77. 都築勉・「丸山眞男における政治と市民――戦後思想の転換点」( 高畠通敏編『現代市民政治論』世織書房 2003.02)(2003/10/29搭載)

…… 一九六○年代以後の日本において、「市民」という言葉はますます多様な意味の広がりを獲得した。それを追うのは本稿の課題ではないが、「市民」概念の内包と外延を示すために一、二の例に触れてみたい。一つは言うまでもなく一九六五年のアメリカによる北ベトナム爆撃に対する抗議として始まったべ平連の運動である。この運動は六〇年安保のなかで生まれた「声なき声の会」のリーダーの一人であった前述の高畠の発案に由来するという意味では、明らかに六〇年安保の延長上にあった(84)。しかしまもなくべ平連の象徴的人物となった作家の小田実は六〇年当時は『何でも見てやろう』(85)の旅から帰国したばかりで安保を経験していないという点で、新しい発想にも裏付けられていた。小田たちは「ベトナムに平和を!」の最初の呼びかけで「私たちは、ふつうの市民です」と名乗り、「ふつうの市民ということは、会社員がいて、小学校の先生がいて、大工さんがいて、おかみさんがいて、新聞記者がいて、花屋さんがいて、小説を書く男がいて、英語を勉強している少年がいて、/つまり、このパンフレットを読むあなた自身がいて」というように規定している(86)。文字通り多種多様な人びとが「ベトナムに平和を!」という要求において連帯しようと言うのである。小田によれば、「私のいう戦後の、あるいは、戦後的な運動には、まず『私』があって、それに結びついたかたちで『公』の大義名分が存在する」(87)。こうした小田の思想はやはり六〇年安保の総括を彼なりに踏まえて出て来たものであろう。高畠が言うように、次第にべ平連には小田たちの個性が滲み出るようになり、また市民運動そのものも職業や地域にもとづくものから生き方や自己表現の問題へと移って行った(88)けれども、ここにいったん「市民」概念の外延は極限にまで広められたと言える。
 「市民」概念の定着を見るのにもう一つの興味深い事例は、一九七二年に発表された丸谷才一の小説『たった一人の反乱』が展開した主題である。この作品の主人公は「戦中派」の元高級官僚で、防衛庁への出向を断わって民間へ天下った男である。その主人公に彼の友人が「なあ、馬淵、今の日本で市民というと、つまり何だろう?」(89)と問うことから話は始まる。そもそも主人公の曽祖父は自由民権運動の時代に「初期資本主義の精神」をもって士族に抗した実業家だったという設定である。曽祖父自身が資産家なのだが、そうした条件をもとにして明治の日本にも自由を求める「市民社会」の萌芽が存在したとされる。主人公にしても元高級官僚であり、家には昔からの家政婦がいて家事万端の面倒を見てくれるのだが、そのうえで「ばくは革新でも反体制でもないんだから。もちろん保守党の政治家になる気もないけれど。ただ、市民社会の大前提としての自由を、自分のときはどんなことがあっても守りたい、他人のときほなるべく守りたい」(90)と考えるような人間である。全編を貫いて、「市民社会」が奴隷制や近代国家や帝国主義などの影の部分と結び付きながら、それでも「たった一人」でも自分の自由な判断にもとづいて困難な状況を切り開いて行くような人間像がユーモラスに共感を持って描かれている。この「市民社会」を外側から脅かすのが一方で犯罪者であり他方で警察であるのは象徴的である。要するに丸谷は、常にその成長が危ぶまれながらもわが国においても「市民社会」の伝統が存在し、それほ結局一人ひとりの人間が自ら直面する生活の問題を何とか自力でくぐり抜ける努力を通じてしか保たれないことを雄弁に小説化したと言うことができる。
 べ平連の運動と『たった一人の反乱』の主題との距離は、一見したはど遠くないのではあるまいか。そして一九六〇年代から七〇年代にかけての時期に残されたこの二つの思想史的足跡は、さかのばれば丸山眞男が意味を与えた六〇年安保の運動に、また下っては冷戦の終焉以降のわれわれの時代の「市民社会」論に、はるかに内面的に呼応するもののように思われる。
( 高畠通敏編『現代市民政治論』世織書房 2003.02 p.84〜p.86)
(注)

(84)
鶴見俊輔「ひとつのはじまり」『資料・「べ平連」運動』河出書房新社、一九七四年、上巻、所収参照。
(85)初出一九六一年、講談社文庫、一九七九年。
(86)『資料・「べ平連」運動』上巻、六ページ。
(87)「ふつうの市民のできること」同前、二ページ。
(88)「市民運動の組織原理」『政治の論理と市民』筑摩書房、一九七一年、二二八1二九ページ。
(89)講談社文庫、上、二二ページ。
(90)
同前、下、二五一ページ。

もとの「最近文献」欄に戻る    

ニュース欄先頭へ   placarhome.gif (1375 バイト)