76. 春名幹男・「秘密のファイル――CIAの対日工作 (下)」(新潮文庫 2003.09)(2003/10/29搭載)

5 ベトナム反戦運動

市民運動の原型
 ベトナム戦争は、日本とアメリカの関係にも深刻な影響を与えた。
 社会・共産両党や総評、全学連など、左翼陣営のベトナム反戦運動が盛り上がった。政治に無関心な一般の日本国民も、残酷な戦争に、心を痛めた。だが、無党派の市民、学生、学者がイデオロギー抜きで参加できる場はそれまでなかった。
「デモで会いましょう」
 を合言葉に、一九六五年(昭和四十年)登場した、だれでも参加できるグループ「ベトナムに平和を!市民連合」(べ平連)は、多数のこれらノンポリ市民を引きつけた。
 べ平連は、その後の日本の市民運動の原型として成長した。ベトナム戦争は激しさを加え、全国各地に、従来型の組織ではない、自由参加の反戦運動体、べ平連が、雨後の竹の子のようにできた。日本のどこかでべ平連のデモが行われていない日がない、と言われるほど拡大し、全国で数万人の規模に成長していった。
 だが、実はべ平連は二重構造でできていた。表面の市民グループとは別に、非公然の地下組織、「反戦脱走米兵援助日本技術委員会」(JATEC=ジャテック)があった。脱走米兵を助けて、中立国に逃がしてやる組織である。
 ベトナム戦争反対運動の舞台裏では、アメリカとソ連の情報機関が、べ平連とJATECに対して、秘密工作を展開した。東西冷戦の真っただ中で、必然的に、べ平連は米ソの情報戦争に巻き込まれたのだった。

 姿を消した脱走兵
 一九六八年十一月五日夕、北海道・摩周湖に近い、弟子屈(てしかが)町のありふれた旅館に、緊張した表情の日本人、アメリカ人各二人の若い男四人が訪れた。アメリカでは、大統領選挙が行われ、ニクソン大統領が当選した日のことである。一人の日本人がフロントで、
「夕食と休憩」
 と告げた。男たちは観光客ではなかった。部屋に入り、まず、「腹ごしらえを」
 と食卓につこうとした。すると、一人のアメリカ人が、「ちょっと便所に行く」
 と言って席を立った。
 ところが、何分たっても戻って来ないため、このアメリカ人の付き添いだった、山口文憲が玄関を探すと、当人の靴がない。
 山口はあわてて東京の本部に電話し、暗号で、
「事故発生、キャンセル」
 と連絡した。
 残された三人は急いで旅館を後にし、レンタカーで逃げた。しかし、警察の覆面パトカーに発見され、釧路湿原でカーチェイスの末、釧路市内で捕まってしまった。
 山口ら日本人二人はべ平連の地下組織JATECのメンバーだった。
 山口は、一九四七年(昭和二十二年)浜松市に生まれた。当時は予備校生だった。
ペトナム戦争終結後は香港の魅力にとりつかれ、テレビ、新聞などのメディアで幅広く活躍するフリーライターとなった。
 警察に連行され、身体検査を受け、山口ら日本人二人は翌朝の明け方釈放された。
米兵の脱走を助けても、法律上、日本人には何の罪も問えないのだ。
 しかし、−緒にいた、当時十九歳のジエラルド・メイヤーズ米海軍三等水兵は逮捕された。軍法会議にかけられて、米国に送還された。
 北方領土近くに流氷が押し寄せる前に、米兵二人をソ連経由でスウェーデンに送り込む計画は、失敗に終わった。
 問題は、旅館で突然姿を消したアメリカ人だ。この男は自分を、
「ラッシュ・ジョンソン」
 と名乗っていた。
 明らかに、JATECの脱走米兵逃亡ルートをつぶすために、米情報機関が送り込
んだスパイだった。
 事実、JATECはこれ以後、根室から漁船で北方領土の国後(くなしり)島をへて、ソ連に入る、というこの逃亡ルートを使えなくなった。
 山口は、「ジョンソン」との最初の出会いを今も鮮明に覚えている。
 その年の春のことだった。
 本人からべ平連にいきなり電話があり、
「横浜のバンド・ホテルにいる」
 と連絡してきた。横浜の海岸通り(バンド)にあったバンド・ホテルは取り壊されて、今はもうない。
 山口がホテルの二階の部屋た出向いて、ドアをノックすると、「ジョンソン」がいた。小柄で黒髪にちょび髭。白いTシャツを着ており、ベッドに腰掛け、暗い表情であいまいな笑いを浮かべていた。
 山口は言う。
「それまでは、知り合った日本人女性が脱走兵を連れてくることが多かった。しかし、ジョンソンは緊張した雰囲気もなく、せっぱつまった感じもなかった。変なやつだと思った」


