113 ダグラス・ラミス「反戦平和の手帖」( 集英社新書 2006.03. 喜納昌吉との対談)(2006/03/19搭載)

 『反戦平和の手帖』(集英社文庫)は、C・ダグラス・ラミスさんと喜納昌吉さんの対談をまとめたものだが、その中から、ベ平連運動に直接関係している2節だけを引用、紹介する。

外人べ平連  (75〜76ページ)
ラミス 一九六八年、博士論文を書く目的で、ふたたび日本に来ました。一、二年、アメリカに戻ったりはしていましたが。結局、それからずっと日本で暮らしています。
喜納 ちょうど七〇年安保闘争のころだから、最初に日本に来たときと同じくらい、世間は騒がしくなっていたんじゃないでしょうか。
ラミス たまたま、メンバーだった人を訪ねたのがきっかけで、べ平連とかかわるようになったんです。そのとき、「外人べ平連」という組織を作りました。東京に住んでいる外国人の知り合いに声をかけて、人を集めたんです。もちろん、戦争反対の外国人。フランス人やドイツ人、メキシコ人とか、いろんな人に声をかけたんですけれども……、最初、誰も集まりませんでした。発足のとき記者会見に来たのは、イタリア人の友人ステファノ・ペリエー二と私の二だけ。そのころ、外国人が政治活動に参加したという理由で、日本を追い出される恐れがあったんです。たくさん人を誘ったのですが、みんな怖くて逃げてしまいました。
喜納 ラミスさんも危なかった?
ラミス 強制送還された友だちは一〇人くらいいましたから、私がそうなっても不思議ではなかった。しかし、どうにか切り抜けました。外人べ平連も、そうやって最初のうちは大変でしたね。その後、だんだん人は集まってきましたが。

雑誌「AMPO」について (82〜84ページ)
喜納 安保があるゆえ、沖縄の米軍基地は依然動かず、間接的とはいえ沖縄、日本はベトナム戦争に対して加害者という立場になってしまった。今や憲法改正も叫ばれ、憲法九条も捨て去ろうという動きが着々と進んでいます。
ラミス 当時のシュプレヒコールの第一声は、まず「安保粉砕」でした。でも、一九八〇年代に入ったら、「安保ってなんですか」とか、若い学生が質問してくるようになりました。
――しかし、安保の問題は、依然として日本や沖縄をがんじがらめにしています。
ラミス もちろん。そして、一九八〇年、一九九〇年、二〇〇〇年と、日米安全保障条約は、一〇年ごとに自動更新され続けています。
――ラミスさんは、「安保」というタイトルのミニコミを編集されていましたね。
ラミス タイトルはローマ字の「AMPO」。七〇年安保闘争のとき、べ平連が「週刊アンポ」という雑誌を出していたんです。その編集にかかわっていた武藤一羊さんが、いっしょにそれの英語版を出しましょうと提案してくれて。
――「週刊アンポ」を英語に翻訳したものだったのですか?
ラミス いいえ、違います。日本のマスコミは、海外からニュースを取り入れる能力がものすごく高いですよね。翻訳者がたくさんいて、毎日毎日新しいニュースを、世界中から入れている。特に英語圏のニュースなんて、ほとんど同時に報道されているじゃないですか。だけど、その逆はないんです。今でもそうなんですけど、当時、特に運動のニュースは海外で取り上げられるなんて、ほとんどなかったんです。たとえば、一九六九年なんて、有名大学のほとんどが封鎖されましたよね。ここまでものすごい闘争になると、さすがに海外の新聞などでも取り上げられたんですが、詳しいことは何にも書いていない。
 記者クラブの外国人たちはほとんど日本語ができないんですね。だから日本のニュースを分析できないし、解釈できない。なぜデモが起きたのか、どうして大きくなったのか、理解して伝えていない。ひどい場合は、でたらめな情報になっている。そんな感じだったんです。それで、日本に興味があるけれども、英語しか読めないという人でもわかるような情報誌を作りたかったんです。正しくて詳しい日本の情報を載せたものですね。ミニコミですから、一〇〇〇部から二〇〇〇部です。読者のほとんどが、同じようにミニコミを作っている人たちだったので、それを交換しあっていました。販売するんじゃなくて、ミニコミを送り合う形で続きましたね。
喜納 何年くらいやっていたんですか?
ラミス 「週刊アンポ」のほうは安保改定の一九七〇年に、一年限定で終わったのですが、「AMPO」は二〇〇〇年まで続きました。
喜納 つい最近まで! すごいですね……。安保の問題は、今でも政治上最大の問題であることは変わっていないでしょう。だから、そのミニコミも続いたんでしょうね。

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