24. 矢澤 直子 市民運動資料の動的・ニューロン的性格とアーカイブズ論
  ――べ平連資料を題材に――
平成12年度史料管理学研修会研修レポート
 20001128日提出

(2001/04/01 搭載)

 以下は、「住民図書館」の運営委員である矢澤直子さんが、昨年参加された「資料管理学研修会」の研修レポートとしてまとめられたものだが、内容は主として埼玉大学経済学部「社会動態資料センター」に保管、公開されているベ平連の原資料をテーマとしたレポートであるので、筆者の矢澤さんのご了解を得て、全文を転載するものです。矢澤さんのご厚意に感謝します。


平成12年度史料管理学研修会研修レポート

市民運動資料の動的・ニューロン的性格とアーカイブズ論
  −べ平連資料を題材に−

                    2000.11.28
                    住民図書館運営委員  矢 澤  直 子



<目次>

はじめに
第T部 べ平連資料の概要と特徴
 T−1 「べ平連」とは
 T−2 べ平連資料の概要
 T−3 べ平連資料に見る資料の動的・ニューロン的性格
第U部 市民運動資料の視点から見た現代日本のアーカイブズ論
U−1 構造分析による目録編成への疑問
  U−1−1 目録による資料の奴隷化
  U−1−2 「分析」への疑問
  U−1−3 「構造」「階層」概念への疑問
 U−2 資料の「静的」把握への疑問
 U−3 目録についての私考
むすび


はじめに

 べ平連資料を題材として取り上げたのは、ちょうど今年この資料が一般に公開されたという単純な理由であった。当初は、この資料の状況から市民運動資料全般の現状・課題・展望について論ずる予定であったが、資料を見ていくうちに、市民運動資料を扱う者として(1)研修時に感じたアーカイブズ論への疑問・不安が膨らんでいった。
 研修レポートは、研修でお世話になった先生方へのメッセージでもあると思うので、今回は、その疑問について書かせていただくことにした。と同時に、べ平連資料を見るうちに瞬く間にべ平連とその資料の虜になってしまった。その魅力も伝えたい。結果、枚数を大幅にオーバーした。お許し願いたい。しかし、稚拙な文章で、なおべ平連資料の魅力を十分に伝えることができていない。ぜひ、直接、資料をご覧になっていただきたい。
 なお、本レポートの作成にあたっては、元べ平連事務局長 吉川勇一氏および埼玉大学社会動態資料センター 藤林 泰氏に貴重なお時間をいただいた。史料館の先生方にも大変お世話になった。最初にお礼を申し上げておきたい。

(1)このレポートでは紹介することができないが、筆者が所属する「住民図書館」は、1776年以来、市民運動・活動資料、特に各種団体が発行する機関誌・紙やミニコミを収集・整理・公開している市民団体である。住民図書館については、今のところ体系的にまとめられた参考文献はないが、以下の資料を参照いただきたい。
 住民図書館ホームページ http://www2u.biglobe.ne.jp./~jumin
 住民図書館編『ミニコミ総目録』平凡社、1993
 矢澤直子「市民記録の収集・保存・活用」、『社会教育』、全日本社会教育連合会、1998.9


第T部 べ平連資料の概要と特徴

T−1 「べ平連」とは


 「べ平連」は正式名称を「ベトナムに平和を!市民連合」といい、1965年4月に発足、74年1月に解散したベトナム戦争反対の市民運動体である。べ平連は、活動当時の社会への影響だけでなく、その後の市民運動に与えた影響という点でも、日本の市民運動のなかで突出した存在のひとつであり、その意義や活動については現在においても多くの論点が出されているが、ここではべ平連の活動自体がテーマではないので、一般的に言われるべ平連の特徴をいくつか挙げるにとどめたい。(1)
・代表である作家の小田実をはじめ、開高健、鶴見俊輔、いいだ・もも等多くの文化人や著名人が参加した。
・徹夜ティーチ・イン、「ニューヨーク・タイムズ」紙への反戦広告掲載、「日米市民会議」、反戦脱走兵への援助、米軍基地内での地下反戦組織の結成、「週刊アンポ」の発行、毎月1回の定例反戦デモなど、ユニークな活動を次々と展開した。
・規約や会員制度を持たず、行動に参加する者をもってべ平連とみなすという、個人の自発性を尊重する新しい運動体の形態を創出した。
・こうした運動体のあり方が、多くの人々を結集し、全盛期には全国に300以上のべ平連グループができた。(2)