 あいつはクサイ
「それまでに、べ平連は計十八人の脱走米兵をソ連に送り込んでいた」
 べ平連の元事務局長、吉川勇一は当時を振り返ってそう言う。
 吉川は一九三一年(昭和六年)、東京に生まれ、東京大学文学部中退。在学中、日本共産党に入党したが、一九六三年(昭和三十八年)除名された。
 べ平連は、脱走米兵の駆け込み寺″となっていた。しかし、来た者をチェックなしに受け入れていたわけではなかった。
 面接をし、十枚ほどの紙に、住所や所属部隊、軍歴、バックグラウンドなどを書かせた。面接ではきついことを質問し、程度の低い米兵には「帰れ」と断ったこともあった。
 山口によると、脱走米兵をかくまったりして支援した人たちは、キリスト者や文化人、フォーク歌手ら数百人に上った。
「ジョンソン」の場合、
「あいつはクサイ」
 とみる人は少なくなかった。日本語ができない、という話だったのに、自分の歳を
「十九(歳)」と日本語で言い、疑わしかった。
 しかし、べ平連には、日本共産党のような官僚的で閉鎖的な組織が嫌いで、べ平連の運動に参加している人たちも多かった。
「スパイと認めるまで問いつめるような査問はやるべきでない」
 という意見が強かった。哲学者、鶴見俊輔のように、
「あえて裏切られようじゃないか」
 という人さえいた。そうした面が旧来の組織にはない、べ平連の長所であり、欠点でもあった。
「危ないと思っていたが、案の定……」
と山口は言う。
 釧路に行く前の晩、山口は都内の大学教授の家に泊まった。山口はモデルガンを準備して、いじっていた。
「怪しいので脅かしてやろうと思った」
 という。隣室でその物音に気づいた「ジョンソン」は、
「ドント・シュート・ユア・レッグ (自分の脚を間違って撃つなよ)」
 と言った。
 釧路で「ジョンソン」に逃げられてから、約三ヵ月後の一九六九年二月十五日、山口は銃刀法違反で警視庁外事一課に逮捕された。しかし、「ピストルは発見されなかった」
 と当時の新聞は報じている。
 山口が持っていたモデルガンを本物と誤解していた「ジョンソン」が供述したのは明らかだった。
「ジョンソン」はCIAのオトリだったのかどうか。その所属組織も明らかではない。
だが、アメリカ情報機関が「ジョンソン」を使って、JATECの組織をあぶり出す秘密工作を行っていたのは疑問の余地がない。

 
ソ連経由でスウェーデンに
 べ平連が、脱走米兵を支援する運動を開始したのは、一九六六年(昭和四十一年)のことだ。アメリカのベトナム反戦運動の活動家を招いて「ベトナムに平和を!日米市民会議」を開催した時、アメリカ側から、「日本で米兵に対する工作をやってほしい」と要請されたのがきっかけのようだ。べ平連はこの年の秋から、在日米軍基地の周辺で英文のビラをまき、「反戦」を訴えた。
 べ平連が脱走を支援した第一号の米兵たちは、
「イントレピッドの四人」
 と呼ばれた。横須賀に寄港していた空母イントレピッドの四人の乗組員たちだった。
 べ平連は、彼らをソ連経由で中立国、スウェーデンに送ることを計画、在京ソ連大使館に支援を求めた。ソ連は極めて協力的だった。
 一九六七年十月、偶然にも、佐藤栄作首相がアメリカ訪問に出発した直後に、イントレピッドの水兵四人は横浜−ナホトカ間の定期航路の客船バイカル号に乗船した。
 しかし、べ平連で活動した米平和運動家、ビクトリア・良潤が「アサヒグラフ」にバイカル号に乗り込んだ四人の写真を売り込み、マスコミに脱走ルートのことを話したため
(最後の管理者注を参照)、これ以後、同じような定期航路は使えなくなった。
 翌一九六八年四月に脱走した第二号の六人からは、北海道から日本の漁船に乗って脱出し、公海上で、ソ連国境警備隊のソ連船に乗り移るという方式に切り替えた。
 国後島では、モスクワから来た情報将校が脱走米兵を待つ、という手はずが整えられた。パスポートもビザもない脱走米兵は、ソ連国家保安委員会(KGB)の管轄下に置かれた。
 当時、ソ連の国境警備は、情報機関であるKGBの任務だった。
 在日ソ連大使館との折衝は、べ平連事務局長、吉川の仕事となった。
「参事官や一等書記官と会ったが、恐らく、全員がKGB要員だった」
 と言う。
 当時の吉川は、
「脱走兵の日本脱出に事実上の援助を与えてくれるところなら、KGBだろうがスパイだろうが手を借りたいという気持ちだった」 と回想する。

