78. 栗原彬・「市民政治のアジェンダ」( 高畠通敏編『現代市民政治論』世織書房 2003.02)(2003/10/29搭載)

……米軍の北ベトナム爆撃が激化すると世界各地で反戦の声があがった。一九六五年、日本でも小田実らの呼びかけでべ平連(「ベトナムに平和を!市民連合」)が発足した。各地で市民が自発的に反戦運動を組織して勝手にべ平連を名乗った。東京のべ平連事務所は単なる連絡事務所だった。『べ平連ニュース』第一号(一九六五年一〇月二三日発行)の「創刊のことば」は「私たちは、ふつうの市民です」という自己定義から始まる。「ふつうの市民」とは、政党やイデオロギーによって上から組織されるのではなく、生活世界に足を置いて自発的に立ち上る市民を意味した。べ平連の。ハンフレットやビラには、「人間として」および「市民として」という呼びかけがほぼ半々で見られる。べ平連は、デモのほか、ティー・イン、反戦フォークソング集会、脱走兵国外脱出援助などの多彩な活動を行った。この市民運動は、異なる職業を越えて市民として横に連帯する、言いだした者がやる、権力と闘う自分を権力者にしない、そのために事務局をローテーションでやる、といった市民政治のスタイルを生みだした。
 小田実はこの時期、市民を「街頭に出てデモに参加する人々」と定義したことがある。後に彼は市民を、「自発的に暮し、働き、楽しみ、やりとりし、闘う人々」と定義し直すけれども。すなわち、初原の市民政治は、無署名の市民が街頭に出て行き、身体を動かして国家と渡り合う反権力のパフォーマティヴィティによって公共空間を現出させ、同時に市民のアイデンティティを自己発見する政治だった。しかしべ平連は、高度経済成長とベトナム特需によって相対的に豊かになった生活を享受しつつ、アジア民衆との連帯を呼びかけるという内部矛盾を不問に付したまま行動するという側面を、市民政治の精神史的課題として残した。豊かさのなかで人びとの生活世界に生活領域と生命領域の分裂が生じていた。生活世界=生命圏からの離床の感覚のなかで、生の実感の取り戻しと「私は誰?」という問いの解が求められた。べ平連の市民運動がアイデンティティ政治の側面をもったのはそのためである。…… 
( 高畠通敏編『現代市民政治論』世織書房 2003.02 p.178〜p.179)

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