(1)本レポートにおけるべ平連についての記述は、原資料、次に挙げる文献のほか、主に吉川勇一の運営する「旧「べ平連」運動の情報ページ」http://www.jca.apc.org/beheiren/index.htmlによった。べ平連については、活動当時から現在に至るまで、数多くの文献・論文・記事が出されている。基礎資料としては、『資料・「べ平連」運動(上・中・下)』(ベトナムに平和を!市民連合編、河出書房新社、1974)、『べ平連ニュース・脱走兵通信・ジャテック通信 縮刷版』(ベトナムに平和を!市民連合編、1974)があるが、現在最も基本的なべ平連の参考資料は上記ホームページであると言える。このホームページについては、T−3で取り上げる。
(2)このあたりの状況について、上掲『べ平連ニュース・脱走兵通信・ジャテック通信 縮刷版』のはしがきの一部を引用する。
「「べ平連」という時、二つの内容がある。一つは狭義のべ平連、つまり一九六五年四月に発足し、東京を中心に活動したグループをさすが、もう一つの広義の意味としては、この狭義のべ平連と同じ、もしくはほぼ同じような目的をもって、独自にはじめられた全国各地のベトナム反戦市民運動の総称である。その多くは○○べ平連と称し、一時、その数は三百をこえた。これらの運動体はそれぞれ自立したものであって、狭義のべ平連に加盟していたわけでも、また支部でもなかった。」

T−2 べ平連資料の概要

 ここで取り上げる「べ平連資料」とは、66年から解散までべ平連事務局長を務めた吉川勇一がべ平連解散後、自宅に保管していた資料で、99年8月に埼玉大学経済学部社会動態資料センター(以下、センター)(1)に寄贈された資料群である。寄贈された資料はセンターで整理され、そのほとんどが現在、開架の状態で一般に公開されている。
 資料は、書架延長にして約15m。団体の定期刊行物(ミニコミ)、ビラ、メモ・草案類、書簡、新聞・雑誌等の切り抜き、集会等用の資料・報告書、裁判資料など多様な資料がある。東京のべ平連事務所で、あるいは吉川個人がスクラップしたり、紙のフォルダやファイルに整理したものはそのまま生かされ、それ以外のものは主にクリアーファイル(30シート入り)に整理されている。これらのファイル、フォルダ類の総数は、950近くに及ぶ。
 また、これらの開架資料のほかに、会議や集会等の録音テープ約80本、写真アルバム数冊と、書簡や鶴見俊輔氏の個人ノートなどプライバシーの点から現在のところ非公開となっている資料が段ボール1箱分ほどあるという。なお、テープはすべて元はオープンリール形式であったものを、業者に依頼してカセットテープに変換されたものである。
 現在のところ、資料は大きく次のように分類され、リスト化(資料名、年代、形態、主な内容、備考等)されている。以下、各資料の概要を紹介する。
  1.団体資料  1-1べ平連
          1-2地方べ平連その他
          1-3その他の団体
  2.件名資料  2-1件名資料フォルダ(吉川勇一氏の分類による)
          2-2件名資料フォルダ(その他)
  3.個人名
1-1 べ平連 
 狭義のべ平連の資料であり、次のようなものがある。
 ・定期刊行物
  「べ平連ニュース」「3.30運動ニュース」「AMPO」(英文)。ただし、べ平連のもう一つの重要な定期刊行物「週刊アンポ」はほとんどない。
 ・べ平連発行文書スクラップ(25冊)
   べ平連が当時からスクラップをしていたもの。ビラ、各地のべ平連などにあてた文書、案内状、集会のプログラムやその草案、会計報告、送金受領証ハガキ、ポスターなど、ありとあらゆる種類の資料が、時系列で貼られているが、セロテープの劣化によりはがれ落ちて資料が欠失しているページも多い。スクラップは、細目リストを貼った封筒に入れて配架されている。
 ・新聞・雑誌記事スクラップ(118冊)
   これもべ平連が当時から切り抜き、時系列でスクラップしたもの。その量は膨大で、朝日、毎日、読売、日経、産経といった日刊紙、社会新報、アカハタ、自由新報、東京大学新聞、慶応義塾新聞など他の新聞類、朝日ジャーナル、サンデー毎日から平凡パンチ、週刊大衆、女性自身にいたるまでの週刊誌・紙、世界、中央公論、文芸春秋をはじめとする月刊誌など、その掲載誌は50以上にのぼる。(2)その記事も、特集や大きな記事だけでなく、集会やデモの事実を取り上げたほんの小さな記事から、コラム、本の広告、風刺漫画にいたるまで、多様である。
   当時、べ平連事務所では新聞をとっておらず、事務所に出入りする人が自宅でとっている新聞をそれぞれ分担して切り抜くとともに、週刊・月刊誌については、本屋で立ち読みをしてどんな小さな記事でもいいからべ平連のことが載っていたら購入するというかたちをとっていた。それだけ、当時は事務所に人手があり、10代から20代の若者を中心に毎日20人位が出入りしていたという。(3)慢性的な人手不足に悩む市民団体の多い昨今の状況からすると、うらやましい時代でもあるが、べ平連がそれだけ多くの若者を引きつける魅力を持っていたということであろう。
 ・脱走兵、米軍基地内地下組織関係
   米軍基地内で発行された反軍兵士の英文機関紙、脱走兵へのアンケート、脱走兵が自分が逮捕されたときに備えて代理人の連絡先を書いたと思われるメモなどもある。
 ・日米市民会議ほか会議関連の発行・運営資料、書簡類
 ・海外の団体等との送受信書簡
 ・集会・デモ届出・申請・許可証、裁判資料
 ・べ平連解散後の資料
   1974年のアジア人会議、色川大吉・小田実が代表の「日本はこれでいいのか市民連合」の資料など。
1-2 地方べ平連その他
 全国の地方べ平連や、大学・高校生などのべ平連グループの資料。約100のフォルダがあり、定期刊行物のほか、ビラや切り抜き、その他の資料も含まれるが、それぞれのフォルダの資料点数はそれほど多くない。東京の事務所に送られてきたものを最初は分類もしたそうだが、運動体という性格上そこまで資料のために時間をさくこともできず、とりあえず保管されていたものである。したがって、新聞・雑誌記事のように系統立てて収集されたものではなく、また後に述べるような理由により消失したものも多いと思われる。
1-3 その他の団体
 これは、べ平連というよりも吉川が収集した全国のさまざまな市民運動関連団体の定期刊行物やビラ、パンフレット等である。約280の団体の資料があるが、反戦・基地問題のみならず、政治、原発、公害、NGO、人権、労働問題、在日、教育、女性など市民運動のさまざまな分野に及ぶ。団体によって、1点しか資料の入っていないものから比較的まとまっているものまである。時代的には60年、70年代だけでなく、新しいものは1990年のものまでが確認できた。また、定期刊行物の中には現在も発行が継続されているものもある。団体別のフォルダによる資料の収集は、現在も吉川の自宅で継続されており、その中で時代的に古いものがセンターに寄贈されたと思われる。
2-1 件名資料フォルダ(吉川勇一氏の分類による)
 タイトルにあるように、吉川が事件、運動ごとに資料を保管したフォルダで約80ある。これも反戦に限らず、例えば、「金大中誘拐事件」、「国鉄分割・民営化」、「自主映画製作運動」、「差別・文学・糾弾」などさまざまな分野に及ぶ。なかでも三里塚の資料が多くあるが、三里塚の資料は吉川の自宅に現在も多量に保管されており、その一部が寄贈資料に入ったものと考えられる。
2-2 件名資料フォルダ(その他)
 フォルダは約80あるが、内容としては約20種で「小西反軍裁判」などべ平連に直接関連するもののほか、「中央公論社労組問題」「水俣訴訟」等の裁判関連資料が多い。
3.個人名
 個人で出している定期刊行物類。29名の個人名のうち『総合索引 べ平連1965〜1974』(4)に載っているのが10名である。このなかには、べ平連は名乗っていないものの、姫路でベトナム反戦運動を行った「ベトナム反戦姫路行動」に参加した向井孝の「イオム通信」などが含まれている。

