98小田実「随論 日本人の精神」(筑摩書房 2004年8月)(2004/09/11搭載) 

 この本には、ベ平連の運動について触れた部分がかなり多くある。そのベ平連の運動の精神が、武士、全共闘、あるいは、三島由紀夫や『葉隠れ』の山本常朝らの生き方、精神と比較しつつ論じられている。全部は転載できないので、本書の最後の結びの部分のみを以下に紹介する。

     百七十五

「べ平連」の運動の展開のなかには、すでに述べた通り、米軍の脱走兵を支援して匿まい、国外に送り出すという活動があったが、一九六七年から始まってあと何年かつづいた活動はまさに「人間みなチョポチョボや」のタダの人、チマタの人の「われ=われ」がさまざまに参加して成立した活動だった(なかには有名人も少なからずいたが、彼らもこの活動のなかでは、大学生、高校生、予備校生と同様にタダの人、チマタの人であった)。ことばをかえて言えば、多数の日本人の「小義」の活動だった。この活動のなかには英雄、偉人はひとりもいなかったし、「大義」を呼号する人もいなかった。ただ、これら「人間みなチョポチョボや」をまさしく代弁するようにして、この「われ=われ」は「小義」をそれぞれに黙ってひそかに実践した。
 楽な活動ではなかった。助ける日本人も助けられる脱走兵たちも(脱走兵のなかには、他国人も平気で召集してベトナムの前線に送っていた米軍のことだ、韓国人も台湾人もドイツ人も、いや、日本人さえがいた)人間だ。人間はいつどこでも人間の問題をおこし、マサツ、アツレキをひき起こす。麻薬も「女」もからんで、ときには、いったいおれたち、わたしたちは何をやっているのかという事態にもなった。
 あるいは、これはと思う進歩派の人士に脱走兵への一夜の宿の提供を頼むと、突然、その晩に親類がやって来たり、誰かが病気になったりする。しかし、同時に、時間をもて余している脱走兵を働かせたほうがよいと考え出してあちこち頼んでみたら、農場と町工場がためらうことなく彼らに働き場所を提供してくれるという、絶望しかかっていた「われ=われ」に希望をもたせてくれることが起こる。
「となりに脱走兵がいた時代」(関谷滋、坂元良江編・思想の科学社・一九九八)は、この「人間みなチョポチョボや」のタダの人、チマタの人の「われ=われ」の人助けの活動(この活動の本質はこの「人助け」の一語につきる)の記録の集大成の本だが、活動の中心人物のひとりの鶴見俊輔が言い出して、当時は学生だったがのち京都の弁護士事務所に職を得て今もそこに勤めている関谷と、当時も現在もテレビ・プロデューサーの仕事をしている坂元の二人が日本各地を訪ね、かつての活動の仲間にあらためて、いや、多くが初めて会って(スパイ組織ではないが、あのころ、多くの場合、おたがいがおたがいを知らないで「仕事」をしていた)、当時の話を聞いて(当時は学生で、今は「スーパーの役員」が、昔は「全部忘れろ」と言われて、今は「思い出せ」と言われる、ムチャだと言った)つくった本だ。坂元はアメリカ合州国とヨーロッパにも出かけて、今はふつうの「市民」となったかつての脱走兵たちに会っていた(そのうちの何人かは日本にやって釆ている)。
 脱走兵の問題を離れて、この「となりに脱走兵がいた時代」は人間の記録として読んでも興味深い本で一読をすすめるが、やはり、私は、この本を、「人間みなチョポチョボや」の日本人の、「われ=われ」が何をしたかの本としてぜひ読んでいただきたいと思うのは、そこに「小義」をやってのけた人たちの人間としてのなまの姿、かたちがよく出ていると考えるからだ。私が言うのは、彼らが何をしたか、できたかとともに、何をしなかったか、できなかったかもふくめてのことだ。
 なかに、「句会」と称して秘密の会合を開いていたいまだに名前をあかしていない人の一文が出ていて(いまだに名前をあかしていない人は彼ばかりでなく、数多くいる)、彼がこの活動の経験がなかったなら、決してこんなことを考えなかったにちがいないと前おきして書いていたことがあった。三つ書いていた。それをそのまま引用しておこう。
 第一は「いただけるものは何でもいただく」。おカネでも労力でも場所でも知恵でも、何でも良いからいただけるものは何でもありがたくいただく。誰からでも何でもいただく。もちろん、その結果の危険性については十分考えての話でありますが……。
