87.  海老坂武「かくも激しき希望の歳月 1966〜1972」(岩波書店、2004.05.)(2004/05/26搭載)   

 本書は海老坂の自伝シリーズの一冊で、60年代後半から70年代にかけての激動の時代の記録である。ベ平連運動に関連した記述もかなりの分量をしめているが、ベ平連を正面から論じたというよりは、著者がベ平連の運動や脱走兵援助活動、あるいは大学闘争にどうかかわったかという体験や、交友関係 、人物紹介など、事実に即して叙述し、その中で感じたことを率直に記述した記録である。以下は、その中のごく一部分のみである。

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 ……日本ではどうだったか。日本では一九六五年四月に「ベトナムに平和を!市民連合」、通称べ平連が結成され、ベトナム 反戦の声を高くあげていた。『何でも見てやろう』の小田実が代表となり、平和委員会にいた吉川勇一がプロデューサーの久保圭之介のあとを受けて事務局長をやっていた。私の友人である高橋武智や、仏文科の同級生である小中陽太郎も加わっていた。政党や組合といった既成組織の硬直した取り組み方とは違って、自由な発想を重んじ、若者の自発的なエネルギーを活かすことに成功していた。べ平連はやがて学生運動の各派とともに 反戦運動の中心的位置を占めるようになる。ときにはまとめ役にまでなった。「陽気で雑多な思いつき主義」と世話人の一人であった栗原幸夫は当時書いていたが(「新日本文学」一九六六年十月号)、陽気さこそ彼らの行動の源泉であり、雑多こそ彼らの反セクト主義の現われだった。べ平連、これまた若く新しい言葉だった。(本書p.74)

 ……一九六七年秋、日本は新たな政治の季節をむかえようとしていた。その口火を切ったのは、十月八日の佐藤首相の南ベトナム訪問阻止をめざした羽田空港近辺でのデモである。デモ隊の先頭には、ヘルメットをかぶり、こん棒を手にした学生たちがいた。
 私もまたこのデモ隊の渦の中にいた。このときの私はどこかのグループに属していたわけでもなく、誰か友人と一緒に出かけたわけでもない。不意に、行かなければ、と思いたって羽田に向かったのである。所属するグループがない私は、一般市民の隊列とおぼしき中に身を置いた。どこかで顔を見たことのある中島誠が近くにいたから、これは国民文化会議のグループだったかもしれない。
 きっかけが何であったかはわからない。ある時刻から機動隊とのあいだに激しい衝突が生じ、私のすぐ目の前にも、機動隊のガス弾が打ち込まれた。目が痛くなり涙が出てきてあっという間にデモの隊列は崩され、デモ行進を続けることはもう不可能だ。さあ、どうするか。指導部なるものはなく、……(p.105)

 ……六八年の十月のある日、突然吉岡忍が電話をかけてきた。しかし用件は電話では話せない、と言う。それが何か、すぐには思いあたらない。当時私は下北沢に住んでいたから、あって話を聞いたのは新宿ではなかったか。
 吉岡は当時まだ早稲田の学生、二人が知り合ったのはベトナム反戦運動を通じてである。一九六五年、社会党も共産党も、労働組合も、既成の左翼政党はベトナム反戦にあまり力を注がず、新左翼と呼ばれ始めた各セクトも、ベトナム 反戦を運動の中心に置いていなかった。その中で、小田実、鶴見俊輔、吉川勇一などを中心に結成された「ベトナムに平和を!市民連合」、通称べ平連だけが目的を一つにしぼり、しかも個人個人の自発性を重視し、組織ではなく運動を、という新しい発想に立って
いた。それが多くの市民を、とりわけ政治的関心を持ちながらも行き場を持たぬ若者たちを周辺に数多く集めていたのである。吉岡忍はこうした若者の一人だった。
 吉岡の用件とは、簡単に言えば、軍隊から脱走したアメリカ兵を今あずかっている、安全な場所を確保するまで二、三日彼をあずかってくれる場所を探してくれないか、ということだった。……(p.119〜120)

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