保障を企業の防衛と直結させる発想を生じさせていた。そうした発想からは、合理化に反対する少数派組合員への攻撃のみならず、反戦運動への敵対も発生していた。たとえばべ平連による軍需品生産工場への反戦ビラ配布には、「労働組合の幹部が出て来て」配布を妨害したり、「つばをはきかけたりする」事態がみられたのである。こうしてこの時期、平和意識の二極分化も進行したのである。一九九〇年代になって外務官僚や小沢一郎らによって行なわれた「一国平和主義」批判とは、こうした保身的平和意識に働きかけ、物質的富裕のためには軍事力による「平和」を当然視させようとするイデオロギーであったが、そこにつながる要因は、すでに高度経済成長のなかで形成されていた。

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