(1)社会動態資料センター
 1997年7月、埼玉大学経済学部に設置された。紀要・統計・白書・年鑑類、和洋雑誌、会社・団体史など一般文献のほか、@NGO活動、A労働問題、B消費者問題、C公害裁判、D地域・住民運動の5分野にわたる原資料が所蔵されており、その資料数は30万点に及ぶ。べ平連資料は、このDの分野に入っている。同センターは広く一般に公開されている。 
 TEL 048-858-3288  http://www.eco.saitama-u.ac.jp/~siryo3/index.html 
(2)この数字は前掲、「旧「べ平連」運動の情報ページ」の「べ平連参考文献」の項による。
(3)本レポート作成にあたっては吉川への聞き取りを行っており、以下の記述の中にも聞き取りによるところがあるが、特に注はつけていない。
(4)前掲『資料・「べ平連」運動(上・中・下)』は、3冊合わせて1,500頁にも及ぶ資料集であるが、活字印刷の時代に、これがべ平連解散の年、1974年の10月に刊行されていることは驚くべきことである。この資料集の編集は、すべてべ平連解散後に行われたものであるというから、実質5カ月ほどで編集されたことになる。そして、この『資料・「べ平連」運動(上・中・下)』と前掲の『べ平連ニュース・脱走兵通信・ジャテック通信 縮刷版』の事項索引・人名索引がこの『総合索引 べ平連1965〜1974』で、1977年に発行されている。さらにこれに『週刊アンポ合本』(No.0〜No.15)を合わせた索引は、現在ファイル化されてホームページにも載せられている。合計5冊の文献を検索するには必須の資料である。これらの資料集や索引の編集は実質ほとんど吉川の手によるものであり、吉川の資料に対する姿勢がうかがえる。また、資料については吉川は「索引論」というべき持論を持っているが、これについては第U部の注で触れる。