 第二に 「タンマあり」ということ。張り詰めた状態というのはそう何時までも続けられるものではないでしょう。その時タンマと言って休むことが許されないとしたら、これはたまったものではないでしょう。緊張に耐えるには、人それぞれ限度があり個人差もあるでしょう。自分もタンマを言う。他人のタンマも保証する。人生タンマありだと思います。
 第三は、これはどうも言葉としてこなれていないのですが、「裏切りは自由である」ということ。簡単にいってしまえば、万一仲間に裏切られてもそれはその時、諦めて、恨んだり、憎んだりするのはナシにしようということです。たとえば句会の帰り道、歩きながら彼女(この場合の句会仲間は女性です)が囁くのです。
「私暗いところは怖いし、痛いことには我慢できないから、もし誰かに捕まったら、アルことナイことみんな喋っちゃう。名前でも住所でも何でも喋っちゃうから、その積もりでいてね」「……はい、僕もそうする積もりです……」
 本当にありがたいことに、そういうことにはならずに今日にいたりました。今では笑い話です。でもその時、心からそう思いましたし、今でもそう思っているのです。
 何んだ、こんな情けないことを言いやがって――と居丈高に言う声が聞こえて来るような気がする。レーニンも、毛沢東もこんな情けないことを言い出さなかった。いや、全共闘の学生たちも言わなかった――と声はつづける。それも聞こえて来る気がする。
 そうだーと私は答える。これが「人間みなチョポチョボや」の「われ=われ」の人間としての「小義」の活動なのだ。しかし、この活動はそう言いながら、最後までつづき、はじめはヨーロッパへの脱走兵の脱走の仲介地として支援してくれていた旧ソビエトという社会主義大国が脱走兵の引き取りについて「米空軍のパイロットと原子力潜水艦の乗組員以外は一切引き取らない、協力しない」と「国家エゴ」丸出しの態度を正式に表明したあとも、そのどちらでもない、タダの人ならぬタダの兵士の脱走兵を匿まいつづけ、ついには彼らをヨーロッパに直接送り出すことまでやってのけた。そのあいだ、彼らの言う「裏切り」はどこにもなかった。「タンマあり」もなかったのとちがうか。
 おそらく、それはカコクな弾圧がなくて、句会の彼女も、「暗いところ」に行かなくてすんだし、「痛いこと」にもあわずにすんだからかも知れない。あっていれば、どうなっていたかは判らない。彼女がそこで裏切らなかったとは言いがたい。私が言えることはただひとつ――彼女と同じように「暗いところは怖い」、「痛いことに我慢がならない」、「人間みなチョポチョボや」の「われ=われ」のひとりとして私が言えることは、だからこそ、私は、たぶん、彼女も、そうした状況、時代を来させないためにこそ、さまざまに「小義」の市民運動を行なって釆たし、今もつづけている。
「となりに脱走兵がいた時代」から、もうひと言、活動の参加者の発言を拾っておきたい。たぶん当時もどこかの会社の会社員で今もそうであるらしい名前をあかさない人物のことばだが、編者のひとりの関谷の話のなかで彼は次のように言った。
「俺は地獄行だけどさ、閣魔様に出会ったら『待ってくれ、ひとつだけ良いことをした』って、言えるよな、これ」。
 いいことばだったと思う。そして、彼が子供のときお母さんからかおばあさんからかさんざん聞かされたにちがいない地獄のエンマ様のこわさの話も出て釆て、いかにも日本人のことばー日本人の心にそくしたことばだと思う。
 私も、子供のときからさんざん耳にして来たいかにも日本人らしいことばー「長いものに巻かれろ」をここで書いておきたい。いつの時代にも力弱い存在としてある「人間みなチョポチョボや」の私たち、「われ=われ」のありようをそのままに言い表しているようなことばだが、ただ、私はこのことばに一語つけ加えて、この「随論・日本人の精神」を終りにしたい。その二語を主軸にして、かつて私は新書判上下二冊になる「世直しの倫理と論理」を書いたのだが、「われ=われ」が「長いものに巻かれる」のは仕方がない。しかし、「長いものに巻かれながら巻き返す」――私たち、「人間みなチョポチョボや」の「われ=われ」の生きる道はそこにある。いや、たぶん、そこにしかない。

 いかに巻き返すか、「われ=われ」のひとりひとりが自分で考え、動くよりほかにない。まぎれもなく「われ=われ」のひとりである私が書いたこの随論が少しでも助けになるといい。
 
『随論 日本人の精神』p.349〜353  (筑摩書房 2004年8月)

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