以下の鶴見俊輔氏の談話は『朝日新聞』1998年2月2日から5日まで4回連続して掲載されたものだが、ここでは、ベ平連運動に関係する部分と、次の栗原幸夫氏による批判に関係する部分だけを掲載する。

 

語る 鶴見俊輔の世界 (3)私の憲法 国民投票を恐れないで (2月4日号)

  ■いまの憲法をどう思われますか。

 そりゃ、いい憲法ですよ。でも、残念ながら英文の方がよい。

  ■ということは。

 草案のなかに「オール・ナチュラル・パーソンス(すべての自然人)は尊重されるべきだ」とあった。私生児も、外国人も、何人も尊重されるという、素晴らしい精神なんだ。でも、削られた。これは世界を前に進める偉大な知恵だったんた。

  ■その精神を憲法に生かすにはどうしたら良いですか。

 憲法改正に関する国民投票を恐れてはいけない。その機会が訪れたら進んでとらえるのがいいんじゃないかな。護憲派が四対六で負けるかもしれない。それでも四は残る。四あることは力になる。そう簡単に踏みつぶせませんよ。もし、改正するならあの精神の方向へ押し戻したいですね。

  ■それで護憲がほんものになると。

 そう。護憲、護憲といっているが、それは四十年以上も前に終わった占領時代を、いまも当てにしていることでしょう。進歩派がそこによりかかっているのは、おかしいんじゃないの。だからいまの護憲ははりぼてなんだた。

  ■なぜ、はりぼてになったのですか。

 戦前も議会や裁判所があり、法律もあったのに、軍国主義に利用されて戦争を推進した。それが戦後になって「自分は民主主義者だ」とか「戦争に反対していた」などと言い始めたが、そういえるのは獄中にいたわずか数人だけだ。それ以外の人がいくら護憲と叫んでも、はりぼてなんだ。

 戦争を終わらせるのに米軍の力は大きかったが、忘れてならないのは昭和天皇が意思を行使して戦争を止めたことです。天皇に戦争責任があることは確かだけれど、戦争を止めるという決意を表明した事実もまた認めなくてはなりません。自己の責任として戦争を終わらせたこと、戦争防止に個人の意志や行動が力を持つということを示した点に、戦後の民主主義につながる細い道がある。それを天皇が意思の行使をしなかったかのごとく考えるには欺瞞(ぎまん)がある。

  ■ではいまの憲法も、はりぼてですか。

 どこの国でも民主化の動きはある。デモクラシーはユートピアであることを忘れては困る。ところが憲法が国会で成立した途端に憲法に寄りかかり、民主主義は成立したと考えた。民主主義は成立したのではなく、われわれが向かう目標としてあるものなんです。「人民による、人民のための、人民の政府」。こんな政府は世界のどこにありますか、ない。しかし、それに向かって歩みたい。民主主義はパラドックスを含んでいるんです。

  ■憲法の弱さはそこにあるというわけですか。

 運動としての民主主義はある。その運動はだれが担うのか。担い手なしで国家が決めてしまう。これでは二重の委託になる。一つは原理への委託です。原理を納得すると、それに寄りかかれると思い込んでしまう。もう一つが国家への委託です。私的な信念によって支えられてはいない。原理はもろいし、委託なんてできるものではない。日本の教育は、この原理への委託を教えているんです。だから国民投票して私への信念を試すんですね。私は「護憲」に投票しますが、原則と国家への委託はしない。

  ■はりぼてでよくここまでこれましたね。

 アメリカは、日本を軍事的に無害の国にしたいと思っていた。しかし、食える国にはしたいと思っている。食えない国に追いつめよらとは考えていない。かつてイギリスがドイツを食えない国に追いつめ、これがナチスの台頭にながった。

  ■アメリカはそれを教訓にした。

 そうです。アメリカは、日米戦争が始まったときから負けるとは思っていませんでしたから、国務省に特別調査部を発足させ、そこの極東班で勝ったときどのようにして日本を立て直すかを考えた。徳川期の農民一揆などの研究を通して日本をよく知っているボートン(故人、元コロンビア大学教授)らもメンバーにいて、敗戦後の日本が食える道を考えてくれていた。

  ■はりぼてや欺瞞を真のものにするにはどうすればいいですか。

「私の憲法」をもつこと。慣習法としての憲法で、人を殺したくない、平和であってほしいと願うなら、そのことを自分の憲法にし、心にとめておいたらいい。書いたらだめですよ。知識人の欺瞞性はそこから発するんだ。いろんな「私の憲法」に支えられるような憲法になれば、欺瞞性やはりぼては薄くなる。

 

 

語る 鶴見俊輔の世界 (4)祖父と父 けんか、私の負けだった (2月5日号)

 

(前略)、

  ■「べ平連」運動は、あの時期に大きなうねりになりました。

  宮沢喜一さんがいなかったら、あれだけ大きな運動にはならなかった。一九六五年四月にべ平連が発足した夏に徹夜ティーチインを計画した。小田実さんや開高健さんらが発案したが、自民党につながりがない。そこで私が宮沢さんを訪ねた。六〇年安保の回顧で学生たちとの会話を書いていたのを読んでいたことが頭に残っていた。

  ■どう言って口説いたのですか。

 「私はベトナム戦争に反対だし、アメリカと北ベトナムを同じテーブルにつけさせるために、日本が率先して動くべきだ」というと、「自分もそう思っている。少し考えさせてくれ」というんです。だめだと思っていたら、「江崎真澄さんと中曽根康弘さんをつれて行くが、いいか」という返事がきた。宮沢さんは自分の信念で決断したんだ。ティーチインは大成功した。

  ■そういえば信念のある政治家が少なくなったように思うのですが。

  日本は食える国にはなったが、汚職とつながってきた。そして高官が汚職をしても国民は怒らなくなった。国会も怒ったふりをしている。

  ■市民運動の衰えなんでしょうか。

  そう思いますよ。でも沖縄は怒っている。市民運動は民主主義を体現し、民主主義がよみがえる場所なんだ。

  ■こういう日本に未来はありますか。

沖縄に未来を築く力がある。本土決戦といいながら本当に戦ったのは沖縄でだけだった。戦後、日本は沖縄を切り離して繁栄した。どう考えてもおかしい。どうすればいいか。沖縄に賠償金を払い独立してもらって米軍基地を本土に移す。その沖縄に水先案内人になってもらい世界へ出て行く。そうすれば世界が抱える悩みを日本の悩みとして共有できる。世界の中のこの土地と考えるならば、長い目で見て日本に未来はある。

=おわり

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