T−3 べ平連資料に見る資料の動的・ニューロン的性格

 以上、べ平連資料の概要を述べたが、この資料群の特徴として次のような点が挙げられる。

@資料が多量に、また緻密に残されている。
 30年以上前の市民運動の資料がこれだけ多量に、しかもビラやハガキといった細かいものまでが残されている例はあまりない。特に、新聞・雑誌記事については、その緻密さにおいて他の追従を許さないものであろう。これは、前述したように人手があったことと、吉川の資料に対する認識の深さによるものと考えられる。
A上記のような緻密さにもかかわらず、べ平連という運動を語るには足りないものである。
 前述した「週刊アンポ」の欠落やスクラップブックの欠損のほか、67年4月にワシントン・ポスト紙に掲載された岡本太郎の筆による「殺すな」の広告の実物は見つけることができなかった(65年11月のニューヨーク・タイムズ掲載や他の時期のワシントン・ポスト掲載の広告実物はあった)。また、地方べ平連の資料はどれもほんの一部が集められているに過ぎない。例えば、活動が盛んで定期刊行物「ベトナム通信」の復刻版(1990、不二出版)も出している京都べ平連の資料もわずかしかない。したがって、広義のべ平連については、この資料群からもその姿を明らかにすることはできない。(1)
 これには、大きく3つの理由が考えられる。
 まず、吉川所有のべ平連資料は今回センターに寄贈されたものがすべてではなく、まだ吉川の自宅に写真アルバムやポスターなどある程度の量が残されていること。次にべ平連の事務所は何回か移転しており、また逮捕者が出て警察の家宅捜索が入るたびに重要な資料を安全な場所に疎開させたり、右翼に事務所を破壊されたりで資料が消失していること。
 そして、地方べ平連の資料が不十分であることは、それだけべ平連の運動が全国に大きく広がっていたこと、またT−1に記したようにべ平連が明確な組織体制を持たず、中央→地方というピラミッド構造でなかったことの表れとも言える。
B内容がべ平連にとどまらず多種多様にわたる。
 概要で述べたように、分類で言えば「1-1べ平連」と「1-2地方べ平連その他」以外はすべてがべ平連の資料というわけではない。しかし、「1-3その他の団体」や件名資料の中にもベトナム戦争関連の資料やべ平連から派生した団体資料が多く含まれており、どこまでがべ平連かという境界を引くことは不可能である。(2)このように線引きが難しいことは、べ平連の特徴であると同時に市民運動全体の特徴でもある。
Cホームページが大きな役割を果たしている。
 T−1の注でも述べたように、べ平連のことを研究しよう、あるいは知ろうとするならば、センターの原資料以外にもさまざまな文献・資料が存在する。しかし、最も基礎的な参考資料は、吉川が運営するホームページ「旧「べ平連」運動の情報ページ」であろう。
 このホームページは、まさに「資料魔」吉川の真骨頂と言え、特に「参考文献・資料集」「事項・人名総索引」「べ平連年表」「いつ、どこで、どんなグループが、どんな活動をしていたか」の情報量は膨大なものである。例えば年表はA4判で120ページ余にも及ぶ膨大なものであり、センターでもこの年表を資料とともに配架している。本レポートもこのホームページなしには書けなかったことは言うまでもない。
 「旧」という名称がついているが、このホームページは常に「新」しく情報が追加・更新され、まさに生きている。そして、そのことによって、センターにある30年以上前の資料も生かされていると言える。

 べ平連は1974年の解散以降も、さまざまな反戦・平和運動その他の市民運動へと「個」(3)によって引き継がれながら、今現在も「動いている」。そして、センターの書架にある資料も、隔離されて、静かにそこに保存されている資料群ではなく、その資料の一つひとつが今もそれぞれに触手を伸ばして、他の資料へと結びついていくものである。(4)

