99本野義雄「脱走は大罪か――ジェンキンス氏問題をめぐって――」( 『市民の意見30の会・東京ニュース』No.86 2004.10.1.)(2004/10/03搭載)

脱走は「大罪」か? ――ジェンキンス問題を考える―― (一部抜粋)

                     

 ……一九五〇年以前に生まれた方なら、同時代の出来事として記憶されている筈だが、今から三七年前の一九六七年秋、脱走米兵が大きなニュースになったことがあった。横須賀に寄港した空母「イントレピッド」の乗員四人が、ベトナム戦争の不正に抗議するため脱走、日本の市民運動、べ平連(ベトナムに平和を!市民連合)の手でスウェーデンに亡命した事件である。
 「先進工業国が貧しい農業国を組織的に爆撃することは犯罪だ」「われわれはいかなる政党とも無関係な真のアメリカ人として、この戦争に反対する」と述べた四人の声明は大きな反響を呼び、べ平連には一週間で二千通もの支持の手紙がカンパと共に送られてきた。
 これをきっかけに反戦脱走兵支援運動、ジャテック(JATEC)が発足、以後五年間にさらに一五人の米兵を国外に送り出した。ジャテックは一部マスコミに「べ平連の地下組織」などと書かれたが、その実態は普通の家庭の主婦、サラリーマン、公務員、教員、学生らから成るヴォランティアの緩いネットワークに過ぎなかった。今日とは比べものにならない劣悪な住環境の中で、次から次へとやって来る脱走兵に一室を与え、三度の食事や身のまわりの世話をするのは、並み大抵のことではなかった。普通は一週間から十日で次の場所に移動させるので、常に新しい移動先と支援グループを開拓し確保する必要があった。こうして脱走兵たちは、日本各地を巡り歩くことになった。彼らを安全に運び、長期間にわたって養ったのは、何千という無名市民の無償の行為だった。この間、密告によって脱走兵が捕まった例は一件もなかった。こうしたことすべてを私は、平和憲法を持つ国の市民にふさわしい行動だったと誇りに思う(ジャテック運動の詳細については、思想の科学社刊「となりに脱走兵がいた時代」参照)。
 
――脱走兵の立場と心情――
 当時私は運動の初期から関わっていたので、多くの脱走兵に接する機会があった。短期間で帰隊した者を含め、五〇人以上にはなるだろう。当然ながら実に様々なタイプの兵士がやって来た。すでに「ベトナム」を体験している帰休兵には、心身何れかに(あるいは両方に)傷を負っている者が多かった。かなりの兵士が、恐怖から逃れるために麻薬を常用していた。一方、まだベトナムに行ったことのない兵士は、概して屈託がなく陽気で、中には酔っ払って騒ぎ、預かり先に迷惑をかけた者もいた。ほとんどが、「反戦の闘士」というイメージには程遠い若者だった。ひとつ共通点があるとすれば、それは政府や軍当局の言葉を決して信じないという態度だったろう。「(奴らの言う)自由と民主主義のために、殺されるのも、殺すのも真っ平だ」彼らの信条を要約すれば、こうなる。……

 ……ベトナム戦争時イントレピッドの四人を支持し、多くの脱走兵を保護した私たち日本の市民は、この際はっきりと「ジェンキンス氏に罪はない、米軍に彼を裁く資格はない」と主張すべきだ。と同時に、小泉首相に対しては、イラクの自衛隊が殺したり殺されたりしないうちに、そして彼らの中から新しい脱走兵が出ないうちに彼らを撤退させるよう要求しなければならない。

(『市民の意見30の会・東京ニュース』No.86 2004.10.1.)

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