上野昂志『戦後再考』朝日新聞社 p.177〜178.

 

……〈前略〉……

 従って、日本人のベトナム戦争に対する姿勢は、基本的にこの二重性を負って、アンヒバレンツなものにならざるを得ないのだ。すなわち、政治的にも経済的にもアメリカの側に立ち、その余裕においてベトナムを見ていながら、心情的には、アメリカと果敢に戦うベトナムのうちに、みずからが望んで果たせなかった夢を仮託するという二重性、ないしは分裂である。

 これは、いいかえれば、他国の問題をみずからのうちに内面化し得るほどに、日本が豊かになったということでもあると同時に、徹底して外部のものでしかあり得ない戦争を内面化してしまう程度に、日本人にとっての戦争は遠いものになったということでもある。だが、ことを内面化のメカニズムにおいて見れば、遠い戦争だからこそ、これをより生々しくみずからのうちに抱えこもうとするわけで、いきおい、日本人のベトナム戦争に対する姿勢は、倫理的な影を負うことになる。そして、そこに、べ平連から、全共闘に至るさまざまの運動が生み出されることになる。そのなかで、結果的にはべ平連がもっとも幅広く持続的な運動を展開したわけだが、それは、「ベトナムに平和を」というスローガンが、もともと日本人が負っていた戦後的な分裂を、あまり露骨に顕在化させずにすむものだったからである。

 だが、べ平連にしろ全共闘にしろ、日本人の反戦・平和運動は、アメリカのそれとは、似て非なるものであった。というのは、いうまでもなく、アメリカが戦争当事国であるのに対して、日本はそうではなかったからだ。アメリカでは、一九六五年の四月十七日にワシントンで一万人の反戦デモが行われ、「ベトナム即時停戦、米軍撤退」が叫ばれ、以後各地に広がっていくことになるが、それは、あくまでも当事者としての反対であり、そこで徴兵拒否をすれば、刑務所に入らねばならなかった。しかし、日本ではそうではない。日本でも、その一週間後にべ平連が初めてのデモをやり、それが、おそらくベトナム戦争に対する日本人の最初の集団行動だったと思うが、それはあくまでも第三者の、善意の行動ということにとどまる。

 断るまでもないだろうが、だからといってわたしは、それを非難しているのではない。現実の関係性において、そのようなものでしかあり得なかったといっているだけだ。あとは思考法や好みで、運動のスタイルが変わってくるだけのことで、われわれ日本人のベトナム反戦・平和運動がアメリカのそれとは本質的に違うものだという事実に変わりはない。また、だからといって、アメリカの運動と日本の運動が「連帯」できないというわけのものではない。この違いを本質的なレベルで乗り越えようとしたら、平和や反戦ではなく、むしろ義勇兵としてベトナム戦線に身を投じるしかないだろう。そして、ごく少数だが、そのような行動に走った日本人がいなかったわけでもない。

 だが、ベトナム反戦運動で、もう一つ見ておかねばならないのは、それが、全共闘を含めて、フォークソングやヒッピー、フラワー・チルドレン、アングラといったさまざまのカウンター・カルチュアを生み出す契機になったという点である。そこには、戦争への反対が、戦争を必然化する政治的・文化的秩序やシステムに対する異議申し立てとして、まさに柔らかいスタイルとして現れたということでもある。もっとも、これも皮肉に見れば、非ベトナム的な日本だったからこそ可能なスタイルだったということになるが。

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