(1)地方のべ平連では、京都のほか札幌、埼玉、金沢、福岡などが活発な活動を行っていた。このうち、埼玉べ平連の資料については、吉川のホームページでの呼びかけやセンターの努力で、最近センターに寄贈された。
 なお、広義のべ平連については「むすび」の項も参照のこと。
(2)この点について、吉川はホームページの「いつ、どこで、どんなグループが、どんな活動をしていたか?」の最初で以下のように書いている。
  ベ平連のグループは、北海道から沖縄まで、各地の都市、町村、大学、高校、職場そ の他、さまざまな単位で存在した。短期間だけのものもあったが、10年近く活動を続け たグループもあった。その活動形態は実に多様であった。その数のいちばん多い時は1968 年〜70年だったが、総数300とも350とも言われてきた。しかし、グループが誕生して も、登録とか認可とかはまったく必要なかったから、正確な数ははっきりしない。また、 「……べ平連」と名乗っていなくても、自分たちをべ平連グループだと思っているグル ープもあり、また、意識的にべ平連とは違う、としているグループもあって、その境界 もはっきりしない。
(3)「個」は、べ平連のキーワードのひとつでもある。 
(4)資料のこのような性格は、あたかも神経細胞ニューロンがその軸索突起を伸ばして興奮を伝えるかのようである。そして、このニューロン的性格は、ひとつべ平連資料についてだけではない。住民図書館の資料についてもそうであるし、おそらく他の市民運動資料にも共通の性格であろう。と同時に、それは資料の「出所」(市民運動資料で言えば、その運動体)の性格でもあり、その点については第U部で触れる。
 また、ニューロン的性格は、緩やかなネットワークを形成する。現在の市民運動では当たり前となっている緩やかなネットワークが、30年前のべ平連で実現されていたことは、非常に先駆的であると言える。


第U部 市民運動資料の視点から見た現代日本のアーカイブズ論

 第T部で述べたような市民運動資料と日々接する立場として、第U部では研修で学んだアーカイブズ論について考えてみたい。研修会の質問では、歴史研究者の構造分析的目録への関与と文書館学の歴史学への従属化という点を提示したが、ここでは、他に二つの視点を挙げる。
 まず、疑問を提示するに先立って、以下の点を確認しておきたい。
 現在の特に日本におけるアーカイブズ論は緒についたばかりであると言ってもよいであろう。したがって、その理論は成熟したものではないし、またその対象とする資料(1)が近世文書や公文書に偏るのも仕方のないことである。また、構造分析等の理論についても、それが市民運動資料などすべての文書にきちんと適用できるわけではなく、ケースバイケースの適用が考えられているのは当然であろう。
 しかし、こうした前提に立ってもなお、現在のアーカイブズ論は、特に未来のアーカイブズを考えた場合、根本的とも言える危険な要素を持っていると思われる。

(1)研修会では「史料」の用語が使用されたが、市民運動については「資料」のほうが馴染みが深いので、本レポートではすべて「資料」で統一している。しかし、「資料」は同時に「史料」であるのはもちろんのことである。
 
U−1 構造分析による目録編成への疑問


U−1−1 目録による資料の奴隷化
 筆者自身、「構造」の「分析」が不必要だと考えているわけではない。資料を理解する際にそれは程度の差はあれ必要であるだろうし、実際筆者が市民運動資料に取り組む際にも無意識のうちに分析を行っているのも事実である。また、ISAD(G)等による目録の標準化も進められる部分について行うことは問題ないと考える。例えば、これから先の時代にも組織が階層構造を持つと思われる(永続的に続くかどうかは疑問であるが)行政や企業の文書などにそれを適用することは十分可能であろう。また、ISAD(G)を目録「編成」ではなく、「記述標準」として活用することは、いろいろな資料についてできるかもしれない。
 しかし、問題は、史料館で行われている近世文書の構造分析手法による目録作成のように、本来資料にとって副次的な存在である目録のために資料が分析され、しかもその分析が目録から分離不可能なことである。
 「構造分析」自体にも疑問はあるが、最も問題であるのは、構造分析によって「目録編成」がなされることである。つまり、構造分析は、行われるにしても、目録「編成」の外に置かれるべきであると考える。

U−1−2 「分析」への疑問
 「奴隷化」の問題だけでなく、「分析」や「構造」、「階層」という概念についても疑問は大きい。
 まず、一アーキビストあるいは一研究者による「分析」を目録として採用することへの疑問である。分析を行う者には、当然、恣意や主観の排除という厳しい自律の姿勢が求められることは言うまでもないが、そうした自律の上に立ってもなお、分析者の視点や解釈、あるいは誤解・誤認等が入るのを完全に避けることはできない。もちろん、この問題は、程度の差はあれどんな目録、あるいはその他の情報全体にも言えることではある。しかし、構造分析においては、そのリスクがあまりにも大きすぎる。
 そうした分析は学問の研究上は有効ではあり得ても、それが100年、200年、あるいはもっと後の時代に残していくべき文書の目録に採用される方法として本当に正当であるのか。これは、そもそも方法論や知識の体系化を目指す学問的要求と資料保存が両立し得るものなのかという疑問にもつながる。