 助けた米兵は三十数人                                                 
 しかし、ベトナム戦争が激しかった冷戦時代、米ソの情報機関は、国家の威信をかけて、真っ向から対決していた。べ平連は両超大国情報機関の対決の場となった。
 ソ連は、最初のころは、彼らを反米宣伝に利用し大歓迎した。
 だが、ある程度目的を達成したソ連は今度は、べ平連に対する要求をつり上げた。
 こんなこともあった。ある日、ソ連側が吉川に英文の紙を渡し、
「これは米原子力潜水艦の乗組員の手記だ。これをぜひ『べ平連ニュース』に掲載してもらいたい」
 と言った。署名もないし日付もない。核兵器搭載に関しても内容は矛盾しており、明らかに「ニセ情報工作」だと思われた。しかし、「ソ連とのパイプを切ってしまうわけにはいかない」              
と考えた吉川は、会議にも諮らず、一計を案じた。独断でこの手記を載せた『べ平連ニュース』を十部程度だけ印刷し、ソ連大使館に届けた。
「KGBのファイルには、この幻の『べ平連ニュース』がとじこまれているはずだ」
 と吉川は言う。反対に、べ平連の公式の記録には、この『ニュース』は一切残されていない。KGB側は、吉川の計略にまんまとひっかかったことになる。
 だが、どうやらKGB内部には、吉川を抱き込んだ、といった報告が行われていたようだ。
 当時、モスクワで脱走米兵受け入れ役を務めていたKGB要員スタニスラフ・レフチエンコ (一九七九年米国に亡命)は自著で、「KGBはべ平連事務局員一人をスカウトした」と書いている。当時、ソ連側との折衝にあたっていたのは吉川だ。だからスカウトした事務局貞というのは吉川のことを指すともみられる。だが、吉川は、
「金など一切受け取っていない」
 と断言する。
 レフチェンコのことは第九章「情報戦争20世紀から21世紀へ」でも紹介する。
 また、いつのことだったか、大使館に折衝に来た吉川に、ソ連側は、
「これ以後、将校または原潜の乗組員以外は受け入れられない」
 と通告した。ソ連側の意図は露骨だった。
「政治的に効果ある宣伝の役に立つか、あるいは軍事的な極秘情報を提供してもらうか、いずれにせよ、ソ連側に役に立たない限りは手を貸さないということだ。国際連帯も人道主義もあったものではない」
 吉川は腹立たしげにそう振り返る。
 他方、米情報当局は、脱走米兵が相次いでソ連経由でスウェーデンに入国したことにいらだち、対抗手段を講じていた。
 一九六八年五月、モスクワのレストランで、脱走米兵一人が二人の女性米大使館員に連れ去られ、帰国する事件が起きた。
 この事件に加えて、根室−レポ船−国後島のルートが、スパイ「ジョンソン」に暴かれた。ソ連への脱走ルートは米当局に探知され、暗礁に乗り上げてしまったのだ。
 結局、ソ連経由でスウェーデンなど中立国に脱出する経路としては、横浜−ナホトカ間の定期船の脱走ルートが一回、根室から漁船で国後島に向かうルート三回が使われた。
 ソ連ルート閉鎖後も、べ平連は別の第三国を経由したルートを使い、脱走米兵の逃走を支援し続けた。助けた米兵は総計三十数人と言われる。だが、実数および具体的なルートは、「迷惑がかかる人がいるのでまだ公表できない」
 と吉川は言う。(
春名幹男・「秘密のファイル――CIAの対日工作 (下)」( 新潮文庫 2003.09 p.79〜p.91)

(管理者注)この記述は事実と異なる。『アサヒグラフ』にこの写真を持ち込んだのは、ビクトリア・良順さんではなく、その場にいて偶然撮影した別の日本人だったことがわかっている。そのほかの記述についても、当事者が編集・発行した『となりに脱走兵がいた時代』(思想の科学社刊)の記述と異なる部分があるので、同書と比較されたい。

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