U−1−3 「構造」「階層」概念への疑問
 そもそも、すでに「ヒエラルキー」という言葉が死語となりつつあり、ネットワーク社会が当然のことと見なされている時代に「階層」という概念が提出されること自体が、筆者には陳腐なことに思える。それに疑問を持つ人がいないことも不思議で仕方ない。仮に資料やその資料を生み出した母体に「秩序」や「構造」があるとしても、なぜ、それが「階層」として捉えられなければならないのか?
 ISAD(G)の成立過程については、『記録史料学と現代』からしか知識を得ることができなかったが、ここでの記述によれば、アメリカ、カナダ、イギリスともに、アーカイブズは階層構造を持つということが当然のこととして出発点にあったとされている(pp.174-183)。しかし、これは一体いつの時代の発想であろうか。少なくとも、21世紀的発想ではないだろう。
 次に、「構造」についてであるが、きちんとした組織などない運動でもそれが機能している限り何らかの構造や秩序があるという考え方は、研究者としては当然のことかもしれない。ある意味で構造や秩序を見つけだすことが、研究者の仕事であるからだ。しかし、そうやって見つけだされた構造・秩序が、本当にそのものの本質を語っているのか? 
 それは、あらかじめ構造や秩序があるという前提のもとに、「再構成」という耳当たりの良い言葉の衣を着た「型」に当てはめていったものにすぎないのではないか。もちろん、「型」に当てはめていくことは不可能ではないだろう。しかし、人間や市民のダイナミックな営みがすべてそのようなものでくくれるとは到底思えない。また、そういうもので捉えきれないところに人間の営みの面白さがあり、だからこそ資料も面白いのではないか。
 逆に「型」にはめ、性格づけをすることで見えなくなる部分のほうが心配である。

U−2 資料の「静的」把握への疑問

 日本においては、文書の構造的分析の出発点として、それまでの個々の文書重視への反省があり、そこから文書群としての把握が重視されるようになったと思われる。文書同士の関係性をより重視していこうということであろう。それは確かに重要な点ではある。しかし、ここで問題なのは、その文書群のもっと大きな全体の中での位置づけ、他の文書群の文書との関連ということがほとんど考えられることなく、そのフォンド内での構造の分析に終始している点である。つまり、資料は「既にそこに群として静かに存在するもの」として把握されている。というよりも、根本的な問題は、「出所原則」の「出所」として、20世紀以前の固定されたものしか想定しておらず、また「出所」と「出所」の関連性が考えられていないところにあるようにも思う。
 第T部で市民運動資料の動的・ニューロン的性格を挙げたが、このような資料の性格は市民運動資料のみのものであろうか。全世界規模で情報化とグローバル化、ネットワーク化(1)が進んでいる現代において、情報や記録はどのような動きをしているのであろうか? それは、フォンドとか、シリーズとかいった「型」にはめられるようなものではなく、もっとダイナミックな動きを伴って存在し、しかも、その動きがその資料だけでなく他の資料にも大きな意味を与えていくということが多くなってきているのではないか。
 また、情報の電子化がますます進むこれからの時代では、出所自体の流動化が大きな問題となってくることは間違いないであろう。(2)(3)
 そのようななか、一フォンドの中での静的な構造分析で、どれだけ資料の本当の姿に迫れるのか、はなはだ疑問である。
 また、構造分析的目録では、「群」の変化ということが思慮されていない。べ平連資料の場合がそうであるように、目録をとるべき資料は、必ずしも今そこにある「群」として静かにあり続けるものばかりではない。特に現代の資料を扱う場合は、資料の変化を避けては通れない。(4)
 つまり、構造分析は、静的で、しかも他の世界から隔離されて切り取られた資料群に対して、その構造を分析しているにしか過ぎず、それが資料の性格を明らかにすることになるとは、とても思えない。(5)
 これらの問題は、すべて分析の「程度の問題」や標準化の「例外」で片づけられることなのだろうか。
 個々の単体から全体の構造の重視へ、そしてそれをまた揺り戻すかたちでのダイナミックスの方向へというのは、記号論における構造主義とポスト構造主義の例を挙げるまでもなく、学問の流れの中でしばしば起こることであろう。
 問題は、学問、理論や方法論は変化していくのは当然のこととしても、我々には資料を後世に残していくという、学問の発展とは独立した使命(だと筆者は考える)があるということである。
 一度、「構造分析」されて目録がとられた資料は、おそらくずっとそのまま後世に残っていくであろう。場合によっては、目録のみが残る可能性もある。
 我々が残していくものは本当にそれでよいのか?
 
(1)現代社会は、通常ネットワーク社会としてweb状で表現されるが、実際にはもっと立体的で複雑なtangle状と言ったほうが適当ではないかと思う。
(2)出所以外の共通点に基づいて収集された資料の人工的集合体という意味で「コレクション」という用語がある。一見すると、ここで論じている問題はこの「コレクション」の問題であるように見えるかも知れないが、そうではなく、「出所」自体の動的性格が問題であること、また、ここでいう出所の動的性格とは、現在のアーカイブズ論でも出ている公文書における組織内部の部署の統廃合等の問題とも異なることを強調しておきたい。
(3)市民運動の世界は電子化が非常に進んでおり、現在の市民運動は電子メディアなしには動かないと言っても過言ではないだろう。
 例えば、1999年1月に正式に断念された名古屋の藤前干潟の干拓事業。この干拓阻止は、「藤前干潟を守る会」の活動の成果であるが、この運動はML(メーリングリスト)という電子メディアなしには成功しなかったと言われる(松浦さと子編『そして、干潟は残った−インターネットとNPO』リベルタ出版、1999)。また、この本の中で注目したいのは、この会の代表 辻淳夫が、紙媒体のニュースレターはきちんと保管していたのに、このML上での自分の書き込みの記録をほとんど消失していたという事実である。
 これからアーカイブズが取り組むべき問題として、「情報」と「電子化」が大きいことをあらためて感じる。
(4)ここで言う資料の変化とは、単に新しい資料が追加されることを意味するのではない。資料の追加あるいは他の群の資料によって、群自体の性格が変わっていくことを意味する。
(5)研修で資料の流れを川の流れにたとえた先生が複数いらした。それは、親機関を川の上流、文書館を川の下流にたとえたものであった。ここで述べたことを川にたとえるならば、こうなる。
 実際にはそんなことはないが、川を多数の魚が上流から下流に流れてくると考えよう。現在のアーカイブズ論がやっているのは、1本の大きな川の下流で網を張って、そこで必要な魚だけを選んで捕獲しあとは廃棄する。そして、心配事と言えば、途中で魚が川から飛びだしていくことだけである。しかし、これからの時代の資料については、分流と合流を繰り返す川から魚を捕獲するということが行われなければならない。さらに、その魚の種や属はそれぞれある生態系をつくりだしており、しかも進化し続けているのである。

U−3 目録についての私考

 批判だけして、終わるわけにはいかない。最後に、簡単だが、現時点で筆者が考える目録のあり方について述べてみたい。(1)
@目録は種々多様であって構わない。資料の性格に基づく目録を考える。
 そもそも文書は、図書のように均一化されたものではない。図書と同じように標準化を図ろうとするのは無理である。もちろん、標準化ができる部分について、ISAD(G)の適用などで標準化をすることは差し支えないが、「標準化」のための目録作成はあってはならない。目録は資料の副次的なものであるから、あくまでもその資料の性格に基づく目録でなければならない。
 それでは、この情報化・国際化の時代に対応できないではないかという意見があるであろうが、情報化・国際化がすべてではない。それぞれの国が独自の文化・歴史を育んできているのである。標準化できない部分は、堂々と独自のものを見せていけばいいのではないだろうか。
A「分類」にこだわらない。むしろキーワードを重視する。(2)
 それを支持する立場にしても不支持の立場にしても、あまり「分類」にこだわる必要はない。つまり、あまり細分類にこだわる必要はないし、逆にアーカイブズは「分類」ではなくて「再構成」だといって拒否することもない。おおざっぱな分類は、やはり必要な場合が多いかと思う。しかし、それもあまりこだわる必要はない。分類できないものは、「その他」で十分である。
 そもそも「分類」は、電子化以前の時代に重要な役割を果たしたものである。電子化以前には、図書も新聞記事も分類で探すしか手がなかった。しかし、今の時代にNDCで本を探したり、記事分類表をもとに新聞記事を探す人はまずいない。電子化の時代にそれよりも重要なのは、キーワードである。適切なキーワードがついていれば必要な資料にたどりつける。 
 キーワードも、資料そのものから得られる情報が基本だが、それだけで足りない場合は、備考などでアーキビストが必要と思われる情報を付加してもよいであろう。ここがアーキビストとしての腕の見せ所となる。
 したがって、もし文書群を構造分析するのであれば、その結果はキーワードとして付与すればよい。そうすれば、必要なときに分析の成果を使用したりしなかったりが選択できる。何度も言うが、一度、構造分析によって「編成」された目録は、もうそこから「分析」を切り離すことができないのである。
B目録の目的や編成方法、特にアーキビストが付与した部分を明らかにする。
 目録の目的や編成方法については、現在でもほとんどの目録に記載されているが、「アーキビストが付与した部分」については、明確にされていない。というよりも、構造的分析による目録ではこれは不可能である。
 まず、目録の記述は、なるべく資料そのものから得られる情報によることを原則と考えたい。しかし、それだけでは、とても利用に不便である場合は、やはり分類項目をつけたり、他の資料との関連など資料上にはでてこないキーワードを付与したりということが必要となるであろう。そして、そこにはアーキビストの主観が入るのを完全に避けることはできない。したがって、重要なのは、どの部分がアーキビストが付与した部分なのかを明確にしておくことである。これは、明確にしすぎるくらいのほうがいいと考える。例えば「整理番号」など、現在我々が見る分には明らかにアーキビストが付与したとわかるものであっても、我々の想像もできないような時代に目録だけが残った場合を想定すれば、明確にしておく意味もでてくるであろう。
C目録だけですべてが解決されることはないということを自覚する。
 現在の目録理論は、目録万能主義的である。1冊の目録で資料のすべてを示そうとするから、本来脇役であるべき目録のために、資料が再構成されたり、性格づけされたりするようなことが行われるのではないか。
 目録は必要である。また、タイトルに「下文」としか書かれていない目録では、確かに利用者は利用しにくいであろう。しかし、だからといって、目録の意味を過大に評価してはならない。目録には限界があることをもっと意識する必要がある。主役はあくまでも資料であることを忘れてはならない。親切すぎる目録(余計なお世話ともいう)は、資料に対する先入観を利用者に植え付けるだけでなく、この情報化社会で、一次情報に当たらずに二次情報や引用文を見ただけですます状況に拍車をかけるようなことにもなりかねない。
 むしろ、目録はなるべく資料に密着した情報に限り、それを補完するものとして、例えばべ平連におけるホームページのような情報や先行的研究成果、索引などが、目録とは独立したかたちとして提供されるというのが、「資料保存」と「利用」を両立させる理想的なかたちなのではないだろうか。
 そしてさらに、目録の足りない部分をレファレンスで補うのが、アーキビストの重要な役目のひとつであろう。

(1)本来であれば、この私考に基づく目録の試行例まで提示すべきであるが、今回はそこまでいたらなかった。筆者のこれからの資料との関わりのなかで試行を行い、さらに検討を重ねていきたい。
(2)キーワードとも関連するが、吉川は「索引」の重要性を指摘している。吉川は、資料を保存するだけでは、資料は使えない、資料を使うには索引が非常に重要であると考えており、1977年に50頁に及ぶ『総合索引』を編集したことは第T部で述べた。現在のようにパソコンのない活字印刷の時代に2300頁余から索引を作る作業は想像を絶する。当時はすべて手作業でカードを使って行ったという。
 しかも、吉川は、一般的な索引の引き方に疑問を持つ。通常、書籍などでは、本文中の重要と思われる言葉に印をつけ、それを索引に引く。しかし、吉川はそれでは不十分だと考える。文章に言葉として出ていなくてもその内容として索引に載せるべき部分もあれば、違う言葉で出てくるが実質上同じことを言っていると考えるべきものもある。そういう点を考慮して作られた索引でないと本当に必要な部分にたどり着けない。そして、そうした索引では作成者の主観が入るのは避けられないと吉川は言う。 

むすび

 むすびとして、べ平連資料の中で筆者の心に触れた1枚のハガキの一部を紹介したい。
 ……拙稿収録の件、条件づきで承諾します。その条件とは、私がこの資料集 の編集方法に反対である旨をなんらかの方法で明記させてほしい(方法はま かせます)。<<かならず!>>この編集の仕方はべ平連運動の精神と一致しな いと私は考えます。なぜ全国各地のニュースやビラのなかにわけ入って、そ こからの表現をくみ入れないのか。私や○○、××氏や地方のカオやコネの ものは入れ、無名の人びとの書いたものはいれないのか。……
(傍点は原文。文中の固有名詞は筆者が伏せた)
 これは、札幌べ平連の花崎皋平が、『資料・「べ平連」運動』に彼の文章を載せることの諾否を問われたことに対する返信である。実はこのハガキの文面は、『資料・「べ平連」運動』の下巻最後の「この本の編集について」(吉川勇一)にきちんと掲載されている。そのなかで吉川は、紙面の都合上この本が狭義のべ平連中心のものにならざるを得なかったこと、また、花崎の「なぜ全国各地のニュースやビラのなかにわけ入って、そこからの表現をくみ入れないのか」という指摘については、たしかに十分でなかったことを認めると述べている。 
 筆者は、この1枚のハガキに、資料、特に市民運動資料を扱う際に忘れてはならない大切なことを見た気がした。
 我々はすべての資料を残すことは決してできない。しかし、そこからこぼれたものこそが、本当は運動や歴史を支えているのである。
 それは、とても構造や秩序では語れないものであろう。

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